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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

帝国の守護者(第11回)

7.おわりに ―リスボンの春―
 ゴアの喪失と前後して、ポルトガルは泥沼の植民地戦争に突入していきます。アンゴラ、モザンビーク、ギニア、東ティモール……。
 サラザール首相は、それでも妥協を認めませんでした。植民地の実情を報じた査察官は公職追放し、愚民政策を維持します。死守命令に背き捕虜となったゴア守備隊は、帰国を禁止され、後に帰国を認めた後も、総督は公職追放になりました。
 植民地戦争に資源が投じられた結果、本国では労働力が不足し、経済・財政状況の悪化を招きます。一時は、軍事費が国家予算の45%に達しました。これは、現在の北朝鮮の推定値を優に上回る割合です。ポルトガルはヨーロッパの最貧国に転落しました。帝国の誇る広大な植民地は、回収不能の不良債権でした。
 度重なるクーデターにも倒れなかったサラザール首相ですが、1968年に椅子から落ちたショックで、脳内出血を起こし病床につきます。代わってマルセロ・カエターノMarcelo Caetano博士が首相に就きましたが、サラザール博士には、この事実は隠されていました。サラザール博士は、自身が首相であると信じたまま、2年後に(主観的には)幸福な最期を遂げます。

 サラザール体制を承継したアメリコ・トマス大統領とカエターノ首相も、1974年に軍事クーデターによって打倒されました。
 このとき、多数の兵力が出動しながらも、ほとんど流血はありませんでした。砲撃命令を受けたフリゲート「ガーゴ・コウチーニョGago Coutinho」ほかの海軍艦艇も、命令を拒否し、砲身を空に向けて沈黙を守ったと言います。血の代わりに、市民が飾ったカーネーションが街を彩ったことから、カーネーション革命と呼ばれることになりました。
 クーデター後、左翼的軍事政権が成立して、全ての植民地の放棄が宣言されました。
 かくてポルトガル海上帝国は、その終焉を迎えたのです。

 これより前、帝国を護ってきた砲艦は、すでに姿を消しつつありました。もはや、少数の砲艦が駐留しても、事態収拾には有効でなくなっていたのでしょう。
 おそらく最後の一隻となったのは、1970年代前半に退役した、1918年製の河川砲艦「テテTete」でした。リンク先の画像が1971年撮影のモザンビークの川に浮かぶ「テテ」最晩年の艦影です。(外伝へ続く


主要参考資料
<書籍>
阿部真隠「波乱万丈のポルトガル史」(泰流選書,1994年)
ウラジミル・セミヨノフ「ラスプラタ」(画報社,1911年)
小田滋「解説 条約集」(三省堂,第9版,2001年)
金七紀男「ポルトガル史(増補版)」(彩流社,2003年)
森島守人「真珠湾・リスボン・東京―続一外交官の回想」(岩波新書,1991年)
「帝国陸海軍補助艦艇」(歴史群像37,学習研究社,2002年)
「Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946」(1980年)
 同「1906-1921」(1985年)、「1860-1905」(1979年)

<ウェブページ>
Marinha Portuguesa - Página Inicial」(葡語)
  ポルトガル海軍公式サイト。海軍広報誌も閲覧可。
Indian Navy」(英語)
  インド海軍公式サイト。
H.M.S.Falcon」(英語)
  英海軍河川砲艦についてのサイト。「マカウ」についてのページ有。
中國軍艦博物館」(中語)
  中国近代海軍についての非常に詳細なサイト。清朝海軍から現代まで。
第1次大戦」(日語)第1次大戦についての高名サイト。前後の各戦争についても。
The Naval Data Base.」(日語)膨大なデータを収録した「近代世界艦船事典」。
野次馬的アジア研究中心」(日語ほか)
  アジア旅行記のほか、「飛び地領土研究会」という素敵なコンテンツも。

帝国の守護者外伝(前編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(前編)
 ポルトガルがアジアに保有した植民地には、インドやマカオ以外に、東ティモールがありました。
 いえ、正確には、マレーからインドネシアに至る東南アジア一帯がポルトガル領だった時期もありました。しかし、それらの大半は英国とオランダによって奪い取られてしまったのです。オランダとの協定により、かろうじて残されたのが、ティモール島の東半分だけでした。葡領ティモールは、ディリDiliの総督府を中心として、細々と存続していくことになっていたのです。

