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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

リーフ共和国興亡(第11回)

7.アルセマス上陸作戦
(3)首都攻防

 9月8日の第一次上陸の成功の後、スペイン軍は次々と増援部隊と補給物資を揚陸させました。9月20日までに、後続部隊1万5千人の到着を受け、上陸兵員は合計でおよそ2万3千人に達します。多数の火砲、戦車10両も含まれていました。

 9月21日、スペイン軍は、揚陸地点正面の2つの高地に対して、総攻撃を開始します。攻撃の先頭に立ったのは、再びフランコ大佐でした。
水上機母艦デダロ 艦砲射撃、それに航空部隊が濃密な支援を与えます。水上機母艦「デダロ」(左画像)の艦載機も、母艦との間を往復して航空支援を行いました。「デダロ」艦載機は、21日だけで175発の爆弾を投下しています。
 岬にあった陣地同様、この高地群にも多数の塹壕が掘られ、鉄条網と地雷に掩護されたリーフ軍兵士が立てこもっていました。リーフ兵は、優れた狙撃の腕を発揮し、数人のスペイン軍士官を撃ち倒しています。第二次大戦時に「青師団」師団長となるムニョス・グランデスAgustín Muñoz Grandesも、負傷者の一人です。
 しかし、猛烈な支援砲火の前に、守備隊の戦力はじわじわと削られていきました。
 9月23日早朝、フランコ大佐は、ついに突撃命令を下します。正午までにスペイン軍は山頂に到達。それでもリーフ兵の抵抗は止まず、銃剣やナイフを振るっての白兵戦は続きました。200名以上の損害を出しつつ、掃討戦が完了したのは、翌24日のことでした。

アルセマス上陸作戦 リーフ側も必死でした。高地が奪われたことは、首都アジールへの道が開かれたことを意味します。首都の陥落を阻止するため、アブデルクリムは、可能な限りの救援部隊を送り込み、防衛を試みました。
 が、それも支援砲火の前に粉砕されてゆきました。

 スペイン軍は、塹壕で抵抗するリーフ軍に対し、毒ガスまで使用しました。おそらくマスタードガスと思われます。十分な防毒装備を持たないリーフ軍は、混乱に陥っていきました。
 戦争における毒ガス使用は、この作戦直前の1925年5月のジュネーブ議定書によって禁止が決まっていました。ただ、発効は1928年となっていたので、この時点ではかろうじて合法です。リーフ戦争は、毒ガスが「合法」的に使用された、最後の戦場かもしれません。もっとも、発効後でも、「戦争」ではない、という主張がなされたかとも思いますが。

 10月2日、アジールを守る最終防衛線が突破されました。
 上陸以来の一連の戦闘でスペイン軍が蒙った損害は、少なくとも700人から1000人以上と言われます。一方のリーフ軍の人的損害は、明らかでないようです。

 戦術上の数字は不明ながら、戦略的にはリーフ共和国の受けた損害はきわめて大きなものでした。
 首都アジールは、アブデルクリムの故郷でもありました。地盤との連絡を絶たれたアブデルクリムの指導力は、徐々に低下します。アジールに蓄積してあった物資も失われました。補給拠点を失った、対フランス戦線も崩壊します。首都制圧から数日後、内陸へ進んだスペイン軍先遣隊と、ペタン元帥のフランス軍が接触に成功しています。
 なにより致命的だったのは、首都の陥落により、リーフ共和国の劣勢が国際社会に明らかになってしまったことでした。それまで協力的だったタンジールの商人も、手のひらを返したように冷たくなります。共和国の経済基盤となるはずだった鉱山利権も、スペインのものであるという認識が確定的となりました。
 集積物資をなくし、取引相手と資金源をも失ったリーフ軍は、以後、弾薬にこと欠く様になってゆきます。(第12回に続く

リーフ共和国興亡(第12回)

8.崩壊
 首都アジールを失った後、冬が訪れたことが、かろうじてアブデルクリムとリーフ共和国の延命を許しました。西仏連合軍の進撃が止まった冬期の間に、アブデルクリムは、タマシントTamasintへの遷都を宣言します。そして、リーフ山脈の内部へ、2万人ほどの残存部隊を集結させることにも成功します。
 しかし、この間に、西仏連合軍も兵力の増強を進めていました。その兵力は、実にフランス軍32万5千人、スペイン軍20万人以上に及びました。量の差に加え、質においても、補給を失ったリーフ軍とはかけ離れていました。

