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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

このブログについて

このブログは、山猫男爵がつづるものです。
書評(軍事SFその他)と日々の記録のほか、歴史軍事水産資源など興味を持ったことについての記事を書き、以下のような連載読み物も公開しています。モットーは「鳥無き里の蝙蝠」。

スペイン内戦と海軍(本編29回+参考文献+年表)
  大戦前夜に無敵艦隊の末裔と欧州列強海軍が描いた、航跡図の切れ端。

リーフ共和国興亡(全14回)
  1920年代スペイン領モロッコで繰り広げられた独立闘争「リーフ戦争」。
  アルセマス上陸作戦は、米海兵隊も参考にした両用作戦である。

帝国の守護者(本編11回+外伝3回)
  落日のポルトガル海上帝国を護った砲艦列伝。
  外伝はポルトガル領東ティモールに関わったオランダ海防戦艦について。

回転翼の海鳥たち(全20回)
  回転翼機が甲板上に地位を占めるまでの、意外に知られざる進化史。

ノモンハン捕虜の運命(序+本編9回)
  あの日本軍が多くの捕虜を出したノモンハン事件。捕虜の人数、辿った運命は。

鋼棺戦史(こうかんせんし)(連載中)
  決して強力とはいいがたい鋼鉄の棺桶に乗った日本軍戦車兵の戦歴。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第1章・その1)

1.戦場の宅配便

一、驕敵撃滅の神機到来せり
二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以てレイテ島に来攻せる敵を撃滅すべし
-昭和19年10月22日・南方軍命令-

 太平洋戦争後半、アメリカ軍の本格的が進み、決戦場となったのがフィリピンでした。そのうち最初の地上戦が行われたのがレイテ島です。日本軍は初期配置の第16師団に加えて3個師団・1個旅団の増援部隊を投入、米軍7個師団と激突する大規模な戦闘となりました。
レイテの八九式中戦車1 レイテ島守備隊の日本陸軍第16師団に、唯一の機甲戦力として配属されていたのが、1944年6月に千葉県津田沼の戦車第2連隊補充隊を母隊として編成された独立戦車第7中隊(通称号:威第358部隊→威第17658部隊、注12)です(独立戦車中隊の来歴については第三部第3章も参照)。機甲戦力と言っても、その装備は旧式の八九式中戦車11両でした。資料によっては九五式軽戦車とされていますが、姉妹部隊の独立戦車第8中隊の隊員による調査や、米軍がレイテ島で撮影した写真(右掲)を見る限り、八九式中戦車です。米陸軍公刊戦史の引用する捕虜供述でも、旧式戦車を装備していたとあります(注1)。その任務は純粋な戦闘部隊ではなく、戦車を飛行場整備機材として活用する期待もあり、滑走路整地用の牽引式ローラーを装備していました。
 なお、第16師団固有の機甲戦力として本来は捜索第16連隊(軽装甲車2個中隊装備)がありましたが、1944年4月に師団主力がルソン島からレイテ島へ移動した際、ルソン島に取り残されていました。

