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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部・第5章・後編)

第三部 悲島戦線
5 消えた連隊(後編)


承前)国道13号線上で捜索第23連隊第4中隊の軽装甲車が全滅する間、1月12日以降、久保田支隊主力(捜索第23連隊主力・歩兵第72連隊第1大隊)の拠るラブラドルやスアル方面でも、米軍の攻撃は続きます。第185歩兵連隊と第40歩兵師団偵察中隊(M8装甲車等)は、ラブラドルからスアル、アラミノスを経てボリナオ半島を横断、1月15日に西岸ダソルに到達します。第185歩兵連隊の一部が現地ゲリラの先導を受けつつ半島先端部と西岸のさらなる捜索を続け、1月23日には西岸サンタクルーズ(ダソルとマシンロックの中間)までパトロールしています(注1)。同日以後は第40歩兵師団がクラーク地区の攻略に取り掛かったため、ボリナオ半島の掃討は現地ゲリラに委ねられたようです。
久保田支隊地図 歩兵第72連隊通信中隊長だった鈴木昌夫は、戦後に久保田支隊についてまとめた著作で、久保田支隊は戦車と砲撃に支援された米軍の猛攻に対して奮戦したものの、支隊将兵の大半は連日の砲爆撃で斃れ、1月下旬には半数が戦死していたと述べています(注2)。
 しかし、米側の第40歩兵師団の部隊史によるとだいぶ異なった様相に見えます。同書によると、米軍は上陸1~2週間目、約1000人の日本兵が山中にいるとの情報に基づいて複数の斥候をラブラドル南方の山中に分け入らせ、数人から60人以下のいくつかの日本兵集団を発見したものの、日本兵は軽微な銃撃戦で四散してしまったと述べます(注1)。また、ボリナオ半島を横断した第40歩兵師団偵察中隊もアラミノスで少数の日本兵を追い散らし、ダソル付近の川岸での短い戦闘で日本兵17人を戦死させたのが最大の戦闘のようです。ボリナオ半島西岸を南下した第185歩兵連隊の一部もアグノ湾で16名の日本兵を倒したほか、組織的な抵抗は全くなかったと述べています。ボリナオ半島先端部に向かった米軍2個小隊も日本兵は全く発見できず、現地人に拘束された台湾人170人以上を捕虜として収容したのみでした。
 第40歩兵師団の部隊史によれば、上陸初期の同師団の戦果記録(上陸後1週間とあるが占領状況からすると1月19日頃までの分?)は日本兵の死体91体とあり(注1)、この種の戦果記録は往々にして過大で、実損害はこれ以下の可能性が高いと思われます。そして、13号国道方面(ブガリョン等)に分遣された捜索第23連隊第4中隊の戦死者が数十体と判定されていることを踏まえると、ラブラドル・スアルの久保田支隊主力方面の戦死者数は50名程度にとどまり、多数の戦死者が出る戦闘にはなっていないように思われます。米陸軍公刊戦史も久保田支隊は13号国道での戦闘(実際には支隊主力ではなく捜索第23連隊第4中隊の戦闘)でほとんどの戦力を失ったようだと述べて、支隊主力方面では大きな戦闘がなかったとしています(注3)。
 なお、米陸軍第40歩兵師団の部隊史は、「後に判明したところでは、ボリナオ半島に居た日本兵は、マニラからバギオへ舟艇移動中に空襲を受けて遭難漂着した者がほとんどであった。南方の友軍部隊との合流が最優先だったので、米軍との接触を避けたように思われる。」旨を述べていますが(注1)、海没部隊が主力というのは実際の久保田支隊と異なっており、おそらく海上挺進第12戦隊・基地隊(マニラ方面→北サンフェルナンド→スアルと転進)のことを誤解したものと思われます。見方を変えれば、遭難者と誤認して納得されるほど抵抗が軽微な印象だったと言えそうです。
 後記の日本側捕虜供述によれば2月下旬でも野田大隊にはかなりまとまった兵力が健在だったことを見ても、鈴木昌夫の述べるような頑強な抵抗・激戦は行われず、久保田支隊主力と米軍との直接戦闘は限定的で、日本側は砲撃を避けて早々に山中に後退した後、積極的な交戦は回避したというのが真相ではないかと思います。鈴木の述べる、野田大隊がスアル地区進出時に携行した一週間分の弾薬・食料しか保有しなかったというのが事実であれば、積極的に戦いたくとも戦えなかったのかもしれません。

 1月9日の米軍上陸以降、第23師団司令部からでもスアル地区でも戦闘が始まったのが視認できたものの、久保田支隊との通信が途絶し、状況を憂慮していました。そこで、2月上旬から中旬にかけて師団主力から久保田支隊へ2組の将校斥候が連絡のために派遣されましたが、いずれも行方不明となっています(注4)。
 久保田支隊に隷下第1大隊を差し出した歩兵第72連隊では特に久保田支隊の安否を心配しており、中島連隊長が師団長に掛け合って、3月5日、師団主力への合流命令を伝える将校斥候1組を新たに派遣しました。しかし、この将校斥候もそのまま行方不明となり(注4)、途中で戦死したものと推定されています。
 以後、終戦に至るまで、第23師団主力と久保田支隊との間の連絡は実現せず、久保田支隊の最期は不明といわれることにつながっています。

 さて、第23師団主力が将校斥候を送り出して連絡を試みていた頃、久保田支隊にはまだ相当の兵力が残っていたようです。
 久保田支隊に属する歩兵第72連隊第1大隊(野田大隊)の小隊長の一人S少尉が米軍の捕虜になって、この時期の久保田支隊について貴重な供述を残しています(注5)。S少尉の供述によると、野田大隊は2月25日にサンタクルーズ東方の山頂付近に集結しており、3月17日に再出発する時点でも戦闘可能人員約600名もの兵力が残っていたといい、少なくとも野田大隊は直接戦闘でそれほど人的損害を生じずに統制を保ったまま山中に撤退したことが窺われます。
 しかし、人跡未踏の密林の千m級連山を進むうちに野田大隊にはマラリアが蔓延し、サンタクルーズ東方山頂にいた時から2週間で半数の300名を病気で失う異常事態となります。野田大隊はマシンロック東方の山頂を経てさらなる山地行軍で南下しますが、病気による急速な消耗が続き、4月15日にイバ北東の山頂(ハイピーク山?)にたどり着いた時には1個中隊5~6名、大隊総兵力は野田大隊長以下わずか28~30名となっていました。大隊長の指示により、生存者は中隊単位に分かれてタルラックを目指して行軍を続けましたが、S少尉ら5名のグループは大隊長と離れて南下するうちに病気のために次々と落伍し、最後に残ったS少尉は投降を決意して5月2日に現地民間人の村に現れて捕虜となっています。
 S少尉と別れた後の野田大隊長らの最期については判明していません。連隊通信中隊長の鈴木昌夫が終戦後の捕虜収容所で、クラーク地区の建武集団所属の海軍士官から、「6月上旬にイバ=オドンネルを結ぶイバ街道をイバに西進する途中で野田大隊と称する少数の陸軍部隊と遭遇した」旨の話を聞き取ったのが、知られている唯一の情報のようです(注6)。前記のS少尉の供述と合わせると、野田大隊長一行はハイピーク山から南下してイバ街道に出て、当該海軍部隊とすれ違いながらオドンネル方面に東進したものと思われます。国道13号線を横断してタルラック平原の敵中突破によるバギオ方面の師団主力への合流を目指したのかもしれませんが、この時期に同様の行動を試みた建武集団の機動歩兵第2連隊主力はタルラック平原の敵中突破を断念してタルラック西方のサンバレス山中に戻って全滅したと推定されており、野田大隊も突破はできずにサンバレス山中で病気や食糧不足により全滅した可能性が高いと考えます。
 連隊史によれば野田大隊の生存者はわずか3名です。上記S少尉を含むとすればほかに2名の方がいるはずですが、具体的な回想等は発見できませんでした。

