山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その4)

3.独立中隊の挽歌(承前)

Luzonmap.png ルソン島に展開した残る一つの独立戦車中隊である独立戦車第9中隊(旧独立戦車第11中隊)は、1944年11月にルソン島北部のエチアゲやツゲガラオに進出して飛行場整備に従事していましたが、翌1945年1月の米軍上陸と同時期に、既述の通り、北部の第103師団(駿兵団)に配属されました。なお、同師団指揮下の機甲戦力としては外に、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車12~15両・装甲兵車2両)と、第103師団特種戦車隊(鹵獲M3軽戦車)及び第103師団砲兵隊自走砲中隊(鹵獲M3自走砲)がありました。
 第103師団の任務は、ルソン島北端のアパリに上陸することが想定される米軍、及び、ルソン島北部カガヤン平野に降下するおそれのある米軍空挺部隊の迎撃でした。独立戦車第9中隊はアパリへの米軍上陸に備えて、その内陸15kmのラローに駐屯しました。燃料のガソリンが不足してきたため、中隊長の中島保男中尉は、戦車をトーチカ化することも考え始めていたと回想しています。同様に第103師団に配属された津守独立戦車中隊は、主に空挺部隊に対する反撃戦力として期待され、海岸から少し離れた林の中に壕を掘って陣地を構成していました。
 この頃、付近に居た第103師団砲兵隊の自走砲中隊は、独立戦車第9中隊によって車両整備の援助を受けていたようです。第103師団砲兵隊にいた山本七平少尉は、独立戦車第9中隊と思われる近所の戦車隊について、軍神西住戦車長が乗っていたのと同じ八九式中戦車装備で、日本軍では珍しいガソリンエンジンの骨董品のスクラップ部隊、修理班の軍曹が「わが隊は修理班に関する限り日本一デッセ、何しろ廃品が動いちょりますからなあ」と自嘲していたと紹介しています(注1)。

 さて、1945年1月のルソン島リンガエン湾への米軍上陸後も、第103師団はルソン島北部から動きませんでした。北部に米軍別働隊が上陸・空挺降下して、リンガエン湾から北上する米軍主力と挟み撃ちにされることを警戒したものと思われます。
 しかし、4月中旬に米軍によりサラクサク峠・バレテ峠の防衛線が浸食され、米軍がカガヤン平野へ北上する危険が高まると、ついに第103師団にも南下してバレテ峠で米軍を阻止するよう命令が下りました(4月27日:尚武作命甲第690号)。一部だけが湯口支隊としてアパリに残置されます。
 このとき、独立戦車第9中隊もバレテ峠救援のため国道5号を南進することになりますが、独立戦車第9中隊は第103師団への配属を解かれて、独立速射砲第18大隊や野砲兵第22連隊第3大隊(注2)などとともに第14方面軍直轄に移されます。戦車第2師団主力が壊滅した当時となっては、貴重な機甲戦力として期待されたものと思われます。5月初めの第14方面軍の計画では、独立戦車第9中隊と独立速射砲第18大隊主力、それに工兵1個中隊をもって軍特殊作業隊を編成し、バレテ峠北のサンタフェ=バンバン間の橋梁破壊と対戦車戦闘に当てる予定でした。
 4月30日に独立戦車第9中隊は行動開始したようですが、燃料不足のため全戦車を移動させることはできず、小野見習士官(後に少尉)を小隊長とする第3小隊と病兵をラローに残置しました。中隊はその後も燃料不足に悩まされて、ツゲガラオに第2小隊をも残置し、中隊主力は中隊長車と第1小隊主力(2両)と自動貨車1両だけにやせ細ります。なお、第103師団全体も同様に輸送力不足のため行軍中に隷下部隊が細切れになってしまい、後に北上してきた米軍部隊と遭遇して各個撃破される結果になりました。
 独立戦車第9中隊主力は空襲を警戒して夜間行軍を続け、イラガン北方付近に到達します。到達時期は不明確ですが、戦友会報に載っている中隊長回想では6月上旬にイラガン北方3kmに進出とあります。中隊長回想によれば、マガット川に架かるイラガン北橋が米軍空襲で破壊されていたためそれ以上南下できず、イラガン北方で同地区警備担当の松井工兵隊の指揮下に入って布陣したといいます。南下開始時の目的地はバガバッグでしたが、同地はすでに米軍占領下でした。
 なお、津守独立戦車中隊の軽戦車12両も同様に夜間行軍主体で南下し、6月14日にカウアヤン付近まで進出後、米軍戦車隊を発見したため不利と判断して後退。しかし、イラガンの工兵橋を渡河しようとしたところ、橋が戦車の重量に耐えきれず崩落して軽戦車1両を失い、渡河を断念して国道5号を外れて川沿いの脇道に入った地点に布陣しました。第103師団の独歩第175大隊第2中隊が転進支援のため行動を共にしていたようです。

オリオン峠 対する米軍はバレテ峠を突破しており、第37歩兵師団先鋒の第145歩兵連隊戦闘団が6月10日にはオリオン峠に到達して、日本軍第103師団の第1梯団として急行してきた独立歩兵第179大隊と衝突します(画像はオリオン峠で交戦中の米軍部隊)。独歩第179大隊は峠脇の山地に入りつつ米軍側背を脅かして奮戦、米軍後続部隊の第148連隊戦闘団の車列に20両損傷の打撃を与えますが、6月14日にオリオン峠防衛線は崩壊。第103師団の主力部隊も国道5号を南下してきたままオリオン峠周辺の遭遇戦で粉砕され、6月16日にはカウアヤンも米軍の手に落ちました。

