山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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このブログについて

このブログは、山猫男爵がつづるものです。
書評(軍事SFその他)と日々の記録のほか、歴史軍事水産資源など興味を持ったことについての記事を書き、以下のような連載読み物も公開しています。モットーは「鳥無き里の蝙蝠」。

スペイン内戦と海軍(本編29回+参考文献+年表)
  大戦前夜に無敵艦隊の末裔と欧州列強海軍が描いた、航跡図の切れ端。

リーフ共和国興亡(全14回)
  1920年代スペイン領モロッコで繰り広げられた独立闘争「リーフ戦争」。
  アルセマス上陸作戦は、米海兵隊も参考にした両用作戦である。

帝国の守護者(本編11回+外伝3回)
  落日のポルトガル海上帝国を護った砲艦列伝。
  外伝はポルトガル領東ティモールに関わったオランダ海防戦艦について。

回転翼の海鳥たち(全20回)
  回転翼機が甲板上に地位を占めるまでの、意外に知られざる進化史。

ノモンハン捕虜の運命(序+本編9回)
  あの日本軍が多くの捕虜を出したノモンハン事件。捕虜の人数、辿った運命は。

鋼棺戦史(こうかんせんし)(連載中)
  決して強力とはいいがたい鋼鉄の棺桶に乗った日本軍戦車兵の戦歴。
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The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance

A History Channel special, "Amelia Earhart: The Lost Evidence" say a photograph found in the National Archives taken in 1937 at Jaluit Atoll showed a woman resembling Amelia Earhart.

However the photograph was first published in Palau under Japanese rule in 1935, in a photo book; Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata." (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935. So the photograph was taken at least two years before Amelia Earhart disappeared in 1937 and a person on the photo was not her.

海の生命線我が南洋の姿44頁
(Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata" (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935, p. 44; from National Diet Library Digital Collection)

According to original caption in Japanese, the photo taken at port of Jabor town in Jaluit Atoll. The steam ship on the right of the photo is a Japanese navy survey ship ''IJN Koshu'' (膠州) . The ship participated in searching mission for Amelia and arrived Jaluit Atoll in 1937, but the ship also arrived there sometimes since 1935.

Postscript (2017-07-12)
IJN Koshu (膠州, Jiaozhou Bay) : ex. German cargo ship launched in 1904, seized by Japan in WW1 at Tsingtau. The ship renamed Koshu, used as a transport ship and a survey ship by Imperial Japanese Navy. The ship worked for survey mission of the South Pacific Mandate in 1930s.
IJNkoshu.jpg (IJN Koshu)

Around 1937, apart from IJN Koshu, there were at least two Japanese ships named SS Koshu Maru. "Maru" (丸) is a word often used end of Japanese ship's name, but not used for regular IJN naval ship's name.

Koshu Maru (杭州丸, Hangzhou) : cargo ship launched in 1911, initially named Daiun Maru (大運丸), renamed Koshu Maru in 1913.
osk_koshumaru.gif (SS Koshu Maru, launched in 1911)

Koshu Maru (光州丸, Gwangju) : passenger cargo ship launched in 1937, initially named Teishu Maru (定州丸) , renamed Koshu Maru in 1940.
chosen_yusen_teishu_maru.jpg (SS Koshu Maru, launched in 1937 as Teishu Maru)

日本語の詳細版記事 More detailed version post : アメリア・イアハートの写真説は誤りであること (2017-07-09 in Japanese)

アメリア・イアハートの写真説は誤りであること

 数日前に、女性飛行士アメリア・イアハートAmelia Earhartが日本軍の捕虜になっていたことの証拠写真が発見されたというニュースがありました。しかし、検証したところ、問題の写真は遭難事故以前に撮影されたもので、当該仮説は誤りだと思われます。
* Summary of this post in English is here : The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance (2017-07-11)

『伝説の女性飛行士イアハート、日本軍の捕虜に? 新たな証拠写真』AFPBB News:2017年7月7日
「ヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」は、2人は生き延びて、日本軍の捕虜になった可能性があると指摘している。」「番組が証拠としているのは、米国国立公文書館(US National Archives)で見つかった不鮮明な白黒写真だ。そこに写っているのが、拘束後にマーシャル諸島(Marshall Islands)にいる2人の姿だという。」