 久保田支隊の基幹部隊であった捜索第23連隊の最期の足取りについては、上記の野田歩兵大隊以上に情報がありません。鈴木昌夫の著作では、野田大隊の西方を並行するように南下してハイピーク山西方に至ったという推定図が掲載されていますが(注6)、根拠は不明です。久保田支隊長を含む連隊主力の行動については、中編で既述のとおり、1月13日にラブラドル近郊のデュリグDuligで捜索第23連隊の陣中日誌が鹵獲されて、その付近に連隊本部が居たと推定される以降、確かな史料を見出せませんでした。野田大隊同様にサンバレス山中に早期後退した後、主に病気のため消耗して全滅に至ったものと推測するしかないようです。
 他方、分離行動した捜索第23連隊第4中隊(装甲車中隊)については、捕虜供述が残っており、1月15日に装甲車を全損して山中に入った後、捕虜ら21名が1月19日にタルラックで機動歩兵第2連隊(戦車第2師団から分遣の高山支隊)に合流したといいます(注7)。タルラックに警戒部隊として前進配置されていた機動歩兵第2連隊第9中隊に収容されたものと思われます。機動歩兵第2連隊第9中隊は米軍(スアル地区を攻略した第40歩兵師団)の接近により、1月20日にタルラックの施設を破壊してバンバン西方高地の連隊主力に合流しており、この際に捜索第23連隊第4中隊の生き残りも同行しました。機動歩兵第2連隊は建武集団の精鋭部隊として戦いますが、バンバン正面とオドンネル方向からの側面攻撃に圧迫されて、3月6日にはオドンネル西方のサンバレス山中へ後退しました。捜索第23連隊組もこれに同行していましたが、3月23日に捕虜生還者は病気のため機動歩兵第2連隊から落伍し、3月30日に1人さまようところを米軍に捕らえられています。他の者の消息は不明ですが、機動歩兵第2連隊は西岸サンタクルズ付近に出た後に戦車第2師団主力との合流を目指してタルラック・カミリン方面に向かうもタルラック平原突破を断念、サンバレス山中に引き返して連隊長以下ほとんど全滅しており、これと同様の行動であったと推測されます。

 このほか、久保田支隊の指揮下に入る計画だった海上挺進基地第12大隊主力は、1月9日に舟艇攻撃隊を送り出した後、久保田支隊とは合流せずに終戦まで単独行動を採りました。鈴木昌夫の著作では基地大隊は野田大隊陣地の後方に移動したとありますが、海上挺進戦隊関係者が書いた『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記』や『[○レ]の戦史』では合流しようとしたが敵に遮断されてできなかったとなっており(注8、注9)、海上挺進関係の生存者情報を入手・利用したと思われる後者がより信用できそうです。海上挺進戦隊関係の文献には、第23師団司令部から直接命令を受けて戦ったとの記述がありましたが(注9)、前述の第23師団が派遣した将校斥候のことなのかは不明です。
 基地大隊は4月17日にボリナオ半島西岸のマシンロック付近で米側部隊(ゲリラ?)に捕捉され、大隊長の立川武喜少佐を含む多数が戦死して壊滅状態となりました。兵力800名(北サンフェルナンド方面の整備中隊等を除く人数?)または905名中のうち生還者64名または27名とされています(注8、注9)。捜索第23連隊や歩兵第72連隊第1大隊に比べると多数の生還者ですが、師団主力方面の整備中隊の生還者を含む人数と思われ、スアル地区の生還者数はこの一部だけでしょう。

 終戦後、第23師団は久保田支隊に停戦命令を伝達するため連絡者を差し出し、米軍とともにラブラドル南方一帯を捜索しましたが、久保田支隊の生存者は1名も発見できませんでした(注10)。
 終戦後の1948年3月に復員局の下でまとめられた第23師団の報告書では、捜索第23連隊の将兵について「以上の如き状況の為、海没せるもの上陸せるものの判別不明の為、本部隊の整理は海没明瞭なるもの以外は比島に上陸して戦死した事として整理せざるを得ない」(注:読点を補う)と結んでいます。(この章終わり


<注記>
  1. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.12-13
  2. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、367頁。
  3. Smith (1993) , p.117
  4. 第十四方面軍残務整理部旭兵団主任者 「捜索第二十三連隊(旭一一三六部隊)」『第二十三師団(旭兵団)隷下部隊行動概要(抜萃)』 1948年3月、JACAR Ref.C14061334400
  5. 211-2.2: XI Corps - G-2 Journal and File (4 - 5 May 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:XI Corps) (ボックス番号:4182 ; フォルダー番号:5)
  6. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、368頁。
  7. 前掲 201-2.3: I Corps - G-2 Journal File (2 Apr 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:I Corps) (ボックス番号:3051 ; フォルダー番号:2)
  8. 前掲 儀同保『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期』、209・219頁。
  9. 前掲 若潮会戦史編纂委員会『[○レ]の戦史―陸軍水上特攻・船舶特幹の記録』 、178頁。
  10. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、369頁。

鋼棺戦史(第3部・第5章・中編)

第三部 悲島戦線
5 消えた連隊(中編)


 (承前)久保田支隊がスアル地区に進出した翌日の1945年1月6日には、リンガエン湾一帯で米軍の事前艦砲射撃が始まります。これに呼応して現地のゲリラ兵による橋や艀などの破壊工作も活発化し、日本側の交通網は寸断されました。
 同日、スアル地区の陣地構築支援に当たっていた工兵分隊には撤収命令が出され、工兵第23連隊長自らがトラックで収容に向かいますが、ゲリラによってアグノ川の艀が沈められていたため、渡河不能で断念しました。この工兵分隊はそのまま消息不明となり、米軍上陸初日の1月9日にラブラドルで全員戦死と認定されています(注1)。
 また、海上挺進第12戦隊の追及人員(退院者)や第23師団司令部との連絡用にと配属された通信小隊も、師団司令部のあるシソンから輜重連隊差し回しのトラックでスアル地区を目指したものの、30kmも手前で下車を余儀なくされました(注2)。
 このように交通網が寸断され、通信網も十分に整備できず、久保田支隊は一層孤立していきます。弾薬食料の補給もできず、携行した約1週間分しか保有しなかったようです(注3)。