 独立戦車第9中隊主力は、戦史叢書によれば6月20日、イラガン北方13km付近で北上してきた米軍部隊を迎撃し、戦車を全て失いました。中隊の戦車3両は陣地に分散配置されたようで中隊長も戦場全体を把握できず、戦闘の詳細は不明ですが、第1小隊長車は直撃弾を受けて全員戦死したとの伝聞情報を紹介しています。6月19日から20日の戦闘による中隊の戦死者は26人と記録されています。
 津守独立戦車中隊の軽戦車11両も、ほぼ同時に近所で米軍戦車隊と交戦して、2両を残して全滅しました。残存車両も車載機銃だけ外して破壊処分したため、結局全損となっています。生存者の回想によると、津守中隊長は、この戦闘時に「独立戦車隊」に連絡に行っていて難を逃れたそうで(注3)、独戦第9中隊に連絡に行っていたのだと思われます。
 独戦第9中隊主力や津守独立戦車中隊と交戦したのは、米軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊戦闘団でした。同戦闘団の第775戦車大隊B中隊第1小隊は、6月18日にイラガン南方2マイルの地点からサンアントニオ方面の側道に進撃中、日本戦車8両と交戦して全滅させたと記録しています。そのうち6両は、小隊付軍曹の戦車の戦果でした。戦車の数からすると日本側は独戦第9中隊ではなく津守独立戦車中隊と思われます。数では日本側が優っていたようですが、九五式軽戦車とM4中戦車では如何ともしがたい性能差がありました。第37歩兵師団は、6月19日から6月23日の国道5号北上中の一連の戦闘で、日本の軽戦車15~16両を撃破し、日本兵600人以上を殺害、285人の捕虜を獲得したと記録しており、戦車の撃破数は独立戦車第9中隊主力と津守独立戦車中隊の合計とほぼ一致します。

 生き残った独立戦車第9中隊長以下の主力約40人は徒歩でイラガン東方山中に退避して、松井部隊との合流を図るうちに終戦を迎えました。ラローやツゲガラオに残置された人員の行動の詳細も調査未了ですが、6月23日と6月30日にツゲガラオや東方海岸で計19人の戦死が記録されており、第2小隊はこの頃に米軍部隊と交戦したのではないかと思われます。
 独立戦車第9中隊の総兵力131~139人のうち、終戦後の生還者は73~76人と記録されています。後方待機期間が長く、直接の地上戦闘に関わった時期が短かっため、悲島と呼ばれたフィリピン戦線としては比較的生存者の多い部隊といえるでしょう。

 なお、以上は主に中隊長回想によった経過ですが、これとは別に第三者の目撃談として、独立戦車第9中隊主力が壊滅する直前の1944年6月14日、マガット川南岸カバツアンCabatuan(原文「カバナツアン」ですが、ヌエバ・エシハ州のカバナツアンのことではなくイサベラ州カバツアンの誤記と思われます。)の渡し場で独立戦車第9中隊を見かけたとの回想があります(注4)。
 この回想によると、6月14日、北部ルソンの山中に撤退する第2航空通信団司令部改編の臨時独立第2歩兵団司令部がカバツアンにいたところ、装軌車両の音がして敵戦車かと驚いたら、現れたのが独戦第9中隊の中戦車2両だったといいます。戦車隊の指揮官が、臨時独立第2歩兵団の中島参謀と打ち合わせの後、2両はサンチャゴやオリオン峠のある南へ走り去りました。まだ若い戦車兵らは、軍属の筆者が砂糖の塊を差し出すと受け取ってポケットに仕舞い、丁寧に敬礼したそうです。その後、伝令が届けてきた通信文によると、独立戦車第9中隊の2両の戦車は、大元大尉の野砲とともに敵戦車3両に損害を与えたものの、戦車と航空機の攻撃を受けて全滅したらしいとなっています。大元砲兵隊は第105師団砲兵隊の一部のようです。
 中隊長回想とは少し内容が異なるのですが、全体として詳細な内容の回想である上、かなり具体的であるため、それなりに信用できる情報として検証する価値があるように思われます。そこで、とりあえず参考としてご紹介するものです。(この章終わり


注記
1 山本七平 『私の中の日本軍(上)』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年、297頁。

2 野砲兵第22連隊は第16師団の師団砲兵で、師団主力とともにレイテ島で全滅しましたが、第3大隊(10㎝榴弾砲)は捜索第16連隊などとともにルソン島に取り残されていました。第103師団から転進援助のため独歩第175大隊第4中隊などをもらって南進しようとしましたが、馬匹不足やゲリラによる道路破壊で行動が遅れてバレテ峠にもオリオン峠にも間に合わず、最終的に湯口支隊の指揮下に入れられています。

3 弓井崇弘 「末期フィリピンの戦車隊で生き残る」『平和の礎-軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』 第2巻、平和祈念事業特別基金、1992年。

4 須藤久男 「極限の戦場ルソンに生きる―戦史になき航空通信団司令部の戦闘全報告」『わが戦車隊ルソンに消えるとも』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年。初出は『丸』昭和54年5月号。著者の旧姓:市川、将校待遇の軍属か。
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鋼棺戦史(第5部 終焉・第1章・前編)

