山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

リーフ共和国興亡(第1回)

1.はじめに
 リーフ連合共和国とは、1923年~1926年の4年間だけ、アフリカ北部、現在のモロッコの一部に存在していた小国です。
 1920年代といえば、第一次世界大戦が終り、「民族自決」のスローガンの下、ヨーロッパに多数の独立国が生まれた時期でした。しかし一方で、まだ列強の植民地が世界中に存在していた時代。アフリカでは、リベリアを除くとエチオピア帝国のみがかろうじて独立を保っているだけでした。

 そのような中、有能な指導者に率いられ、独立国家建設をめざし立ち上がった者たちがいました。それがリーフ族であり、リーフ共和国であったのです。彼らは統治機構を整え、近代的な軍隊を創り上げます。
 そして、圧倒的に優勢なスペイン、フランスを相手に敢然と戦いを挑みました。その力戦ぶりには、スペイン軍部ですら、植民地放棄を一時考えるほどでした。

 最終的には二正面作戦という戦略ミスと、西仏連合軍の決行した上陸作戦により、リーフ軍は敗北。共和国は荒野の幻と消えます。
 しかし、敗れたとはいえ、みずから近代的な軍隊を組織してヨーロッパ列強を本気にさせ、一か八かの上陸作戦まで決断させたというのは、賞賛に値することではないでしょうか。
 この成功まであと一歩に迫った試みの概要を、その戦闘の記録とともにまとめてみたいと思います。(第2回へ続く

<目次>
1.はじめに
2.共和国前史
3.スペインの内陸進出計画
 (1)アルフォンソ13世 (2)侵攻 (3)アンワールの戦い
4.リーフ共和国建国
5.スペインの動揺
 (1)プリモ・デ・リベラの登場 (2)スペイン軍の改革
 (3)西部でも続く敗戦
6.共和国対共和国
7.アルセマス上陸作戦
 (1)反撃準備 (2)D-day (3)首都攻防
8.崩壊
9.エピローグ
 (1)決算 (2)アブデルクリムの後半生 (3)それからのアルフォンソ13世
 (4)新生スペイン共和国 (5)アフリカの将軍たち (6)スペイン内戦へ
付1.リーフ共和国関係年表
付2.参考文献一覧

アブデルクリム
(リーフ共和国大統領アブデルクリムの回顧録)

リーフ共和国興亡(第2回)

2.共和国前史
(1)モロッコ分割

 17世紀以来、現在のモロッコに当たる領域は、アラウィー朝モロッコのスルタンが統治していることになっていました。このアラウィー朝は、現在のモロッコ王室であります。
 しかし、19世紀中ごろから、フランス及びスペインによる植民地化が始まり、さらに地方部族の反乱やお家騒動などが相次いだため、アラウィー朝は20世紀初頭には完全に弱体化していました。
 そして、1912年に結ばれたフェズFez条約と仏西協定の結果、モロッコは、仏西2国の分割統治による保護国化が決められてしまいます。スペイン領には、名目的なスルタンの総督(ハリーファ)が置かれます。もちろん実権を握ったのは、西仏の高等弁務官でした。以後、フランスは、急速に内陸部への支配力の浸透を進めることに成功します。

(2)アブデルクリムの登場
アブデルクリム_アブドゥル・クリム こうした中、一人の指導者が現れます。後にリーフ共和国大統領となるアブデルクリム(Abd el-Krim、アブド・アル=クリム、アブドゥル・クリム 注1)です。
 彼は、西領モロッコのベルベル人系部族であるリーフRif族の支族ワリギールOuriaghel族の出身でした。裕福な裁判官の家柄だったようです。
 仏領モロッコの首都フェズFezにあるカラウィーンQarawiyin大学で、イスラム法などを学んだ彼は、次第にリーフ族の独立を目指すようになります。大学卒業後、一時は裁判官を継いでスペイン植民地府やスルタン政府の統治に協力しますが、1915年からは通信社に勤めだします。その記者活動が咎められ、投獄されてしまいました。
 脱獄に成功したアブデルクリムは、ワリギール族の族長に就任。周辺部族との抗争を終結させ、西領モロッコ東部のリーフ族統一と安定に成功します。1920年頃には、スルタン政府からもスペイン植民地府からも、事実上の独立状態を確保していました。
 さらに、彼は、リーフ族の完全な独立国家建設も進めていきます。イギリスやフランス、ドイツ等の政治家や商人と密かに接触を計ります。武器調達や資金援助はもちろん、銀行の設置や通貨の発行など、幅広い分野での協力確保が目的でした。
 第1次世界大戦でのドイツの活躍にも影響され、アブデルクリムは軍備を重視します。軍事面では、弟のムハンマドも中心的な役割を果たしていたようです。外国人の軍事顧問としては、元ドイツ軍将校でフランス外人部隊からの脱走兵でもあるクレムスという人物がいました。リーフ軍は、空軍の整備まで計画していたというのですが、残念ながら詳細は存じ上げません。(第3回へ続く