久保田支隊地図 米軍上陸直前のスアル地区における久保田支隊の布陣は、歩兵第72連隊通信中隊長だった鈴木昌夫の著作によれば、スアル南側高地に捜索第23連隊、東のラブラドル南側高地に歩兵第72連隊第1大隊(野田大隊)となっています(注4)。海岸線に監視の歩兵1個小隊を派出していましたが、艦砲射撃が激しくなったため後退し、代わりに後方山頂に監視哨を設置しました。他方、海上挺進戦隊関係者は、舟艇を持つので沿岸部に残り、スアル周辺の横穴壕や水無川に舟艇とともに分散して潜んでいたようです。
 1月7日、久保田支隊長は、捜索第23連隊の第4中隊(装甲車中隊)と通信小隊(主力?、注5)をラブラドル東方のブガリョン(Bugallon)に前進配置します(注6)。米軍予想進路の警戒部隊としての意味に加えて、装甲車はサンバレス山中での行動が困難なため、不利なときは路上機動で南下してタルラック方面に後退できるようにという意図だったのではないかと思います。タルラック以南には、クラーク地区守備の建武集団(戦車第2師団機動歩兵第2連隊主力と陸海軍航空部隊)が布陣していました。
 久保田支隊の戦闘部隊各隊は防御陣地の構築に努めたおかげで、ラブラドル市街が事前砲爆撃で全焼する中でも目立った損害はなかったようです。ただし、海上挺進第12戦隊では1月7日と1月9日に事前砲爆撃による戦死者9名が出ています(注7)。

 1月9日、米軍は北側から順に第1軍団(第43師団・第6師団)と第14軍団(第37師団・第40師団)を並列して、リンガエン湾への上陸を開始します。前編で述べたとおり、南翼のリンガエン町正面は湿地帯のため米軍は上陸しないというのが日本軍の想定でしたが、この予想は外れて第14軍団がリンガエン町正面に上陸しています。
 久保田支隊と対峙するのは米軍最右翼の第40歩兵師団で、湿地帯に苦しみつつも、日本軍の守備隊が配置されていないため悠々と橋頭堡を確保しました。上陸初日に第40歩兵師団右翼の第185歩兵連隊はスアル方面へ侵攻して西のアグノ川河口へ到達、師団の偵察中隊は水陸両用戦車LVT(A)に乗車してアグノ川を渡河すると、スアル港東方3マイルで道路を遮断する陣地を築きました。師団左翼では第160歩兵連隊が内陸4マイル(約7.5km)まで進出しています(注8)。米陸軍公刊戦史によれば上陸初日に日本軍との接触はほとんどなく、第40歩兵師団の部隊史も7名の日本人を殺害して、4名の中国・台湾出身労務者を捕らえたのみとしています(注9)。
 米軍上陸直後の久保田支隊のうち捜索第23連隊第4中隊の様子については、前記のシソンからスアルに追及中の海上挺進第12戦隊員による目撃情報があります。彼や配属通信小隊はトラックを下車して徒歩で行軍を続けたところ、1月9日夕刻にスアル手前6kmの地点で第23師団の装甲車隊に遭遇し、頼もしく感じたと回想しています(注2)。しかし、装甲車隊から、この先の三叉路(ブガリョン北のリンガエンとスアルに分かれる三叉路?)まで米軍が来ているので前進しても捕虜になるだけだと諭され、やむなくシソンの師団司令部まで引き返しました。その後、本隊に合流できなかった海上挺進戦隊員20余名は、同じく北サンフェルナンドからの移動ができなかった海上挺進基地第12大隊整備中隊長の指揮下で、バギオ方面において歩兵として戦っています。 なお、海上挺進戦隊員の回想によると装甲車隊は自分たちも撤退すると述べていたとのことですが、捜索第23連隊第4中隊は実際には翌1月10日までブガリョン付近に留まっていました。

type4boat.jpg 1月9日から10日にかけての夜、スアル地区配備の海上挺進第12戦隊は、上陸船団に対する舟艇攻撃を決行します。出撃した四式肉薄攻撃艇(マルレ)の数は同戦隊第3中隊基幹の35~40隻で、攻撃型輸送艦「ウォア・ホーク」・戦車揚陸艦3隻・駆逐艦2隻損傷、歩兵揚陸艇(火力支援型)2隻沈没という相当の戦果を挙げました。日本軍の同種作戦としては初めての大規模事例であったため、米軍の警戒が緩かったことが成功の一因ではないかと思われます。画像はリンガエン湾で米軍が撮影したマルレの残骸で、船体に描かれた「ヲ27」の識別番号はイロハ仮名の12番目「ヲ」で海上挺進第12戦隊所属艇27号を示すのではないかと思います。
 この出撃で戦隊長の高橋功大尉以下45名が戦死・2名が捕虜となり、舟艇もほとんど破壊され、海上挺進第12戦隊は組織的な水上作戦能力を失いました。海上挺進戦隊関係者による『[○レ]の戦史』によれば、スアル地区残存人員5名が、シソン方面の海上挺進基地第12大隊整備中隊長の指揮下に入ったとしていますが(注7)、実際に合流できたとは思えず、形式的な指揮系統の意味でしょうか。
 舟艇攻撃が終わった時点で久保田支隊は海上挺進戦隊の援護というその任務の一つを終えたことになりますが、クラーク地区を目指す米軍との交戦はまだ続きます。

 上陸2日目の1月10日、米陸軍第40歩兵師団右翼の第185歩兵連隊は久保田支隊主力のいるスアル方面へ向けて西進を続け、若干の日本軍の抵抗を受けますが、深刻な脅威という程ではありませんでした。第40師団に配属の第754戦車大隊B中隊のうち第1小隊が直接射撃で塹壕や銃座を吹き飛ばしています(注10)。久保田支隊の歩兵第72連隊第1大隊の前進陣地による抵抗と思われますが、詳細は不明です。
 また、米軍側は、駆逐艦「ロイツェ」と歩兵揚陸艇の火力支援仕様であるLCI(M)6隻・LCI(G)13隻をスアル方面の火力支援に差し向け、日本側の監視哨や集結地点に激しい艦砲射撃を加えました(注11)。この砲撃は日本側にとってかなりの脅威だったようです。
 翌1月11日にも米軍第185歩兵連隊の攻撃は続き、同日夜には日本軍のラブラドル南側高地の前進陣地は撤収しています(注12)。米軍の艦砲射撃を避けるため、日本側は比較的すぐに山中への後退を選んだ印象です。
 米陸軍公刊戦史には、1月11日、海岸道を塞いだ第185歩兵連隊C中隊の前に、スアル方向から日本軍のシボレー乗用車が米軍に気付かない様子で走ってきて、乗車していた日本兵2人が射殺され、車は鹵獲されたというエピソードが紹介されています(注13)。場所からすれば捜索第23連隊の車両ですが、車種は他隊が現地で徴発した車両とも思われ、よくわかりません。
 なお、1月11日には米軍が捜索第23連隊の文書を鹵獲しているのですが、記録スタンプによると鹵獲地点がリンガエン飛行場となっています(注14)。鹵獲地点の記録が不正確なのか、何らかの事情で途中に残っていた文書なのか不明です。1月13日にはラブラドル東南方向のデュリグDuligで捜索第23連隊の陣中日誌が鹵獲されており、その付近に連隊本部が居た可能性もあるように思われます(注15)。

