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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第1章・その1)

1.戦場の宅配便

一、驕敵撃滅の神機到来せり
二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以てレイテ島に来攻せる敵を撃滅すべし
-昭和19年10月22日・南方軍命令-

 太平洋戦争後半、アメリカ軍の本格的が進み、決戦場となったのがフィリピンでした。そのうち最初の地上戦が行われたのがレイテ島です。日本軍は初期配置の第16師団に加えて3個師団・1個旅団の増援部隊を投入、米軍7個師団と激突する大規模な戦闘となりました。
レイテの八九式中戦車1 レイテ島守備隊の日本陸軍第16師団に、唯一の機甲戦力として配属されていたのが、1944年6月に千葉県津田沼の戦車第2連隊補充隊を母隊として編成された独立戦車第7中隊(通称号:威第358部隊→威第17658部隊、注12)です(独立戦車中隊の来歴については第三部第3章も参照)。機甲戦力と言っても、その装備は旧式の八九式中戦車11両でした。資料によっては九五式軽戦車とされていますが、姉妹部隊の独立戦車第8中隊の隊員による調査や、米軍がレイテ島で撮影した写真(右掲)を見る限り、八九式中戦車です。米陸軍公刊戦史の引用する捕虜供述でも、旧式戦車を装備していたとあります(注1)。その任務は純粋な戦闘部隊ではなく、戦車を飛行場整備機材として活用する期待もあり、滑走路整地用の牽引式ローラーを装備していました。
 なお、第16師団固有の機甲戦力として本来は捜索第16連隊(軽装甲車2個中隊装備)がありましたが、1944年4月に師団主力がルソン島からレイテ島へ移動した際、ルソン島に取り残されていました。

 独立戦車第7中隊が編成された1944年6月までの日本軍の作戦計画は、絶対国防圏構想に基づく太平洋上での航空決戦を志向しており、地上戦闘は二義的なものでした。大本営はフィリピン防衛を担当する第14軍を「航空基地軍」となるよう指導し、師団・旅団ごとに飛行場建設担当の参謀を配員しました。飛行場建設を管理する第3・第5野戦飛行場設定司令部もフィリピンに送りこまれましたが、実働部隊である野戦飛行場設定隊は建設予定飛行場114箇所に対して3個隊と少数で、労働力は現地守備隊・現地住民を活用するものとされました。そのためフィリピン各地で、陣地の構築を後回しにしてでも、飛行場の急速整備が進められており、特にレイテ島では既存のタクロバン海軍飛行場に加えて7箇所の陸軍飛行場新設が計画されていました。
 1944年7月のサイパン失陥で絶対国防圏構想が崩壊すると、フィリピンでも泥縄的に地上戦の準備が始まります。7月10日の第14軍兵団長会同で各師団長・旅団長らに地上作戦軍となる旨の計画が示されますが、海岸付近に多い航空基地群の確保とサイパンで失敗した水際作戦の二の舞回避という矛盾した内容を含み、師団長ごとに受け止め方が分かれていたようです。牧野四郎第16師団長は航空基地の確保を重視した結果、従前どおりの水際配備による飛行場防衛方針を維持しました。
レイテ島戦場の略地図 そうした中で、独立戦車第7中隊は、部隊略歴によれば1944年6月24日に内地発、7月25日にマニラ到着、7月下旬にレイテ島に進出したとされます(注2)。乗船船団は特定できていませんが、タマ21C船団(7月14日高雄発・7月19日マニラ着)辺りが比較的近い行程です。8月には第35軍の第16師団指揮下に入りました。牧野第16師団長の『比島陣中日誌』によれば、8月15日に中隊長の河野勲大尉が牧野第16師団長に到着を申告しています(注14)。
 部隊略歴には輸送途中の損耗の記載がなく、この時期には珍しく無傷で現地に進出したようです。この点、木俣滋郎『戦車戦入門』には、先発した河野に数日遅れでルソン島からレイテに移動中の第2梯団乗船の小型貨物船「義丸」(200総トン)が、8月15日にレイテ島南方海上で触雷沈没したとあります(注3)。編成母体である戦車第2連隊の戦友会出版物にも同様の記述があり、八九式中戦車を全損したので現地にあった軽戦車11両で再建されたとしますが(注13)、これらの文献は誤りと思われます。「義丸」については、1944年8月15日に第16師団指揮下の「第三義丸」(注4)が、レイテ島西岸バイバイから東岸ドラグ・タクロバンへ向けて備蓄燃料の海上輸送中、レイテ島南西端マーシン港沖で触雷大破したのが該当するようですが、多数の戦車を搭載できる規模の船ではなく、戦闘詳報の兵器損耗表にも戦車関係の記載がありません(注5)。牧野第16師団長『比島陣中日誌』の8月15日の項に独立戦車第7中隊の河野大尉到来の記事と並んで「義丸」(200トン)沈没との記載があり、同史料を使った前掲木俣が無関係の2つの情報を混同したのが原因でしょう。戦車第2連隊の戦友会本の執筆者は独立戦車第1中隊の原田早苗中尉であって直接の経験談ではないため、先行する前掲木俣(初出は1975~1980年)を参照した結果、誤りも引き継いだものと思われます。
 独立戦車第7中隊は前述のとおり、もともと飛行場整備も任務として予定していましたが、実際にも第35軍の指揮下に入ると同時に、第3野戦飛行場設定司令部が実行中のレイテ島の飛行場群建設に協力させるよう命令が出ています(尚作命甲4号。注6)。捕虜供述によると、米軍上陸までの2ヶ月間、戦車はほとんど飛行場整備だけに従事して過ごしたようです。

