山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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補遺1 「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」

補遺1.「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」
 「ノモンハン捕虜の運命」の補遺として、ノモンハン事件における日本軍の捕虜処遇方針を指示した「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(昭和14年9月30日陸満密第855号)及び付属の次官通達の主要部分を、書き起こしたものです。カタカナはひらがなに直し、句読点を補っています。
 また、参考までに、太平洋戦争開戦後の1942年8月7日に出された「大東亜戦争に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(昭和17年8月7日陸亜密第2895号)との差異を括弧書き(※陸亜密における記述)で添えました。


――引用ここから――――

今次事変(※大東亜戦争)に於て捕虜と為り帰還せる者に就ては、一律に捜査を行ひ、有罪と認めたる者は総て之を起訴すべし。

次官より関東軍参謀長宛通牒
(引用中略)爾後に於ける之が取り扱いに関しては左記に依るを可とする意見に付、通牒す。
但し将校の分限、進退に関する事項は、別に措置せらるる儀と承知相成度申添ふ。

一、捜査の結果、不起訴となり又は無罪の言渡を受けたる者の中、所要の者に対しては(※言渡を受けたる者は)、厳重なる懲罰処分を行ふ。

二、刑の執行終了者にして償勤を要するものは、総て(※要すれば)教化隊に於て服役せしむることを得。懲罰処分を受けたる者の中、所要者亦之に準ず。

三、処分終了者将来の保護に関しては、本人の意向に依りては日本以外の地に於て生活し得る如く斡旋す。

――引用ここまで――――

出典:アジア歴史資料センター(JACAR)の下記資料
「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(JACAR Ref.C01003544100、昭和15年「陸満密大日記 第2冊」(防衛省防衛研究所))
「大東亜戦争に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(JACAR Ref.C01000542000、昭和17年「陸亜密大日記 第34号 2/3」(防衛省防衛研究所))
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ノモンハン捕虜の運命(序)

 第二次世界大戦直前に起きたノモンハン事件において、日本軍は大きな損害を受けました。多数の死傷者があったのに加えて、日本軍としては相当に多数の捕虜が発生したと言われています。
 いまだ謎の多いノモンハン事件であるところ、これら捕虜たちについても多くの謎が存在しています。いったい何人の日本兵が、どのようにして捕虜となり、その後はどのような運命をたどったのか、必ずしも明らかではありません。定説的には数百から数千人が捕虜となって多くはソ連に残り、帰国しても自決させられた者もいると言われますが、これはどの程度確かな話なのでしょうか。
 そこで、これらの謎について、私なりに資料を集めて答えを探した結果が本稿です。定説とは少々異なった結論に達した部分もありますが、はたしていずれが真実に近いのか、読んで考えていただけると幸いです。

目次
1.日本側捕虜の総数について
 (1)従来の状況、(2)新史料の評価、(3)満州国軍の捕虜
 (4)停戦後抑留者を含むか、(5)小括
2.ソ連側の捕虜について
3.捕虜交換について
 (1)第1回捕虜交換、(2)交換交渉、(3)第2回捕虜交換、(4)小括
4.帰還捕虜の処遇について
 (1)処遇の原則、(2)取り調べと軍法会議、(3)将校への自決強要
 (4)下士官兵のその後、(5)小括
5.未帰還捕虜について
 (1)NHK資料に拠る未帰還者数推定、(2)シベリア抑留者等の証言との整合性
 (3)未帰還者の生活、(4)日本への帰国
6.おわりに
補遺1.「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15及び30の抄録)