 ポルトガルに代わってインドネシアの大半を領有したオランダにとって、このオランダ領東インド(蘭印)は、生命線とも言うべき貴重な植民地になります。古くは香料貿易、下って各種プランテーション、そして近代では石油も採掘されています。ナポレオン戦争などで本国が占領されたりすることはあっても、この蘭印だけは回復を図り維持し続けました。
 このため軍事力の配備も、本国はごく軽装備の小兵力だったのに対し、蘭印駐留の植民地軍はかなり有力な装備を持つという、いささか奇妙な態勢になっていました。特に海軍においては、この傾向が顕著でした。
 19世紀後半から20世紀にかけて、そのオランダ海軍の中心となっていた存在は、海防戦艦と呼ばれる種類の軍艦です。「戦艦」とは言いますが、排水量は 2000tから大きくても7000t程度と、軽巡洋艦並の大きさしかありません。軽巡に比べると速力でも航洋性でも劣る代わり、戦艦並の強力な装甲と、数は少ないながらこれも戦艦並の主砲を積んだ防衛専用艦でした。戦艦というよりは、装甲砲艦ないし装甲海防艦と呼んだ方がイメージに合うかと思います。
 北欧諸国などの他の海防戦艦ユーザーは、本国防衛用に使っていましたが、オランダ海軍は、植民地防衛の切り札として海防戦艦を建造していました。

Zevprov_old_anchor.jpg そうして、オランダ海軍最後の海防戦艦となったのが、「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンDe Zeven Provinciën」です。
 要目:満載排水量6510t、速力16kt、
     航続力2100海里/16kt
     兵装28cm×2、15cm×4、75mm×10ほか
 1910年就役の石炭レシプロ艦で、前寄りに2本の煙突が立っています。主砲は、前後に単装砲塔が据えられ、外見としては「三笠」などの前ド級戦艦を、多少シンプルにしたような姿です。
 艦名は、オランダ海軍にとって由緒あるものです。直訳すると「七つの州」になりますが、これは「七州連合」というオランダの美称のことです。日本の場合で言えば、「八島」といったところでしょうか。さらに加えて、オランダが誇る名将デ・ロイテルde Ruyterことミシェル・アドリアンソーンMichiel Adriaenszoon提督の旗艦の名前でもありました。

 残念なことに、この海防戦艦「プロヴィンシェン」は、生まれながらにして旧式艦と言っていい存在でした。完成前の1906年に英国でドレッドノート級戦艦が生まれ、各国もそれに続いてしまっていたためです。もともと通常の戦艦よりは見劣りする海防戦艦ですから、在来型の本格戦艦ですら歯が立たないド級戦艦の前では、問題外の存在となってしまったのです。
 もっとも、軽巡以下の艦艇に対してなら、当たれば強力な主砲が脅威となる希望は残っていましたが。
 そのようなわけで、オランダの海防戦艦は本艦で打ち止めとなり、計画された発展型はキャンセルとなりました。代わって本格的なド級戦艦の建造計画が立ちましたが、これも第一次大戦勃発のあおりで無かったことになります。

 第一次大戦では、オランダは最後まで中立を維持しました。「プロヴィンシェン」は、この間、本国の警備にあてられたようです。
 大戦後は蘭印艦隊に配備され、艦隊旗艦の栄誉を担います。旗艦だったのは1925年までで、同年就役の新鋭軽巡「ヤヴァ(ジャワ)Java」にバトンタッチしています。旗艦の座を譲った後も、「プロヴィンシェン」は蘭印鑑隊に所属します。外に対しては、徐々に海外進出を強める日本を警戒し、内に対しては、こちらも高まりを見せる独立運動に対して睨みを利かせていたものと思います。

 1933年、そんな「プロヴィンシェン」艦上で、大事件が発生してしまいます。水兵たちがストライキを起したのです。主原因は、給与の切り下げでした。財政難に苦しむオランダ政府が、支出削減の一環として、海軍兵士の給与を1割カットすると発表したのに反発したのです。
 これに、現地人水兵のインドネシア独立派も加わっていたようです。
 一説によると、映画「戦艦ポチョムキン」の影響を受けて実行されたとも言われます。