 独立戦車第7中隊が編成された1944年6月までの日本軍の作戦計画は、絶対国防圏構想に基づく太平洋上での航空決戦を志向しており、地上戦闘は二義的なものでした。大本営はフィリピン防衛を担当する第14軍を「航空基地軍」となるよう指導し、師団・旅団ごとに飛行場建設担当の参謀を配員しました。飛行場建設を管理する第3・第5野戦飛行場設定司令部もフィリピンに送りこまれましたが、実働部隊である野戦飛行場設定隊は建設予定飛行場114箇所に対して3個隊と少数で、労働力は現地守備隊・現地住民を活用するものとされました。そのためフィリピン各地で、陣地の構築を後回しにしてでも、飛行場の急速整備が進められており、特にレイテ島では既存のタクロバン海軍飛行場に加えて7箇所の陸軍飛行場新設が計画されていました。
 1944年7月のサイパン失陥で絶対国防圏構想が崩壊すると、フィリピンでも泥縄的に地上戦の準備が始まります。7月10日の第14軍兵団長会同で各師団長・旅団長らに地上作戦軍となる旨の計画が示されますが、海岸付近に多い航空基地群の確保とサイパンで失敗した水際作戦の二の舞回避という矛盾した内容を含み、師団長ごとに受け止め方が分かれていたようです。牧野四郎第16師団長は航空基地の確保を重視した結果、従前どおりの水際配備による飛行場防衛方針を維持しました。
レイテ島戦場の略地図 そうした中で、独立戦車第7中隊は、部隊略歴によれば1944年6月24日に内地発、7月25日にマニラ到着、7月下旬にレイテ島に進出したとされます(注2)。乗船船団は特定できていませんが、タマ21C船団(7月14日高雄発・7月19日マニラ着)辺りが比較的近い行程です。8月には第35軍の第16師団指揮下に入りました。牧野第16師団長の『比島陣中日誌』によれば、8月15日に中隊長の河野勲大尉が牧野第16師団長に到着を申告しています(注14)。
 部隊略歴には輸送途中の損耗の記載がなく、この時期には珍しく無傷で現地に進出したようです。この点、木俣滋郎『戦車戦入門』には、先発した河野に数日遅れでルソン島からレイテに移動中の第2梯団乗船の小型貨物船「義丸」(200総トン)が、8月15日にレイテ島南方海上で触雷沈没したとあります(注3)。編成母体である戦車第2連隊の戦友会出版物にも同様の記述があり、八九式中戦車を全損したので現地にあった軽戦車11両で再建されたとしますが(注13)、これらの文献は誤りと思われます。「義丸」については、1944年8月15日に第16師団指揮下の「第三義丸」(注4)が、レイテ島西岸バイバイから東岸ドラグ・タクロバンへ向けて備蓄燃料の海上輸送中、レイテ島南西端マーシン港沖で触雷大破したのが該当するようですが、多数の戦車を搭載できる規模の船ではなく、戦闘詳報の兵器損耗表にも戦車関係の記載がありません(注5)。牧野第16師団長『比島陣中日誌』の8月15日の項に独立戦車第7中隊の河野大尉到来の記事と並んで「義丸」(200トン)沈没との記載があり、同史料を使った前掲木俣が無関係の2つの情報を混同したのが原因でしょう。戦車第2連隊の戦友会本の執筆者は独立戦車第1中隊の原田早苗中尉であって直接の経験談ではないため、先行する前掲木俣(初出は1975~1980年)を参照した結果、誤りも引き継いだものと思われます。
 独立戦車第7中隊は前述のとおり、もともと飛行場整備も任務として予定していましたが、実際にも第35軍の指揮下に入ると同時に、第3野戦飛行場設定司令部が実行中のレイテ島の飛行場群建設に協力させるよう命令が出ています(尚作命甲4号。注6)。捕虜供述によると、米軍上陸までの2ヶ月間、戦車はほとんど飛行場整備だけに従事して過ごしたようです。