 一方、同じ米陸軍第40歩兵師団の第160歩兵連隊はブガリョンからタルラックに通じる国道13号線を南進して、捜索第23連隊第4中隊と交戦しました。
 1月10日にブガリョン付近で最初の戦闘は発生し、米軍は装甲車4両に支援された日本軍歩兵1個小隊の抵抗を受けたと記録しています(注13)。対する捜索第23連隊第4中隊の生存者(捕虜)は米軍の尋問に対して、この日に米軍戦車隊と交戦したと述べていますが(注6)、米側資料によると第40歩兵師団に配属の第754戦車大隊はこの時期に交戦をしておらず(注10)、同じく第40師団に配属の第640戦車駆逐大隊(M10駆逐戦車装備)にも明確な交戦記録はありません。日本側の言う「米軍戦車」はおそらく連隊砲中隊のM7自走砲か水陸両用戦車LVT(A)ではないかと思われますが、それでも軽装甲車で立ち向かうには厳しい相手です。この戦闘により日本側は九七式軽装甲車4両が破壊され、13名が戦死しました(注6)。他方、米軍も第160歩兵連隊の約5名が戦死・約10名が負傷しており、これは第14軍団麾下の連隊が上陸直後の3日間で受けた最大の損害でした(注13)。この戦闘で第160歩兵連隊の前進は遅延したものの、同日の日没には内陸8マイル(約15km)の地点まで到達しました。
 捜索第23連隊第4中隊はブガリョンとカミリン(Camiling)の中間のサン・クレメンテに後退して、1月12日に再び南下してきた第160歩兵連隊と交戦。ここでも「米軍戦車」(これも実際は自走砲等と推定されます。)によって軽装甲車3両を破壊されて、15人が戦死し、第4中隊はその戦力の殆どを喪失しました(注6)。捕虜供述によると中隊長も1月中に戦死とあり、ここまでの戦闘で戦死していたように思われます。米軍第40歩兵師団の部隊史にはサン・クレメンテで日本軍の37mm砲1門を破壊したとの記述があり、軽装甲車の戦車砲のことを指しているのでしょう(注16)。
 捜索連隊第4中隊の生き残りは最後の軽装甲車を自ら破壊処分して身軽になると、1月15日にカミリン付近を経由して山中に退却します(注6)。この頃、米軍の第40師団の東側を南下してきた第37師団が側道からカミリン付近に進出してきているため、退路を遮断されて山中に入ったのかもしれません。カミリン付近では捜索第23連隊第4中隊の陣中日誌が米軍に鹵獲されており、現在ではアジア歴史資料センターのウェブサイトにおいて米軍の押収スタンプが押された画像を見ることができます(注17)。(後編に続く


<注記>
  1. 工兵第二十三連隊記録 比島篇』工23会、1969年、22頁・151頁。
  2. 儀同保『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年、84-85頁。
  3. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、365頁。
  4. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、368頁。久保田支隊の布陣は、鈴木自身が米軍上陸前に現地を観に行った体験に基づく基本的に信頼性の高い情報と思われます。ただし、本文でも触れたとおり、捜索第23連隊の陣中日誌がラブラドル東南方のデュリグDuligで鹵獲されたとの記録があり(注5)、これが正しいとすると捜索第23連隊の主力の所在は、鈴木の解説とは異なってラブラドルの野田大隊の東南方ということになります。
  5. 捜索第23連隊通信小隊の陣中日誌(JACAR Ref.C13010679100)が同連隊第4中隊の行動経路上のサン・クレメンテで1月18日に鹵獲されており、行動を共にしていたと思われます。第4中隊出身の捕虜も、米軍の尋問に対して直属上官ではない通信小隊長(Kayomura中尉)の名を、知っている連隊幹部として挙げており、この通信小隊長と同行していたので特に覚えていたように思われます。ただし、通信小隊長の名前は正しくは上村(かみむら)中尉のようです。
  6. 201-2.3: I Corps - G-2 Journal File (2 Apr 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:I Corps) (ボックス番号:3051 ; フォルダー番号:2)
  7. 若潮会戦史編纂委員会『[○レ]の戦史―陸軍水上特攻・船舶特幹の記録』 大盛堂書店、1972年、175頁。
  8. Smith (1993) , p.77
  9. "History of The 40th infantry division in The Philippines", 657th Engineer Topographic Battalion, p.9
  10. Armored School (1949-1950) "A Research Report : Armor on Luzon" , Kentucky: Fort Knox, p.58
  11. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.11
  12. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、367頁。
  13. Smith (1993) , p.78
  14. 満洲第836部隊(捜索第23連隊) 「昭和十九年度 他部隊作命綴」 JACAR Ref.C13010673800、画像2枚目
  15. 捜索第23連隊 「陣中日誌」 JACAR Ref.C13010678900、画像2枚目。
  16. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.12
  17. 捜索第23連隊第4中隊 「陣中日誌」 JACAR Ref.C13071852400

鋼棺戦史(第3部・第5章・前編)

第三部 悲島戦線
5 消えた連隊(前編)


 比島をもじって悲島と言われたフィリピン戦線、その中でも一兵も残さず謎の消滅をしたと伝えられる日本軍部隊があります。捜索第23連隊長の久保田尚平中佐率いる久保田支隊です(注1)。 

 太平洋戦争も後半、日本陸軍がついに対米決戦を企図したのがフィリピン防衛戦でした。それまでの島嶼戦と異なって数個兵団を展開した大規模地上戦ができる戦場になったこともあり、関東軍に残されていた戦車第2師団などの精鋭部隊が、師団単位で続々と南方転用されていきます。その一つとして1944年10月に出動したのが、捜索第23連隊の属する第23師団でした。
 満洲ハイラル駐屯の第23師団は、ノモンハン事件でいわゆる小松原兵団としてソ連軍と戦って壊滅した部隊です。事件後に再建された第23師団はその後の関特演も経て大幅な近代化がされていました。ノモンハン周辺の満洲西部の平原に合わせて長射程の九〇式野砲や通常は野戦重砲兵連隊しか持っていない九六式15cm榴弾砲を装備し、九五式軽戦車装備の師団戦車隊まで保有しました。太平洋戦争中盤以降、師団戦車隊を戦車第16連隊として抽出されるなど戦力は低下しますが、精鋭師団であったのは間違いないでしょう。
 ノモンハン事件で2度まで全滅した偵察部隊の師団捜索隊(第1部1章及び4章参照)も、完全自動車化された捜索第23連隊として再建されていました。乗車中隊と装甲車中隊各1個基幹の規模でしたが、南方派遣直前の1944年10月の編制改正(昭和19年軍令陸甲135号)で乗車中隊2個(第1・第2中隊)と装甲車中隊2個(第3・第4中隊)に拡大され、人員も439人に増強されています(注2)。生還者の供述によると、各乗車中隊は九九式小銃と軽機関銃4丁装備、装甲車中隊はそれぞれ九七式軽装甲車8両装備(37mm戦車砲装備3両・機関銃装備5両)でした(注3)。中隊長車と小隊長車が砲装備だったものと思われます。