1.沖縄の戦い

 太平洋戦争における日米最後の決戦場となった沖縄。1945年4月当時、沖縄を守備する日本陸軍の第32軍は、沖縄本島へ第24師団・第62師団・独立混成第44旅団、宮古島へ第28師団・独立混成第59旅団・独立混成第60旅団、石垣島へ独立混成第45旅団、奄美諸島に独立混成第64旅団を配置していました。8個兵団の大兵を擁する第32軍ですが、その機甲戦力は軍直属の戦車第27連隊と第24師団隷下の捜索第24連隊および第24師団制毒隊というささやかなものでした。

 最有力の戦車第27連隊は、戦車第2師団の偵察部隊である師団捜索隊を抽出改編したものです。絶対国防圏の守備固めのため1944年3月17日に昭和19年軍令陸甲31号により臨時動員が下令されました。同時編成で硫黄島に送られたバロン西の戦車第26連隊(戦車第1師団捜索隊を抽出改編)とは兄弟分にあたります。
 前身である戦車師団捜索隊はもともと軽戦車中隊2個・中戦車中隊1個・乗車中隊(機械化歩兵)・整備中隊から成る諸兵科連合の編制でしたが、戦車第26・第27連隊の編制は軽戦車中隊1個・中戦車中隊2個・歩兵中隊・砲兵中隊(90式野砲4門)・工兵小隊・整備中隊という一段と強化された小型戦車師団というべき諸兵科連合部隊になっていました。これは、島嶼戦での独立部隊運用に対応するための編制でした。
 さて、満州勃利で編成された戦車第27連隊は、1944年6月に発生したサイパン戦により戦車第26連隊とともに逆上陸部隊として出撃準備を命じられますが、すぐに作戦中止となります。そして次の侵攻目標と危惧された沖縄へ派遣されることになったのです。同年7月、連隊長の村上乙中佐以下700人・九七式中戦車25両・九五式軽戦車14両が沖縄へ進出し、うち第3中隊(中戦車11両・軽戦車1両)と整備1個小隊(トラック3両・修理車1両)の人員114人は宮古島へ分遣されています。装備中戦車について、戦史叢書では「八九式中戦車(チハ改)」という妙な表記になっていますが、現存する写真を見る限り57mm砲搭載の九七式中戦車だったようです。
 戦車第27連隊の最終編制は、戦史叢書によると第4中隊として3個目の中戦車中隊が存在したものの、車両欠で車載重機24丁のみ装備であったとされます。これに対し、終戦直後に生還者の報告を復員省がまとめた「史実資料」の中には、沖縄進出後の1944年10月に増加装備による「特編中戦車中隊」を隊内限りで編成したとする例もあります。私見では、これらは同一の部隊を指しているのではないかと思います。

 捜索第24連隊は、第24師団の機械化偵察部隊で、もともとは関東軍の優良装備兵団であった第24師団にふさわしく戦車中隊や機関銃中隊を含む編制であったようです。しかし、1944年2月頃に「ロ号演習」の名で行われた絶対国防圏用の守備隊派遣の際に、戦車中隊や機関銃中隊は抽出されてしまいます。そして、同年7月に師団主力とともに沖縄へ向かう際、重装備を残置して本部と徒歩中隊2個の縮小編制に変わり、連隊長の才田勇太郎少佐以下449人でした。このほか、20mm機関砲2-3門・重機関銃2丁の重火器隊(隊長:富樫中尉)を作戦中に臨時に編成しています。

type94chemical.jpg 最後の第24師団制毒隊は、第24師団の化学戦部隊です。五十嵐正二郎大尉以下227人で、本部と1個中隊(発煙小隊・消毒小隊各1個)から成る編制だったのではないかと推定します。前身は第24師団軽装甲車訓練所で、毒ガス中和剤を散布するための甲号消車という特殊な装甲車両を消毒小隊に5両装備していました。
 この甲号消車は九四式と九七式の2機種あり、それぞれ九四式・九七式軽装甲車の派生車両(前車)により、散布機材を積んだ無人トレーラー(後車)を牽引して遠隔操作するというものです(左画像)。
 沖縄本島で撃破された所属不明の九四式軽装甲車の写真が複数車両分残っていますが(右画像)、私はその正体が第24師団制毒隊の九四式甲号消車の前車ではないかと考えています。tankette_syuri根拠は、他に軽装甲車を装備していた部隊の記録がないこと、後部ハッチに通常の軽装甲車では見かけない部品が付いており(注1)、後車を遠隔操作するためのケーブルの支持装置に思えることです。発煙筒を装着している点も化学戦部隊らしいですが、戦車第27連隊も沖縄戦で発煙筒を戦車に装着しており、あまり判断材料にはなりません。また、残念ながら甲号消車前車の車体後部の写真を見たことがなく、後部ハッチの部品が遠隔操作用ケーブルの支持装置だというのは全くの想像であり、もう少し検証の必要があると思います……と言っていたら、さっそくただの尾灯ではないかとのご指摘を受けました

 以上の3部隊のほか、沖縄戦に四式15糎自走砲(ホロ車)が参加していたとする文献もありますが、個人的には疑わしいと考えています。(中編につづく)

注記
1 後部ハッチに似たような部品がついた九四式軽装甲車の写真を1枚だけ見たことがありますが、これも所属部隊が不明です。その後、指摘を受けましたが、ただの尾灯のようです