 独戦第7中隊のレイテ進出から2ヶ月後の1944年10月20日、レイテ島東岸のタクロバンとドラグ付近等にマッカーサー率いる米軍が上陸、レイテ島の戦いが始まります。第16師団指揮下の諸部隊はこれを迎撃しますが、飛行場建設を優先したことで陣地構築が不十分だったようです。第16師団の10月初旬の報告では、水際陣地が軽掩蓋程度で進捗率80%、飛行場直掩陣地は着手したばかりなどとなっています。その上、第16師団は、最重要施設である海岸近くのタクロバン・ドラグ飛行場を守るため水際配備の方針を採っていましたが、不幸にもこの方針決定後のサイパン戦の戦訓で水際陣地は艦砲射撃に対して脆弱なことが判明します。第16師団は、艦砲射撃と空襲に支援された米軍4個師団に圧倒されて、たちまち内陸に押し込まれる結果となりました。タクロバン・ドラグ両飛行場とも上陸初日のうちに米軍に占領されています。
 米軍上陸前の10月初旬、独立戦車第7中隊は、飛行場整備支援のためかブラウエン飛行場地区のブリ(ブラウエン北飛行場付近)に駐屯していました(注7)。部隊略歴によれば10月13日から18日の事前砲爆撃で戦車が使用不能になったとありますが、後述のとおり米軍上陸までに相当数が稼働状態に整備されていました。中隊は米軍船団がレイテ島に接近した10月18日の第16師団命令で、ドラグ正面を担当する南部レイテ防衛隊長(歩兵第20連隊長)の指揮下に入ります(垣作命甲第824号、注8)。そして、米軍上陸初日の10月20日夜から翌10月21日未明、中隊主力(米陸軍公刊戦史引用の捕虜供述によれば8両【疑義あり。コメント欄参照】)はドラグ飛行場地区へ突入を命じられます。
 米陸軍公刊戦史によれば、10月20日夜、米陸軍第7師団の第一線の第184歩兵連隊G中隊(右翼の第32歩兵連隊との境界地域担当)が徹夜で壕を掘っているところへ、日本戦車3両が襲来して機関銃を掃射しますが弾道が高くて命中せず、バズーカや迫撃砲の砲火で一度撃退されます。1時間後に戦車1両だけが再来襲した時には、米兵の小銃擲弾で撃破されて乗員も戦死しています。別に「偵察車」(scout car)1両が現れて米兵5名を死傷させていますが、夜間で戦車を誤認したのか(騒音の点で間違えるか少し疑問)、武装トラック等なのか正体不明です(注9)。
レイテの八九式中戦車2 また、ドラグ・ブラウエン道南側沿いの第184歩兵連隊第3大隊の前には、10月21日午前1時30分ころに日本の中戦車3両が出現しますが、バズーカや手榴弾による攻撃で全滅。午前4時ころにも戦車6両が現れて、約30分間の戦闘で2両を失って撤退しています(注9)。
 日本側公刊戦史の戦史叢書では戦車中隊の突入時にドラグ拠点の予備隊が同行して、米軍戦車の円陣に突入しようとしたが陣前に破砕されたとあります(注10)。他方で上記の米軍記録では随伴歩兵がいた様子がなく、実際は歩戦協同を意図したものの事前訓練もないままの夜襲で連携が取れず、分離したまま各個撃破されたのだろうと思われます。
 以上の米軍記録では出現した戦車数が8両よりも多く思えますが、状況把握が難しい夜間戦闘であり、細部は誤りがあると思われます。被撃破数6両とすると出撃8両中2両生き残っているはずですが、その後の行動は不明です。後退後に燃料切れや故障などで放棄されたのかもしれません。
 なお、米陸軍公刊戦史に引用された捕虜供述【疑義あり。コメント欄参照】によれば、中隊主力8両の出撃後、戦車3両がブラウエン飛行場地区ブリにあったものの、これは可動状態にない車両が残置されたものだったとのことです(注1)。おそらく行動不能のまま、10月24日のブリへの米軍侵入で失われたものと思われます。

 以上のとおり、独立戦車第7中隊は、レイテ島の初期数日間の戦闘で事実上全滅しました。河野中隊長以下、生還者もほとんどないようで部隊略歴では1944年10月21日に「全員玉砕」としていますが、10月24日に整備兵1名がブラウエン地区で捕虜となっており、米軍の尋問に対して貴重な証言を残しています(注1)。
 この点、前掲木俣は、12月13日にレイテ島西岸の2号ハイウェイで交戦した日本軍戦車隊を独立戦車第7中隊の生き残りと述べていますが(注11)、次回以降に述べるとおり、戦車第2師団所属の戦車とみるのが素直でしょう。
 ここまで約1週間の激戦で第16師団も戦力の過半を消耗しており、以後のレイテ島の戦闘は、他島からの増援部隊が主役となって続いていくことになります。(続く)


注記
  1. Cannon (1993) , p.135
  2. 『南方・朝鮮(南鮮)方面 陸上部隊略歴(航空・船舶部隊を除く) 第5回追録』 JACAR Ref.C12122500400、画像31
  3. 木俣(1999年)、273頁。初出は『PANZER』1975年8月~1980年8月号
  4. 「第三義丸」について、船舶番号46413・船主:水口義行・199総トンか。いわゆる海上トラックと思われます。
    なお、初稿では中隊編成時の装備戦車数を12両としましたが、執筆メモの読み間違いで当初から11両装備と思われます。その点からも木俣の述べる海没損害はなかったように思われます(2019-05-26訂正)。
  5. 輜重兵第16連隊第2中隊 『「マーシン」港外戦闘詳報』 JACAR Ref.C14061353700
  6. 尚作命甲4号については、JACAR Ref.C13071376200。原文では「タクロバン」付近航空基地とありますが、第35軍ではタクロバン飛行場(海軍支配)以外にレイテ島所在のブラウエン南北飛行場・サンパブロ飛行場・ドラグ飛行場をタクロバン基地と総称しているようです(「飛行場の急速なる補修強化の件」 JACAR Ref.C13071376500)。
  7. 「第十六師団状況報告」1944年10月8日、附表 JACAR Ref.C14061301900
  8. 「標題:垣作命甲第824号 第16師団命令 10月18日」 JACAR Ref.C13071393100
  9. Cannon (1993) , pp.127-128
  10. 戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)」、376頁
  11. 木俣(1999年)、294頁
  12. 通称号について、初稿では「垣第17658部隊」としましたが「威第17658部隊」に兵団文字符を訂正(2019-05-26)。部隊略歴では南方軍の兵団文字符「威」ではなく第16師団の兵団文字符「垣」となっているのですが、師団編合部隊ではないのに師団の文字符を冠することには疑問があり、姉妹部隊の細田資料も参考に「威」としました。なお、Twitterで助言を頂いた、牛丼師団氏とkk氏に御礼申し上げます。
  13. 原田早苗「独立戦車第七中隊の奮戦」『追憶-戦車第二聯隊の碑建立記念』戦車第二聯隊戦友会、1988年、52頁
  14. 牧野四郎『牧野四郎追憶遺稿録』安倍孝一、1964年。以下「義丸」での海没有無についても牧野日誌ふまえて加筆(2019-09-28)。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第5章)