 2月5日、スマトラ島北部沿岸を練習航海中だった「プロヴィンシェン」で、現地人水兵、ついで本国人水兵も加わってストライキが始まります。水兵たちは、士官たちを拘束して艦内を掌握してしまいました。
 しかし、オランダ政府は、交渉に応じるはずもありませんでした。政府は、このストライキを、共産主義者と独立派による政治目的の反乱事件と警戒したようです。
 交渉に応じない政府に対し、水兵たちは、示威行動を行って要求を通そうと決意しました。拘束を逃れた一部士官たちの妨害工作を受けながら、「プロヴィンシェン」は、植民地政庁のあるジャワ島へ向かって進撃を始めます。

de zeven provincienbomb1933 政府も、強硬姿勢を崩しません。ついには、2月10日、政府軍のフォッカーT.IV双発水上雷撃機が、爆弾を抱えて飛び立ちます。「プロヴィンシェン」上空に到達したフォッカー機は爆弾を投下。爆弾は甲板を直撃し、23名が死亡、多数が負傷する大惨事となってしまいました。
 直ちに政府軍部隊が同艦に乗り移ると、反乱水兵たちを制圧し、士官を救出しました。オランダ版「ポチョムキン」の反乱は、こうしてあえなく終了したのです。
 いきなり爆撃とは、なかなか荒っぽいやり方です。一説によれば、威嚇爆撃のつもりが、狙いがそれて直撃弾になってしまったとも言います。もしそうであったとしたら、いろいろな意味でひどい話です。

 損傷した「プロヴィンシェン」は、すぐに修理されました。ただ、同年中に、練習艦へと類別変更となり、第一線を退いています。

 オランダ水兵たちは知らなかったかもしれませんが、実際の「ポチョムキン」の反乱は、映画とは違って悲惨な末路を辿っています。艦隊の賛同を得られなかった「ポチョムキン」乗員は、投降を余儀なくされ、処刑やシベリア送りとなったのです。
 具体的な記述は見つけられなかったのですが、オランダの反乱水兵たちも、過酷な運命を辿ることになったものと思われます。
 鎮圧した側の蘭印政府・オランダ海軍にも、太平洋戦争という厳しい未来が待っていました。「プロヴィンシェン」も例外ではありませんでした。(中編へ続く

帝国の守護者外伝(中編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(中編)
 1939年5月、第二次世界大戦が勃発します。オランダは今回も中立を宣言していました。ところが、翌1940年5月にドイツ軍がオランダへ侵攻。オランダ本国は、わずか5日間の戦闘で降伏に追い込まれてしまいました。
 幸いヨーロッパの主戦場から離れた蘭印植民地政府は、本国とは異なり、その後も抵抗を続けることができました。そして1941年12月8日、日本の参戦を迎えることになります。

 太平洋の戦いは、真珠湾・マレー沖海戦と相次ぐ連合軍の大敗で始まりました。
 それでも、東南アジア地域の連合国軍、オランダ・英連邦・米国は、合同部隊を編成して迎撃を試みます。海軍部隊も連合艦隊を編成することになり、司令官にはオランダ海軍のカレル・ドールマンKarel Willem Frederik Marie Doorman少将が就任。ドールマン少将の旗艦は、オランダの新鋭軽巡「デ・ロイテルde Ruyter」でした。

 砲術練習艦に格下げとなっていた「プロヴィンシェン」も、老骨に鞭打って参陣することになります。5年前の1936年に「プロヴィンシェン」は、「スラバヤSoerabaja」と名前を変えていました(以下「スラバヤ」と呼称)。名前を、建造中の新型軽巡に譲るためだったのですが、名前を継ぐはずだった艦は、建造中にドイツ軍に捕獲されてしまい、大戦後の完成となっています。
 変わったのは名前だけでなく、練習艦として改装もされていました(改装後の写真)。画像の通り、舷側前寄りの方の15cm砲と、75mm砲の大半が撤去されています。煙突も2本から1本に変わっており、おそらく機関の半数が撤去されたものと思われます。後部マストまでも撤去され、シンプル過ぎていくらか間の抜けた艦影になっています。代わりに40mmなどの対空機銃は追加されたようです。なお、1941年までには15cm砲と75mm砲は全て撤去されていたのではないかとの話もあります。

 さて、連合軍が迎撃作戦をする上で問題となったのが、中立地帯であるポルトガル領東ティモールの扱いでした。
timor_map.png
 ティモール島は小さな面積ではありましたが、東南アジアとオーストラリアの中間という、戦略的に重要な位置を占めている島です。オーストラリアは、ここを拠点に本土へ侵攻されるのではないかと懸念していました。また西ティモールのオランダ軍も、中立地帯経由で奇襲上陸されるのではないかと警戒していました。