 アブデルクリムは、西仏両国のリベラル層(追記参照)に最後の望みを託していたようです。おそらく、実効支配を印象付けながら交渉することで、独立ないし、なんらかの自治権獲得を目指していました。
 翌1926年2月には、かなりの戦力を投じてのテトゥアンへの攻撃を行いますが、これも、共和国の健在振りをアピールする狙いがあったものと思います。
 が、この最後の賭けも成功しませんでした。テトゥアンへの攻勢は撃退されます。3月にもう一度行われた攻勢も、スペイン軍のアストレイ将軍(開戦時には少佐だった外人部隊司令官)を再度負傷させたものの、決定的な勝利には至らず、かえって戦力を消耗してしまいました。
 交渉も拒絶され、すべての望みは消えました。

 4月、フランス軍3個師団を中心とした部隊が、リーフ山脈西部シャウエン(クサウエン)方面への総攻撃を開始しました。他のフランス軍部隊、スペイン軍も後に続き、リーフ山脈を包囲しながら侵攻していきます。
 リーフ軍主力は、かつての首都アジール南東の山地に立てこもり、最後の絶望的抵抗を試みました。敵軍に1000人以上の損害を与えましたが、抵抗拠点は次々と制圧されていきます。アブデルクリムの篭る洞窟の司令部も、空襲を受けました。
 5月22日には、スペイン軍部隊が、かつて大敗を蒙ったアンワールをも完全に制圧しています。
 こうして、5月下旬には、アブデルクリムは完全に包囲されてしまったのでした。

Ma_republicarif-foto.png 5月26日、アブデルクリムは、投降を決断します。それまでにリーフ軍が拘束していた捕虜300人あまりが、解放されました。但し、捕虜のうちスペイン軍士官は、民間人への空襲の報復としてそれ以前に処刑されていたようです。
 翌5月27日、アブデルクリム大統領らは、フランス軍の外人部隊へと投降しました。スペイン軍でなくフランス軍を選んだのは、処刑されるのを避けるためではないかと思います。指揮官に続いて続々とリーフ軍兵士が投降し、フランス軍によると捕虜1万2千人に及んだといいます。右の写真は、スペイン軍のレグラーレス部隊の士官たちが5月28日に記念撮影したもので、鹵獲されたリーフ軍の軍旗が写っています。
 かくて、リーフ共和国は、建国宣言から足掛け4年にして滅亡を迎えたのです。

 その後も、掃討戦と残党の抵抗が続きました。スペイン政府が、モロッコ平定を宣言したのは、およそ1年後の1927年7月になってからのことでした。(エピローグへ

追記
 どの程度リーフ側と連絡を取っての行動かは不明ですが、スペイン・フランス両国の左派政党が中心になって、反戦運動が発生しています。1925年の10月12日には、フランス共産党の指導下で、大規模な反戦ストライキも実施されました。

リーフ共和国興亡(第13回)

9.エピローグ
(1)決算

 第三次リーフ戦争の結果、スペインは勝利したものの大きな代償を支払うことになりました。人的損害はスペイン軍だけで4万人以上に及んだものと推定されます。戦費もかなり大きなものとなり、国家予算の1/3以上が消えました。
 フランス軍の損害は戦死者が約4千人で、負傷者の数はわかりません。余談ですが、フランス軍は負傷者救出に航空機を有効活用し、3000人以上を運んだようです。
 対するリーフ軍側の損害は5千人程度と言う数字がありますが、おそらく正確な数は永久に不明のままでしょう。現在でも残存化学兵器の被害者が生じているという情報もありますが、モロッコ政府が調査を禁止しているため、これも詳細不明です。


(2)アブデルクリムの後半生
 フランス軍に投降し捕虜となった元大統領アブデルクリムは、死刑とならずに済みました。代わりにインド洋に浮かぶ仏領レユニオン島への流刑となります。流刑といっても、それほど厳しい拘束は無かったようです。第1回に掲載した回顧録は、この時期に書かれたものです。
 第二次世界大戦後の1947年にアブデルクリムはリビアへと移送されることに決まります。ところが、護送中の船から海へ飛び込むと、まんまと脱走に成功してしまいました。
 その後はエジプト政府に「英雄」として保護を受けて、アラブ諸国の独立運動に参加していたようです。例えば1948年にはカイロに設置された北アフリカ解放委員会の代表者に据えられ、会の樹立を宣言しています。その宣言の内容は、アラブとマグレブのイスラム教徒としての団結を謳い、チュニジア、アルジェリア、そしてモロッコの完全独立を要求するものでした。
 しかし、モロッコが独立を実現した後も故郷に帰ることは無いまま、1963年にエジプトで生涯を終えました。