参考資料一覧
本文中では資料番号と、必要に応じて頁数を付して参照します。
1.鎌倉英也「ノモンハン隠された戦争」(NHK出版、2001年)
2.五味川純平「ノモンハン」(上下巻、文春文庫、1978年)
3.「捕虜交換に関する件」(アジア歴史資料センター(JACAR):Ref.C01003523000)
4.「蘇と会見交渉に関する件」(JACAR:C01003515200)
5.「日満ソ間抑留者交換に関する件」(JACAR:C01003574600)
6.「『ノモンハン』現地停戦委員に於て交渉中の抑留者返還の件」(JACAR:C01003511400)
7.外務省欧亜局第一課編「日『ソ』交渉史」(復刻版、厳南堂、1969年)
8.ノモンハン・ハルハ河戦争国際シンポジウム実行委員会
  「ノモンハン・ハルハ河戦争」(原書房、1992年)
9.「訂正の件」(JACAR:C01003523300)
10.シーシキン他「ノモンハンの戦い」(岩波現代文庫、2006年)
11.防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 関東軍<1>」(朝雲新聞、1969年)
12.同上「戦史叢書 満州方面陸軍航空作戦」(1972年)
13.全国憲友会連合会編纂委員会編「日本憲兵正史」(全国憲友会連合会本部、1976年)
14.アルヴィン・クックス「ノモンハン 草原の日ソ戦1939」(上下巻、朝日新聞、1989年)
15.「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(JACAR:C01003544100)
16.「関東軍命令送付の件」(JACAR:C01003517200)
17.「俘虜と為り帰還する将兵の公判実施に関する件」(JACAR:C01007460900)
18.「戦死誤認者処理の件」(JACAR:C01003589000)
19.『無形戦力思想関係資料第五号』
  (松野誠也「日本軍思想・検閲関係資料」(現代史料出版、2003年))
20.「戦時死亡者生死不明者報告方に関する件」(JACAR:C04122413700)
21.森松俊夫編「参謀次長 沢田茂回想録」(芙蓉書房、1982年)
22.秦郁彦「日本人捕虜―白村江からシベリア抑留まで」(上下巻、原書房、1998年)
23.外務省欧亜局「昭和十四年度外務省執務報告 欧亜局」
24.同上「昭和十五年度外務省執務報告 欧亜局」
25.山中恒編「在満軍法会議処刑特殊犯罪集」
   (十五年戦争極秘資料集17、不二出版、1989年)
26.「特殊還送患者より得たる『ソ』蒙軍その他に関する情報」
  (「陸満密大日記(第10冊) 昭和15年 第10冊」JACAR:A03032001300・98画像目から)
27.保阪正康「昭和陸軍の研究」(上下巻、朝日新聞社、1999年)
28.「한반도는 이산의 오작교가 아니다」(주간한국(週刊韓国)2002年12月6日)
29.「5.ウクライナに於てドイツ軍捕虜になった日本人関係」(JACAR:B02032392900)
30.「大東亜戦争に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(JACAR:C01000542000)
31.「大東亜戦争に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件達」(JACAR:A03032058800)

上記のほか、以下の文献を参考としました。
吹浦忠正「捕虜の文明史」(新潮選書、1990年)

ノモンハン捕虜の運命(第1回)

1.日本側捕虜の総数について
(1)従来の状況

 第二次世界大戦直前の1939年に起きたノモンハン事件では、当時の日本軍としては大規模な捕虜が発生したことで知られます。
ノモンハン事件で捕虜となった日本側兵士たち しかし、その総数は長らく不明とされてきました。日本陸軍第6軍軍医部作成の史料による生死不明1021名という数字が、近似値として挙げられることが多かったように思います。憲兵の回想による帰還した者だけで700名以上、あるいは生還捕虜自身による推定として3000~4000名以上という数字もあり、日本の損害隠蔽を疑う見解も存在しました(資料2・下 241頁)。
 ソ連側の史料としては、捕虜566人(うち88人は交換)とするものがあります(注1)。また、ソ連の研究者のアレクセイ・キリチェンコは軽傷捕虜503名という説を述べていました(注2)。

(2)新史料の評価
 この捕虜総数の問題は、あるソ連側史料の発見により解決されたと考えます。比較的最近のNHKによる調査で知られるようになった2つのソ連軍作成の名簿のうちの一つで、「捕虜交換後の捕虜名簿」(文書32113-1-294-61~65)と称する史料です(以下便宜上「NHK史料」と呼ぶ)。
 これによると第二次ノモンハン事件で発生した日本側捕虜の総数は227名とされています(資料1・217~221頁)。