注記
1 アブデルクリム(アブド・アル=クリム)の人名表記についてですが、これ全体で一個の名字に近いようです。おそらく元の意味としては「(寛大なる)神のしもべ」。後半のel-Krimは「寛大な」というのが本来の意味で、ここでは神の尊称として用いられています。
 なお、アル=クリム以外にも同様の神の尊称は多数存在し、人名に用いられているようです。例えば「アル・アズィーズ」で「比類なき威力の」、「アル・ハキーム」で「叡智ある」といった具合。イスラム教圏の人名でアブドゥルさんという言い方が出てきますが、これはこういった「アブド・アル~」系の名前の「~のしもべ」という部分だけを勝手に切り取っていることになり、不適切なようです。

参考:「アラブ人名の表記と読みに関する注意点」(東京外語大)

リーフ共和国興亡(第3回)

3.スペインの内陸進出計画
(1)アルフォンソ13世

スペイン国王アルフォンソ13世 宗主国のスペインは、この時、まだ王国でした。
 当主は「生まれながらの国王」アルフォンソ13世。現在のスペイン国王ファン・カルロス1世の祖父にあたる人物です。対外拡張的な志向を持ち、強い国王を目指した人物だったように思います。古い型の君主と言えるかも知れません。
 アルフォンソ13世は、1902年に親政を開始すると、ただちに植民地拡張を図ります。密かにポルトガルの併合を狙っていたとも言います。

 19世紀末の米西戦争に敗れた結果、スペインに残された植民地は、モロッコと西サハラ、それに現在の赤道ギニアに当たるわずかな領土だけでした。キューバは独立し、フィリピンとグアムはアメリカに奪われてしまっています。
 スペイン自身、植民地経営に自信を失くしていた節もあります。グアム以外のマリアナ諸島など、太平洋の残存領土は全てドイツに割譲しています。フィリピンも本来はドイツに割譲する予定があったようです。西サハラも、オーストリアに割譲する話が持ち上がっていたと言います(注1)。キューバとモロッコの一部以外、不採算というのが実体だったようです。

 ところがアルフォンソ13世は、こうした方針を転換させていきます。既述の通りフランスとの間で積極的に交渉を重ね、スペイン領モロッコと西サハラの境界を画定。従来手付かずだった内陸部への進出も強化していきます。主な狙いは、リーフ山脈にある鉱物資源でした。同時に、治安を気にしたフランスの強い要請の結果でもありました。第一次世界大戦でも中立を保つと、黙々とモロッコ経営に向かうのです。その割には、進捗は果々しくないとも見えるのですが。
 スペインが、フランスにモロッコ分割を認めさせることができた背景には、英国の思惑があったようです。北部モロッコをフランスが握ることで、ジブラルタル海峡の制海権を失うことを恐れたといわれます。スペインならば安全とは、なかなかなめられた話です。おそらく正しい読みですが。

(2)侵攻
 第一次世界大戦も終わった1920年、アルフォンソ13世は、ついに大規模な侵攻作戦を命じます。東部のメリリャMelilla、西部ではセウタCeutaを拠点に、数万の大部隊が動き出しました。
外人部隊時代のフランシスコ・フランコ将軍 はじめ、スペイン軍は快進撃に成功します。抵抗がなかったのですから、当たり前ですが。西部からの軍は、10月にはベルベル人の聖地の一つとも言われるシャウエンXauen(クサウエン。綴りはChaouenとも)に達しました。その先鋒には、同年にできたばかりの外人部隊(注2)の副長フランシスコ・フランコ Francisco Franco Bahamonde少佐(左画像)が立っていました。
 しかし、1921年1月になると、徐々に地元勢力との戦闘が発生するようになります。抵抗を排除し、街道を整備し、街道沿いに駐屯地を設置しながら進軍は続きます。補給線は、この街道一本だけでした。鉄道は、西部のセウタとテトゥアンTetouanの間に、軽便鉄道が敷かれているのみだったようです。
 2月中旬、ゲリラ攻撃やマラリアに倒れる兵士を出しつつも、東部から進軍してきたスペイン軍25000人は、メリリャとセウタの間、アルセマス(アルホセイマ)Alhucemas湾に注ぐアメクランAmekran川にたどり着きます。(第4回へ続く