5.ベンガル湾のつわもの【暫定版】

 夏草や兵どもが夢の跡
          -松尾芭蕉-

【本記事は暫定版です。内容に不十分な点があることが判明しているため、なるべく早期に改訂するつもりです。】

 1945年、総崩れになりつつあるビルマ戦線の西部に、日本陸軍第54師団が踏みとどまっていました。コードネームである通称号は「兵(つわもの)」。一般的な3単位編制の歩兵師団で、機甲戦力として偵察部隊である捜索第54連隊を有しています。
 捜索第54連隊も標準的な編制の捜索連隊で、騎兵第10連隊(姫路)を母隊とし、新設当初は連隊本部・乗馬中隊・乗車中隊・装甲車中隊各1個から成っていました。南方派遣時に連隊本部と乗車中隊2個(第1・2中隊。速射砲各2門・重機関銃各2丁)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。九七式軽装甲車各8両、うち砲装備各3両)基幹に改編強化され、通信小隊も付属したようです。人員484人、トラック45両と乗用車7両を保有し、完全自動車化されていたように思われます。

 1944年1月以降、第54師団は第28軍隷下、ビルマ西部ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備されます。捜索第54連隊主力(中村忠雄中佐。本部と乗車第2中隊)は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)を守備。乗車中隊・装甲車中隊各1個は師団直轄等に召し上げ。白井中隊長率いる第3中隊(装甲車中隊)は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、ベンガル湾に浮かぶラムレ島へ一時進出しますが、1944年9月に大陸本土沿岸に戻ってタンガップ(タウンガップ、タウングプTaungap)地区防衛を任としました。
 タンガップは、ビルマ中心部からアラカン山脈を越えて続く自動道がベンガル湾に出る地点で、制空権喪失により海上交通が遮断された日本軍にとって、重要な兵站拠点でした。また、飛行場もありましたが、航空機は全く配備されていなかったようです。
 第3中隊は、タンガップ北方のサビンという村を中心に65kmもの広大な海岸線の守備を担当しました。いくら機動力があると言っても人員40名余では明らかに兵力不足ですが、空挺部隊などに対する警戒が中心で、本格的な侵攻に際してはタンガップに後退する計画だったといいます。これを捜索連隊らしい騎兵的な任務だと喜ぶ者もあったようです。

 1945年2月15日、タンガップから85km北のメイへ補給品を輸送中の独立自動車第55大隊の車列が、敵の上陸部隊に出くわして逃げ帰って来ました。敵兵力は最大4万人の大軍とも報告されました。ところが、タンガップから歩兵1個大隊と捜索第54連隊第3中隊が反撃に出動したところ、実はイギリス軍40人程度の偵察上陸と判明します。イギリス軍は日本軍の反撃を受け、すぐに撤収しました。大騒ぎをした独立自動車第55大隊の士官は、回想で部隊の醜態を恥じています。

 1945年3月、イギリス軍は反攻作戦の一環として、タンガップの攻略に着手します。3月15日(3月12日?)、第4インド歩兵旅団(3個歩兵大隊)と第146機甲連隊A中隊(M3リー中戦車装備)が、タンガップ北方のレトパンLetpanに上陸。そのうち尖兵のフロンティア・フォース・ライフル連隊2/13大隊の1個中隊は、夜のうちに進軍してタンガップ=メイ間の道路の屈曲点を制する地点に達しました。
 日本軍はすぐに上陸に気が付き、撃退を試みます。タンガップ地区隊唯一の機甲戦力である捜索第54連隊第3中隊は、機動反撃を命じられ、中隊主力(指揮班及び第1小隊の軽装甲車5両)で出撃しました。無謀な出撃とも思えますが、2月15日と同様に偵察上陸で簡単に撃退できると期待したのかもしれません。タンガップから北上した装甲車隊は、上記のイギリス軍尖兵中隊の封鎖地点に到達しますが、準備不十分だったのかイギリス軍は素通りさせたようです。
タンガップの九七式軽装甲車 3月16日の午後、イギリス軍は第146機甲連隊A中隊を先頭に本格的に侵攻を開始し、日本側の捜索第54連隊第3中隊主力とすぐに遭遇します。日本側の装備車両は2人乗りの豆戦車である九七式軽装甲車(イギリス軍は九五式軽戦車と誤認)で、イギリス軍のM3中戦車にはとても敵わず、南のタンガップ方向へ高速で逃げ出しました。しかし、撤退した先には、フロンティア・フォース・ライフル連隊の尖兵中隊が待ち構えており、携帯対戦車火器PIATを次々と発射して、今度は素通りさせてくれませんでした。進退窮まった捜索第54連隊第3中隊主力は、引き返してイギリス軍との接触を断った後、車両を放棄して徒歩で包囲を脱出しました。追撃してきた英軍戦車が発見したのは、放棄された軽装甲車5両(うち3両は自焼した残骸)だけで、乗員の姿はどこにもありませんでした。(画像はタンガップ地区でイギリス軍に捕獲された九七式軽装甲車。砲装備なので中隊長車か第1小隊長車である。)
 このとき、イギリス軍は遺棄された日本軍装甲車の中から、九七式軽装甲車の前でポーズをとった日本軍戦車兵の写真を押収しています。この写真は、吉川和篤『日本の豆戦車写真集』(イカロス出版、2016年)の中表紙に掲載されている白井装甲車隊の車長の写真と同じアングルで撮影されたものです。捜索第54連隊第3中隊は内地出発前に兵庫県の青野ヶ原で待機中、形見となるように全員が一人ずつ装甲車の前に立って記念撮影したのだそうです。なお、このときに写真のネガを内地に残すはずが、誤ってネガまでビルマに持っていってしまったとのことで、現存するのは貴重な一枚と言えそうです。