海の生命線我が南洋の姿44頁 問題の米国国立公文書館で発見された写真は、上記リンク先AFP記事のキャプションによればマーシャル諸島ジャルート環礁(ヤルート)で1930年代撮影となっていますが、この写真はもともと1935年(昭和10年)10月に日本委任統治下のパラオで出版された西野元章『海の生命線 我が南洋の姿』(二葉家呉服店、1935年)という写真集に掲載されているヤルート島ジャボール港の写真です(右画像は国立国会図書館デジタルコレクションPID:1223403の同書44頁から引用)。
 したがって、問題の写真の撮影日時は出版された1935年以前で、イアハート遭難事件の起きた1937年よりも前の写真ということになります。遭難後のイアハートが写っているということはありえません。

 なお、上記AFP記事で「波止場の奥に写った「コウシュウマル(Koshu Maru)」という日本船」と書かれている、写真の右に写っている汽船は日本海軍の測量艦「膠州」で、1937年7月にヤルートに寄港してアメリア・イアハートの捜索にも協力した船です。しかし、アジア歴史資料センターによりインターネット公開されている「膠州」の航泊日誌(JACAR Ref.C11083153700、C11083154100、C11083154500)を見ると、以下の通り、イアハート機の捜索以外でもヤルートに度々寄港しています。
・1935年(昭和10年)1月1日~1月8日、ヤルート在泊
・同年5月19日~5月29日、ヤルート在泊
・同年7月26日~8月4日、ヤルート在泊
・同年9月2日~9月6日、ヤルート在泊
 アジ歴の航泊日誌には欠落があるので断言はできませんが、問題の写真は上記の日時のいずれかで撮影された可能性があります。左奥に写っている汽船の船名がわかれば、撮影日付特定の手がかりになるのではないかと思いますが、残念ながら手元資料では船名までわかりませんでした。

WW2で戦没した捕虜輸送船の国際比較

 第二次世界大戦中、太平洋戦争や地中海戦域などでは相当数の捕虜の海上輸送が行われました。そして、捕虜輸送船が撃沈されて犠牲者が出る事例も相当にありました。
 塗装や通告方式が定められていた病院船と異なって、捕虜輸送船を保護する国際ルールは確立されていなかったようで、無標識のまましばしば通常の軍隊輸送船と誤認されて被害を生じています。「阿波丸」など人道支援物資輸送で活用された安導権による対応がありえたようにも思いますが、無制限潜水艦戦状態、救出作戦を防止するため秘匿が必要、捕虜輸送船は軍隊輸送船兼用で兵員や軍需物資も混載したいので特別扱い困難などの理由で、現実には難しかったのかもしれません。

 そんな捕虜輸送船について、どの程度被害が出ていたのかなと気になって、取っ掛かりとして手元の資料とネットで分かる程度の範囲で沈没事例をまとめてみました。
 捕虜輸送船というと、特に日本が運航した船が、劣悪な船内環境・沈没時の大量犠牲者でいわゆる「ヘルシップ」として知られていますが、やはり沈没船の数は日本が多いです。
 運航主体ではなくて犠牲になった捕虜の国籍で見ると、イタリア兵がかなり酷い目にあってるんですね。ドイツ軍管理下で12000人以上、イギリス軍管理下で2000~3000人は亡くなったようです。高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』の突撃師団ロードスの記事にも、ドイツ軍による投降イタリア兵虐殺と並んで捕虜輸送船2隻の触雷が紹介されていましたが、ほかにもこれほどあるとは。
 なお、以下に挙げたほか、日本関係では現地徴募の労務者多数を乗せた「隆西丸」、ドイツ関係では強制収容所代わりになっていた「カップ・アルコナ」など、敵国の捕虜ではないものの通常の自国民とも違う立場の人が大量犠牲になった船舶もありますが、とりあえず除きました。