 独戦第7中隊のレイテ進出から2ヶ月後の1944年10月20日、レイテ島東岸のタクロバンとドラグ付近等にマッカーサー率いる米軍が上陸、レイテ島の戦いが始まります。第16師団指揮下の諸部隊はこれを迎撃しますが、飛行場建設を優先したことで陣地構築が不十分だったようです。第16師団の10月初旬の報告では、水際陣地が軽掩蓋程度で進捗率80%、飛行場直掩陣地は着手したばかりなどとなっています。その上、第16師団は、最重要施設である海岸近くのタクロバン・ドラグ飛行場を守るため水際配備の方針を採っていましたが、不幸にもこの方針決定後のサイパン戦の戦訓で水際陣地は艦砲射撃に対して脆弱なことが判明します。第16師団は、艦砲射撃と空襲に支援された米軍4個師団に圧倒されて、たちまち内陸に押し込まれる結果となりました。タクロバン・ドラグ両飛行場とも上陸初日のうちに米軍に占領されています。
 米軍上陸前の10月初旬、独立戦車第7中隊は、飛行場整備支援のためかブラウエン飛行場地区のブリ(ブラウエン北飛行場付近)に駐屯していました(注7)。部隊略歴によれば10月13日から18日の事前砲爆撃で戦車が使用不能になったとありますが、後述のとおり米軍上陸までに相当数が稼働状態に整備されていました。中隊は米軍船団がレイテ島に接近した10月18日の第16師団命令で、ドラグ正面を担当する南部レイテ防衛隊長(歩兵第20連隊長)の指揮下に入ります(垣作命甲第824号、注8)。そして、米軍上陸初日の10月20日夜から翌10月21日未明、中隊主力(米陸軍公刊戦史引用の捕虜供述によれば8両【疑義あり。コメント欄参照】)はドラグ飛行場地区へ突入を命じられます。
 米陸軍公刊戦史によれば、10月20日夜、米陸軍第7師団の第一線の第184歩兵連隊G中隊(右翼の第32歩兵連隊との境界地域担当)が徹夜で壕を掘っているところへ、日本戦車3両が襲来して機関銃を掃射しますが弾道が高くて命中せず、バズーカや迫撃砲の砲火で一度撃退されます。1時間後に戦車1両だけが再来襲した時には、米兵の小銃擲弾で撃破されて乗員も戦死しています。別に「偵察車」(scout car)1両が現れて米兵5名を死傷させていますが、夜間で戦車を誤認したのか(騒音の点で間違えるか少し疑問)、武装トラック等なのか正体不明です(注9)。
レイテの八九式中戦車2 また、ドラグ・ブラウエン道南側沿いの第184歩兵連隊第3大隊の前には、10月21日午前1時30分ころに日本の中戦車3両が出現しますが、バズーカや手榴弾による攻撃で全滅。午前4時ころにも戦車6両が現れて、約30分間の戦闘で2両を失って撤退しています(注9)。
 日本側公刊戦史の戦史叢書では戦車中隊の突入時にドラグ拠点の予備隊が同行して、米軍戦車の円陣に突入しようとしたが陣前に破砕されたとあります(注10)。他方で上記の米軍記録では随伴歩兵がいた様子がなく、実際は歩戦協同を意図したものの事前訓練もないままの夜襲で連携が取れず、分離したまま各個撃破されたのだろうと思われます。
 以上の米軍記録では出現した戦車数が8両よりも多く思えますが、状況把握が難しい夜間戦闘であり、細部は誤りがあると思われます。被撃破数6両とすると出撃8両中2両生き残っているはずですが、その後の行動は不明です。後退後に燃料切れや故障などで放棄されたのかもしれません。
 なお、米陸軍公刊戦史に引用された捕虜供述【疑義あり。コメント欄参照】によれば、中隊主力8両の出撃後、戦車3両がブラウエン飛行場地区ブリにあったものの、これは可動状態にない車両が残置されたものだったとのことです(注1)。おそらく行動不能のまま、10月24日のブリへの米軍侵入で失われたものと思われます。

 以上のとおり、独立戦車第7中隊は、レイテ島の初期数日間の戦闘で事実上全滅しました。河野中隊長以下、生還者もほとんどないようで部隊略歴では1944年10月21日に「全員玉砕」としていますが、10月24日に整備兵1名がブラウエン地区で捕虜となっており、米軍の尋問に対して貴重な証言を残しています(注1)。
 この点、前掲木俣は、12月13日にレイテ島西岸の2号ハイウェイで交戦した日本軍戦車隊を独立戦車第7中隊の生き残りと述べていますが(注11)、次回以降に述べるとおり、戦車第2師団所属の戦車とみるのが素直でしょう。
 ここまで約1週間の激戦で第16師団も戦力の過半を消耗しており、以後のレイテ島の戦闘は、他島からの増援部隊が主役となって続いていくことになります。(続く)