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その3)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 独立戦車第8中隊(旧独立戦車第9中隊)は、1944年7月15日にマニラへ人員の主力が上陸。後発の装備を待つ間、鹵獲品のM3軽戦車を貸され、飛行場の整地に協力しています。これは乗員の操縦訓練を兼ねていました。対戦車攻撃演習の標的役も請け負ったようです。
 爆装した軽装甲車と鹵獲M3軽戦車を使って実施された体当たり攻撃の実験にも、操縦要員を差し出しています。この実験では、観閲中の山下奉文第14方面軍司令官が負傷する事故が発生してしまいました。一方で実験成果は後に戦車第10連隊第5中隊によって実戦に生かされることとなります(詳細は第3部第2章予定)。
Luzonmap.png
 9月10日にようやく正規装備の八九式中戦車甲11両を受け取った独立戦車第8中隊は、第105師団(勤兵団)へ配属され、師団とともにルソン島南部へ移動を開始します。戦車は鉄道輸送、トラック等は自走して、南東端に近いナガ周辺に分駐しました。移動中にゲリラとの戦闘などでトラック1両と中尉1人・兵1人を失っています。この点、第105師団兵器部の村田三郎平の回想(注1)では、10月6日に田保准尉の率いる八九式中戦車3両の独立戦車隊がナガへ到着し、既存の戦車隊と集成して中隊を編成したとあります。しかし、独立戦車第8中隊の細田正一の回想によると、田保小隊はもともと独立戦車第8中隊の一部です。移動・駐屯の過程で分離行動したのを誤解したのか、あるいは松元中隊長が鹵獲M3軽戦車で別途編成されていた第105師団特種戦車隊(詳細は第3部第4章予定)の隊長を兼務したことを指すのでしょうか。
 ナガ近郊のマバトバトという町に駐屯した第105師団工兵隊の経理士官は、分駐していた戦車隊のナガへの連絡便に部下を便乗させてもらい、買い出しに活用していたと回想しています(注2)。第105師団は現地編成の部隊で輸送力が不足していたため、自動車化された独立戦車第8中隊の存在は貴重だったでしょう。

 米軍上陸も迫った12月17日、第105師団主力にルソン中部アンティポロ(アンチポロ)への北上が命じられ、独立戦車第8中隊もこれに従って転進することになります。中隊は2便に分けての鉄道輸送と決まりました。部隊員の細田回想によると、12月29日に松元中隊長直率の第一陣(戦車5両・トラック3両・人員74人)が出発したが、第二陣の太田少尉隊(戦車6両・トラック2両・人員60人)は出発前の空襲でトラックや燃料を全損して戦車も放棄とあります。他方、師団高級副官の藤田相吉少佐の手記によると、12月30日にナガ駅がB-24数機の空襲を受けて工兵隊の弾薬が爆発して駅舎半壊も、1945年1月1日早朝に戦車隊の半数と工兵隊の一部を載せて列車出発、その後に鉄橋がゲリラに爆破され鉄道不通となっています(注3)。太田少尉以下の第二陣の生存者は、取り残されて第8師団の指揮下に入ったようですが、以後の詳細は不明です(注4注5)。

 アンティポロに転進した中隊主力は、米軍上陸1週間後の1月13日に同地を発って国道5号をさらに北上、1月18日にはカバナトゥアン(カバナツアン)へ進出します。厚生省編纂の部隊略歴によると、1月20日に戦車第2師団へ配属変えとなったとあります。
 1月20~21日には、前回述べたようにカバナトゥアン西方タルラック所在の機動歩兵第2連隊の2個中隊が施設を破壊して撤退していますが、独立戦車第8中隊もこのタルラック方面の橋梁爆破援護のため戦車1両を派遣しました。アメリカ陸軍公刊戦史によると、1月21日夜にカバナトゥアンとタルラックの間のラ・パス(La Paz)へ戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去ったといいます(注6)。この記録はおそらく独立戦車第8中隊のことでしょう。
 この小さな戦闘はマニラを目指すアメリカ軍左翼に相当の脅威を感じさせました。カバナトゥアン付近の日本軍は移動中の第105師団の一部程度だったのですが、アメリカ軍は戦車第2師団の主力(実際にはもっと北)が存在するのではないかという疑いを持ったようです。アメリカ軍左翼の第1軍団が補給線整理も兼ねて一時停止、右翼第14軍団の第37歩兵師団が第1軍団地区まで偵察隊を派遣、第14軍団のクラーク飛行場群への進撃が数日遅延する大きな効果を生じています。

 独立戦車第8中隊はカバナトゥアンから北上を続け、1月27日ころにムニョスを守る戦車第2師団の戦車第6連隊主力と出会います。松元中隊長は戦闘協力を申し出たようですが、戦車第6連隊長の井田君平大佐から速やかに転進せよと断わられました。その後、ムニョスは2月1日以降、西からアメリカ軍の侵攻を受けて激戦となり、戦車第6連隊は戦車約50両が全滅、井田連隊長も戦死しています。
 2月2日、独立戦車第8中隊は、板垣少佐の指揮する戦車第2師団速射砲隊基幹のリサール(リザール)地区隊の指揮下に入ることを命じられました。2月3日ころにカバナトゥアン=ムニョス間のバロク三叉路付近(注7)へアメリカ軍軽戦車2両が出現したとの通報を受けると、中隊は戦車2両で迎撃に向かいますが、敵戦車は交戦せず撤退しています。その後、中隊は戦車1両をエンジン故障で失いつつ、リサールへ到着。
 2月5日、戦車第2師団は撤退命令を受けます。リサール地区隊も後退をはかり、独立戦車第8中隊が援護を命じられます。2月6日、中隊はリサールを脱出し、戦車1両が穴に転落して放棄されたほかは後退に成功します。翌2月7日、アメリカ第6歩兵師団の第63歩兵連隊がリサールを占領しました。リサール地区隊は全速射砲と板垣少佐を失い、2月13日に残存戦車5両が戦車第2師団司令部に掌握されたのみでした。

