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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

ガダルカナル島のとある見張所の最期

 太平洋戦争のソロモン諸島方面の戦闘において、連合国側がコーストウォッチャーと呼ばれる監視員を各地に配置、有力な早期警戒網を構成していたことは知られるところです。
 もともとはオーストラリア海軍が第一次世界大戦後から整備を進めてきていたもので、1930年代に専門の海軍情報部長が設置されて本格化。太平洋戦争開戦直前の1941年半ばにはニューギニアやソロモン諸島等の100か所以上に無線通信機を装備したコーストウォッチャーが展開していました(ロード 31頁)。ソロモン諸島の場合、開戦前の時点でブーゲンビル島に2か所、ガダルカナル島に3か所、その他ツラギなど3か所の計8拠点が置かれています(ロード 34頁)。人員は、予備役軍人を含む現地在住の欧米系民間人が主体だったようです。
 ガダルカナル島攻防戦たけなわの頃、ラバウルからガダルカナル島に向けて日本軍の攻撃隊が離陸すると、途中のブーゲンビル島やニュージョージア島などのコーストウォッチャーが次々と無線で報告、防空レーダーの情報と合わせて、素早く迎撃態勢をとることができました。

 対する日本側も同じようなことを思いつかなかったかというとそんなわけはなく、日本海軍もソロモン諸島の各地を占領すると見張所という名で監視拠点を配置していきました。
ガダルカナル島見張所
 ガダルカナル島に米軍が上陸する前月の1942年7月16日時点で、図のとおり、ガダルカナル島内にはルンガ飛行場を囲むように東見張所(タイボ岬)・南見張所・西見張所(エスペランス岬)、南岸にハンター岬見張所、フロリダ島(ツラギ)やラッセル諸島等の周辺島嶼にも見張所が存在しました(南東方面海軍作戦(1) 385頁)。7月16日時点では予定となっているマライタ島やマラバ島の見張所も、アメリカ軍上陸時までには実際に配置が完了していました。
 この中でガダルカナル島内でも主戦場からポツンと離れ、オーストラリア側に最も近いのが南岸のハンター岬見張所です。人員9名(ただし最終時の連合国側の記録によると10名)、機銃2挺(?)と無線通信機装備という戦闘力はほとんどない「目」でした。通信機は短距離用の軽便無線機と思われ、基本的には長距離通信設備を有する北岸ルンガの海軍部隊本部との間の島内通信用でした。ただ、西見張所の通信機は後にショートランド島との間で交信に成功しており、ある程度は島外との交信も可能だったかもしれません。
 配置場所にハンター岬が選定された一因には、ガダルカナル島で布教活動をしていたオランダ人宣教師エメリー・ド・クラーク(Emery de Klerk)神父の助言があったようです。ガ島を占領した日本兵が1942年7月10日にクラーク神父を訪問して、南岸に監視拠点を置くのに適した場所がないか問うたところ、クラーク神父はハンター岬と答えたといいます(ロード 79頁)。

 1942年8月7日にアメリカ軍が、ガダルカナル島北岸ルンガとツラギに上陸して、ガダルカナル島の戦いが始まります。ルンガの第11設営隊以下の海軍部隊主力はひとたまりもなくジャングルに退避しましたが、各見張所はとりあえず攻撃を免れて健在でした。いきなり本部との交信が途絶して、見張所同士で不安の声を交わしていたようです(五味川 56~58頁)。
 その中でも南岸のハンター岬見張所は、8月7日朝にガダルカナル島南方洋上を行動中のアメリカ海軍空母部隊を発見することに成功します(南東方面海軍作戦(1) 457頁)。日本側にとって残念なことに、ハンター岬見張所の無線報告は、ルンガの海軍部隊主力が通信機を失って通信途絶したため受信されず、上級部隊にすぐに届きませんでした。この重要情報は、8月12日に連絡任務のためハンター岬沖に浮上した潜水艦「呂33」へ見張所長が赴いて報告され、艦載無線でようやく上級部隊に伝えられることになります(南太平洋陸軍作戦(1) 281頁)。
 ちなみに他の見張所も序盤の貴重な通信拠点として機能し、海軍部隊主力は、8月16日にエスペランス岬の西見張所の通信機を取り寄せて、潜水艦やショートランド基地経由の連絡を回復しています。8月18日に反撃部隊の一木支隊先遣隊が上陸したのも、タイボ岬の東見張所のそばで、同見張所の海軍兵3名が道案内として同行、同見張所が後に一木支隊の敗北の第一報を伝えています。海軍の増援通信部隊がエスペランス岬西のカミンボに上陸したのは9月7日で、それまでは見張所の無線機と増援第一陣の高橋陸戦隊(8月16日上陸)が持ち込んだ無線機が通信の要であったと思われます。