 こうして、捜索第54連隊第3中隊は、装甲車両の主力を失いました。ただし、後方の警戒を命じられた第2小隊(軽装甲車3両)は離脱に成功し、戦闘を継続しています。砲兵牽引車の代わりとして野砲などの陣地転換にも多用されたようです。タンガップ地区隊はイギリス軍に圧迫されて次第に後退し、1945年4月末には第28軍直轄となってビルマ東部のペグー山地へ退却せよとの命令を受けます。第2小隊の軽装甲車3両はアラカン山地を突破してイラワジ河畔のパドン南方まで至り、師団の転進を援護するため後衛戦闘に活躍した後、ついに5月14日に軽装甲車を処分しました。その後は車載重機を主力兵器として戦います。第3中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭を進み、厳しい退却戦を続けることになります。(この章終わり

追記
日本側の参戦中隊が、第4中隊ではなく第3中隊であったので訂正(2019年5月2日)。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その4)

3.独立中隊の挽歌(承前)

Luzonmap.png ルソン島に展開した残る一つの独立戦車中隊である独立戦車第9中隊(旧独立戦車第11中隊)は、1944年11月にルソン島北部のエチアゲやツゲガラオに進出して飛行場整備に従事していましたが、翌1945年1月の米軍上陸と同時期に、既述の通り、北部の第103師団(駿兵団)に配属されました。なお、同師団指揮下の機甲戦力としては外に、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車12~15両・装甲兵車2両)と、第103師団特種戦車隊(鹵獲M3軽戦車)及び第103師団砲兵隊自走砲中隊(鹵獲M3自走砲)がありました。
 第103師団の任務は、ルソン島北端のアパリに上陸することが想定される米軍、及び、ルソン島北部カガヤン平野に降下するおそれのある米軍空挺部隊の迎撃でした。独立戦車第9中隊はアパリへの米軍上陸に備えて、その内陸15kmのラローに駐屯しました。燃料のガソリンが不足してきたため、中隊長の中島保男中尉は、戦車をトーチカ化することも考え始めていたと回想しています。同様に第103師団に配属された津守独立戦車中隊は、主に空挺部隊に対する反撃戦力として期待され、海岸から少し離れた林の中に壕を掘って陣地を構成していました。
 この頃、付近に居た第103師団砲兵隊の自走砲中隊は、独立戦車第9中隊によって車両整備の援助を受けていたようです。第103師団砲兵隊にいた山本七平少尉は、独立戦車第9中隊と思われる近所の戦車隊について、軍神西住戦車長が乗っていたのと同じ八九式中戦車装備で、日本軍では珍しいガソリンエンジンの骨董品のスクラップ部隊、修理班の軍曹が「わが隊は修理班に関する限り日本一デッセ、何しろ廃品が動いちょりますからなあ」と自嘲していたと紹介しています(注1)。

 さて、1945年1月のルソン島リンガエン湾への米軍上陸後も、第103師団はルソン島北部から動きませんでした。北部に米軍別働隊が上陸・空挺降下して、リンガエン湾から北上する米軍主力と挟み撃ちにされることを警戒したものと思われます。
しかし、4月中旬に米軍によりサラクサク峠・バレテ峠の防衛線が浸食され、米軍がカガヤン平野へ北上する危険が高まると、ついに第103師団にも南下してバレテ峠で米軍を阻止するよう命令が下りました(4月27日:尚武作命甲第690号)。一部だけが湯口支隊としてアパリに残置されます。
 このとき、独立戦車第9中隊もバレテ峠救援のため国道5号を南進することになりますが、独立戦車第9中隊は第103師団への配属を解かれて、独立速射砲第18大隊や野砲兵第22連隊第3大隊(注2)などとともに第14方面軍直轄に移されます。戦車第2師団主力が壊滅した当時となっては、貴重な機甲戦力として期待されたものと思われます。5月初めの第14方面軍の計画では、独立戦車第9中隊と独立速射砲第18大隊主力、それに工兵1個中隊をもって軍特殊作業隊を編成し、バレテ峠北のサンタフェ=バンバン間の橋梁破壊と対戦車戦闘に当てる予定でした。
 4月30日に独立戦車第9中隊は行動開始したようですが、燃料不足のため全戦車を移動させることはできず、小野見習士官(後に少尉)を小隊長とする第3小隊と病兵をラローに残置しました。中隊は移動開始後も燃料不足に悩まされて、ツゲガラオに第2小隊をも残置し、中隊主力は中隊長車と第1小隊主力(2両)と自動貨車1両だけにやせ細ります。なお、第103師団全体も同様に輸送力不足のため行軍中に隷下部隊が細切れになってしまい、後に北上してきた米軍部隊と遭遇して各個撃破される結果になりました。
 独立戦車第9中隊主力は空襲を警戒して夜間行軍を続け、イラガン北方付近に到達します。到達時期は不明確ですが、戦友会報に載っている中隊長回想では6月上旬にイラガン北方3kmに進出とあります。中隊長回想によれば、マガット川に架かるイラガン北橋が米軍空襲で破壊されていたためそれ以上南下できず、イラガン北方で同地区警備担当の松井工兵隊の指揮下に入って布陣したといいます。南下開始時の目的地はバガバッグでしたが、同地はすでに米軍占領下でした。
 なお、津守独立戦車中隊の軽戦車12両も同様に夜間行軍主体で南下し、6月14日にカウアヤン付近まで進出後、米軍戦車隊を発見したため不利と判断して後退。しかし、イラガンの工兵橋を渡河しようとしたところ、橋が戦車の重量に耐えきれず崩落して軽戦車1両を失い、渡河を断念して国道5号を外れて川沿いの脇道に入った地点に布陣しました。道の両側の茂みに隠れて伏撃態勢で構えます。第103師団の独歩第175大隊第2中隊が転進支援のため行動を共にしていたようです。