日本の運航船
「もんてびでお丸」(7266総トン)1942年7月1日・潜水艦。豪州人捕虜・抑留者1053人死亡
「りすぼん丸」(7053総トン)1942年10月1日・潜水艦。英国人捕虜842人死亡
「すゑず丸」(4645総トン)1943年11月29日・潜水艦。主に英国人捕虜546人死亡
「玉鉾丸」(6780総トン)1944年6月24日・潜水艦。豪195人・蘭181人・英148人・米捕虜30人死亡
「勝鬨丸」(10509総トン)1944年9月12日・潜水艦。英国人捕虜380人死亡
「楽洋丸」(9418総トン)1944年9月12日・潜水艦。英・豪州人捕虜1039~1181人死亡
「順陽丸」(5065総トン)1944年9月16日・潜水艦。蘭・蘭印捕虜1477~1520人死亡 ※ほかに労務者4120人死亡
「豊福丸」(5824総トン)1944年9月20日・潜水艦。主に英国人捕虜1047人死亡
「阿里山丸」(6886総トン)1944年10月11日・潜水艦。主に米国人捕虜1773人死亡
「鴨緑丸」(7362総トン)1944年12月15日・空襲。米国人捕虜286人死亡
「江ノ浦丸」(6968総トン)1945年1月9日・空襲。米国人捕虜300~692人死亡
など23隻沈没。総計10844人死亡

ドイツの運航船
「ガエターノ・ドニゼッティGaetano Donizetti」(3428総トン)1943年9月23日・潜水艦。イタリア人捕虜1576人死亡
「アルデナArdena」(1092総トン)1943年9月23日・機雷。イタリア人捕虜779人死亡
「マリオ・ロゼッリMario Roselli」(6835総トン)1943年10月11日・空襲。イタリア人捕虜1302人死亡
「マルガリータMarguerite」(旧マリア・アマリアMaria Amalia、748総トン)1943年10月13日・機雷。イタリア人捕虜544人死亡
「シンフラSinfra」(4444総トン)1943年10月19日・空襲。イタリア人捕虜約1900人死亡
「ペトレッラPetrella」(4785総トン)1944年2月8日・潜水艦。イタリア人捕虜2670人死亡
「オーリアOria」(2127総トン)1944年2月12日・荒天による事故。イタリア人捕虜4025人死亡
「リゲルRigel」(3828総トン)1944年11月27日・空襲。ソ連・ポーランド人・セルビア人捕虜約2200人死亡

英国の運航船
「アランドラ・スター Arandora Star」(12847総トン)1940年7月2日・潜水艦。イタリア人抑留者・ドイツ人捕虜・抑留者713人死亡
「シュンテンShuntien」(順天、3059総トン)1941年12月23日・潜水艦。イタリア人・ドイツ人捕虜800~1000人死亡
「ラコニアLaconia」(19680総トン)1942年9月12日・潜水艦。イタリア人捕虜1227人死亡
「ノヴァ・スコシアNova Scotia」(6796総トン)1942年11月28日・潜水艦。イタリア人捕虜・抑留者650人死亡

オランダの運航船
「ファン・イムホフVan Imhoff」(2980総トン)1942年1月20日・空襲。ドイツ人抑留者412人死亡

<参考文献>
・大内健二 『捕虜輸送船の悲劇』 潮書房光人社、2014年。
・高橋慶史 『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』 大日本絵画、2012年。
・常石敬一他 『世界戦争犯罪事典』 文藝春秋、2002年。
・POW研究会 「捕虜輸送中に沈没した船
・Wikipediaイタリア語版 「Internati Militari Italiani」ほかWikipediaの各船記事
Plimsoll ship data掲載のロイド船名録

第4611船団の疎開民間人

 ツイッターでもつぶやいたのですが、太平洋戦争中に米軍上陸直前のサイパン島から脱出しようとした日本の第4611船団という護送船団に、民間人の疎開者多数が乗船していたという話を見かけて気になりました。なので、とりあえずメモ書きとしてまとめておくことにします。