 ポルトガルは中立国です。しかし、日本軍を前にしては、中立を維持する実力は無いと見られていました。
 実際のところ、東ティモールに駐留していたポルトガル軍の兵力は、軽歩兵1個中隊300人と国境警備騎馬隊70人程度でしかありません。1938年までは哨戒艇「ディリDili」が存在していましたが、それも退役した今、一隻の軍艦もありません。小さな飛行場はあるものの軍用機もゼロです。

 お題目だけの中立はいかに無力か、オランダは身をもって知ったばかりでした。また、日本軍が中立国を平気で侵犯することも、タイ王国のケースで明らかになっていました。
 日本参戦から10日も過ぎない12月17日、連合軍は行動に移ります。東ティモールの保障占領を決めたのです。
 実行部隊として白羽の矢が立ったのが、老兵「スラバヤ」でした。「スラバヤ」は、陸軍兵を乗せた蘭印総督府直轄の巡視船「カノープスCanopus」を護衛して、葡領ティモールの首都ディリへと向かいます。自らも陸軍兵を乗せています。陸軍部隊の兵力は合計で600人程度。蘭豪混成だったようです。
 ディリに到着した小艦隊は、直ちに部隊を上陸させました。幸い、ポルトガル軍が抵抗することは無く、飛行場などの重要施設はすぐに接収されました。滞在していた日本の領事館員と「民間人」31名が拘束されています。
 ポルトガル総督は中立侵犯だと抗議しましたが、陸路からも連合軍部隊が侵入してくると、占領を黙認せざるを得ませんでした。東ティモールに展開した連合軍の総兵力は、ブレンガン・キャリアー装甲車2両を含む1300人ほどだったようです。
 無事任務を終えた「スラバヤ」は、意気揚々とスラバヤ軍港へ引き上げました。

 東ティモール占領を知ったサラザールは、連合軍に対し、猛抗議を行います。そして、交渉の結果、中立維持できるだけのポルトガル軍を配備することを条件に、連合軍は撤収するという約束に成功します。
 条件を満たすため、モザンビーク植民地軍から派遣準備が進められ、800人の増援部隊が用意されました。増援部隊は輸送船「ジョアン・ベロJoão Belo」(6365総t)に乗り込み、極東艦隊所属のスループ「ゴンザルベス・ザルコGonçalves Zarco」の護衛の下、1942年1月26日にロレンソ・マルケスを出発しています。(後編へ続く

追記
「カノープス」要目:排水量773t、兵装37mm×2
 オランダ海軍所属ではなく、植民地総督府の直轄。総督府は、このほかにも20隻以上の哨戒艦艇を保有。中には2000tを越えて水上機を積める物もあったが、日本軍との戦いにより、ほぼ全滅。一部は日本軍により鹵獲使用。

「ゴンザルベス・ザルコ」要目:排水量1174t、速力16.5kt、兵装120mm×3、40mm×2
 「ゴンザロ・ヴェーリョGonçalo Velho」級2番艦。正式分類は、二等通報艦である。

 「スラバヤ」の画像を取り違えていたことに気付き、撤去。正しくは「コーニギン・レゲンテス」級のものだったようです。要目は「Royal Netherlands Navy Warships of World War II」と「WARSHIPS LINE of All the World's Fighting Ships 1855-2005 by Dimitry G. Malkov」に拠り修正。(2010年6月19日)

帝国の守護者外伝(後編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(後編)
 さて、日本側では、東ティモールをどのように見ていたのでしょうか。
 日本海軍は、早くから東ティモールに注目していました。南方侵攻に当たっての軍事利用に加えて、石油資源の存在が予想されたことも海軍の興味を引きました。そのため、戦前から、海軍系の国策企業が進出を進めていました。飛行艇による航空便も企画され、「綾波」号などによる飛行が実施されています。
  ayanami.png大日本航空「綾波」(海軍97式飛行艇民間型)
  (画像元:アイコン&お絵描き工房
 現地に駐在した社員には、海軍の特務機関「鳳機関」の工作員が混じっていました。
 なお、オーストラリアも、対抗するような形で航空便を就航させています。

 しかし、太平洋戦争開戦が決まったとき、東ティモールをどうするかは、なかなか決定できませんでした。
 海軍としては、前述の流れのまま、占領を進める方針だったようです。
 これに対し陸軍上層部は、ドイツとの関係で、親枢軸的なポルトガルを刺激することは避けたいと考えていました。
 同じ陸軍でも、現地司令部の南方軍では、行動秘匿などの作戦行動上の便宜から、海軍に同調していたようです。ただし、その下の第16軍には兵力分散につながるとして嫌う意見もあったようで、現地部隊でも一枚岩ではありません。
 結局、開戦までに意見の一致を見ることはできませんでした。