オリオン峠 対する米軍はバレテ峠を突破しており、第37歩兵師団先鋒の第145歩兵連隊戦闘団が6月10日にはオリオン峠に到達して、日本軍第103師団の第1梯団として急行してきた独立歩兵第179大隊と衝突します(画像はオリオン峠で交戦中の米軍部隊)。独歩第179大隊は峠脇の山地に入りつつ米軍側背を脅かして奮戦、米軍後続部隊の第148連隊戦闘団の車列に20両損傷の打撃を与えますが、6月14日にオリオン峠防衛線は崩壊。第103師団の主力部隊も国道5号を南下してきたままオリオン峠周辺の遭遇戦で粉砕され、6月16日にはカウアヤンも米軍の手に落ちました。

 独立戦車第9中隊主力は、戦史叢書によれば6月20日、イラガン北方13km付近で北上してきた米軍部隊を迎撃し、戦車を全て失いました。中隊の戦車3両は陣地に分散配置されたようで中隊長も戦場全体を把握できず、戦闘の詳細は不明ですが、第1小隊長車は直撃弾を受けて全員戦死したとの伝聞情報を紹介しています。6月19日から20日の戦闘による中隊の戦死者は26人と記録されています。
 津守独立戦車中隊の軽戦車11両も、ほぼ同時に近所で米軍戦車隊と交戦し、最後尾にいて発見されなかった2両を残して全滅しました。残存車両も車載機銃だけ外して破壊処分したため、結局全損となっています。生存者の回想によると、津守中隊長は、この戦闘時に「独立戦車隊」に連絡に行っていて難を逃れたそうで(注3)、独戦第9中隊に連絡に行っていたのだと思われます。
 独戦第9中隊主力や津守独立戦車中隊と交戦したのは、米軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊戦闘団でした。同戦闘団の第775戦車大隊B中隊第1小隊は、6月18日にイラガン南方2マイルの地点からサンアントニオ方面の側道に進撃中、日本戦車8両と交戦して全滅させたと記録しています。そのうち6両は、小隊付軍曹の戦車の戦果でした。戦車の数からすると日本側は独戦第9中隊ではなく津守独立戦車中隊と思われます。数では日本側が優っていたようですが、九五式軽戦車とM4中戦車では如何ともしがたい性能差がありました。第37歩兵師団は、6月19日から6月23日の国道5号北上中の一連の戦闘で、日本の軽戦車15~16両を撃破し、日本兵600人以上を殺害、285人の捕虜を獲得したと記録しており、戦車の撃破数は独立戦車第9中隊主力と津守独立戦車中隊の合計とほぼ一致します。

 生き残った独立戦車第9中隊長以下の主力約40人は徒歩でイラガン東方山中に退避して、松井部隊との合流を図るうちに終戦を迎えました。ラローやツゲガラオに残置された人員の行動の詳細も調査未了ですが、6月23日と6月30日にツゲガラオや東方海岸で計19人の戦死が記録されており、第2小隊はこの頃に米軍部隊と交戦したのではないかと思われます。
 独立戦車第9中隊の総兵力131~139人のうち、終戦後の生還者は73~76人と記録されています。後方待機期間が長く、直接の地上戦闘に関わった時期が短かっため、悲島と呼ばれたフィリピン戦線としては比較的生存者の多い部隊といえるでしょう。

 なお、以上は主に中隊長回想によった経過ですが、これとは別に第三者の目撃談として、独立戦車第9中隊主力が壊滅する直前の1944年6月14日、マガット川南岸カバツアンCabatuan(原文「カバナツアン」ですが、ヌエバ・エシハ州のカバナツアンのことではなくイサベラ州カバツアンの誤記と思われます。)の渡し場で独立戦車第9中隊を見かけたとの回想があります(注4)。
 この回想によると、6月14日、北部ルソンの山中に撤退する第2航空通信団司令部改編の臨時独立第2歩兵団司令部がカバツアンにいたところ、装軌車両の音がして敵戦車かと驚いたら、現れたのが独戦第9中隊の中戦車2両だったといいます。戦車隊の指揮官が、臨時独立第2歩兵団の中島参謀と打ち合わせの後、2両はサンチャゴやオリオン峠のある南へ走り去りました。まだ若い戦車兵らは、軍属の筆者が砂糖の塊を差し出すと受け取ってポケットに仕舞い、丁寧に敬礼したそうです。その後、伝令が届けてきた通信文によると、独立戦車第9中隊の2両の戦車は、大元大尉の野砲とともに敵戦車3両に損害を与えたものの、戦車と航空機の攻撃を受けて全滅したらしいとなっています。大元砲兵隊は第105師団砲兵隊の一部のようです。
 中隊長回想とは少し内容が異なるのですが、全体として詳細な内容の回想である上、かなり具体的であるため、それなりに信用できる情報として検証する価値があるように思われます。そこで、とりあえず参考としてご紹介するものです。(この章終わり


注記
  1. 山本七平 『私の中の日本軍(上)』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年、297頁。
  2. 野砲兵第22連隊は第16師団の師団砲兵で、師団主力とともにレイテ島で全滅しましたが、第3大隊(10㎝榴弾砲)は捜索第16連隊などとともにルソン島に取り残されていました。第103師団から転進援助のため独歩第175大隊第4中隊などをもらって南進しようとしましたが、馬匹不足やゲリラによる道路破壊で行動が遅れてバレテ峠にもオリオン峠にも間に合わず、最終的に湯口支隊の指揮下に入れられています。
  3. 弓井崇弘 「末期フィリピンの戦車隊で生き残る」『平和の礎-軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』 第2巻、平和祈念事業特別基金、1992年。
  4. 須藤久男 「極限の戦場ルソンに生きる―戦史になき航空通信団司令部の戦闘全報告」『わが戦車隊ルソンに消えるとも』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。初出は『丸』昭和54年5月号。著者の旧姓:市川、将校待遇の軍属か。