注記
  1. Cannon (1993) , p.135
  2. 『南方・朝鮮(南鮮)方面 陸上部隊略歴(航空・船舶部隊を除く) 第5回追録』 JACAR Ref.C12122500400、画像31
  3. 木俣(1999年)、273頁。初出は『PANZER』1975年8月~1980年8月号
  4. 「第三義丸」について、船舶番号46413・船主:水口義行・199総トンか。いわゆる海上トラックと思われます。
    なお、初稿では中隊編成時の装備戦車数を12両としましたが、執筆メモの読み間違いで当初から11両装備と思われます。その点からも木俣の述べる海没損害はなかったように思われます(2019-05-26訂正)。
  5. 輜重兵第16連隊第2中隊 『「マーシン」港外戦闘詳報』 JACAR Ref.C14061353700
  6. 尚作命甲4号については、JACAR Ref.C13071376200。原文では「タクロバン」付近航空基地とありますが、第35軍ではタクロバン飛行場(海軍支配)以外にレイテ島所在のブラウエン南北飛行場・サンパブロ飛行場・ドラグ飛行場をタクロバン基地と総称しているようです(「飛行場の急速なる補修強化の件」 JACAR Ref.C13071376500)。
  7. 「第十六師団状況報告」1944年10月8日、附表 JACAR Ref.C14061301900
  8. 「標題:垣作命甲第824号 第16師団命令 10月18日」 JACAR Ref.C13071393100
  9. Cannon (1993) , pp.127-128
  10. 戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)」、376頁
  11. 木俣(1999年)、294頁
  12. 通称号について、初稿では「垣第17658部隊」としましたが「威第17658部隊」に兵団文字符を訂正(2019-05-26)。部隊略歴では南方軍の兵団文字符「威」ではなく第16師団の兵団文字符「垣」となっているのですが、師団編合部隊ではないのに師団の文字符を冠することには疑問があり、姉妹部隊の細田資料も参考に「威」としました。なお、Twitterで助言を頂いた、牛丼師団氏とkk氏に御礼申し上げます。
  13. 原田早苗「独立戦車第七中隊の奮戦」『追憶-戦車第二聯隊の碑建立記念』戦車第二聯隊戦友会、1988年、52頁
  14. 牧野四郎『牧野四郎追憶遺稿録』安倍孝一、1964年。以下「義丸」での海没有無についても牧野日誌ふまえて加筆(2019-09-28)。

あけましておめでとうございます

昨年も実質2記事しか書かない怠惰ぶりになりました。ツイッターに書いたことの一部でも書けばいいのかもしれませんが。
ただ、このご時世にブログで戦記や書評を書き続けておられる方にも出会えて刺激を受けました。
あと昔興味があった捕鯨のことが日本の国際捕鯨取締条約脱退で話題になったとき、昔にブログ記事に書くために勉強した事実関係を意外と覚えていて、ブログに書ける程度に一度調べていると記憶に残るんだなあというのを実感しました。ツイッターだとその場ですぐ流れて忘れる気がしてます。
もう少しなにかやろうかなという気分。

ガダルカナル島のとある見張所の最期

 太平洋戦争のソロモン諸島方面の戦闘において、連合国側がコーストウォッチャーと呼ばれる監視員を各地に配置、有力な早期警戒網を構成していたことは知られるところです。
 もともとはオーストラリア海軍が第一次世界大戦後から整備を進めてきていたもので、1930年代に専門の海軍情報部長が設置されて本格化。太平洋戦争開戦直前の1941年半ばにはニューギニアやソロモン諸島等の100か所以上に無線通信機を装備したコーストウォッチャーが展開していました(ロード 31頁)。ソロモン諸島の場合、開戦前の時点でブーゲンビル島に2か所、ガダルカナル島に3か所、その他ツラギなど3か所の計8拠点が置かれています(ロード 34頁)。人員は、予備役軍人を含む現地在住の欧米系民間人が主体だったようです。
 ガダルカナル島攻防戦たけなわの頃、ラバウルからガダルカナル島に向けて日本軍の攻撃隊が離陸すると、途中のブーゲンビル島やニュージョージア島などのコーストウォッチャーが次々と無線で報告、防空レーダーの情報と合わせて、素早く迎撃態勢をとることができました。