 3月10日、独立戦車第8中隊は、再び第105師団に配属されます。これより前に、リサールからカラングランを経由して国道5号に戻り、北上してバレテ峠を越えていたものと思われます。サンタルシアというバガバッグ北方の田園地帯へ第105師団の速射砲隊(臨時速射砲第2中隊のことか?)、鹵獲M3軽戦車隊(第105師団特種戦車隊のことか?)とともに布陣し、空挺部隊に対する警戒にあたりました。幸運にも一帯は第105師団の主な食料調達に使われているほど主食の米も副食の野菜や畜肉も豊富でした。空襲はそれなりに激しく、マラリアの流行地域でもあったようですが、末期フィリピン戦には珍しい安息の日々でした。
 5月下旬についにバレテ峠・サラクサク峠の防衛線が突破され、独立戦車第8中隊にも再び前線に立つときがやってきます。6月2日または3日、第105師団は、中隊にアメリカ軍の北上阻止を下令。中隊は、残存全力2両と段列に臨時編成の工兵中隊を引き連れると、国道4号からバガバッグで国道5号へ入り進撃します。バヨンボン付近へ差し掛かったところで、戦車のうち1両がエンジン火災を起こして失われました。八九式中戦車甲は搭載したガソリンエンジンの炎上事故が多かったようです。
 6月4日、最後の1両となった中隊は、バヨンボン南方7~8km付近の国道5号がマガット川支流を渡る橋を前に、カーブと丘で遮蔽された陣を敷きます。段列要員らも爆雷を抱えてたこつぼに潜みました。
 午前10時ころ(日付不明)にM4中戦車複数と随伴歩兵が出現し、戦闘が始まります。そして、斥候に発見されて当初の計画よりも遠距離での交戦となってしまったものの、先頭のM4中戦車を首尾よく走行不能にできたため、撃退に成功しました。中隊は反撃の砲爆撃を受ける前に撤退することを決め、主砲の復座器が銃弾で破壊された八九式中戦車はダイナマイトで爆破処分されました。なお、この戦闘については、同人誌「J-Tank」第3号に収録の鉄獅子「奮戦、独立戦車第八中隊! 八九式中戦車、M4ヲ撃破ス!」に詳らかです。
 アメリカ軍の記録を見ると、交戦した相手は第37歩兵師団の第129歩兵連隊戦闘団で、M4中戦車は第775戦車大隊の所属と思われます。米陸軍公刊戦史は、6月1~4日にアリタオで戦車第2師団の生き残りである戦車撃滅隊を撃破した後、バンバンを無血占領、6月7日にバヨンボンを制圧するまではバト橋(Bato Bridge)で形ばかりの抵抗を受けたことにしか言及しません(注8)。バト橋はマガット川本流に架かっているのですが、唯一の抵抗という状況から、ひとまず独立戦車第8中隊のことと推定します。
 こうしてすべての戦車を失った独立戦車第8中隊は、戦車から下ろした車載機銃などを武器に歩兵として戦い、終戦までをルソン北部の中央山地で過ごしました。(その4へ続く

注記
1 第105師団兵器部にいた村田三郎平は、もともと戦車部隊出身の技術将校です。そのためか回想記の「最前線爆雷製造部隊」には戦車に関する記述が豊富です。村田は、その後に戦車第2師団整備隊へ転属し、戦車砲改造山砲や戦車用トレーラーなど応急兵器製造に活躍しています。

2 丹波五郎「父のフィリピン戦記」(杉並けやき出版、2004年)・48頁。この経理部士官は、1945年3月頃にサンタルシアへ米の収穫に出かけた際、独立戦車第8中隊と再会したことも手記に記録しています。

3 藤田相吉「秘録ルソンの苦闘」(蛍光社、1963年)・413-415頁。

4 ナガ残留組の行動に関しては、該当可能性のある回想録が存在します。川又照市「分捕りM4戦車の比島疾駆行」(「丸」エキストラ版第30集、1973年)がそれです。著者の所属部隊は、本文頁で「撃戦車兵団」(戦車第2師団)の「田村中隊」とありますが、目次頁では「第一〇五師団戦車隊」となっています。当初は八九式中戦車12両装備で戦闘時の稼働車5両、ルソン島ラグナ湖(バエ湖)畔・タナイ付近で戦闘といった内容からすると、独立戦車第8中隊のナガ残留組が最も整合的と考えます。
 同回想によると、M4中戦車を八九式中戦車で滅多撃ちして降伏に追い込み、友軍の誤射を受けながら本部へ持ち帰ったと言います。あまりに変わった戦闘内容、所属部隊が目次と本文で異なる、台湾沖航空戦の大本営発表(1944年10月)と同時期に戦闘したというありえない記述など信用性に疑いの残る文章ですが、事実なら興味深い話です。時期的におかしい台湾沖航空戦の大本営発表という点は、ラグナ湖付近で戦闘中の1945年4月にあった菊水作戦の大本営発表との混同と考えれば説明がつきます。