鋼棺戦史(第5部 終焉・第1章・前編)

1.沖縄の戦い

 太平洋戦争における日米最後の決戦場となった沖縄。1945年4月当時、沖縄を守備する日本陸軍の第32軍は、沖縄本島へ第24師団・第62師団・独立混成第44旅団、宮古島へ第28師団・独立混成第59旅団・独立混成第60旅団、石垣島へ独立混成第45旅団、奄美諸島に独立混成第64旅団を配置していました。8個兵団の大兵を擁する第32軍ですが、その機甲戦力は軍直属の戦車第27連隊と第24師団隷下の捜索第24連隊および第24師団制毒隊というささやかなものでした。

 最有力の戦車第27連隊は、戦車第2師団の偵察部隊である師団捜索隊を抽出改編したものです。絶対国防圏の守備固めのため1944年3月17日に昭和19年軍令陸甲31号により臨時動員が下令されました。同時編成で硫黄島に送られたバロン西の戦車第26連隊(戦車第1師団捜索隊を抽出改編)とは兄弟分にあたります。
 前身である戦車師団捜索隊はもともと軽戦車中隊2個・中戦車中隊1個・乗車中隊(機械化歩兵)・整備中隊から成る諸兵科連合の編制でしたが、戦車第26・第27連隊の編制は軽戦車中隊1個・中戦車中隊2個・歩兵中隊・砲兵中隊(90式野砲4門)・工兵小隊・整備中隊という一段と強化された小型戦車師団というべき諸兵科連合部隊になっていました。これは、島嶼戦での独立部隊運用に対応するための編制でした。
 さて、満州勃利で編成された戦車第27連隊は、1944年6月に発生したサイパン戦により戦車第26連隊とともに逆上陸部隊として出撃準備を命じられますが、すぐに作戦中止となります。そして次の侵攻目標と危惧された沖縄へ派遣されることになったのです。同年7月、連隊長の村上乙中佐以下700人・九七式中戦車25両・九五式軽戦車14両が沖縄へ進出し、うち第3中隊(中戦車11両・軽戦車1両)と整備1個小隊(トラック3両・修理車1両)の人員114人は宮古島へ分遣されています。装備中戦車について、戦史叢書では「八九式中戦車(チハ改)」という妙な表記になっていますが、現存する写真を見る限り57mm砲搭載の九七式中戦車だったようです。
 戦車第27連隊の最終編制は、戦史叢書によると第4中隊として3個目の中戦車中隊が存在したものの、車両欠で車載重機24丁のみ装備であったとされます。これに対し、終戦直後に生還者の報告を復員省がまとめた「史実資料」の中には、沖縄進出後の1944年10月に増加装備による「特編中戦車中隊」を隊内限りで編成したとする例もあります。私見では、これらは同一の部隊を指しているのではないかと思います。

 捜索第24連隊は、第24師団の機械化偵察部隊で、もともとは関東軍の優良装備兵団であった第24師団にふさわしく戦車中隊や機関銃中隊を含む編制であったようです。しかし、1944年2月頃に「ロ号演習」の名で行われた絶対国防圏用の守備隊派遣の際に、戦車中隊や機関銃中隊は抽出されてしまいます。そして、同年7月に師団主力とともに沖縄へ向かう際、重装備を残置して本部と徒歩中隊2個の縮小編制に変わり、連隊長の才田勇太郎少佐以下449人でした。このほか、20mm機関砲2-3門・重機関銃2丁の重火器隊(隊長:富樫中尉)を作戦中に臨時に編成しています。

type94chemical.jpg 最後の第24師団制毒隊は、第24師団の化学戦部隊です。五十嵐正二郎大尉以下227人で、本部と1個中隊(発煙小隊・消毒小隊各1個)から成る編制だったのではないかと推定します。前身は第24師団軽装甲車訓練所で、毒ガス中和剤を散布するための甲号消車という特殊な装甲車両を消毒小隊に5両装備していました。
 この甲号消車は九四式と九七式の2機種あり、それぞれ九四式・九七式軽装甲車の派生車両(前車)により、散布機材を積んだ無人トレーラー(後車)を牽引して遠隔操作するというものです(左画像)。
 沖縄本島で撃破された所属不明の九四式軽装甲車の写真が複数車両分残っていますが(右画像)、私はその正体が第24師団制毒隊の九四式甲号消車の前車ではないかと考えています。tankette_syuri根拠は、他に軽装甲車を装備していた部隊の記録がないこと、後部ハッチに通常の軽装甲車では見かけない部品が付いており(注1)、後車を遠隔操作するためのケーブルの支持装置に思えることです。発煙筒を装着している点も化学戦部隊らしいですが、戦車第27連隊も沖縄戦で発煙筒を戦車に装着しており、あまり判断材料にはなりません。また、残念ながら甲号消車前車の車体後部の写真を見たことがなく、後部ハッチの部品が遠隔操作用ケーブルの支持装置だというのは全くの想像であり、もう少し検証の必要があると思います……と言っていたら、さっそくただの尾灯ではないかとのご指摘を受けました

 以上の3部隊のほか、沖縄戦に四式15糎自走砲(ホロ車)が参加していたとする文献もありますが、個人的には疑わしいと考えています。(中編につづく)

注記
1 後部ハッチに似たような部品がついた九四式軽装甲車の写真を1枚だけ見たことがありますが、これも所属部隊が不明です。その後、指摘を受けましたが、ただの尾灯のようです