 対する日本側も同じようなことを思いつかなかったかというとそんなわけはなく、日本海軍もソロモン諸島の各地を占領すると見張所という名で監視拠点を配置していきました。
ガダルカナル島見張所
 ガダルカナル島に米軍が上陸する前月の1942年7月16日時点で、図のとおり、ガダルカナル島内にはルンガ飛行場を囲むように東見張所(タイボ岬)・南見張所・西見張所(エスペランス岬)、南岸にハンター岬見張所、フロリダ島(ツラギ)やラッセル諸島等の周辺島嶼にも見張所が存在しました(南東方面海軍作戦(1) 385頁)。7月16日時点では予定となっているマライタ島やマラバ島の見張所も、アメリカ軍上陸時までには実際に配置が完了していました。
 この中でガダルカナル島内でも主戦場からポツンと離れ、オーストラリア側に最も近いのが南岸のハンター岬見張所です。人員9名(ただし最終時の連合国側の記録によると10名)、機銃2挺(?)と無線通信機装備という戦闘力はほとんどない「目」でした。通信機は短距離用の軽便無線機と思われ、基本的には長距離通信設備を有する北岸ルンガの海軍部隊本部との間の島内通信用でした。ただ、西見張所の通信機は後にショートランド島との間で交信に成功しており、ある程度は島外との交信も可能だったかもしれません。
 配置場所にハンター岬が選定された一因には、ガダルカナル島で布教活動をしていたオランダ人宣教師エメリー・ド・クラーク(Emery de Klerk)神父の助言があったようです。ガ島を占領した日本兵が1942年7月10日にクラーク神父を訪問して、南岸に監視拠点を置くのに適した場所がないか問うたところ、クラーク神父はハンター岬と答えたといいます(ロード 79頁)。

 1942年8月7日にアメリカ軍が、ガダルカナル島北岸ルンガとツラギに上陸して、ガダルカナル島の戦いが始まります。ルンガの第11設営隊以下の海軍部隊主力はひとたまりもなくジャングルに退避しましたが、各見張所はとりあえず攻撃を免れて健在でした。いきなり本部との交信が途絶して、見張所同士で不安の声を交わしていたようです(五味川 56~58頁)。
 その中でも南岸のハンター岬見張所は、8月7日朝にガダルカナル島南方洋上を行動中のアメリカ海軍空母部隊を発見することに成功します(南東方面海軍作戦(1) 457頁)。日本側にとって残念なことに、ハンター岬見張所の無線報告は、ルンガの海軍部隊主力が通信機を失って通信途絶したため受信されず、上級部隊にすぐに届きませんでした。この重要情報は、8月12日に連絡任務のためハンター岬沖に浮上した潜水艦「呂33」へ見張所長が赴いて報告され、艦載無線でようやく上級部隊に伝えられることになります(南太平洋陸軍作戦(1) 281頁)。
 ちなみに他の見張所も序盤の貴重な通信拠点として機能し、海軍部隊主力は、8月16日にエスペランス岬の西見張所の通信機を取り寄せて、潜水艦やショートランド基地経由の連絡を回復しています。8月18日に反撃部隊の一木支隊先遣隊が上陸したのも、タイボ岬の東見張所のそばで、同見張所の海軍兵3名が道案内として同行、同見張所が後に一木支隊の敗北の第一報を伝えています。海軍の増援通信部隊がエスペランス岬西のカミンボに上陸したのは9月7日で、それまでは見張所の無線機と増援第一陣の高橋陸戦隊(8月16日上陸)が持ち込んだ無線機が通信の要であったと思われます。

 もちろん、連合国軍が、そのまま日本軍の見張所を見逃すこともありませんでした。
 8月16日には、フロリダ島東端のイースト岬見張所(約12名)が敵軍上陸を報じた後、通信途絶し、玉砕と推定されます(南東方面海軍作戦(1) 533頁)。8月27日に潜水艦「伊123」がイースト岬へ連絡と食糧補給に向かいますが、実施できた記録は残っていません(南東方面海軍作戦(2) 63~64頁)。
 一木支隊が上陸したタイボ岬見張所付近には、その後に川口支隊主力なども上陸して揚陸拠点として活用されました。しかし、9月8日にアメリカ海兵隊が舟艇機動でタイボ岬へ侵攻、川口支隊の後方部隊を撃破しており、この時に見張所も壊滅したものと思われます。そもそも一木支隊先遣隊が上陸する前から、アメリカ軍はコーストウォッチャーの通報でタイボ岬に日本軍の通信拠点があるとの情報を得て掃討部隊を差し向けており、アメリカ軍が一木支隊の将校斥候を素早く一掃できたのもこの掃討部隊が臨戦態勢でちょうど付近にいたためのようです(Zimmerman pp.61~62)。