 見かけた話というのは、NHKの戦争証言アーカイブスに収録の石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」です。著者は海軍一等兵曹で、ブーゲンビル島から内地へ転勤途中に、経由地のサイパン島から船団護衛艦の「第八拓南丸」に便乗したという方。「サイパンも戦局急を告げ、疎開学童を含む婦女子、3、4000人が内地に引き揚げることになった。(引用中略)婦女子は輸送船バタビア丸、門司丸など15隻へと分乗した。」とあります。沖縄戦の「対馬丸事件をはるかに超える大惨事」と。
 この船団は、1944年6月11日にサイパンから横須賀方面に出航した第4611船団(Wikipedia)のことと思われます。加入輸送船は「ばたびあ丸」「門司丸」など海軍徴用船12隻と陸軍徴用船1隻で、護衛は水雷艇「鴻」以下10隻でした。米軍第58機動部隊がサイパン攻略の事前空襲で来攻したため、サイパンに在泊中の艦船を退避させるため編成されましたが、上記石黒回想のとおり、米軍機動部隊に捕捉されて空襲と水上戦闘で壊滅しました。なお、上記石黒回想で司令官が高橋少将となっているのは、手紙の画像を見ると、同じく護衛部隊の第51号駆潜艇に乗艦していた方の話に基づくようですが、おそらく後に護衛した第4804船団(硫黄島から内地に航行中に米軍機動部隊と交戦。)で駆逐艦「松」に座乗していた高橋一松少将のことと記憶が混交しているものと思われます。

 さて、第4611船団は上記のように船舶保護が主目的だったので、私は、疎開する民間人はあまり便乗していなかったのではないかと思い込んでいました。なお、第4611船団の編成時点では、日本側はサイパンの攻略が直ちに始まるとまでは確信しておらず、とりあえず空襲から船舶を避難させようという認識だったようです。
 当時のサイパン島では、米軍上陸に備えて、民間居留民などの非戦闘員の本土疎開が推進されていました。民間航路の貨客船に乗せたり、増援部隊を運んだ輸送船の帰路に便乗させたりしていましたが、「亜米利加丸」(Wikpedia)や「白山丸」(Wikipedia)などが撃沈されて数百人単位の死者が出ていました。

 第4611船団の加入船を見てみると、「ばたびあ丸」や「門司丸」辺りは前者約180人、後者約80人ともともと相当の旅客設備を持っていたようですが、ほかは貨物船が多いようです。ただし、当時は兵員輸送用の軍隊輸送船として改装された貨物船が多く、貨物船でも人員輸送に使われた可能性はあります。「門司丸」も本来の旅客設備に加えて、船倉までいわゆる蚕棚式の寝台を組んで、初期の南方作戦では南海支隊の砲兵900人を運んだ実績があるとのこと。
 とりあえず、加入船についての文献を適当に当たってみたところ、以下の3隻にはサイパンから本土疎開する居留民が乗船していた可能性があると思われます。
batabiamaru.jpg
 「ばたびあ丸」(大阪商船・4392総トン):便乗者140人中18人死亡(駒宮『戦時船舶史』205頁)。画像は沈没しつつある同船ですが退船完了後か。
 「麗海丸」(東亜海運・2812総トン):邦人42人死亡(駒宮『戦時船舶史』266頁)
 「門司丸」(日本郵船・3836総トン):不明。『日本郵船戦時船史』では便乗者約1000人とありますが(上・713頁)、主にトラック島で収容した「海軍特殊設営隊」800人のようで(上・716頁)、サイパン島では同じ日本郵船所属の「高岡丸」(サイパン沖で6月5日被雷沈没)の遭難船員59人を追加乗船させたものの(上・700頁)、一般疎開者が乗っていたとは確認できませんでした。特殊設営隊の正体は未調査ですが、建設要員として使役されていた囚人部隊ではないかと思います。 なお、「ばたびあ丸」が撃沈された際、生存者の一部は「門司丸」に救助されたため、一時的に疎開民間人が「門司丸」に乗ったのは間違いないようです。