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その3)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 独立戦車第8中隊(旧独立戦車第9中隊)は、1944年7月15日にマニラへ人員の主力が上陸。後発の装備を待つ間、鹵獲品のM3軽戦車を貸され、飛行場の整地に協力しています。これは乗員の操縦訓練を兼ねていました。対戦車攻撃演習の標的役も請け負ったようです。
 爆装した軽装甲車と鹵獲M3軽戦車を使って実施された体当たり攻撃の実験にも、操縦要員を差し出しています。この実験では、観閲中の山下奉文第14方面軍司令官が負傷する事故が発生してしまいました。一方で実験成果は後に戦車第10連隊第5中隊によって実戦に生かされることとなります(詳細は第3部第2章予定)。
Luzonmap.png
 9月10日にようやく正規装備の八九式中戦車甲11両を受け取った独立戦車第8中隊は、第105師団(勤兵団)へ配属され、師団とともにルソン島南部へ移動を開始します。戦車は鉄道輸送、トラック等は自走して、南東端に近いナガ周辺に分駐しました。移動中にゲリラとの戦闘などでトラック1両と中尉1人・兵1人を失っています。この点、第105師団兵器部の村田三郎平の回想(注1)では、10月6日に田保准尉の率いる八九式中戦車3両の独立戦車隊がナガへ到着し、既存の戦車隊と集成して中隊を編成したとあります。しかし、独立戦車第8中隊の細田正一の回想によると、田保小隊はもともと独立戦車第8中隊の一部です。移動・駐屯の過程で分離行動したのを誤解したのか、あるいは松元中隊長が鹵獲M3軽戦車で別途編成されていた第105師団特種戦車隊(詳細は第3部第4章予定)の隊長を兼務したことを指すのでしょうか。
 ナガ近郊のマバトバトという町に駐屯した第105師団工兵隊の経理士官は、分駐していた戦車隊のナガへの連絡便に部下を便乗させてもらい、買い出しに活用していたと回想しています(注2)。第105師団は現地編成の部隊で輸送力が不足していたため、自動車化された独立戦車第8中隊の存在は貴重だったでしょう。

 米軍上陸も迫った12月17日、第105師団主力にルソン中部アンティポロ(アンチポロ)への北上が命じられ、独立戦車第8中隊もこれに従って転進することになります。中隊は2便に分けての鉄道輸送と決まりました。部隊員の細田回想によると、12月29日に松元中隊長直率の第一陣(戦車5両・トラック3両・人員74人)が出発したが、第二陣の太田少尉隊(戦車6両・トラック2両・人員60人)は出発前の空襲でトラックや燃料を全損して戦車も放棄とあります。他方、師団高級副官の藤田相吉少佐の手記によると、12月30日にナガ駅がB-24数機の空襲を受けて工兵隊の弾薬が爆発して駅舎半壊も、1945年1月1日早朝に戦車隊の半数と工兵隊の一部を載せて列車出発、その後に鉄橋がゲリラに爆破され鉄道不通となっています(注3)。太田少尉以下の第二陣の生存者は、取り残されて第8師団の指揮下に入ったようですが、以後の詳細は不明です(注4注5)。

 アンティポロに転進した中隊主力は、米軍上陸1週間後の1945年1月13日に同地を発って国道5号をさらに北上、1月18日にはカバナトゥアン(カバナツアン)へ進出します。厚生省編纂の部隊略歴によると、1月20日に戦車第2師団へ配属変えとなったとあります。
 1月20~21日には、前回述べたようにカバナトゥアン西方タルラック所在の機動歩兵第2連隊の2個中隊が施設を破壊して撤退していますが、独立戦車第8中隊もこのタルラック方面の橋梁爆破援護のため戦車1両を派遣しました。アメリカ陸軍公刊戦史によると、1月21日夜にカバナトゥアンとタルラックの間のラ・パス(La Paz)へ戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去ったといいます(注6)。この記録はおそらく独立戦車第8中隊のことでしょう。
 この小さな戦闘はマニラを目指すアメリカ軍左翼に相当の脅威を感じさせました。カバナトゥアン付近の日本軍は移動中の第105師団の一部程度だったのですが、アメリカ軍は戦車第2師団の主力(実際にはもっと北)が存在するのではないかという疑いを持ったようです。アメリカ軍左翼の第1軍団が補給線整理も兼ねて一時停止、右翼第14軍団の第37歩兵師団が第1軍団地区まで偵察隊を派遣、第14軍団のクラーク飛行場群への進撃が数日遅延する大きな効果を生じています。

 独立戦車第8中隊はカバナトゥアンから北上を続け、1月27日ころにムニョスを守る戦車第2師団の戦車第6連隊主力と出会います。松元中隊長は戦闘協力を申し出たようですが、戦車第6連隊長の井田君平大佐から速やかに転進せよと断わられました。その後、ムニョスは2月1日以降、西からアメリカ軍の侵攻を受けて激戦となり、戦車第6連隊は戦車約50両が全滅、井田連隊長も戦死しています。
 2月2日、独立戦車第8中隊は、板垣少佐の指揮する戦車第2師団速射砲隊基幹のリサール(リザール)地区隊の指揮下に入ることを命じられました。2月3日ころにカバナトゥアン=ムニョス間のバロク三叉路付近(注7)へアメリカ軍軽戦車2両が出現したとの通報を受けると、中隊は戦車2両で迎撃に向かいますが、敵戦車は交戦せず撤退しています。その後、中隊は戦車1両をエンジン故障で失いつつ、リサールへ到着。
 2月5日、戦車第2師団は撤退命令を受けます。リサール地区隊も後退をはかり、独立戦車第8中隊が援護を命じられます。2月6日、中隊はリサールを脱出し、戦車1両が穴に転落して放棄されたほかは後退に成功します。翌2月7日、アメリカ第6歩兵師団の第63歩兵連隊がリサールを占領しました。リサール地区隊は全速射砲と板垣少佐を失い、2月13日に残存戦車5両が戦車第2師団司令部に掌握されたのみでした。