 空母発見で活躍したハンター岬見張所の最期については、連合国側に明確な記録を発見することができました。
 連合国側の記録によると、主戦線で日本軍第2師団が総攻撃を準備中の10月18日頃、一団の現地住民が、ハンター岬見張所を訪れて、タバコと食料の物々交換を申し出ました。そして、日本兵が豚肉の提供を求めると、島民たちは日本兵を野豚狩りに誘いました。しかし、これは罠でした。翌日、日本兵のうち8人が、槍で武装した現地住民とともに二手に分かれながらジャングルの道を出かけましたが、しばらく進んで川の分岐点に着いたところで、住民たちの槍で襲われて全員殺害されました(ヘイ 126~127頁)。住民たちは夕暮れを待って、見張所の留守番の日本兵も襲撃、1名を殺害しました。日本兵1名だけがジャングルに逃げ込んだようですが、そのまま行方不明となっています(ロード 106頁)。住民たちは小銃9挺を戦利品として奪い、機銃や通信機は破壊して海に投げ込み、建物を焼き払いました(ヘイ 126~127頁)。暗号書などを収集した様子はなく、連合国正規軍と連携した行動ではなかったことが伺えます。
 8月13日にハンター岬見張所から潜水艦「呂33」経由で送られた報告によると、ハンター岬見張所はアメリカ軍上陸当日の8月7日夜に食料がなくなり、現地の果実で食いつなぐ状況であったようです(五味川 56~58頁)。補給のタイミングが悪かったのでしょうか。「呂33」から一定の食糧援助は受けたと思いますが、その後は北岸の主力部隊ですら満足に補給が受けられない状態が続いたことから、おそらく最期まで新たな補給が得られなかったのではないかと推測されます。食料を囮とした計略にかかりやすい要因が揃っていたのでしょう。
 この計略を立案したのは、ハンター岬を見張所の設置場所として助言したクラーク神父でした(ロード 106頁)。クラーク神父は、初めは連合国軍への積極的な協力を避けていたのですが、他の教会関係者が日本軍に処刑され、日本軍が畑を荒らすなど現地住民に危害を及ぼすに至って、島外へ撤収するコーストウォッチャーの業務を引き継ぐと、10月半ばには現地住民の武装組織化も始めていました。クラーク神父がその最初の攻撃目標に選んだのが、彼自身のよく知るハンター岬見張所だったのです。協力を拒んだ酋長もいたようですが、ジョー・ツルカイア酋長が作戦に同意して実行部隊になりました。ただし、別のコーストウォッチャー協力者だったケン・ダーリンブル・ヘイは、自分がハンター岬攻撃の発案者で、マライタ島出身の現地人スカウトが実行部隊の中核だと述べています(ヘイ 126頁)。

 そのほかの多くの見張所の最期は詳細がわかっていません。前掲の「呂33」経由の報告によると、8月13日時点で判明したハンター岬以外の見張所の備蓄食料・飲料水も7~17日間分に過ぎなかったといいます。このことから、五味川純平は、各見張所は孤立したまま補給も受けられず、守備兵は餓死したと推測しています(五味川 56~58頁)。ハンター岬見張所と同様に、連合国側に協力した現地住民の襲撃により全滅した事例もあったかもしれません。