注記
1 HAUS氏による情報。

2 フランコ少佐が率いる「外人部隊Legión Española」は、名前とは裏腹に、その90%以上がスペイン人から成っていました。徴兵制の本国軍とは別立ての、いわば制度化された傭兵部隊です。以前のモロッコ勤務中にフランス外人部隊に触発されたフランコ少佐らが、設立を提言したといいます。今でも存続していますが、外国人募集を完全に止め、ただのエリート部隊になっているようです。
 また、駐モロッコスペイン軍には、「カサドーレスCazadores」(猟兵)と呼ばれる軽歩兵を中心とした陸軍通常部隊、外人部隊のほか、「レグラーレスRegulares」(略称:FRI)という組織が含まれていました。和訳すると「モロッコ人正規兵」とでもなるでしょうか。よくある植民地の現地人部隊でした。
 スペイン正規軍以外のモロッコ現地人で構成された武装組織としては、武装警察(略称:PI)と、形式的にはモロッコ王朝のスペイン領総督(ハリーファ)に所属する軍隊も存在しました。なお「ハルカHarka」と呼ぶ補助部隊も一部資料にありますが、これは正式な組織というより、現地人武装集団を指す一般名詞のようです。

リーフ共和国興亡(第4回)

(3)アンワールの戦い
 スペイン軍部隊が到達したアメクラン川、その向こう岸は、アブデルクリムを中心としたリーフ族が実効支配する領域でした。スペイン軍の接近を知ったアブデルクリムは、遠征部隊に対して「最後通告」を発します。「川を越えた場合、実力を持って抵抗する。」
 遠征部隊司令官マヌエル・シルベストレManuel Fernández Silvestre将軍(注1)は、この通告を一笑に付します。そして、部隊に渡河前進を命じました。目的地はアンワールAnnoual(スペイン風に読めばアニュアル)。

 アブデルクリムは、すぐには攻撃に出ませんでした。正面からぶつかっても、勝ち目が無いことを知っていたからです。
 モロッコ東部を担当するシルベストレ軍の総兵力は、25000人。進撃途中に多数の駐屯地を設けて、補給線防衛のための守備隊を置きながらの前進でしたが、それでも20000人は主力部隊に握っていたと思われます。
 対するリーフ軍は、この時点で戦力として期待できるのは、せいぜい3000人程度だったようです。
 シルベストレ軍の補給線が伸びきり、兵力が分散するのをじっと待っていました。

 6月初め、沈黙を守っていたリーフ軍が攻撃に出ます。アブデルクリムが直率する300人が、アメクラン河岸のダル・アバラDar Abara駐屯地を奇襲したのです。スペイン軍守備隊250人は、かなわず退却しました。しかも、退路上に敷かれていた待ち伏せ部隊にも攻撃され、180人近くを失う大損害を蒙ってしまいます。多数の集積物資が、リーフ軍の手に落ちました。
 これは、以後続発する駐屯地襲撃の最初のケースであり、典型パターンとなります。街道各地の駐屯地が突如として包囲され、攻撃を受けます。守備隊が脱出を試みると、その先には伏兵が潜んでいるのです。

 シルベストレ軍主力は、7月上旬には、なんとか目的地アンワールへと到着していました。しかし、後方拠点が次々に攻撃されたため、補給が滞って苦境に陥っていました。特に、水の不足が深刻でした。おまけにマラリア感染も広まっていたようです。
 シルベストレ将軍は、それでも戦線維持にこだわっていました。はるかマドリードの国王アルフォンソ13世も、強気の姿勢を崩していなかったようです。
 将軍は、包囲された駐屯地を救出するべく、2度にわたって騎兵多数を含む精鋭部隊を送り出します。救援部隊は、リーフ軍陣地に対して果敢に突撃を仕掛けました。ところが、兵力では圧倒的なはずの彼らが、一度たりとも突破することはできませんでした。この戦闘で、スペイン軍は戦死者だけで340人以上を出しました。リーフ軍の死者は20人程度だったと言います。
 なぜ、このような結果になったのでしょうか。このときアブデルクリムは、リーフ軍兵士に塹壕を掘らせて強力な野戦陣地を構築させていたのです。塹壕には小銃を手にした兵士が篭り、鹵獲した機関銃まで据付けられていました。勇敢な兵士と機関銃のある塹壕を、ただの突撃によって突破することはできないという第一次世界大戦の戦訓が、「野蛮な」ベルベル人によってモロッコの地に再現されたと言えます。第一次世界大戦を中立ですごしたスペイン軍は、ここで初めて塹壕の威力を経験したことになります。