 このNHK史料には第1回捕虜交換の送還者として88名と記載があるところ、日本軍の記録(資料5)と一致しています。資料1の著者である鎌倉は、 NHK史料の捕捉範囲が総数か含みを持たせていますが、右のように第1回交換の全体像を把握できている史料なので、総数と考えるのが素直でしょう。
 また、ソ連軍戦史部のワルターノフ大佐(当時)が1991年の国際シンポジウムで明かしたところによると、1939年9月17日に現地のジューコフ司令部から方面軍に送った捕虜獲得数についての電文があるといいます(資料8・153頁)。このジューコフ電文には拘束中の死者6名、モスクワに移送した者 10名という数字があるところ、これらはNHK史料の数字と一致します。
 このような史料間の一致、日本資料との一致からするに、NHK史料はきわめて信頼性の高い、しかも捕虜総数のわかる史料と考えます。

 ただし、ワルターノフは、特に根拠史料は明示しないものの、満州国軍の捕虜は1800名との非常に大きな数字も示しています(資料8・248頁)。これが正確であればNHK史料に記された満州国軍兵の数とはまるで違ってしまい、史料の評価を変える必要が出てきます。少なくとも総数でない可能性が高いことになります。
 しかし、あまりに唐突な数字であり、根拠も不明で疑問です。当時の日本軍による推定で、第一次交換で未帰還の満州国軍の捕虜・行方不明約280名という数字とも矛盾します(資料3)。この280名という方は一見NHK史料とも食い違いますが、後述する集団脱走者を含んだ数字と考えれば、NHK史料と極端に差がある値ではなく、それほど問題とはなりません。
 結局、現時点では、前述のようにNHK史料を総数として信頼してよいと考えます。

(3)満州国軍の捕虜
 日本「側」としたようにNHK史料の227名には満州国軍からの捕虜を含んでいます。第1回交換後の待機者40名と帰国拒否者3名について満州国軍所属だと明記されています。
 このほか日本側記録(資料3)によると第1回交換での送還者のうち6名は満州国軍と判るので、全体で49名以上は満州国軍の捕虜ということになります。

 他方、ジューコフ電文では、226名中155名が日本人で、71名が中国人・朝鮮人・モンゴル人だとしています。仮にジューコフ電文の226名とNHK 史料の227名が、単に未把握だった1名の追加をしただけの違いとすれば、ほぼそのままの内訳になるはずです。NHK史料には明示されていない満州国軍兵が多いのかもしれません。
 ただ、この点は単純な1名追加と断定する根拠を持ちません。ノモンハンで202名が戦死したとされる満州国軍の日系兵士や、日本軍に参加していた朝鮮特別志願兵の扱いの問題もあります。参考にとどめるのが妥当と考えます。

 なお、満州国軍の石蘭支隊からの集団投降者234名(資料2・下23頁)ないし250名(資料4)は日ソいずれでも別枠のようです。これについてはソ連側が強硬に引き渡し拒否しており、捕虜というより亡命者という扱いになっていたのでしょう。当時の参謀次長によると「エミグラント」と称していたといいます(資料21)。
 さらに個別の脱走者13名もあったようです(資料6)。こちらもおそらく捕虜総数には含まれないと考えます。

(4)停戦後抑留者を含むか
 もうひとつ問題なのは、第2回交換で帰国した抑留軍人軍属「加藤大尉以下13名」(資料5)が含まれているかです。
 これらは、停戦後の9月27日にソ連側に拘束された軍人だったようです(資料7)。資料6で14名となっていたのが、交換時の資料5では13名となっているのが不思議ですが、ただの誤認だったのかわかりません。
 加藤大尉らの拘束以前に作成されたジューコフ電文の総数226名と、拘束以後のNHK史料の総数227名の差を単純に考えると、加藤大尉らは含まれていないことになります。

(5)小括
 したがって、捕虜となった日本兵は最大で227-49=178名と考えます。最小ではジューコフ電文の155名です。名簿の人名から、努力しだいで日本軍と満州国軍の内訳は確定できそうです。(調査後の資料は日本の防衛省防衛研究所に寄贈されたようなので、ある程度日本でも調査可能かと思います。)
 冒頭に述べたように事件直後の生死不明者は1000名を越えていましたが、その多くは草原に人知れず戦死していたのでしょう。第1回捕虜交換で82名が帰った後に、日本軍は未帰還捕虜が57~67名以上と推定していたこと(資料4)からも、行方不明の多くは捕虜ではなく戦死と見るのが妥当と考えます。
 後になされた生還捕虜による推定が大きな数となっている一因は、目撃した満軍の集団投降者を普通の捕虜と誤解したためではないでしょうか。(つづく