 ソロモン諸島のような多島海域に見張所による早期警戒網を敷くというアイディアは、悪くない狙いに見えます。ですが、実際には制空権を失った状況において、敵地近くに分散した小さな拠点へ補給を継続することは困難でした。かといって高温多湿の環境で、大量の食糧をあらかじめ備蓄することも容易ではないでしょう。挙句の果ては救出すら非効率的で、放置したまま餓死するに任せるという非情な選択を採ることになっていきます。
 この種の構想が機能するには、現地住民から食料供給などの協力が得られることが必要条件だったように思えます(日本兵が米飯なしで我慢できるのかという問題はあります。)。逆に現地住民が本気で攻撃すれば、ハンター岬見張所の例のように、わずか10名前後の見張所の兵力では自衛することもできません。
 ニューギニアやソロモン諸島におけるコーストウォッチャーの活用は、オーストラリア軍が戦前からコーストウォッチャー網の整備を計画し、一帯を自国の庭として農園経営や布教活動、現地人警察組織等を通じて現地住民と密接な関係を築いてからこそ有効にできたもので、占領軍である日本軍がにわかに同じことをしようとしても実現できなかったといえる気がします。

<参考文献>
ウォルター・ロード(著)、秦郁彦(訳) 『南太平洋の勇者たち-ソロモン諜報戦』 早川書房、1981年。
ケン・ダーリンブル・ヘイ(著)、松永秀夫(訳) 「私だけが知っているガ島血戦始末」『丸エキストラ版 第80集』 潮書房、1978年。
五味川純平 『ガダルカナル』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年。
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(1) ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 朝雲新聞社、1968年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪回作戦開始まで』 同上、1971年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 同上、1975年。
John L. Zimmerman, “Marines in World War II Historical Monograph : The Guadalcanal Campaign” USMCR Historical Section, Division of Public Information, Headquarters, U.S. Marine Corps, 1949.

生存報告

まだ息しています。息しているだけ。
お仕事、家事、子育て、色々しながら戦史してる方すごいなあと。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第5章)

5.ベンガル湾のつわもの【暫定版】

 夏草や兵どもが夢の跡
          -松尾芭蕉-

【本記事は暫定版です。内容に不十分な点があることが判明しているため、なるべく早期に改訂するつもりです。】

 1945年、総崩れになりつつあるビルマ戦線の西部に、日本陸軍第54師団が踏みとどまっていました。コードネームである通称号は「兵(つわもの)」。一般的な3単位編制の歩兵師団で、機甲戦力として偵察部隊である捜索第54連隊を有しています。
 捜索第54連隊も標準的な編制の捜索連隊で、騎兵第10連隊(姫路)を母隊とし、新設当初は連隊本部・乗馬中隊・乗車中隊・装甲車中隊各1個から成っていました。南方派遣時に連隊本部と乗車中隊2個(第1・2中隊。速射砲各2門・重機関銃各2丁)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。九七式軽装甲車各8両、うち砲装備各3両)基幹に改編強化され、通信小隊も付属したようです。人員484人、トラック45両と乗用車7両を保有し、完全自動車化されていたように思われます。

 1944年1月以降、第54師団は第28軍隷下、ビルマ西部ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備されます。捜索第54連隊主力(中村忠雄中佐。本部と乗車第2中隊)は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)を守備。乗車中隊・装甲車中隊各1個は師団直轄等に召し上げ。白井中隊長率いる第3中隊(装甲車中隊)は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、ベンガル湾に浮かぶラムレ島へ一時進出しますが、1944年9月に大陸本土沿岸に戻ってタンガップ(タウンガップ、タウングプTaungap)地区防衛を任としました。
 タンガップは、ビルマ中心部からアラカン山脈を越えて続く自動道がベンガル湾に出る地点で、制空権喪失により海上交通が遮断された日本軍にとって、重要な兵站拠点でした。また、飛行場もありましたが、航空機は全く配備されていなかったようです。
 第3中隊は、タンガップ北方のサビンという村を中心に65kmもの広大な海岸線の守備を担当しました。いくら機動力があると言っても人員40名余では明らかに兵力不足ですが、空挺部隊などに対する警戒が中心で、本格的な侵攻に際してはタンガップに後退する計画だったといいます。これを捜索連隊らしい騎兵的な任務だと喜ぶ者もあったようです。

 1945年2月15日、タンガップから85km北のメイへ補給品を輸送中の独立自動車第55大隊の車列が、敵の上陸部隊に出くわして逃げ帰って来ました。敵兵力は最大4万人の大軍とも報告されました。ところが、タンガップから歩兵1個大隊と捜索第54連隊第3中隊が反撃に出動したところ、実はイギリス軍40人程度の偵察上陸と判明します。イギリス軍は日本軍の反撃を受け、すぐに撤収しました。大騒ぎをした独立自動車第55大隊の士官は、回想で部隊の醜態を恥じています。