 7月21日、シルベストレ将軍は、ついに撤退を命じます。15000人の残存兵力が、出撃したメリリャをめざし後退を始めました。戦略的撤退はすぐに単なる敗走に変わり、秩序を失って潰走に陥りました。
 救援のため、陸軍航空隊が飛び立ちましたが、ほとんど役に立たなかったようです。街道上に無数の遺棄死体と放棄された物資が転がるのを、ただ呆然と見つめることしか出来ませんでした。
 このアンワールの戦いでスペイン軍が出した損害は、公式発表によると戦死8000人、負傷4000人、捕虜数百とされています。実際にはもっと大きな損害を受けた、とする見方もあります。いずれにしても、歴史的敗北といってよいのは間違いありません。数多くの植民地戦争のなかで、一局面でヨーロッパ人が受けた損害としては史上最大のケースと思われます。イタリアの第一次アビシニア戦争のケースをも上回るでしょう。
 生存者のうち、メリリャまでたどりついた者以外に、フランス領に逃げ延びたり、海軍艦艇に救出された者がかなりあったようです。生存者の中にシルベストレ将軍の姿は有りませんでした。待ち伏せによって戦死したとも、自決したとも言われます。次席指揮官も捕虜となってしまい、帰りませんでした。(第5回へ続く


注記
1 シルベストレ将軍は、戦場経験で昇進したという型ではなく、国王の個人的信頼によって重用されていたようです。国王の親友であったそうで、典型的な宮廷武官だったと言えそうです。

リーフ共和国興亡(第5回)

4.リーフ共和国建国
 アンワールでスペイン遠征軍を壊滅させたリーフ軍は、メリリャへ向けて追撃を開始します。街道沿いに築かれていた駐屯地は、勢いに乗るリーフ軍の前に、ことごとく陥落しました。

 9月中旬、リーフ軍主力は、ついにメリリャ郊外の丘陵にまで押し寄せます。東部方面のスペイン軍は、土俵際まで追い詰められた格好です。
 メリリャを守備するスペイン軍も必死でした。本土から増援を送り込み、敗残兵を再編したほか、西部からも外人部隊主力を転用。さらに市内の民間人を根こそぎ動員して、なんとか8個大隊を用意します。沿岸には、海軍艦艇が展開して火力支援に当たりました。前線までの距離が短くなったおかげで、メリリャ飛行場の航空部隊もようやく実力を発揮し、かろうじてリーフ軍を阻止することに成功します。
 ただ進撃を食い止めるのが精一杯で、山岳に拠るリーフ軍部隊を追い払うことは容易にはできませんでした。ここでもスペイン軍の損害は、数百人に及んでいます。外人部隊司令官ミリャン・アストレイ少佐も狙撃され重傷を負いました。副長のフランコ少佐が、臨時に指揮を執ったようです。
rif_map1.png
   (当時のモロッコ北部の地図。仏領には東西に走る鉄道など交通網あるも略。)

 こうして、メリリャと若干の島嶼だけを残し、スペイン領モロッコの東半分は、リーフ族の実効支配下に移りました。この時点をもって、リーフ共和国が事実上成立したとみることもできます。
 スペイン軍撃攘に成功したアブデルクリムは、予定していた新国家構想を次々と実行しようとしました。
 英国やフランスをはじめとした各国に承認を働きかけます。その最大の武器は、スペインが開発していたリーフ山脈の鉱山でした。鉱山利権を担保に、承認や借款を得ようという交渉が、極秘裏に進められます。特にアメリカが、かなり好意的であったようです。
 コミンテルンの支援を取り付けることもできました。
 スペインに対しては交渉による独立容認の余地を残そうとしていたようです。アブデルクリムは、1921年12月と1922年8月の2回に渡り、次のような声明を新聞に寄稿していました。「リーフはスペイン人民を憎んでいない。軍事的侵入以外は憎んでいない。」

rif_flag.png そして、1923年1月18日(2月1日?)、アブデルクリムは、念願のリーフ連合共和国の建国を正式に宣言します。モロッコ王家のスルタンからも独立し、大統領を元首に、首相以下を置き、大統領にはアブデルクリム自らが就任します。首都は、アルセマス湾からやや内陸に入ったアジール Ajdirと定められました。画像は、リーフ共和国の国旗です。
 国家による承認があったことは、私には確認できていません。代わりに、コミンテルンは、直ちに新国家を承認してくれたようです。
 国際連盟への加盟申請もしたようです。(第6回へ続く
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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