(3)それからのアルフォンソ13世
 モロッコ征服という願いを果たしたスペイン国王アルフォンソ13世ですが、その喜びの日々は長く続きませんでした。
 リーフ戦争がスペイン国民にもたらした負担は耐え難いものでした。おまけに世界恐慌の波も重なります。経済状況の悪化を食い止めることができなかった宰相プリモ・デ・リベラ将軍は、1930年に辞職に追い込まれ、数ヵ月後に亡命先のフランスで失意のうちに死亡します。
 プリモ・デ・リベラ将軍の失脚の背景には、彼が軍部の改革を試みた結果、軍人貴族の支持を失ったこともあるようです。

 「ムッソリーニ」を失ったアルフォンソ13世は、停止されていた憲法の復活と総選挙を公約して王政維持を図りますが、もはや限界でした。
 1931年4月に公約どおり実施した総選挙で与党敗北という大勢が明らかになると、最終結果を待たずしてプリモ・デ・リベラ将軍と同じくフランスへと亡命するはめになります。「私が国民の愛を失っていたことを知った」との言葉を残して。スペイン第二王政の終焉です。
 イタリアに移り復位工作を続けましたが実らず、1941年に三男のフアンへ当主の地位を譲り、ローマのホテルの一室で世を去ります。なお、亡命中にブルボン家家長の地位も承継していますが、これは次男へ渡りました。(エピローグ続く

リーフ共和国興亡(第14回)

4.エピローグ(承前)
(4)新生スペイン共和国

マヌエル・アサーニャ アルフォンソ13世の亡命の後、スペインには左翼的な共和政府が成立します。後にスペイン内戦時の共和政府大統領となるマヌエル・アサーニャManuel Azaña(右画像)も、陸軍相として入閣し、次いで首相に昇っています。
 新政府の下では種々の改革が試みられ、ドイツのヴァイマール憲法の影響を受けた新憲法も制定されました。

 改革の波は、軍部に対しても及んできます。
 特に、実力の低さを露呈してしまった陸軍は削減の槍玉にあげられ、本国軍の兵力を16個師団から8個師団へと半減の憂き目にあっています。貴族軍人の退役も進められます。中将職だった軍管区司令が廃止され、少将までで退役ということに変わりました。

 しかし、アサーニャ内閣も、カタロニアやバスクの独立運動やカトリック教会問題、不況など山積する問題を解決することはできず、次第に支持を失っていくことになります。1933年の選挙で敗れ、退陣しました。
 代わった保守派内閣も事態を収拾することができず、スペイン共和国は大混乱に陥っていきました。


(5)アフリカの将軍たち
 リーフ戦争では、スペイン陸軍の「アフリカ派」が、台頭しました。
 その中の若きエースとなったのが、フランシスコ・フランコ准将です。数々の武勲を立てた彼は、1926年2月、まだ健在だったアルフォンソ13世によって准将の位を与えられていました。当時、フランコは若干33歳。ヨーロッパ最年少の将軍の誕生と言われました。
 その後、彼は、リベラ将軍によってサラゴサに新設された陸軍総合士官学校の長に収まり、軍の内部改革を試みました。ドイツ陸軍への視察旅行も行っているようです。しかし、サラゴサ士官学校はアサーニャ軍縮の対象となってしまい、閉鎖されてしまいます。

 多くのアフリカ派の軍人たちは、不満をあらわにしていました。ことにアルセマス上陸作戦時の司令官だったサンフルホ少将は、1932年にクーデター未遂事件まで起こし、140人余りの配下将校と共に逮捕されています。
 意外かも知れませんがフランコ准将は、とりあえず政府に忠実であり続けます。続発する各地の反乱を黙々と鎮圧。その功績で、保守派政権下ではモロッコ方面軍司令官に任命されます。ここでも、フランス軍と再び共同戦線を張って、西サハラの征服をしています。人民戦線政府成立前には、当時のスペイン軍最高階級の陸軍少将、地位は総参謀長にまで上り詰めていました。(人民戦線政府によって、カナリア諸島総督へ左遷されますが。)