追記(2016年12月29日)
注4の戦記ですが、部隊史やその付属名簿と照らすと該当する人名が全く無く、残念ながらフィクションの可能性が高いように思われます。第105師団や田村中隊といった固有名詞の選び方は、案外、注1の第105師団兵器部の村田三郎平が著者ではないかという気もしますが、積極的な根拠はありません。

5 また、同じくナガ残留組の生存者とも思える方が、長崎新聞の記事に紹介されています。日中戦争中に久留米の戦車第1連隊に入営した戦車兵の方で、太平洋戦争終戦時にはルソン島アンティポロにいたとあります。終戦頃にはわずかな手榴弾と爆薬で夜間切り込みをしていたそうです。独立戦車第8中隊は兵庫県青野ヶ原の戦車第19連隊で編成された部隊ですが、独立戦車第11中隊・第12中隊が久留米の戦車第18連隊編成の部隊で、本文のとおり海没後の再編成で独立戦車第8中隊に送られた人員もあり、久留米の人が混じっていてもおかしくはありません。「戦争を語る:後方支援は戦争加担―日中戦争、太平洋戦争に従軍した高松高雄さん(86)=佐世保市松瀬町=」(長崎新聞、2003年8月16日)

6 Smith, p.169.

7 細田資料による。ただし、米軍記録によると、1月31日にはバロク三叉路を含むムニョス以南の5号国道はアメリカ軍の占領済みとなっており、日付または地点が若干異なっている可能性がある。

8 Smith, pp.562~563.

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その2)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 1944年12月、レイテ島の戦いにおける日本軍の敗北が明らかとなり、ルソン島の第14方面軍は島内を「尚武」「振武」「建武」の3集団で分担する三大拠点構想に基づく防衛体制へ移行します。
 岩下戦車中隊(旧独立戦車第8中隊)は建武集団へ区処されました。建武集団はマニラ北西・ピナツボ山東一帯に広がるクラーク飛行場地区の守備隊です。総兵力は約3万人ありましたが、その半数以上は海軍兵、陸軍兵もほとんどが航空隊の地上組織であったため極めて弱体でした。まともな陸戦能力を有するのは、建武集団長を務める塚田理喜智中将(第1挺進集団長=空挺師団長兼務)の旗本というべき滑空歩兵第2連隊(グライダー空挺部隊)の750人と、北上した戦車第2師団の置き土産である機動歩兵第2連隊主力の1700人程度で、あとは基地警備用の飛行場大隊が第一線を張らねばならない状況。その中で、岩下戦車中隊は、仮編独立自走砲中隊(長:鷲見文男中尉)の四式15cm自走砲2門とともに貴重な機甲戦力といえます(注1)。

kenbu_group.png 1945年1月7日にアメリカ軍はルソン島リンガエン湾に上陸。対する建武集団は、リンガエン湾からマニラへ向かって南下してくるアメリカ軍を側撃する構えで、ピナツボ山を背に南北に連なる防衛陣を築きます。塚田集団長の命じた配備では、左翼に機動歩兵第2連隊主力を基幹とする高山地区隊(機動歩兵大隊1個・飛行場大隊2個ほか)、中央にはストッチェンバーグ飛行場を抑えた江口地区隊(飛行場大隊5個・仮編独立自走砲中隊ほか)、右翼へ少し離れたアンヘレス(Angeles)飛行場には江口隊を側面援護するため柳本地区隊(機動歩兵大隊1個・岩下戦車中隊)が並び、滑空歩兵と海軍陸戦隊700人を予備として控置、残余は後方の複郭陣地となっていました(注2)。
 アメリカ陸軍は第14軍団(第37・第40歩兵師団基幹)をクラーク地区へ侵攻させます。2個の米軍師団は各1個の戦車大隊と戦車駆逐大隊に支援されていました。1月20日、北方のタルラックに出ていた高山地区隊の警戒部隊2個中隊は、飛行場を破壊して主力に合流。1月23日に高山地区隊の最左翼で交戦が始まります。
 柳本地区隊はアンヘレス北東10kmのマガラン(Magalang)方面に出撃して、1月24日に米軍左翼の第37歩兵師団を攻撃しつつアンヘレスへ帰還。第37歩兵師団の支援を担当していた第637戦車駆逐大隊(注3)の記録によると、24日16時ころにサン・ロケ(San Roque)西方で第37歩兵師団の偵察隊が日本戦車2両に襲われて被害を受けており、おそらく岩下戦車中隊の戦果と思われます。同大隊ではM18戦車駆逐車1個小隊を救援に出動させたものの、このときは空振りに終わって、遺棄されたジープ3両と負傷者を収容して引き揚げています(注4)。
 彼我の戦力差は著しく、日本軍は次々と拠点を失います。1月27日にアンヘレス北方のダウもアメリカ軍が占領。柳本地区隊はダウのアメリカ軍砲兵を一撃したうえ、アンヘレスを放棄して江口地区隊へ合流しました。岩下戦車中隊もダウでの戦闘に参加しており、アメリカ軍第37歩兵師団の第145歩兵連隊と交戦したようです。
 なお、同じ1月27日には鷲見独立自走砲中隊もアメリカ軍戦車隊と初めて対戦し、300m以内の至近距離からの砲撃と陣地転換を繰り返す戦術で戦っています。すぐに反撃を受けるため、1箇所では2発までしか砲撃できなかったそうです(注5)。鷲見隊長以下負傷者が生じました。