 加入船のうちで民間人の移動に最も適していたと思われる「ばたびあ丸」の便乗者が140人にとどまり、どうも全船に疎開者が乗っていたわけでもないことを考えると、上記石黒回想のサイパンからの疎開者3000~4000人乗船(商船1隻あたり婦女子300~350人×隻数、護衛艦1隻あたり70~80人×隻数)という推定は過大と思います。
 乗船中の疎開者の犠牲者数も、上記のとおり、「ばたびあ丸」18人と「麗海丸」42人という以上の資料がまだ確認できません。「ばたびあ丸」生存者の多くは「門司丸」に救助されたようですが、「門司丸」も本土行を断念してサイパンに戻り、米軍の艦砲射撃で撃沈されたため、最終的には乗船者のほとんどが死亡されたのではないかと思います。
 一部の方だけは「門司丸」沈没時に米軍艦艇に救助されて、ハワイなどの収容所に送られて生還という幸運な経過を辿っています。冒頭の石黒回想でも4人の方の名前が挙げられており、戦没した船と海員の資料館研究員の上澤祥昭の講演でも事例が紹介されています(『逗子ロータリークラブWeekly Report』2010-2011・34号(PDF))。陸上に逃れられた方があったのか不明ですが、「門司丸」船員や便乗中の「高岡丸」船員の場合、洋上で米軍捕虜になった方(「門司丸」7人・「高岡丸」4人)以外は生還者がなく、生存可能性は乏しいと思われます。

 戦場で民間人保護がどのように行われたのかという問題の参考事例として、もう少し掘り下げてみたい気もします。

参考文献
石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」『NHK戦争証言アーカイブス』日本放送協会ウェブサイト
駒宮真七郎『戦時船舶史』駒宮真七郎、1991年
日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』上巻、日本郵船、1971年
防衛庁防衛研修所戦史室『マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年

謝辞
 ツイッターで助言を頂いた、天翔艦隊管理人様にお礼を申し上げます。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その4)

3.独立中隊の挽歌(承前)

Luzonmap.png ルソン島に展開した残る一つの独立戦車中隊である独立戦車第9中隊(旧独立戦車第11中隊)は、1944年11月にルソン島北部のエチアゲやツゲガラオに進出して飛行場整備に従事していましたが、翌1945年1月の米軍上陸と同時期に、既述の通り、北部の第103師団(駿兵団)に配属されました。なお、同師団指揮下の機甲戦力としては外に、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車12~15両・装甲兵車2両)と、第103師団特種戦車隊(鹵獲M3軽戦車)及び第103師団砲兵隊自走砲中隊(鹵獲M3自走砲)がありました。
 第103師団の任務は、ルソン島北端のアパリに上陸することが想定される米軍、及び、ルソン島北部カガヤン平野に降下するおそれのある米軍空挺部隊の迎撃でした。独立戦車第9中隊はアパリへの米軍上陸に備えて、その内陸15kmのラローに駐屯しました。燃料のガソリンが不足してきたため、中隊長の中島保男中尉は、戦車をトーチカ化することも考え始めていたと回想しています。同様に第103師団に配属された津守独立戦車中隊は、主に空挺部隊に対する反撃戦力として期待され、海岸から少し離れた林の中に壕を掘って陣地を構成していました。
 この頃、付近に居た第103師団砲兵隊の自走砲中隊は、独立戦車第9中隊によって車両整備の援助を受けていたようです。第103師団砲兵隊にいた山本七平少尉は、独立戦車第9中隊と思われる近所の戦車隊について、軍神西住戦車長が乗っていたのと同じ八九式中戦車装備で、日本軍では珍しいガソリンエンジンの骨董品のスクラップ部隊、修理班の軍曹が「わが隊は修理班に関する限り日本一デッセ、何しろ廃品が動いちょりますからなあ」と自嘲していたと紹介しています(注1)。