 第23師団は3つの梯団に分かれてフィリピンへ運ばれることになり、捜索連隊は第3梯団で1944年11月22日に出発します。この頃の海上輸送では途中で潜水艦などの襲撃で一部が海没することが当たり前となっており、被害極限のため、連隊本部と第1中隊・第4中隊は「伯剌西爾(ぶらじる)丸」、第2中隊と第3中隊は「はわい丸」に分乗しました。第1中隊長が荷役中の事故で負傷(注3)残留する幸先の悪いスタートで、輸送船2隻はミ29船団に加入して南下しますが、12月2日に「はわい丸」は潜水艦に撃沈されてしまいます。「伯剌西爾丸」は12月23日にルソン島・北サンフェルナンドに無事到着して、12月26日までに荷役完了。分散乗船したおかげで半数だけは助かったものの、戦わずして戦力半減したことになります。
 なお、鈴木昌夫は、装甲車中隊のうち第3中隊が健在で第4中隊が海没としていますが(注7)、生還した捕虜(第4中隊所属)の供述調書では第3中隊が海没となっており(注3)、中隊長名などを正確に供述している様子から虚偽供述の疑いはなく、健在だったのは第4中隊と思われます。
 ヒ81船団で運ばれた師団主力も「あきつ丸」「摩耶山丸」の沈没で大損害を受けており、師団の戦力は3分の2以下に落ち込みました。

 ルソン島に進出した第23師団は、一時はレイテ派遣も検討されたものの、戦況悪化でそのままルソン島リンガエン湾の防備に当たることになります。第14方面軍司令部の置かれたバギオから南に下ったシソンに師団司令部を構え、独立混成第58旅団を指揮下に入れてリンガエン湾の北東部に布陣しました。
久保田支隊地図 リンガエン湾の南側(リンガエン町正面)は当時も現在も養魚場が広がっているような湿地帯であるため、大規模上陸は困難と予想され、守備兵力はほとんど配置されていませんでした。1944年12月後半に、いわゆる「マルレ」装備の特攻舟艇部隊である海上挺進第12戦隊(秘匿のため漁撈第12中隊と呼称)とその支援部隊である海上挺進基地第12大隊(秘匿名は漁撈基地設定第112大隊)が、第23師団の命令によって北サンフェルナンド近郊ポロから、リンガエン湾西部ボリナオ半島のスアル港へ移動した程度でした。
 しかし、12月28日、西村敏雄第14方面軍参謀副長がシソンの師団司令部に立ち寄り、クラーク地区との連携のためスアルにも戦闘部隊を配備するよう指示します(注4)。12月20日の『北部呂宋地区作戦指導要綱(案)』を見るに、方面軍としては、米軍がリンガエン湾西部のボリナオ半島に上陸して平野へ東進する危険があると見て、海上挺進部隊を援護しつつ、進撃ルートの隘路を塞いでおくという考えがあったようです。また、クラーク地区との連携というのは、スアルを確保することで、ボリナオ半島を横断して半島西岸伝いのルートでクラーク地区の建武集団をリンガエン湾・バギオ方面へ収容できる可能性も期待していたようですが、これは後に実際に山地入りした日本兵が辿った運命に照らすと非現実的な計画だったように思われます。

 かくて、スアル派遣部隊として白羽の矢が立ったのが、到着間もない捜索第23連隊(長:久保田尚平中佐)でした。久保田捜索連隊は、海没人員の補充もそこそこに北サンフェルナンドを発ち、ウルダネタ・リンガエン町・海岸道経由で1月1日~1月5日にスアル東方ラブラドルへ逐次進出しました。工兵連隊の落合秀正大尉は、1945年元旦にリンガエン町東方のダグパンで装甲車隊を率いた久保田中佐を見かけたと回想しています(注5)。
 また、捜索第23連隊は「連隊」といっても実力2個中隊(推定兵力300人)しかないのを補うため、同じ第23師団の歩兵第72連隊第1大隊(長:野田敏夫大尉)が配属されました。同大隊は北サンフェルナンドに残って荷役作業の手伝いをしていたところ、そのまま師団主力と分離行動することになったものですが、歩兵第72連隊にとっては唯一海没しなかった完全状態の大隊を取り上げられたので非常に不満だったようです。約900人の野田大隊は捜索連隊よりひと足早く、12月29日頃に同じルートのトラック輸送でラブラドルに進出します。野田大隊に執心の中島嘉樹歩兵第72連隊長は、野田大隊に配属した連隊通信要員(1個無線分隊)に同行して、大隊本部のあるラブラドル小学校まで激励に行きました(注6)。
 工兵第23連隊第2中隊の1個分隊が陣地構築支援に付けられています。海上挺進第12戦隊(約100人)と海上挺進基地第12大隊(約900人)、スアル周辺にいて区処を受けた憲兵や後方小部隊を合わせて総兵力は約2300人。指揮官名をとって久保田支隊と呼ばれます。兵力の約半数は船舶部隊で、海上挺進基地大隊が一応は地上戦闘機能を有するとはいえ、支隊全部で増強歩兵大隊程度の地上戦力と見るべきでしょう。重装備は大隊砲(2門?)と九七式軽装甲車8両(砲装備3両・機関銃装備5両)だけと思われます。

 久保田支隊のスアル派遣と合わせて、中間拠点としてカバルアン丘にも大盛支隊(歩兵第71連隊第2大隊基幹)が派遣されました。カバルアン丘はルソン戦序盤で屈指の激戦地となる場所です。

 なお、第14方面軍は第23師団に対して、久保田支隊や大盛支隊の分遣だけでなく師団主力もリンガエン平原正面に主陣地を進めるよう重ねて指導しますが、第23師団は部下の連隊長の命令無視を理由に実行しませんでした。方面軍としては内陸で実行中の物資や部隊の北部移転の時間稼ぎが必要だったのですが、第23師団としては正面展開するに兵力不足で、地形的にも不利な平地戦闘は避けたかったがゆえの方便と思えます。結果的に身代わりのような形で、米軍上陸直後に戦車第2師団の重見支隊(戦車第3旅団基幹)がウルダネタなどリンガエン平原正面に進出し、おおむね上掲の図のような態勢で米軍上陸を迎えることになります。
 久保田支隊は師団主力から直線距離で約50kmも離れており、間には大盛支隊1個大隊がいるだけで最初から孤立していました。(中編に続く