 1945年3月、イギリス軍は反攻作戦の一環として、タンガップの攻略に着手します。3月15日(3月12日?)、第4インド歩兵旅団(3個歩兵大隊)と第146機甲連隊A中隊(M3リー中戦車装備)が、タンガップ北方のレトパンLetpanに上陸。そのうち尖兵のフロンティア・フォース・ライフル連隊2/13大隊の1個中隊は、夜のうちに進軍してタンガップ=メイ間の道路の屈曲点を制する地点に達しました。
 日本軍はすぐに上陸に気が付き、撃退を試みます。タンガップ地区隊唯一の機甲戦力である捜索第54連隊第3中隊は、機動反撃を命じられ、中隊主力(指揮班及び第1小隊の軽装甲車5両)で出撃しました。無謀な出撃とも思えますが、2月15日と同様に偵察上陸で簡単に撃退できると期待したのかもしれません。タンガップから北上した装甲車隊は、上記のイギリス軍尖兵中隊の封鎖地点に到達しますが、準備不十分だったのかイギリス軍は素通りさせたようです。
タンガップの九七式軽装甲車 3月16日の午後、イギリス軍は第146機甲連隊A中隊を先頭に本格的に侵攻を開始し、日本側の捜索第54連隊第3中隊主力とすぐに遭遇します。日本側の装備車両は2人乗りの豆戦車である九七式軽装甲車(イギリス軍は九五式軽戦車と誤認)で、イギリス軍のM3中戦車にはとても敵わず、南のタンガップ方向へ高速で逃げ出しました。しかし、撤退した先には、フロンティア・フォース・ライフル連隊の尖兵中隊が待ち構えており、携帯対戦車火器PIATを次々と発射して、今度は素通りさせてくれませんでした。進退窮まった捜索第54連隊第3中隊主力は、引き返してイギリス軍との接触を断った後、車両を放棄して徒歩で包囲を脱出しました。追撃してきた英軍戦車が発見したのは、放棄された軽装甲車5両(うち3両は自焼した残骸)だけで、乗員の姿はどこにもありませんでした。(画像はタンガップ地区でイギリス軍に捕獲された九七式軽装甲車。砲装備なので中隊長車か第1小隊長車である。)
 このとき、イギリス軍は遺棄された日本軍装甲車の中から、九七式軽装甲車の前でポーズをとった日本軍戦車兵の写真を押収しています。この写真は、吉川和篤『日本の豆戦車写真集』(イカロス出版、2016年)の中表紙に掲載されている白井装甲車隊の車長の写真と同じアングルで撮影されたものです。捜索第54連隊第3中隊は内地出発前に兵庫県の青野ヶ原で待機中、形見となるように全員が一人ずつ装甲車の前に立って記念撮影したのだそうです。なお、このときに写真のネガを内地に残すはずが、誤ってネガまでビルマに持っていってしまったとのことで、現存するのは貴重な一枚と言えそうです。

 こうして、捜索第54連隊第3中隊は、装甲車両の主力を失いました。ただし、後方の警戒を命じられた第2小隊(軽装甲車3両)は離脱に成功し、戦闘を継続しています。砲兵牽引車の代わりとして野砲などの陣地転換にも多用されたようです。タンガップ地区隊はイギリス軍に圧迫されて次第に後退し、1945年4月末には第28軍直轄となってビルマ東部のペグー山地へ退却せよとの命令を受けます。第2小隊の軽装甲車3両はアラカン山地を突破してイラワジ河畔のパドン南方まで至り、師団の転進を援護するため後衛戦闘に活躍した後、ついに5月14日に軽装甲車を処分しました。その後は車載重機を主力兵器として戦います。第3中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭を進み、厳しい退却戦を続けることになります。(この章終わり

追記
日本側の参戦中隊が、第4中隊ではなく第3中隊であったので訂正(2019年5月2日)。
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