 さて、1945年1月のルソン島リンガエン湾への米軍上陸後も、第103師団はルソン島北部から動きませんでした。北部に米軍別働隊が上陸・空挺降下して、リンガエン湾から北上する米軍主力と挟み撃ちにされることを警戒したものと思われます。
 しかし、4月中旬に米軍によりサラクサク峠・バレテ峠の防衛線が浸食され、米軍がカガヤン平野へ北上する危険が高まると、ついに第103師団にも南下してバレテ峠で米軍を阻止するよう命令が下りました(4月27日:尚武作命甲第690号)。一部だけが湯口支隊としてアパリに残置されます。
 このとき、独立戦車第9中隊もバレテ峠救援のため国道5号を南進することになりますが、独立戦車第9中隊は第103師団への配属を解かれて、独立速射砲第18大隊や野砲兵第22連隊第3大隊(注2)などとともに第14方面軍直轄に移されます。戦車第2師団主力が壊滅した当時となっては、貴重な機甲戦力として期待されたものと思われます。5月初めの第14方面軍の計画では、独立戦車第9中隊と独立速射砲第18大隊主力、それに工兵1個中隊をもって軍特殊作業隊を編成し、バレテ峠北のサンタフェ=バンバン間の橋梁破壊と対戦車戦闘に当てる予定でした。
 4月30日に独立戦車第9中隊は行動開始したようですが、燃料不足のため全戦車を移動させることはできず、小野見習士官(後に少尉)を小隊長とする第3小隊と病兵をラローに残置しました。中隊はその後も燃料不足に悩まされて、ツゲガラオに第2小隊をも残置し、中隊主力は中隊長車と第1小隊主力(2両)と自動貨車1両だけにやせ細ります。なお、第103師団全体も同様に輸送力不足のため行軍中に隷下部隊が細切れになってしまい、後に北上してきた米軍部隊と遭遇して各個撃破される結果になりました。
 独立戦車第9中隊主力は空襲を警戒して夜間行軍を続け、イラガン北方付近に到達します。到達時期は不明確ですが、戦友会報に載っている中隊長回想では6月上旬にイラガン北方3kmに進出とあります。中隊長回想によれば、マガット川に架かるイラガン北橋が米軍空襲で破壊されていたためそれ以上南下できず、イラガン北方で同地区警備担当の松井工兵隊の指揮下に入って布陣したといいます。南下開始時の目的地はバガバッグでしたが、同地はすでに米軍占領下でした。
 なお、津守独立戦車中隊の軽戦車12両も同様に夜間行軍主体で南下し、6月14日にカウアヤン付近まで進出後、米軍戦車隊を発見したため不利と判断して後退。しかし、イラガンの工兵橋を渡河しようとしたところ、橋が戦車の重量に耐えきれず崩落して軽戦車1両を失い、渡河を断念して国道5号を外れて川沿いの脇道に入った地点に布陣しました。第103師団の独歩第175大隊第2中隊が転進支援のため行動を共にしていたようです。

オリオン峠 対する米軍はバレテ峠を突破しており、第37歩兵師団先鋒の第145歩兵連隊戦闘団が6月10日にはオリオン峠に到達して、日本軍第103師団の第1梯団として急行してきた独立歩兵第179大隊と衝突します(画像はオリオン峠で交戦中の米軍部隊)。独歩第179大隊は峠脇の山地に入りつつ米軍側背を脅かして奮戦、米軍後続部隊の第148連隊戦闘団の車列に20両損傷の打撃を与えますが、6月14日にオリオン峠防衛線は崩壊。第103師団の主力部隊も国道5号を南下してきたままオリオン峠周辺の遭遇戦で粉砕され、6月16日にはカウアヤンも米軍の手に落ちました。

 独立戦車第9中隊主力は、戦史叢書によれば6月20日、イラガン北方13km付近で北上してきた米軍部隊を迎撃し、戦車を全て失いました。中隊の戦車3両は陣地に分散配置されたようで中隊長も戦場全体を把握できず、戦闘の詳細は不明ですが、第1小隊長車は直撃弾を受けて全員戦死したとの伝聞情報を紹介しています。6月19日から20日の戦闘による中隊の戦死者は26人と記録されています。
 津守独立戦車中隊の軽戦車11両も、ほぼ同時に近所で米軍戦車隊と交戦して、2両を残して全滅しました。残存車両も車載機銃だけ外して破壊処分したため、結局全損となっています。生存者の回想によると、津守中隊長は、この戦闘時に「独立戦車隊」に連絡に行っていて難を逃れたそうで(注3)、独戦第9中隊に連絡に行っていたのだと思われます。
 独戦第9中隊主力や津守独立戦車中隊と交戦したのは、米軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊戦闘団でした。同戦闘団の第775戦車大隊B中隊第1小隊は、6月18日にイラガン南方2マイルの地点からサンアントニオ方面の側道に進撃中、日本戦車8両と交戦して全滅させたと記録しています。そのうち6両は、小隊付軍曹の戦車の戦果でした。戦車の数からすると日本側は独戦第9中隊ではなく津守独立戦車中隊と思われます。数では日本側が優っていたようですが、九五式軽戦車とM4中戦車では如何ともしがたい性能差がありました。第37歩兵師団は、6月19日から6月23日の国道5号北上中の一連の戦闘で、日本の軽戦車15~16両を撃破し、日本兵600人以上を殺害、285人の捕虜を獲得したと記録しており、戦車の撃破数は独立戦車第9中隊主力と津守独立戦車中隊の合計とほぼ一致します。