<注記>
  1. 久保田支隊の行動についての先行文献としては、鈴木昌夫「消滅した久保田支隊の謎」『丸別冊太平洋戦争証言シリーズ4 日米戦の天王山-フィリピン決戦記』 潮書房、1986年、 361頁以下が最も詳細と思われます。著者は歩兵第72連隊通信中隊長。また、インターネット上で同部隊を紹介した記事として、「消えた久保田支隊」(読書放浪記録)があります。
  2. 「第23師団」『第十四方面軍編制人員表』 JACAR Ref.C12120986600(画像9枚目)
  3. 201-2.3: I Corps - G-2 Journal File (2 Apr 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:I Corps) (ボックス番号:3051 ; フォルダー番号:2)
  4. 戦史叢書『捷号陸軍作戦(2)』 86~87頁。
  5. 落合秀正「旭兵団ルソン島転戦記」『丸別冊太平洋戦争証言シリーズ4 日米戦の天王山-フィリピン決戦記』 潮書房、1986年、 335頁。落合秀正大尉は、高木俊朗『ルソン戦記-ベンゲット道』の主人公的人物。
  6. 前掲鈴木「消滅した久保田支隊の謎」 363頁。
  7. 前掲鈴木「消滅した久保田支隊の謎」 364頁。

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第1章・その1)

1.戦場の宅配便

一、驕敵撃滅の神機到来せり
二、第十四方面軍は海空軍と協力し、成るべく多くの兵力を以てレイテ島に来攻せる敵を撃滅すべし
-昭和19年10月22日・南方軍命令-

 太平洋戦争後半、アメリカ軍の本格的が進み、決戦場となったのがフィリピンでした。そのうち最初の地上戦が行われたのがレイテ島です。日本軍は初期配置の第16師団に加えて3個師団・1個旅団の増援部隊を投入、米軍7個師団と激突する大規模な戦闘となりました。
レイテの八九式中戦車1 レイテ島守備隊の日本陸軍第16師団に、唯一の機甲戦力として配属されていたのが、1944年6月に千葉県津田沼の戦車第2連隊補充隊を母隊として編成された独立戦車第7中隊(通称号:威第358部隊→威第17658部隊、注12)です(独立戦車中隊の来歴については第三部第3章も参照)。機甲戦力と言っても、その装備は旧式の八九式中戦車11両でした。資料によっては九五式軽戦車とされていますが、姉妹部隊の独立戦車第8中隊の隊員による調査や、米軍がレイテ島で撮影した写真(右掲)を見る限り、八九式中戦車です。米陸軍公刊戦史の引用する捕虜供述でも、旧式戦車を装備していたとあります(注1)。その任務は純粋な戦闘部隊ではなく、戦車を飛行場整備機材として活用する期待もあり、滑走路整地用の牽引式ローラーを装備していました。
 なお、第16師団固有の機甲戦力として本来は捜索第16連隊(軽装甲車2個中隊装備)がありましたが、1944年4月に師団主力がルソン島からレイテ島へ移動した際、ルソン島に取り残されていました。

 独立戦車第7中隊が編成された1944年6月までの日本軍の作戦計画は、絶対国防圏構想に基づく太平洋上での航空決戦を志向しており、地上戦闘は二義的なものでした。大本営はフィリピン防衛を担当する第14軍を「航空基地軍」となるよう指導し、師団・旅団ごとに飛行場建設担当の参謀を配員しました。飛行場建設を管理する第3・第5野戦飛行場設定司令部もフィリピンに送りこまれましたが、実働部隊である野戦飛行場設定隊は建設予定飛行場114箇所に対して3個隊と少数で、労働力は現地守備隊・現地住民を活用するものとされました。そのためフィリピン各地で、陣地の構築を後回しにしてでも、飛行場の急速整備が進められており、特にレイテ島では既存のタクロバン海軍飛行場に加えて7箇所の陸軍飛行場新設が計画されていました。
 1944年7月のサイパン失陥で絶対国防圏構想が崩壊すると、フィリピンでも泥縄的に地上戦の準備が始まります。7月10日の第14軍兵団長会同で各師団長・旅団長らに地上作戦軍となる旨の計画が示されますが、海岸付近に多い航空基地群の確保とサイパンで失敗した水際作戦の二の舞回避という矛盾した内容を含み、師団長ごとに受け止め方が分かれていたようです。牧野四郎第16師団長は航空基地の確保を重視した結果、従前どおりの水際配備による飛行場防衛方針を維持しました。
レイテ島戦場の略地図 そうした中で、独立戦車第7中隊は、部隊略歴によれば1944年6月24日に内地発、7月25日にマニラ到着、7月下旬にレイテ島に進出したとされます(注2)。乗船船団は特定できていませんが、タマ21C船団(7月14日高雄発・7月19日マニラ着)辺りが比較的近い行程です。8月には第35軍の第16師団指揮下に入りました。牧野第16師団長の『比島陣中日誌』によれば、8月15日に中隊長の河野勲大尉が牧野第16師団長に到着を申告しています(注14)。
 部隊略歴には輸送途中の損耗の記載がなく、この時期には珍しく無傷で現地に進出したようです。この点、木俣滋郎『戦車戦入門』には、先発した河野に数日遅れでルソン島からレイテに移動中の第2梯団乗船の小型貨物船「義丸」(200総トン)が、8月15日にレイテ島南方海上で触雷沈没したとあります(注3)。編成母体である戦車第2連隊の戦友会出版物にも同様の記述があり、八九式中戦車を全損したので現地にあった軽戦車11両で再建されたとしますが(注13)、これらの文献は誤りと思われます。「義丸」については、1944年8月15日に第16師団指揮下の「第三義丸」(注4)が、レイテ島西岸バイバイから東岸ドラグ・タクロバンへ向けて備蓄燃料の海上輸送中、レイテ島南西端マーシン港沖で触雷大破したのが該当するようですが、多数の戦車を搭載できる規模の船ではなく、戦闘詳報の兵器損耗表にも戦車関係の記載がありません(注5)。牧野第16師団長『比島陣中日誌』の8月15日の項に独立戦車第7中隊の河野大尉到来の記事と並んで「義丸」(200トン)沈没との記載があり、同史料を使った前掲木俣が無関係の2つの情報を混同したのが原因でしょう。戦車第2連隊の戦友会本の執筆者は独立戦車第1中隊の原田早苗中尉であって直接の経験談ではないため、先行する前掲木俣(初出は1975~1980年)を参照した結果、誤りも引き継いだものと思われます。
 独立戦車第7中隊は前述のとおり、もともと飛行場整備も任務として予定していましたが、実際にも第35軍の指揮下に入ると同時に、第3野戦飛行場設定司令部が実行中のレイテ島の飛行場群建設に協力させるよう命令が出ています(尚作命甲4号。注6)。捕虜供述によると、米軍上陸までの2ヶ月間、戦車はほとんど飛行場整備だけに従事して過ごしたようです。