注記
1 566人とするソ連側文書について。
 出典は、三浦信行、ヤコブ・ジンベルグ、岩城成幸「“ノモンハン事件”の見直しをめぐって―日露の史料で読み解く“ノモンハン事件”の一側面」『AJ Journal』5号、2010年、76頁および注33参照。
 この史料の信ぴょう性は、後述の第1回捕虜交換の人数88人を正確に記録している点では、一見よさそうに思えます。しかし、戦死者数や負傷者数は著しく不正確なうえ、正確に出せるはずの引渡遺体の数すらも6281体と、日本側戦場掃除記録の4386体と大きく異なり、粉飾の可能性など疑問が残ります。

2 A・キリチェンコ推定について。
 上記のようなNHK史料からの推定とは異なり、ソ連科学アカデミー東洋学研究所(当時)のキリチェンコは、日本側の軽傷・投降捕虜の数は503名であると主張しているようです(資料27・上202頁)。キリチェンコはシベリア抑留などの日本人捕虜に関する研究で著名な人物で、元KGB大佐の諜報関係者とされます。平成3年に保阪正康との対談で語ったとされる数字で、有力な反対仮説であると思われます。
 これによると軽傷・投降捕虜503名のうち103名が捕虜交換で帰国し、400人がソ連側に残ったといいます。103名という数は、後述の第2回捕虜交換での純然たる捕虜の帰還数と一致しています。すると、第1回交換分及び死亡者を合せて、捕虜総数は597名以上という計算になります。
 しかし、キリチェンコの根拠とした史料が不明であり、評価を保留せざるをえません。最近とある筋から聞いた話によれば、キリチェンコはこの推定を撤回したのではないかともいいますが。

ノモンハン捕虜の運命(第2回)

2.ソ連側の捕虜について
 日本側だけでなく、ソ連側にも捕虜は発生しています。例えば5月20日には早くも1名が満州国軍に捕らえられています。その総数は、ソ連兵84名(資料8・156頁)とモンゴル兵11名と考えられます(資料5、資料7、資料9)。

 捕虜となったソ連兵は、日本側の支給する食料に一応満足していたようです。資料14に載っている写真を見ると、山盛りの乾パンらしきものを、茶色の飲み物と一緒に食べています。傷の手当てを受けた捕虜も写っています。
 他方、ソ連側の資料では、ぼろぼろの被服を着用させるなど過酷な取り扱いを受けたとしています(資料10)。たしかに写真に移っている捕虜はソ連軍の被服をそのまま着ているようです。
 しかし、ある日本軍将校によると捕虜は歯ブラシやタオルなどを支給されていたといい、残虐な取り扱いではなかったものと思います。もしぼろぼろの衣服というのが事実なら、大量の日本軍物資を鹵獲したソ連側と違って、日本側では着替えのソ連軍衣料は用意できなかったためではないでしょうか。

 なお、このほかに張鼓峰事件の捕虜や国境侵犯で拘束されていた抑留者があり、一緒に捕虜交換交渉の俎上に上っています。ソ連側は張鼓峰事件の捕虜2名、中国戦線での捕虜1名などの返還を求めたようです(資料7)。


3.捕虜交換について
 ノモンハン事件停戦直後の1939年9月27日頃に第1回捕虜交換、外交交渉を経た翌1940年4月27日の第2回捕虜交換の2度の捕虜交換が行われています。

(1)第1回捕虜交換
 現地停戦交渉にもとづく第1回交換では、日本側捕虜として88名が送還されています。うち約半数は負傷していたといいます。将校は1名のみ含まれています(資料11)。前述のように6名が満州国軍の軍人軍属でした。資料11は満軍捕虜を5名としますが、軍属1名が抜け落ちたのかと思います。
 同時に日本軍将兵の遺体の引渡しも行われています。55体の航空兵の遺体のほか『その他』の遺体4体が引き渡されました(資料11)。『その他』の意味するところが不明ですが、五味川は捕虜として拘束中の死亡者と推測しています(資料2・238頁)。
 一方、日本側からソ連側には、ソ連人捕虜77名とモンゴル人捕虜10名が引き渡されています(資料9)。基本的に同数交換主義だったようです。あと3名が返還される予定でしたが、直前に取りやめになったといいます(資料8・156頁)。