 もちろん、連合国軍が、そのまま日本軍の見張所を見逃すこともありませんでした。
 8月16日には、フロリダ島東端のイースト岬見張所(約12名)が敵軍上陸を報じた後、通信途絶し、玉砕と推定されます(南東方面海軍作戦(1) 533頁)。8月27日に潜水艦「伊123」がイースト岬へ連絡と食糧補給に向かいますが、実施できた記録は残っていません(南東方面海軍作戦(2) 63~64頁)。
 一木支隊が上陸したタイボ岬見張所付近には、その後に川口支隊主力なども上陸して揚陸拠点として活用されました。しかし、9月8日にアメリカ海兵隊が舟艇機動でタイボ岬へ侵攻、川口支隊の後方部隊を撃破しており、この時に見張所も壊滅したものと思われます。そもそも一木支隊先遣隊が上陸する前から、アメリカ軍はコーストウォッチャーの通報でタイボ岬に日本軍の通信拠点があるとの情報を得て掃討部隊を差し向けており、アメリカ軍が一木支隊の将校斥候を素早く一掃できたのもこの掃討部隊が臨戦態勢でちょうど付近にいたためのようです(Zimmerman pp.61~62)。

 空母発見で活躍したハンター岬見張所の最期については、連合国側に明確な記録を発見することができました。
 連合国側の記録によると、主戦線で日本軍第2師団が総攻撃を準備中の10月18日頃、一団の現地住民が、ハンター岬見張所を訪れて、タバコと食料の物々交換を申し出ました。そして、日本兵が豚肉の提供を求めると、島民たちは日本兵を野豚狩りに誘いました。しかし、これは罠でした。翌日、日本兵のうち8人が、槍で武装した現地住民とともに二手に分かれながらジャングルの道を出かけましたが、しばらく進んで川の分岐点に着いたところで、住民たちの槍で襲われて全員殺害されました(ヘイ 126~127頁)。住民たちは夕暮れを待って、見張所の留守番の日本兵も襲撃、1名を殺害しました。日本兵1名だけがジャングルに逃げ込んだようですが、そのまま行方不明となっています(ロード 106頁)。住民たちは小銃9挺を戦利品として奪い、機銃や通信機は破壊して海に投げ込み、建物を焼き払いました(ヘイ 126~127頁)。暗号書などを収集した様子はなく、連合国正規軍と連携した行動ではなかったことが伺えます。
 8月13日にハンター岬見張所から潜水艦「呂33」経由で送られた報告によると、ハンター岬見張所はアメリカ軍上陸当日の8月7日夜に食料がなくなり、現地の果実で食いつなぐ状況であったようです(五味川 56~58頁)。補給のタイミングが悪かったのでしょうか。「呂33」から一定の食糧援助は受けたと思いますが、その後は北岸の主力部隊ですら満足に補給が受けられない状態が続いたことから、おそらく最期まで新たな補給が得られなかったのではないかと推測されます。食料を囮とした計略にかかりやすい要因が揃っていたのでしょう。
 この計略を立案したのは、ハンター岬を見張所の設置場所として助言したクラーク神父でした(ロード 106頁)。クラーク神父は、初めは連合国軍への積極的な協力を避けていたのですが、他の教会関係者が日本軍に処刑され、日本軍が畑を荒らすなど現地住民に危害を及ぼすに至って、島外へ撤収するコーストウォッチャーの業務を引き継ぐと、10月半ばには現地住民の武装組織化も始めていました。クラーク神父がその最初の攻撃目標に選んだのが、彼自身のよく知るハンター岬見張所だったのです。協力を拒んだ酋長もいたようですが、ジョー・ツルカイア酋長が作戦に同意して実行部隊になりました。ただし、別のコーストウォッチャー協力者だったケン・ダーリンブル・ヘイは、自分がハンター岬攻撃の発案者で、マライタ島出身の現地人スカウトが実行部隊の中核だと述べています(ヘイ 126頁)。