 独戦第7中隊のレイテ進出から2ヶ月後の1944年10月20日、レイテ島東岸のタクロバンとドラグ付近等にマッカーサー率いる米軍が上陸、レイテ島の戦いが始まります。第16師団指揮下の諸部隊はこれを迎撃しますが、飛行場建設を優先したことで陣地構築が不十分でした。第16師団の10月初旬の報告では、水際陣地が軽掩蓋程度で進捗率80%、飛行場直掩陣地は着手したばかりなどとなっています。その上、第16師団は、最重要施設である海岸近くのタクロバン・ドラグ飛行場を守るため水際配備の方針を採っていましたが、不幸にもこの方針決定後のサイパン戦の戦訓で水際陣地は艦砲射撃に対して脆弱なことが判明します。第16師団は、艦砲射撃と空襲に支援された米軍4個師団に圧倒されて、たちまち内陸に押し込まれる結果となりました。タクロバン・ドラグ両飛行場とも上陸初日のうちに米軍に占領されています。
 米軍上陸前の10月初旬、独立戦車第7中隊は、飛行場整備支援のためかブラウエン飛行場地区のブリ(ブラウエン北飛行場付近)に駐屯していました(注7)。部隊略歴によれば10月13日から18日の事前砲爆撃で戦車が使用不能になったとありますが、後述のとおり米軍上陸までに相当数が稼働状態に整備されていました。中隊は米軍船団がレイテ島に接近した10月18日の第16師団命令で、ドラグ正面を担当する南部レイテ防衛隊長(歩兵第20連隊長)の指揮下に入ります(垣作命甲第824号、注8)。そして、米軍上陸初日の10月20日夜から翌10月21日未明、中隊主力はドラグ飛行場地区へ突入を命じられます。
 捕虜となった中隊所属の整備兵の供述調書によると、独戦7中隊保有の11両の戦車のうち8両がブリとドラグの中間のフリータ(ホリタ)Julitaに在り、米軍上陸2日目(The second day of the attack)には3両が出撃し、5両は放棄されたといいます(注15)。この捕虜の方は5両の戦車放棄の際に部隊を離れており、以後の戦闘を直接体験していないようです。
 米陸軍公刊戦史には、米軍側から見た独戦7中隊の戦闘が述べられています。10月20日夜、米陸軍第7師団の第一線の第184歩兵連隊G中隊(右翼の第32歩兵連隊との境界地域担当)が徹夜で壕を掘っているところへ、日本戦車3両が襲来して機関銃を掃射しますが弾道が高くて命中せず、バズーカや迫撃砲の砲火で一度撃退されます。1時間後に戦車1両だけが再来襲した時には、米兵の小銃擲弾で撃破されて乗員も戦死しています。別に「偵察車」(scout car)1両が現れて米兵5名を死傷させていますが、夜間で戦車を誤認したのか(騒音の点で間違えるか少し疑問)、武装トラック等なのか正体不明です(注9)。
レイテの八九式中戦車2 また、ドラグ・ブラウエン道南側沿いの第184歩兵連隊第3大隊の前には、10月21日午前1時30分ころに日本の中戦車3両が出現しますが、バズーカや手榴弾による攻撃で全滅。午前4時ころにも戦車6両が現れて、約30分間の戦闘で2両を失って撤退しています(注9)。
 日本側公刊戦史の戦史叢書では戦車中隊の突入時にドラグ拠点の予備隊が同行して、米軍戦車の円陣に突入しようとしたが陣前に破砕されたとあります(注10)。他方で上記の米軍記録では随伴歩兵がいた様子がなく、実際は歩戦協同を意図したものの事前訓練もないままの夜襲で連携が取れず、分離したまま各個撃破されたのだろうと思われます。
 米軍記録では出現した戦車数が捕虜の述べる3両よりもだいぶ多く思えますが、状況把握が難しい夜間戦闘であり、細部は誤りがあると思われます。米軍記録の被撃破戦車数は倍の6両に達しており、ただの過大報告なのか、捕虜の記憶違いでもっと多くが出撃したのかわかりません。撃破された八九式中戦車の写真を見ると、3両よりも多いようにも見えますが、もともと放棄された車両も混じっているのかもしれません。
 なお、捕虜供述によれば、中隊主力8両の出撃後、戦車3両がブラウエン飛行場地区ブリにあったものの、これは可動状態にない車両が残置されたものです(注1、注15)。おそらく行動不能のまま、10月24日のブリへの米軍侵入で失われたものと思われます。

 以上のとおり、独立戦車第7中隊は、レイテ島の初期数日間の戦闘で事実上全滅しました。河野中隊長(戦車に乗車して戦死と推定)以下、生還者もほとんどないようで部隊略歴では1944年10月21日に「全員玉砕」としていますが、10月24日に整備兵1名がブラウエン地区で捕虜となっており、ここまで述べたとおり、米軍の尋問に対して貴重な証言を残しています(注1、注15)。
 この点、前掲木俣は、12月13日にレイテ島西岸の2号ハイウェイで交戦した日本軍戦車隊を独立戦車第7中隊の生き残りと述べていますが(注11)、次回以降に述べるとおり、戦車第2師団所属の戦車とみるのが素直でしょう。
 ここまで約1週間の激戦で第16師団も戦力の過半を消耗しており、以後のレイテ島の戦闘は、他島からの増援部隊が主役となって続いていくことになります。(続く)


注記
  1. Cannon (1993) , p.135
  2. 『南方・朝鮮(南鮮)方面 陸上部隊略歴(航空・船舶部隊を除く) 第5回追録』 JACAR Ref.C12122500400、画像31
  3. 木俣(1999年)、273頁。初出は『PANZER』1975年8月~1980年8月号
  4. 「第三義丸」について、船舶番号46413・船主:水口義行・199総トンか。いわゆる海上トラックと思われます。
    なお、初稿では中隊編成時の装備戦車数を12両としましたが、執筆メモの読み間違いで当初から11両装備と思われます。その点からも木俣の述べる海没損害はなかったように思われます(2019-05-26訂正)。
  5. 輜重兵第16連隊第2中隊 『「マーシン」港外戦闘詳報』 JACAR Ref.C14061353700
  6. 尚作命甲4号については、JACAR Ref.C13071376200。原文では「タクロバン」付近航空基地とありますが、第35軍ではタクロバン飛行場(海軍支配)以外にレイテ島所在のブラウエン南北飛行場・サンパブロ飛行場・ドラグ飛行場をタクロバン基地と総称しているようです(「飛行場の急速なる補修強化の件」 JACAR Ref.C13071376500)。
  7. 「第十六師団状況報告」1944年10月8日、附表 JACAR Ref.C14061301900
  8. 「標題:垣作命甲第824号 第16師団命令 10月18日」 JACAR Ref.C13071393100
  9. Cannon (1993) , pp.127-128
  10. 戦史叢書「捷号陸軍作戦(1)」、376頁
  11. 木俣(1999年)、294頁
  12. 通称号について、初稿では「垣第17658部隊」としましたが「威第17658部隊」に兵団文字符を訂正(2019-05-26)。部隊略歴では南方軍の兵団文字符「威」ではなく第16師団の兵団文字符「垣」となっているのですが、師団編合部隊ではないのに師団の文字符を冠することには疑問があり、姉妹部隊の細田資料も参考に「威」としました。なお、Twitterで助言を頂いた、牛丼師団氏とkk氏に御礼申し上げます。
  13. 原田早苗「独立戦車第七中隊の奮戦」『追憶-戦車第二聯隊の碑建立記念』戦車第二聯隊戦友会、1988年、52頁
  14. 牧野四郎『牧野四郎追憶遺稿録』安倍孝一、1964年。以下「義丸」での海没有無についても牧野日誌ふまえて加筆(2019-09-28)。
  15. 滝沢彰(Taki)氏のコメントをふまえ、捕虜供述調書に基づいて訂正加筆(2019-11-15)。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第5章)