 3月10日、独立戦車第8中隊は、再び第105師団に配属されます。これより前に、リサールからカラングランを経由して国道5号に戻り、北上してバレテ峠を越えていたものと思われます。サンタルシアというバガバッグ北方の田園地帯へ第105師団の速射砲隊(臨時速射砲第2中隊のことか?)、鹵獲M3軽戦車隊(第105師団特種戦車隊のことか?)とともに布陣し、空挺部隊に対する警戒にあたりました。幸運にも一帯は第105師団の主な食料調達に使われているほど主食の米も副食の野菜や畜肉も豊富でした。空襲はそれなりに激しく、マラリアの流行地域でもあったようですが、末期フィリピン戦には珍しい安息の日々でした。
 5月下旬についにバレテ峠・サラクサク峠の防衛線が突破され、独立戦車第8中隊にも再び前線に立つときがやってきます。6月2日または3日、第105師団は、中隊にアメリカ軍の北上阻止を下令。中隊は、残存全力2両と段列に臨時編成の工兵中隊を引き連れると、国道4号からバガバッグで国道5号へ入り進撃します。バヨンボン付近へ差し掛かったところで、戦車のうち1両がエンジン火災を起こして失われました。八九式中戦車甲は搭載したガソリンエンジンの炎上事故が多かったようです。
 6月4日、最後の1両となった中隊は、バヨンボン南方7~8km付近の国道5号がマガット川支流を渡る橋を前に、カーブと丘で遮蔽された陣を敷きます。段列要員らも爆雷を抱えてたこつぼに潜みました。
 午前10時ころ(日付不明)にM4中戦車複数と随伴歩兵が出現し、戦闘が始まります。そして、斥候に発見されて当初の計画よりも遠距離での交戦となってしまったものの、先頭のM4中戦車を首尾よく走行不能にできたため、撃退に成功しました。中隊は反撃の砲爆撃を受ける前に撤退することを決め、主砲の復座器が銃弾で破壊された八九式中戦車はダイナマイトで爆破処分されました。なお、この戦闘については、同人誌「J-Tank」第3号に収録の鉄獅子「奮戦、独立戦車第八中隊! 八九式中戦車、M4ヲ撃破ス!」に詳らかです。
 アメリカ軍の記録を見ると、交戦した相手は第37歩兵師団の第129歩兵連隊戦闘団で、M4中戦車は第775戦車大隊の所属と思われます。米陸軍公刊戦史は、6月1~4日にアリタオで戦車第2師団の生き残りである戦車撃滅隊を撃破した後、バンバンを無血占領、6月7日にバヨンボンを制圧するまではバト橋(Bato Bridge)で形ばかりの抵抗を受けたことにしか言及しません(注8)。バト橋はマガット川本流に架かっているのですが、唯一の抵抗という状況から、ひとまず独立戦車第8中隊のことと推定します。
こうしてすべての戦車を失った独立戦車第8中隊は、戦車から下ろした車載機銃などを武器に歩兵として戦い、終戦までをルソン北部の中央山地で過ごしました。(その4へ続く

注記
  1. 第105師団兵器部にいた村田三郎平は、もともと戦車部隊出身の技術将校です。そのためか回想記の「最前線爆雷製造部隊」には戦車に関する記述が豊富です。村田は、その後に戦車第2師団整備隊へ転属し、戦車砲改造山砲や戦車用トレーラーなど応急兵器製造に活躍しています。
  2. 丹波五郎「父のフィリピン戦記」(杉並けやき出版、2004年)・48頁。この経理部士官は、1945年3月頃にサンタルシアへ米の収穫に出かけた際、独立戦車第8中隊と再会したことも手記に記録しています。
  3. 藤田相吉「秘録ルソンの苦闘」(蛍光社、1963年)・413-415頁。
  4. ナガ残留組の行動に関しては、該当可能性のある回想録が存在します。川又照市「分捕りM4戦車の比島疾駆行」(「丸」エキストラ版第30集、1973年)がそれです。著者の所属部隊は、本文頁で「撃戦車兵団」(戦車第2師団)の「田村中隊」とありますが、目次頁では「第一〇五師団戦車隊」となっています。当初は八九式中戦車12両装備で戦闘時の稼働車5両、ルソン島ラグナ湖(バエ湖)畔・タナイ付近で戦闘といった内容からすると、独立戦車第8中隊のナガ残留組が最も整合的と考えます。
    同回想によると、M4中戦車を八九式中戦車で滅多撃ちして降伏に追い込み、友軍の誤射を受けながら本部へ持ち帰ったと言います。あまりに変わった戦闘内容、所属部隊が目次と本文で異なる、台湾沖航空戦の大本営発表(1944年10月)と同時期に戦闘したというありえない記述など信用性に疑いの残る文章ですが、事実なら興味深い話です。時期的におかしい台湾沖航空戦の大本営発表という点は、ラグナ湖付近で戦闘中の1945年4月にあった菊水作戦の大本営発表との混同と考えれば説明がつきます。
    追記(2016年12月29日):注4の戦記ですが、部隊史やその付属名簿と照らすと該当する人名が全く無く、残念ながらフィクションの可能性が高いように思われます。第105師団や田村中隊といった固有名詞の選び方は、案外、注1の第105師団兵器部の村田三郎平が著者ではないかという気もしますが、積極的な根拠はありません。
  5. また、同じくナガ残留組の生存者とも思える方が、長崎新聞の記事に紹介されています。日中戦争中に久留米の戦車第1連隊に入営した戦車兵の方で、太平洋戦争終戦時にはルソン島アンティポロにいたとあります。終戦頃にはわずかな手榴弾と爆薬で夜間切り込みをしていたそうです。独立戦車第8中隊は兵庫県青野ヶ原の戦車第19連隊で編成された部隊ですが、独立戦車第11中隊・第12中隊が久留米の戦車第18連隊編成の部隊で、本文のとおり海没後の再編成で独立戦車第8中隊に送られた人員もあり、久留米の人が混じっていてもおかしくはありません。「戦争を語る:後方支援は戦争加担―日中戦争、太平洋戦争に従軍した高松高雄さん(86)=佐世保市松瀬町=」(長崎新聞、2003年8月16日)
  6. Smith, p.169.
  7. 細田資料による。ただし、米軍記録によると、1月31日にはバロク三叉路を含むムニョス以南の5号国道はアメリカ軍の占領済みとなっており、日付または地点が若干異なっている可能性がある。
  8. Smith, pp.562~563.
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
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