 開戦後、連合軍による保障占領が明らかになると、再び激論が交わされます。
 陸軍上層部は最後まで躊躇しましたが、2月7日、「自衛の為」に東ティモールへの侵攻を命ずる、大本営命令が下ります。作戦秘匿のため、ポルトガル政府への事前警告は行わないものとされました。
 もっとも、この侵攻決定後も、長期的な占領をするか否かは未定のままでした。

 議論の間も、東南アジアでは激戦が続いていました。
 太平洋戦争最初の大きな水上戦となった1月24日のバリクパパン海戦では、アメリカ駆逐艦部隊がオランダ潜水艦と共同で日本軍の船団を襲撃し、輸送船4 隻、護衛の哨戒艇(旧式駆逐艦)2隻を撃沈破する大戦果を挙げました。実は、このアメリカ艦隊は、ティモール島クーパンから出撃したものです。
 ただ、戦力的に劣る連合軍は、じりじりと圧されていきました。練習艦「スラバヤ」(元海防戦艦「プロヴィンシェン」)も、とても積極的な行動をとることはできず、スラバヤ軍港に係留されたまま、防空砲台として戦うのみでした。

 そして、2月17日、ついにティモール島攻略作戦が開始されるのです。
 支援艦隊(重巡「那智」「羽黒」、軽巡「神通」、水上機母艦「瑞穂」、駆逐艦10隻)に守られて、輸送船5隻が出港します。乗り組むのは、歩兵第228 連隊を基幹とした「東方支隊」約5000人で、第38歩兵団装甲車隊も含まれていました。別に、海軍の空挺部隊、いわゆる「空の神兵」も投入されています。
 南雲機動部隊が、オーストラリア北部のダーウィンを空襲(2月19日)して、間接支援を行います。
 連合軍艦隊は、妨害に出動してきませんでした。同時に行われたバリ島攻略への対処で手一杯だったのです。

 2月20日、上陸開始。主力部隊は蘭領の西ティモールへ上陸、一部が東ティモールへと上陸しました。横須賀第3特別陸戦隊の空挺部隊も、飛行場占領を狙って、西ティモールへ降下します。
 対する連合軍は、西ティモールに、豪軍を中心に2000人程度が展開していました。戦車・装甲車若干のほか、自動車100両以上を持っていたようです。東ティモールの兵力は、既述の通り1300人ほどです。(米陸軍を含む増援部隊投入も計画されていましたが、これは空襲で妨害され、失敗に終わっています)
 連合軍は、ほとんど抵抗せずに後退しました。即日、クーパンとディリの中心都市は占領されています。唯一、日本海軍の空挺部隊だけは、機械化部隊に蹂躙されて大損害を出しています。

 その後、後退する西ティモールの連合軍と、退路を遮断する日本軍分遣隊との間で激しい戦闘となりました。日本軍は阻止線を突破されますが、急行した軽装甲車隊が活躍して、連合軍は追い詰められます。
 2月23日、連合軍主力1000名が投降して、主要戦闘は終わりました。日本軍の損害は死傷150人ほど。連合軍の損害は死傷270人ほどと捕虜約1200人でした。
 東ティモールを中心に、投降しなかった約1000人はゲリラ化して抵抗を続けました。それに対する掃討戦は4月中旬まで続き、一応の平定を見ます。

 砲術練習艦「スラバヤ」にも最期の時が迫っていました。すでに、ティモール攻略に先立った2月18日の空襲により、爆弾を受けて損傷しています。3月1日に日本軍がジャワ島へ上陸すると、その翌日、行動不能の「スラバヤ」は、港を封鎖するために自沈して果てました。
 連合軍艦隊主力は、これより先に、スラバヤ沖・バダビア沖海戦で壊滅しています。ドールマン少将も、旗艦「デ・ロイテル」とともに、海に消えました。「スラバヤ」と一緒に東ティモール保障占領に従事した「カノープス」も、インド洋への脱出途上で3月5日に撃沈されました。
Soerabaja_oct46_sunk.jpg 進駐した日本軍は、自沈した「スラバヤ」を引揚げ、浮砲台として利用したようです。しかし、太平洋戦争末期に、再び閉塞船として自沈させられ、その生涯を完全に終えています。マストなど一部だけが水面に突き出した、無残な姿が写真に残っています。