(6)スペイン内戦へ
 1936年、人民戦線政府の成立が原因となり、スペインは内戦へと突入していくことになります。
 その戦いの火の手は、まずモロッコから上がりました。そして、内戦中、多くのモロッコ人兵士「ムーア(モーロ)兵」が国粋派に動員され、戦闘に加わっていきます。その戦闘力は、共和派に非常に恐れられました。
 共和政府は、国粋派の一大拠点となったモロッコに対して、あまり内乱工作のようなものは仕掛けませんでした。共和政府を後援するフランスの反対があったからと言います。リーフ共和国の残存勢力との接触は、ほんの1度試みられただけのようです。この試みは完全に失敗しました。
 内戦中、大規模な敵前上陸作戦が行われました。共和派によるバレアレス諸島攻略作戦です。このとき用いられた主力揚陸機材は、リーフ戦争中に用いられた「K」型揚陸艇の生き残りでした。
 内戦に勝利したフランコ将軍は、国家元首となってモロッコの支配を続けていきます。なお、リーフ戦争中にフランス軍の司令官だったフィリップ・ペタン元帥は、ご存知の通り、第二次世界大戦中にフランス首相に就きます。いわゆるヴィシー・フランス政府です。すなわち、リーフ戦争には、後に国家元首となる2人の将星が顔を揃えていたということになります。二人とも枢軸国と微妙な関係に立たされる点で、因縁じみたものがあるかもしれません。
 モロッコの独立が果たされるのは、第二次世界大戦の後、1956年というまだ先のことになるのでした。(このシリーズ終わり)

第1回に戻る。
関連年表・参考文献を見る。

リーフ共和国興亡(年表・参考文献)

付1.リーフ共和国関連年表

1902年 スペイン国王アルフォンソ13世が親政開始。
1904年 フランスとスペインがモロッコの共同統治を協定。
1912年 フランスとスペインががモロッコの分割を協定。
1914年 (第一次世界大戦~1919年)
1920年 スペイン軍がモロッコ内陸部へ侵攻。第三次リーフ戦争勃発。
1921年 アンワールの戦い。スペイン軍歴史的敗北。(7月21日)
     リーフ族、事実上の独立状態に。
1922年 スペインでプリモ・デ・リベラ軍事内閣成立。(9月)
1923年 リーフ連合共和国、正式に独立宣言。
1924年 フランス軍、西領モロッコへ部隊を展開。
1925年 ワルハ渓谷の戦い。フランス軍に打撃。(4月)
     西仏軍事協定成立。(6月)
     ペタン元帥指揮下のフランス増援軍、反攻開始。(8月)
     アルセマス上陸作戦。(9月8日)
1926年 リーフ軍、テトゥアンで反撃も敗北。(2月)
     アブデルクリム大統領、フランス軍に投降。(5月27日)
     スペイン軍フランコ、史上最年少で准将に昇進。
1927年 スペイン政府、モロッコ平定を宣言。
1931年 スペイン国王アルフォンソ13世亡命。共和制へ。
1936年 スペイン内戦勃発。


付2.主要参考文献
<書籍>
アドゥ・ボアヘン,宮本正興編「植民地支配下のアフリカ:1880年から1935年まで」
    (ユネスコ国際学術委員会「アフリカの歴史・第7巻」,同朋社,1988年)
浦野起央(編)「資料体系アジア・アフリカ国際関係史 4巻・アフリカI」
    (パピルス出版,1979年)
深澤安博「スペイン領モロッコにおける“原住民”兵の徴募と動員
    (「人文コミュニケーション学科論集Vol.7」茨城大学人文学部紀要,2009年)
色摩力夫「フランコ スペイン現代史の迷路」(中央公論新社,2000年)
那谷敏郎「紀行モロッコ史」(新潮選書,1984年)
山田吉彦「モロッコ」(岩波新書,1951年)

<ウェブページ>
The Imperial Collection」(英語)自称独立国の通貨・切手サイト。
Historias de Blimdanet」(西語)スペイン軍事史総合? 上陸作戦についての項あり。
Spain's African Nightmare」(英語)「Military History Quarterly」誌から転載。
  出版社公式「The History Net.com」の該当ページへの直接リンク。
La Armada Española」(西語)
  スペイン海軍全般についてのサイト。特に海軍航空隊の項など関連。
TANKS!」(英語)世界各国の第二次世界大戦までの戦車について。
元老院議員私設資料展示館」(日語)
  「モロッコの歴史」をはじめ、世界各地に関する膨大な歴史読物を公開中。日本史も若干。
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山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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