 そのほかの多くの見張所の最期は詳細がわかっていません。前掲の「呂33」経由の報告によると、8月13日時点で判明したハンター岬以外の見張所の備蓄食料・飲料水も7~17日間分に過ぎなかったといいます。このことから、五味川純平は、各見張所は孤立したまま補給も受けられず、守備兵は餓死したと推測しています(五味川 56~58頁)。ハンター岬見張所と同様に、連合国側に協力した現地住民の襲撃により全滅した事例もあったかもしれません。

 ソロモン諸島のような多島海域に見張所による早期警戒網を敷くというアイディアは、悪くない狙いに見えます。ですが、実際には制空権を失った状況において、敵地近くに分散した小さな拠点へ補給を継続することは困難でした。かといって高温多湿の環境で、大量の食糧をあらかじめ備蓄することも容易ではないでしょう。挙句の果ては救出すら非効率的で、放置したまま餓死するに任せるという非情な選択を採ることになっていきます。
 この種の構想が機能するには、現地住民から食料供給などの協力が得られることが必要条件だったように思えます(日本兵が米飯なしで我慢できるのかという問題はあります。)。逆に現地住民が本気で攻撃すれば、ハンター岬見張所の例のように、わずか10名前後の見張所の兵力では自衛することもできません。
 ニューギニアやソロモン諸島におけるコーストウォッチャーの活用は、オーストラリア軍が戦前からコーストウォッチャー網の整備を計画し、一帯を自国の庭として農園経営や布教活動、現地人警察組織等を通じて現地住民と密接な関係を築いてからこそ有効にできたもので、占領軍である日本軍がにわかに同じことをしようとしても実現できなかったといえる気がします。

<参考文献>
ウォルター・ロード(著)、秦郁彦(訳) 『南太平洋の勇者たち-ソロモン諜報戦』 早川書房、1981年。
ケン・ダーリンブル・ヘイ(著)、松永秀夫(訳) 「私だけが知っているガ島血戦始末」『丸エキストラ版 第80集』 潮書房、1978年。
五味川純平 『ガダルカナル』 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年。
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦(1) ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 朝雲新聞社、1968年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪回作戦開始まで』 同上、1971年。
同上 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 同上、1975年。
John L. Zimmerman, “Marines in World War II Historical Monograph : The Guadalcanal Campaign” USMCR Historical Section, Division of Public Information, Headquarters, U.S. Marine Corps, 1949.

The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance

A History Channel special, "Amelia Earhart: The Lost Evidence" say a photograph found in the National Archives taken in 1937 at Jaluit Atoll showed a woman resembling Amelia Earhart.

However the photograph was first published in Palau under Japanese rule in 1935, in a photo book; Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata." (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935. So the photograph was taken at least two years before Amelia Earhart disappeared in 1937 and a person on the photo was not her.

海の生命線我が南洋の姿44頁
(Motoaki Nishino (西野元章) , "Umi no seimeisen : Waga nannyou no sugata" (海の生命線 我が南洋の姿) , Palau: Futabaya Gofukuten, 1935, p. 44; from National Diet Library Digital Collection)

According to original caption in Japanese, the photo taken at port of Jabor town in Jaluit Atoll. The steam ship on the right of the photo is a Japanese navy survey ship ''IJN Koshu'' (膠州) . The ship participated in searching mission for Amelia and arrived Jaluit Atoll in 1937, but the ship also arrived there sometimes since 1935.