 ダウとアンヘレスを占領したアメリカ軍第37歩兵師団は、ストッチェンバーグ基地に向かった正面攻撃を開始します。1月29日、第37歩兵師団のクラーク第4滑走路(マルコット飛行場)侵入を受けて、江口地区隊長は岩下戦車中隊による反撃と鷲見自走砲中隊による援護射撃を命じました。
 夕刻、岩下戦車中隊は8両の戦車全力を岩下大尉が率いて出撃します。鷲見自走砲中隊は1.5kmほどの比較的近い距離にいて援護射撃を試みたものの、無線連絡が通じず、爆煙で視界も悪いため、十分な支援は困難でした。
 1月29日16時45分ころ、岩下中隊は、マルコット飛行場に展開したアメリカ軍第37師団第129歩兵連隊の第3大隊へ突入します。第37歩兵師団の支援には、第754戦車大隊のM4中戦車と第637戦車駆逐大隊(注3)のM18戦車駆逐車が配属されていました。しかし、このとき日本側にとって幸運なことに第754戦車大隊は補給のため後方に下がって不在でした。代わりに居合わせたM7/105mm自走砲1門が立ち向かったものの、岩下中隊の47mm戦車砲弾によりたちまち乗員の大半もろとも葬られてしまいます。
 17時ころ、通報を受けて、第3大隊へ配属中の第637戦車駆逐大隊A中隊第1小隊のM18戦車駆逐車4両が急行します。ここでもアメリカ側にとって不運なことに同小隊長は敵陣偵察へ出かけて不在で、先任軍曹が指揮を執っていました。駆逐戦車隊と岩下戦車中隊は、互いに相手を左に見た位置関係で出くわし、行軍縦列のまま散開する間もなく激しい戦闘に突入したようです。夕闇と爆煙で視界が効かず、至近距離に近づくまで気づかなかったのではないでしょうか。おそらく一瞬の交戦で、日本側の九七式中戦車は4両が並んだまま撃ち抜かれ炎上(下画像)、アメリカ側はM18戦車駆逐車1両が完全破壊されました。M18戦車駆逐車は強力な76.2mm砲を載せた車両ですが、最大装甲25mmと薄かったため、日本戦車にとってはM4中戦車よりも与し易い相手だったものと思われます。その割に1両しか撃破できなかったのは、装甲の厚いM4中戦車と判断して1両を集中射撃したためかもしれません。
clarkfield1945.jpg

 鷲見自走砲中隊の援護射撃を受けて、岩下中隊の生き残りは撤退しました。生還した九七式中戦車は3両で、M18に撃破された4両以外の1両の喪失原因が不明です。陣地にたどり着いた兵は35人だけで、岩下大尉も戻りませんでした。
 アメリカ側は上記の1両完全喪失に加えて、別に1両のM18戦車駆逐車がMortar(臼砲・迫撃砲)の砲火によって損傷したと記録しており、鷲見自走砲中隊の戦果だろうと推定します。M18の乗員は5人戦死・6人負傷。日本側ではM4中戦車7両以上擱座と戦果報告したようですが、外形の似たM18戦車駆逐車の誤認や、視界不良による友軍戦車残骸の誤認が混じっているものと思われます。
 なお、補給を終えたM4中戦車3両が戻ってきたのは、日本戦車が去った後でした。第129歩兵連隊の第3大隊長は、M4中戦車が砲撃を避けて隠れていたと不満を言っています。もしこれが真相であれば、鷲見自走砲中隊の支援砲火が見事に効果を発揮していたといえるのではないかとも思えます。

 こうして1月29日の反撃も功を奏さず、翌日にストッチェンバーグ飛行場は陥落。以後は、複郭陣地へ後退しての持久戦闘へ徐々に移行します。建武集団を押し込めたアメリカ軍第14軍団は、掃討戦を後続部隊に委ねてマニラへと進撃を続けました。
 岩下戦車中隊のその後の戦闘の詳細はわかりませんが、鷲見自走砲中隊が車両を失って山中へ入ったのと同様に、車両を撃破されるか破壊処理した後に複郭陣地へ後退したものと思われます。岩下戦車中隊の総兵力129人のうち、終戦まで生き残ったのは16人だけでした。(その3へ続く

注記
1 仮編独立自走砲中隊は、もとは第1自走砲中隊と称した部隊で、ルソン島への揚陸中の空襲により損害を受けたため残存装備・人員を仮に再編成したもの。敷波迪「日本軍機甲部隊の編成・装備」1巻によると1944年12月8日の発令では四式15cm自走砲4門と装甲兵車8両を装備するはずだったが、調達が間に合わなかったためか実際の配備数は3門のようで、しかもうち1門は輸送船「青葉山丸」とともに海没した。このほかの建武集団の機甲戦力として、機動歩兵第2連隊は軽装甲車や装甲兵車若干を保有していた可能性がありそうだが詳細不明。

2 各地区隊の呼称は指揮官苗字で、高山地区隊:高山好信中佐(機動歩兵第2連隊長)、江口地区隊:江口清助中佐(第10航空地区司令官)、柳本地区隊:柳本貴教少佐(機動歩兵第2連隊第3大隊長)。

3 第637戦車駆逐大隊は、フィリピン反攻作戦のためフィジー駐屯部隊から転出してきた部隊。編制は本部中隊・偵察中隊・A~C中隊(一般中隊)・衛生班から成る。主力装備は動員に際してM18戦車駆逐車36両へ更新され、偵察中隊にはM5A1軽戦車とM8装輪装甲車が配備されていた。