(2)交換交渉
 その後、現地での交渉は難航し、10月10日頃を最後に交渉打ち切りとなったようです。ソ連側は未送還捕虜について少佐1名を含む7名だとし、もっと多数と推測する日本側と対立しました。日本側の照会・再調査要求に対しては、「白々しく」未確認は2~3名だと思うが案外多いかもしれないと、はぐらかしたといいます(資料4)。
 ソ連側は、モスクワの指示に従って、第1回の残り3名のほかに10名の返還請求をしていました。これは実は既述のノモンハン事件以外の捕虜・抑留者だったのですが、その点が明確でなかったため、残り3名きりだとする日本側と行き違いを生じたようです。事件外捕虜については、日本側現地軍の交渉権限を越える面もあり、これらが交渉が止まる原因となったと思われます(注記参照)。

 代わって外務省を通じた交換交渉が、国境線画定や通商交渉などと並んで行われることになります。日本側の東郷大使と、ソ連側のモロトフ外相・ロフスキー次官の間でたびたび会談が開かれています(資料7・527~529頁、資料23・40~43頁、資料24・32~34頁)。
 当初、日本側の全数返還提案にモロトフも快諾し、交渉はスムーズに進むかに見えました。11月19日には、残る3名のソ連側捕虜の返還と引き換えに、日本側100名前後(うち半数以上が日本人)が返還されるとの数字も出ていました。第1回とは異なり、同数返還といった条件はありません。
 ところが、12月3日に至って、突如としてロゾフスキー次官から、残りの捕虜は3名ではなく20~30名だという確証があるとの主張が出てきます。そして、日本側が3名しか返さないなら45名しか返せないと、後退してしまいました。日本側は事件外の抑留者なら23名あると答えますが、納得されず、交渉は再び暗礁に乗り上げてしまいます。
 心底困ったであろう日本側が必死に調査したところ、送還済み捕虜の一人が、事件外抑留者23名と接触していたことが判明します。翌1940年3月17日にそのことをソ連側に通知したところ、ようやくモロトフを納得させることができました。
 こうして全数返還主義による第2回捕虜交換協定が妥結します。3月26日にまず45名の返還者名簿が日本側に渡され、4月15日に残余71名の名簿が交付されました。ソ連側の説明では、これで帰国拒否者を除く全数だとされたようです。

(3)第2回捕虜交換
 この結果、第2回交換では116名の日本側捕虜が引き渡され、このうち13名は前述のように停戦後の戦場抑留者です。資料13は第2回送還者を204名とし、これを引くサイトもありますが、第1回と第2回の合計が誤認されたものでしょう。
 日本側からは、ノモンハン事件捕虜2名です。本来はさらにモンゴル兵捕虜1名が送還される予定でしたが、その前に病死してしまったとされます(資料7・ 529頁)。ワルターノフは、日本側がソ連人捕虜を結局77名しか帰さなかったとしていますが(資料8・156頁)、この第2回分の2名を忘れてしまっています。
 その他、事件外抑留者である9名のソ連人も返還すべきものとされ、ソ連側に名簿が交付されています(資料5)。内訳は、事件外捕虜2名、偵察機乗員1 名、郵便機乗員2名、民間船員4名です。しかし、これについては実際の送還は別の機会に先送りされてしまったようで、実現したのか確認できませんでした。

 第2回で返還された純然たる捕虜103名について、日本人の数が問題です。クックスによると64名が日本軍捕虜で、39名が満州国軍といいます(資料14・下269頁)。
 ここで資料5に含まれる関東軍から陸軍大臣宛に送られた電文(関参一電611号)では、下士官6名と兵54名だと記していますが、明らかな「間違い」です。第2回送還者には、少なくとも飛行第1戦隊長の原田文雄少佐ら2名の飛行将校が含まれているはずですが(資料14・下270頁)、右の電文に表れていないからです。おそらく将校を除いた数字でしょう。除かれた理由は後で検討します。

(4)小括
 2回の捕虜交換で、日本軍146名と満州国軍45名の捕虜が生還したことになります。(つづく


注記
 この点、ワルターノフが言う日本側が残した捕虜10人(資料8・147頁)というのも、いまだにこの事件外抑留者の返還問題を誤解しているのではないでしょうか。

ノモンハン捕虜の運命(第3回)