Postscript (2017-07-12)
IJN Koshu (膠州, Jiaozhou Bay) : ex. German cargo ship launched in 1904, seized by Japan in WW1 at Tsingtau. The ship renamed Koshu, used as a transport ship and a survey ship by Imperial Japanese Navy. The ship worked for survey mission of the South Pacific Mandate in 1930s.
IJNkoshu.jpg (IJN Koshu)

Around 1937, apart from IJN Koshu, there were at least two Japanese ships named SS Koshu Maru. "Maru" (丸) is a word often used end of Japanese ship's name, but not used for regular IJN naval ship's name.

Koshu Maru (杭州丸, Hangzhou) : cargo ship launched in 1911, initially named Daiun Maru (大運丸), renamed Koshu Maru in 1913.
osk_koshumaru.gif (SS Koshu Maru, launched in 1911)

Koshu Maru (光州丸, Gwangju) : passenger cargo ship launched in 1937, initially named Teishu Maru (定州丸) , renamed Koshu Maru in 1940.
chosen_yusen_teishu_maru.jpg (SS Koshu Maru, launched in 1937 as Teishu Maru)

日本語の詳細版記事 More detailed version post : アメリア・イアハートの写真説は誤りであること (2017-07-09 in Japanese)

アメリア・イアハートの写真説は誤りであること

 数日前に、女性飛行士アメリア・イアハートAmelia Earhartが日本軍の捕虜になっていたことの証拠写真が発見されたというニュースがありました。しかし、検証したところ、問題の写真は遭難事故以前に撮影されたもので、当該仮説は誤りだと思われます。
* Summary of this post in English is here : The Lost Evidence Photo published 2 years before Amelia Earhart's disappearance (2017-07-11)

『伝説の女性飛行士イアハート、日本軍の捕虜に? 新たな証拠写真』AFPBB News:2017年7月7日
「ヒストリー・チャンネルのドキュメンタリー番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」は、2人は生き延びて、日本軍の捕虜になった可能性があると指摘している。」「番組が証拠としているのは、米国国立公文書館(US National Archives)で見つかった不鮮明な白黒写真だ。そこに写っているのが、拘束後にマーシャル諸島(Marshall Islands)にいる2人の姿だという。」

海の生命線我が南洋の姿44頁 問題の米国国立公文書館で発見された写真は、上記リンク先AFP記事のキャプションによればマーシャル諸島ジャルート環礁(ヤルート)で1930年代撮影となっていますが、この写真はもともと1935年(昭和10年)10月に日本委任統治下のパラオで出版された西野元章『海の生命線 我が南洋の姿』(二葉家呉服店、1935年)という写真集に掲載されているヤルート島ジャボール港の写真です(右画像は国立国会図書館デジタルコレクションPID:1223403の同書44頁から引用)。
 したがって、問題の写真の撮影日時は出版された1935年以前で、イアハート遭難事件の起きた1937年よりも前の写真ということになります。遭難後のイアハートが写っているということはありえません。

 なお、上記AFP記事で「波止場の奥に写った「コウシュウマル(Koshu Maru)」という日本船」と書かれている、写真の右に写っている汽船は日本海軍の測量艦「膠州」で、1937年7月にヤルートに寄港してアメリア・イアハートの捜索にも協力した船です。しかし、アジア歴史資料センターによりインターネット公開されている「膠州」の航泊日誌(JACAR Ref.C11083153700、C11083154100、C11083154500)を見ると、以下の通り、イアハート機の捜索以外でもヤルートに度々寄港しています。
・1935年(昭和10年)1月1日~1月8日、ヤルート在泊
・同年5月19日~5月29日、ヤルート在泊
・同年7月26日~8月4日、ヤルート在泊
・同年9月2日~9月6日、ヤルート在泊
 アジ歴の航泊日誌には欠落があるので断言はできませんが、問題の写真は上記の日時のいずれかで撮影された可能性があります。左奥に写っている汽船の船名がわかれば、撮影日付特定の手がかりになるのではないかと思いますが、残念ながら手元資料では船名までわかりませんでした。