 生き残った独立戦車第9中隊長以下の主力約40人は徒歩でイラガン東方山中に退避して、松井部隊との合流を図るうちに終戦を迎えました。ラローやツゲガラオに残置された人員の行動の詳細も調査未了ですが、6月23日と6月30日にツゲガラオや東方海岸で計19人の戦死が記録されており、第2小隊はこの頃に米軍部隊と交戦したのではないかと思われます。
 独立戦車第9中隊の総兵力131~139人のうち、終戦後の生還者は73~76人と記録されています。後方待機期間が長く、直接の地上戦闘に関わった時期が短かっため、悲島と呼ばれたフィリピン戦線としては比較的生存者の多い部隊といえるでしょう。

 なお、以上は主に中隊長回想によった経過ですが、これとは別に第三者の目撃談として、独立戦車第9中隊主力が壊滅する直前の1944年6月14日、マガット川南岸カバツアンCabatuan(原文「カバナツアン」ですが、ヌエバ・エシハ州のカバナツアンのことではなくイサベラ州カバツアンの誤記と思われます。)の渡し場で独立戦車第9中隊を見かけたとの回想があります(注4)。
 この回想によると、6月14日、北部ルソンの山中に撤退する第2航空通信団司令部改編の臨時独立第2歩兵団司令部がカバツアンにいたところ、装軌車両の音がして敵戦車かと驚いたら、現れたのが独戦第9中隊の中戦車2両だったといいます。戦車隊の指揮官が、臨時独立第2歩兵団の中島参謀と打ち合わせの後、2両はサンチャゴやオリオン峠のある南へ走り去りました。まだ若い戦車兵らは、軍属の筆者が砂糖の塊を差し出すと受け取ってポケットに仕舞い、丁寧に敬礼したそうです。その後、伝令が届けてきた通信文によると、独立戦車第9中隊の2両の戦車は、大元大尉の野砲とともに敵戦車3両に損害を与えたものの、戦車と航空機の攻撃を受けて全滅したらしいとなっています。大元砲兵隊は第105師団砲兵隊の一部のようです。
 中隊長回想とは少し内容が異なるのですが、全体として詳細な内容の回想である上、かなり具体的であるため、それなりに信用できる情報として検証する価値があるように思われます。そこで、とりあえず参考としてご紹介するものです。(この章終わり


注記
1 山本七平 『私の中の日本軍(上)』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年、297頁。

2 野砲兵第22連隊は第16師団の師団砲兵で、師団主力とともにレイテ島で全滅しましたが、第3大隊(10㎝榴弾砲)は捜索第16連隊などとともにルソン島に取り残されていました。第103師団から転進援助のため独歩第175大隊第4中隊などをもらって南進しようとしましたが、馬匹不足やゲリラによる道路破壊で行動が遅れてバレテ峠にもオリオン峠にも間に合わず、最終的に湯口支隊の指揮下に入れられています。

3 弓井崇弘 「末期フィリピンの戦車隊で生き残る」『平和の礎-軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』 第2巻、平和祈念事業特別基金、1992年。

4 須藤久男 「極限の戦場ルソンに生きる―戦史になき航空通信団司令部の戦闘全報告」『わが戦車隊ルソンに消えるとも』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。初出は『丸』昭和54年5月号。著者の旧姓:市川、将校待遇の軍属か。
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