4.帰還捕虜の処遇について
(1)処遇の原則

 捕虜交換によって帰国した日本兵については、第1回交換後すぐの9月30日に「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15)で、陸軍省から関東軍へ処理方針が示されています。
 これによると、(ア)一律に取調べを行い、有罪と見られれば起訴すること。(イ)無罪者・不起訴者のうち必要な者は厳重な懲罰処分とすること。(ウ)服役・懲罰が完了した者は、必要ならば償勤兵として教化隊へ配属すること。(エ)将来については本人の希望があれば、日本以外での生活を斡旋することなどとされています。
 この方針が提示される前に、すでに関東軍では独自に査問委員会を設置していたようですが、方針に従って10月2日に関作命甲232号(資料16)を発し、一連の措置を開始します。なお、関東軍としては当初は寛大な処分で済ます方針だったという軍医の証言があります(資料22・73頁)。

 帰還捕虜は新京陸軍病院の新站分院に収容され、関東軍参謀今井大佐の指揮の下、取調べ・特設軍法会議を受けます。実働要員として、2名の法務官や西田中佐以下の関東軍憲兵隊などが送り込まれます。
 新站陸軍病院は周辺に他の施設がなく隔離に適していたため、選ばれたようです。病院とは言いつつ、正規の医療関係者は退去させられて代わりの特選の将兵が配属され、衛生兵に変装した憲兵もいるような状況だったといいます。特に重大被疑者が入った独房の待遇は、半ば死んだも同然だったという憲兵の回想もあります(資料14・下272頁)。こうした医療体制の不備との因果関係は不明ですが、収容中に3名の重傷者が死亡しています。
 第2回交換の帰還捕虜も、同様に新站陸軍病院へ収容されました。こちらでも収容中の死者が少なくとも1名発生しています。

(2)取調べと軍法会議
 第1回交換での帰還者の場合、11月16日に軍法会議が開かれているため、それまでの約1ヵ月半の間、種々の取調べが行われたものと思います。第2回交換では、4月末から5月中旬までの半月、取調べ期間が置かれています。
 尋問では、捕虜になったときの状況が第一に問題とされたようです。日本陸軍においても、公式には捕虜になること自体は違法とはされないため、敵前逃亡罪(陸軍刑法75条1号)が主たる被疑事実となったものと思われます。「陛下の特別のお計らいで罰せられることはない」から経緯を正直に話せと言われた者もいたようです(資料14・下274頁)。
 このほか、ソ連側での処遇、特に思想教育がどのようなものであったかも重視されたようです。スパイが送り込まれることを警戒したのでしょう。

 意外なようですが、起訴されて特設軍法会議にかけられた者は、それほど多くないようです。第2回交換帰還者についての集計資料は確認できていないのですが、第1回交換の場合、起訴者は帰還者82名中の2名のみです(資料17)。前述のようにあくまで捕虜になること自体は、罪に問えないためでしょう。ただ第1 回交換では重傷者が多く、人事不省の間に捕虜となったことは有利な事情であるため、第2回に比べて不起訴者の割合が高かった可能性はあります(*1)。
 それでも、理不尽と思える起訴例もあります。例えば、被弾炎上して自爆しようと急降下したところ、運良く火が消えたため不時着して5日間さ迷った後、ついに気絶したところを拘束された航空兵曹長が「敵前逃亡罪」で起訴されました。有罪判決を受け、懲役2年10ヶ月のうえ一等兵に降格となっています(資料14・下273頁、資料25・35~36頁、資料22・97頁)。さ迷ううちに帰還に絶望していた点をとらえて「逃亡」ということのようで、相当な拡大解釈といわざるを得ないでしょう。下士官だったため、処分が重くなったと考えます。ただ、自爆を試みた点が評価されたのか、酌量軽減(刑法66条)が認められています。

 そして、より問題なのは、こうした公式の軍刑法の適用ではなく、それ以外のさまざまな非公式の取り扱いだったのではないかと思われます。(つづく


注記
*1 自決を試みたことを法廷で陳述したところ、白衣の法務官に誉められ、刑罰ではなく懲罰処分である重営倉で済んだという証言があります(資料14・下275頁)。これも起訴後に無罪判決となったのではなく、予審により不起訴となって、その後で別に懲罰処分を受けたということだと考えます。
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