WW2で戦没した捕虜輸送船の国際比較

 第二次世界大戦中、太平洋戦争や地中海戦域などでは相当数の捕虜の海上輸送が行われました。そして、捕虜輸送船が撃沈されて犠牲者が出る事例も相当にありました。
 塗装や通告方式が定められていた病院船と異なって、捕虜輸送船を保護する国際ルールは確立されていなかったようで、無標識のまましばしば通常の軍隊輸送船と誤認されて被害を生じています。「阿波丸」など人道支援物資輸送で活用された安導権による対応がありえたようにも思いますが、無制限潜水艦戦状態、救出作戦を防止するため秘匿が必要、捕虜輸送船は軍隊輸送船兼用で兵員や軍需物資も混載したいので特別扱い困難などの理由で、現実には難しかったのかもしれません。

 そんな捕虜輸送船について、どの程度被害が出ていたのかなと気になって、取っ掛かりとして手元の資料とネットで分かる程度の範囲で沈没事例をまとめてみました。
 捕虜輸送船というと、特に日本が運航した船が、劣悪な船内環境・沈没時の大量犠牲者でいわゆる「ヘルシップ」として知られていますが、やはり沈没船の数は日本が多いです。
 運航主体ではなくて犠牲になった捕虜の国籍で見ると、イタリア兵がかなり酷い目にあってるんですね。ドイツ軍管理下で12000人以上、イギリス軍管理下で2000~3000人は亡くなったようです。高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』の突撃師団ロードスの記事にも、ドイツ軍による投降イタリア兵虐殺と並んで捕虜輸送船2隻の触雷が紹介されていましたが、ほかにもこれほどあるとは。
 なお、以下に挙げたほか、日本関係では現地徴募の労務者多数を乗せた「隆西丸」、ドイツ関係では強制収容所代わりになっていた「カップ・アルコナ」など、敵国の捕虜ではないものの通常の自国民とも違う立場の人が大量犠牲になった船舶もありますが、とりあえず除きました。

日本の運航船
「もんてびでお丸」(7266総トン)1942年7月1日・潜水艦。豪州人捕虜・抑留者1053人死亡
「りすぼん丸」(7053総トン)1942年10月1日・潜水艦。英国人捕虜842人死亡
「すゑず丸」(4645総トン)1943年11月29日・潜水艦。主に英国人捕虜546人死亡
「玉鉾丸」(6780総トン)1944年6月24日・潜水艦。豪195人・蘭181人・英148人・米捕虜30人死亡
「勝鬨丸」(10509総トン)1944年9月12日・潜水艦。英国人捕虜380人死亡
「楽洋丸」(9418総トン)1944年9月12日・潜水艦。英・豪州人捕虜1039~1181人死亡
「順陽丸」(5065総トン)1944年9月16日・潜水艦。蘭・蘭印捕虜1477~1520人死亡 ※ほかに労務者4120人死亡
「豊福丸」(5824総トン)1944年9月20日・潜水艦。主に英国人捕虜1047人死亡
「阿里山丸」(6886総トン)1944年10月11日・潜水艦。主に米国人捕虜1773人死亡
「鴨緑丸」(7362総トン)1944年12月15日・空襲。米国人捕虜286人死亡
「江ノ浦丸」(6968総トン)1945年1月9日・空襲。米国人捕虜300~692人死亡
など23隻沈没。総計10844人死亡