5.ベンガル湾のつわもの【暫定版】

 夏草や兵どもが夢の跡
          -松尾芭蕉-

【本記事は暫定版です。内容に不十分な点があることが判明しているため、なるべく早期に改訂するつもりです。】

 1945年、総崩れになりつつあるビルマ戦線の西部に、日本陸軍第54師団が踏みとどまっていました。コードネームである通称号は「兵(つわもの)」。一般的な3単位編制の歩兵師団で、機甲戦力として偵察部隊である捜索第54連隊を有しています。
 捜索第54連隊も標準的な編制の捜索連隊で、騎兵第10連隊(姫路)を母隊とし、新設当初は連隊本部・乗馬中隊・乗車中隊・装甲車中隊各1個から成っていました。南方派遣時に連隊本部と乗車中隊2個(第1・2中隊。速射砲各2門・重機関銃各2丁)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。九七式軽装甲車各8両、うち砲装備各3両)基幹に改編強化され、通信小隊も付属したようです。人員484人、トラック45両と乗用車7両を保有し、完全自動車化されていたように思われます。

 1944年1月以降、第54師団は第28軍隷下、ビルマ西部ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備されます。捜索第54連隊主力(中村忠雄中佐。本部と乗車第2中隊)は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)を守備。乗車中隊・装甲車中隊各1個は師団直轄等に召し上げ。白井中隊長率いる第3中隊(装甲車中隊)は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、ベンガル湾に浮かぶラムレ島へ一時進出しますが、1944年9月に大陸本土沿岸に戻ってタンガップ(タウンガップ、タウングプTaungap)地区防衛を任としました。
 タンガップは、ビルマ中心部からアラカン山脈を越えて続く自動道がベンガル湾に出る地点で、制空権喪失により海上交通が遮断された日本軍にとって、重要な兵站拠点でした。また、飛行場もありましたが、航空機は全く配備されていなかったようです。
 第3中隊は、タンガップ北方のサビンという村を中心に65kmもの広大な海岸線の守備を担当しました。いくら機動力があると言っても人員40名余では明らかに兵力不足ですが、空挺部隊などに対する警戒が中心で、本格的な侵攻に際してはタンガップに後退する計画だったといいます。これを捜索連隊らしい騎兵的な任務だと喜ぶ者もあったようです。

 1945年2月15日、タンガップから85km北のメイへ補給品を輸送中の独立自動車第55大隊の車列が、敵の上陸部隊に出くわして逃げ帰って来ました。敵兵力は最大4万人の大軍とも報告されました。ところが、タンガップから歩兵1個大隊と捜索第54連隊第3中隊が反撃に出動したところ、実はイギリス軍40人程度の偵察上陸と判明します。イギリス軍は日本軍の反撃を受け、すぐに撤収しました。大騒ぎをした独立自動車第55大隊の士官は、回想で部隊の醜態を恥じています。

 1945年3月、イギリス軍は反攻作戦の一環として、タンガップの攻略に着手します。3月15日(3月12日?)、第4インド歩兵旅団(3個歩兵大隊)と第146機甲連隊A中隊(M3リー中戦車装備)が、タンガップ北方のレトパンLetpanに上陸。そのうち尖兵のフロンティア・フォース・ライフル連隊2/13大隊の1個中隊は、夜のうちに進軍してタンガップ=メイ間の道路の屈曲点を制する地点に達しました。
 日本軍はすぐに上陸に気が付き、撃退を試みます。タンガップ地区隊唯一の機甲戦力である捜索第54連隊第3中隊は、機動反撃を命じられ、中隊主力(指揮班及び第1小隊の軽装甲車5両)で出撃しました。無謀な出撃とも思えますが、2月15日と同様に偵察上陸で簡単に撃退できると期待したのかもしれません。タンガップから北上した装甲車隊は、上記のイギリス軍尖兵中隊の封鎖地点に到達しますが、準備不十分だったのかイギリス軍は素通りさせたようです。
タンガップの九七式軽装甲車 3月16日の午後、イギリス軍は第146機甲連隊A中隊を先頭に本格的に侵攻を開始し、日本側の捜索第54連隊第3中隊主力とすぐに遭遇します。日本側の装備車両は2人乗りの豆戦車である九七式軽装甲車(イギリス軍は九五式軽戦車と誤認)で、イギリス軍のM3中戦車にはとても敵わず、南のタンガップ方向へ高速で逃げ出しました。しかし、撤退した先には、フロンティア・フォース・ライフル連隊の尖兵中隊が待ち構えており、携帯対戦車火器PIATを次々と発射して、今度は素通りさせてくれませんでした。進退窮まった捜索第54連隊第3中隊主力は、引き返してイギリス軍との接触を断った後、車両を放棄して徒歩で包囲を脱出しました。追撃してきた英軍戦車が発見したのは、放棄された軽装甲車5両(うち3両は自焼した残骸)だけで、乗員の姿はどこにもありませんでした。(画像はタンガップ地区でイギリス軍に捕獲された九七式軽装甲車。砲装備なので中隊長車か第1小隊長車である。)
 このとき、イギリス軍は遺棄された日本軍装甲車の中から、九七式軽装甲車の前でポーズをとった日本軍戦車兵の写真を押収しています。この写真は、吉川和篤『日本の豆戦車写真集』(イカロス出版、2016年)の中表紙に掲載されている白井装甲車隊の車長の写真と同じアングルで撮影されたものです。捜索第54連隊第3中隊は内地出発前に兵庫県の青野ヶ原で待機中、形見となるように全員が一人ずつ装甲車の前に立って記念撮影したのだそうです。なお、このときに写真のネガを内地に残すはずが、誤ってネガまでビルマに持っていってしまったとのことで、現存するのは貴重な一枚と言えそうです。

 こうして、捜索第54連隊第3中隊は、装甲車両の主力を失いました。ただし、後方の警戒を命じられた第2小隊(軽装甲車3両)は離脱に成功し、戦闘を継続しています。砲兵牽引車の代わりとして野砲などの陣地転換にも多用されたようです。タンガップ地区隊はイギリス軍に圧迫されて次第に後退し、1945年4月末には第28軍直轄となってビルマ東部のペグー山地へ退却せよとの命令を受けます。第2小隊の軽装甲車3両はアラカン山地を突破してイラワジ河畔のパドン南方まで至り、師団の転進を援護するため後衛戦闘に活躍した後、ついに5月14日に軽装甲車を処分しました。その後は車載重機を主力兵器として戦います。第3中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭を進み、厳しい退却戦を続けることになります。(この章終わり

追記
日本側の参戦中隊が、第4中隊ではなく第3中隊であったので訂正(2019年5月2日)。
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