4 1月24日以前の1月21日夜にも、タルラック東方のラ・パス(La Paz)で戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去った戦闘がアメリカ陸軍公刊戦史に記録されている(Smith, p.169)。これは次回述べるように独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の可能性が高い。

5 佐山「機甲入門」・291-292頁。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その1)

3.独立中隊の挽歌

 ま幸くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも
                        ―大伴家持、「万葉集」より―

 日本陸軍の戦車部隊の編制には、独立戦車中隊と呼ばれる形式がありました。太平洋戦争中には、大規模な戦車部隊の配置に適さない島嶼の守備隊などのため、独立戦車第1中隊から独立戦車第14中隊まで欠番無しの14個中隊が誕生しています(注1)。
TKcsMap.png
 そのうちの独立戦車第7から第12中隊まで送り込まれた先がフィリピン戦線です。これらの6個中隊は、日本陸軍が目指すフィリピン決戦のため、守備隊と飛行場建設用重機を兼ねて1944年6月に新設されました。人員は指揮班・小隊3個・段列の計100人余り。部隊番号が偶数の中隊では新鋭の排土板(ドーザー)付き九七式中戦車(47mm)、奇数の中隊は旧式の八九式中戦車(甲)に整地用牽引ローラーを持たせたものを、それぞれ11両装備していたようです(注2)。独立戦車第9中隊の例では乗用車1両・自動貨車4両・軽修理車2両の支援車両も持ち、他の中隊もおおむね同内容と推定します。当初の指揮官は第7中隊:河野勲大尉、第8中隊:岩下市平大尉、第9中隊:土屋光治中尉、第10中隊:後藤数馬大尉、第11中隊:助川正夫大尉、第12中隊:門田良和大尉が着任しました。

 日本本土の戦車隊を母隊として編成された6個の独立戦車中隊は、海路フィリピンへ出発します。部隊番号順に威358部隊から威363部隊までの通称号(「威」は南方軍の兵団文字符)が割り振られました。しかし、1944年にはバシー海峡を始めフィリピン周辺はアメリカ潜水艦の待ち構える危険水域となっており、誕生まもない戦車隊の前途は多難でした。
 最初の便と思われるのは7月3日に門司発のモマ01船団で、陸軍特殊船「摩耶山丸」に乗った第9・第12中隊の各人員主力が無事にルソン島へ上陸。しかし、続いて7月6日に門司を出たモマ02船団(高雄から別名でタマ21C船団)は戦車第2師団の一部も同乗する重要船団でしたが、独立戦車第8中隊先遣小隊が乗った「仁山丸」、独立戦車第10中隊主力の乗った「祥山丸」、独立戦車第12中隊の車両が積まれた「日山丸」を含む6隻が撃沈される大打撃を受けます。第8中隊は9人、第10中隊は中隊長を含む43人、第12中隊は4人が戦死しました。海没した隊の装備車両は当然全損です。

 ルソン島に上陸した独立戦車中隊は大きく再編成される羽目になりました(注3)。独立戦車第7中隊はそのままレイテ島へ派遣。1個小隊を失って残存戦車8両に減った独立戦車第8中隊は、第12中隊の人員の一部をもらい岩下中隊または岩下独立戦車隊と改称。代わりに独立戦車第9中隊が第8中隊へ繰り上げになります。独立戦車第10中隊は解隊されて、残存人員は新第8中隊(旧第9中隊)と戦車第2師団へ吸収。独立戦車第11中隊は第9中隊へ繰り上げ。独立戦車第12中隊も解隊されて、人員は岩下中隊と新第9中隊、戦車第2師団へ吸収されました。以下、新しい部隊番号で呼称します。
 その後、独立戦車第8中隊長の土屋中尉は戦病により後送され、同中隊第1小隊長だった松元三郎中尉が昇格。独立戦車第9中隊長の助川大尉も少佐に昇進して病身のせいもあってか第103師団へ転任となり、指揮班長の中島保男中尉が交替しています。戦史叢書の「捷号陸軍作戦<2>ルソン決戦」の付表で独立戦車中隊が3個しか編制表に載っておらず、しかも表に2か所空欄があること、中隊長も前記の初期メンバーと異なっていることは、この最終状態を記載したのが理由と思われます。
 レイテ島へ派遣された独立戦車第7中隊は第16師団に配属(詳細は第3部第1章予定)。ルソン島の岩下中隊はマニラ北方のカロカン、サブランへ駐屯。独立戦車第8中隊はセレベス島への派遣計画もあったようですが中止となり、ルソン島南部の第105師団へ配属。独立戦車第9中隊は、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車15両)とともに、北部の第103師団へ配属されました。それぞれ所在地の飛行場の土木作業や対ゲリラ警備に従事しつつ、アメリカ軍の上陸を迎え撃つこととなります。(その2へ続く


注記
1 独立戦車第1中隊はガダルカナル島増援、第2・第5・第6中隊は千島列島守備、第3・第4中隊はパラオへ進出途上のサイパン島で玉砕(第2部第3章参照)、第13・第14中隊は終戦近くに日本本土方面で新設(第5部第2章予定)。

2 装備戦車は九七式中戦車ではなく一式中戦車とする資料もあり。独立戦車第7中隊については九五式軽戦車とする資料もあるが、展開先のレイテ島で撮影された写真のある八九式中戦車だった可能性が高いと考える。

3 改編経緯は元独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の下士官であった細田正一氏の史料に依拠している。
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