ドイツの運航船
「ガエターノ・ドニゼッティGaetano Donizetti」(3428総トン)1943年9月23日・潜水艦。イタリア人捕虜1576人死亡
「アルデナArdena」(1092総トン)1943年9月23日・機雷。イタリア人捕虜779人死亡
「マリオ・ロゼッリMario Roselli」(6835総トン)1943年10月11日・空襲。イタリア人捕虜1302人死亡
「マルガリータMarguerite」(旧マリア・アマリアMaria Amalia、748総トン)1943年10月13日・機雷。イタリア人捕虜544人死亡
「シンフラSinfra」(4444総トン)1943年10月19日・空襲。イタリア人捕虜約1900人死亡
「ペトレッラPetrella」(4785総トン)1944年2月8日・潜水艦。イタリア人捕虜2670人死亡
「オーリアOria」(2127総トン)1944年2月12日・荒天による事故。イタリア人捕虜4025人死亡
「リゲルRigel」(3828総トン)1944年11月27日・空襲。ソ連・ポーランド人・セルビア人捕虜約2200人死亡

英国の運航船
「アランドラ・スター Arandora Star」(12847総トン)1940年7月2日・潜水艦。イタリア人抑留者・ドイツ人捕虜・抑留者713人死亡
「シュンテンShuntien」(順天、3059総トン)1941年12月23日・潜水艦。イタリア人・ドイツ人捕虜800~1000人死亡
「ラコニアLaconia」(19680総トン)1942年9月12日・潜水艦。イタリア人捕虜1227人死亡
「ノヴァ・スコシアNova Scotia」(6796総トン)1942年11月28日・潜水艦。イタリア人捕虜・抑留者650人死亡

オランダの運航船
「ファン・イムホフVan Imhoff」(2980総トン)1942年1月20日・空襲。ドイツ人抑留者412人死亡

<参考文献>
・大内健二 『捕虜輸送船の悲劇』 潮書房光人社、2014年。
・高橋慶史 『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』 大日本絵画、2012年。
・常石敬一他 『世界戦争犯罪事典』 文藝春秋、2002年。
・POW研究会 「捕虜輸送中に沈没した船
・Wikipediaイタリア語版 「Internati Militari Italiani」ほかWikipediaの各船記事
Plimsoll ship data掲載のロイド船名録

第4611船団の疎開民間人

 ツイッターでもつぶやいたのですが、太平洋戦争中に米軍上陸直前のサイパン島から脱出しようとした日本の第4611船団という護送船団に、民間人の疎開者多数が乗船していたという話を見かけて気になりました。なので、とりあえずメモ書きとしてまとめておくことにします。

 見かけた話というのは、NHKの戦争証言アーカイブスに収録の石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」です。著者は海軍一等兵曹で、ブーゲンビル島から内地へ転勤途中に、経由地のサイパン島から船団護衛艦の「第八拓南丸」に便乗したという方。「サイパンも戦局急を告げ、疎開学童を含む婦女子、3、4000人が内地に引き揚げることになった。(引用中略)婦女子は輸送船バタビア丸、門司丸など15隻へと分乗した。」とあります。沖縄戦の「対馬丸事件をはるかに超える大惨事」と。
 この船団は、1944年6月11日にサイパンから横須賀方面に出航した第4611船団(Wikipedia)のことと思われます。加入輸送船は「ばたびあ丸」「門司丸」など海軍徴用船12隻と陸軍徴用船1隻で、護衛は水雷艇「鴻」以下10隻でした。米軍第58機動部隊がサイパン攻略の事前空襲で来攻したため、サイパンに在泊中の艦船を退避させるため編成されましたが、上記石黒回想のとおり、米軍機動部隊に捕捉されて空襲と水上戦闘で壊滅しました。なお、上記石黒回想で司令官が高橋少将となっているのは、手紙の画像を見ると、同じく護衛部隊の第51号駆潜艇に乗艦していた方の話に基づくようですが、おそらく後に護衛した第4804船団(硫黄島から内地に航行中に米軍機動部隊と交戦。)で駆逐艦「松」に座乗していた高橋一松少将のことと記憶が混交しているものと思われます。