 なおポルトガル軍は、基本的に傍観するのみでした。オエクシの分遣隊だけが、日本軍と交戦したようです。
 東ティモールは、終戦まで日本軍の占領下にありました。ポルトガル政府の用意したモザンビークからの増援部隊は、英領コロンボを経由してインドの葡領ゴアまで到達していましたが、日本軍に展開拒否されています。既存の駐留軍は、わずかな自衛装備を残して武装解除されました。
 その後、現地での反ポルトガル闘争が活発化。鎮圧に向かった駐留軍(連合軍残党も参加)が返り討ちに遭うに至り、日本軍は「保護」名目でポルトガル人を事実上強制収容したようです。この反ポルトガル闘争の背後には、日本の特務機関の扇動があったと言われます。
 一部のポルトガル人は、連合軍兵士の残党とともにゲリラ戦に身を投じました。(1943年1月、連合軍残党と共に豪州へ脱出)

 ポルトガルは一応中立を守りましたが、1943年8月には、大西洋のアゾレス諸島を連合軍に提供しています。この裏では、戦後の東ティモール回復に関する密約があったようです。日本政府は、中立違反としてポルトガルを非難しましたが、サラザール首相に「それならば東ティモール占領についても問題とせざるをえないが良いか?」と切り返されてしまっています。ある日本の外交官は、サラザールの手腕に感心したと書き残しています。
 第二次世界大戦後の1945年9月27日、モザンビークから今度もスループ「ザルコ」に護衛された兵員輸送船「アンゴラAngola」が到着し、ポルトガルの支配は復活しました。このとき、スループ「バーソロミュー・ディアス」「アフォンソ・ド・アルブケルケ」も支援にやってきたようです。ポルトガル海軍にとっては「大艦隊」です。
 かくて東ティモール人の悪夢は、まだ長く続くことになります。

追記
 この「プロヴィンシェン」を主役とした仮想戦記という、実にマニアックなものが存在しています。伊吹秀明「帝国戦記」(学研社,2000年)に収録の『南海のゼーゴイセン』がそれです。
 「帝国大海戦」というシリーズの外伝短編集だそうです。史実同様の南方作戦の中で、「プロヴィンシェン」が、独装甲艦ばりの活躍を見せます。
 まあ、史実では本稿の通り練習艦になっていますし、現役だったとしても、石炭焚の低速艦がどこまで戦力になったか疑問ですが。いくら主砲は28cmでも 2門だけでは夾叉しても命中するのかとか、装甲は厚くとも水中防御は無きに等しいのではないかとか……。史実のノルウェーの海防戦艦「ノルゲNorge」「エイズボルドEidsVold」は、ナルヴィクでドイツ駆逐艦にあっさり捻られてますしね。
 ただ、どうもやられ役感が拭えないオランダ艦隊が、活躍する話と言うのは珍しくていいか、としておきましょう。
 ちなみに、タイトルの「ゼー・ゴイセンZee Geusen」というのは、オランダ私掠船艦隊の異名で、「海乞食」の意です。

 東ティモール独立の際に、豪軍と自衛隊が平和維持部隊として派遣されたのは、記憶に新しいところですが、両軍が戦った過去を考えると、なかなか感慨深いものがあります。オーストラリアの素早い部隊派遣の様を見ると、ティモールに対する最前線意識の強さが感じられる気がします。
 最近、東ティモールはまた荒れているようですが、残念なことです。

 ティモール占領に関する日本側の新聞記事を発見したので、引用しておきます。
『チモール島ポルトガル領は昭和十六年十二月以来英蘭濠軍が自衛に名を藉り不法占拠しており、(中略)わが軍は自衛上その地域に作戦せざるを得なかった。しかしながら帝国は、きわめて公明正大なる措置をとり、ポルトガル側が中立的態度を保障するかぎり領土保全を保障し、自衛上の目的達成のうえは同島より撤退する旨を明らかにし、ポルトガル側も十分これを了解した。』(大阪朝日新聞,1942年3月13日)

参考文献(本編と同じものに加え)
田中敦夫「チモール 知られざる虐殺の島」(彩流社,1999年)
The Netherlands East Indies 1941-1942」(英語)
  オランダ側から見た、蘭印攻略作戦の軍事面の全容。日本人執筆者も参加。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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