 さて、第4611船団は上記のように船舶保護が主目的だったので、私は、疎開する民間人はあまり便乗していなかったのではないかと思い込んでいました。なお、第4611船団の編成時点では、日本側はサイパンの攻略が直ちに始まるとまでは確信しておらず、とりあえず空襲から船舶を避難させようという認識だったようです。
 当時のサイパン島では、米軍上陸に備えて、民間居留民などの非戦闘員の本土疎開が推進されていました。民間航路の貨客船に乗せたり、増援部隊を運んだ輸送船の帰路に便乗させたりしていましたが、「亜米利加丸」(Wikpedia)や「白山丸」(Wikipedia)などが撃沈されて数百人単位の死者が出ていました。

 第4611船団の加入船を見てみると、「ばたびあ丸」や「門司丸」辺りは前者約180人、後者約80人ともともと相当の旅客設備を持っていたようですが、ほかは貨物船が多いようです。ただし、当時は兵員輸送用の軍隊輸送船として改装された貨物船が多く、貨物船でも人員輸送に使われた可能性はあります。「門司丸」も本来の旅客設備に加えて、船倉までいわゆる蚕棚式の寝台を組んで、初期の南方作戦では南海支隊の砲兵900人を運んだ実績があるとのこと。
 とりあえず、加入船についての文献を適当に当たってみたところ、以下の3隻にはサイパンから本土疎開する居留民が乗船していた可能性があると思われます。
batabiamaru.jpg
 「ばたびあ丸」(大阪商船・4392総トン):便乗者140人中18人死亡(駒宮『戦時船舶史』205頁)。画像は沈没しつつある同船ですが退船完了後か。
 「麗海丸」(東亜海運・2812総トン):邦人42人死亡(駒宮『戦時船舶史』266頁)
 「門司丸」(日本郵船・3836総トン):不明。『日本郵船戦時船史』では便乗者約1000人とありますが(上・713頁)、主にトラック島で収容した「海軍特殊設営隊」800人のようで(上・716頁)、サイパン島では同じ日本郵船所属の「高岡丸」(サイパン沖で6月5日被雷沈没)の遭難船員59人を追加乗船させたものの(上・700頁)、一般疎開者が乗っていたとは確認できませんでした。特殊設営隊の正体は未調査ですが、建設要員として使役されていた囚人部隊ではないかと思います。 なお、「ばたびあ丸」が撃沈された際、生存者の一部は「門司丸」に救助されたため、一時的に疎開民間人が「門司丸」に乗ったのは間違いないようです。

 加入船のうちで民間人の移動に最も適していたと思われる「ばたびあ丸」の便乗者が140人にとどまり、どうも全船に疎開者が乗っていたわけでもないことを考えると、上記石黒回想のサイパンからの疎開者3000~4000人乗船(商船1隻あたり婦女子300~350人×隻数、護衛艦1隻あたり70~80人×隻数)という推定は過大と思います。
 乗船中の疎開者の犠牲者数も、上記のとおり、「ばたびあ丸」18人と「麗海丸」42人という以上の資料がまだ確認できません。「ばたびあ丸」生存者の多くは「門司丸」に救助されたようですが、「門司丸」も本土行を断念してサイパンに戻り、米軍の艦砲射撃で撃沈されたため、最終的には乗船者のほとんどが死亡されたのではないかと思います。
 一部の方だけは「門司丸」沈没時に米軍艦艇に救助されて、ハワイなどの収容所に送られて生還という幸運な経過を辿っています。冒頭の石黒回想でも4人の方の名前が挙げられており、戦没した船と海員の資料館研究員の上澤祥昭の講演でも事例が紹介されています(『逗子ロータリークラブWeekly Report』2010-2011・34号(PDF))。陸上に逃れられた方があったのか不明ですが、「門司丸」船員や便乗中の「高岡丸」船員の場合、洋上で米軍捕虜になった方(「門司丸」7人・「高岡丸」4人)以外は生還者がなく、生存可能性は乏しいと思われます。

 戦場で民間人保護がどのように行われたのかという問題の参考事例として、もう少し掘り下げてみたい気もします。

参考文献
石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」『NHK戦争証言アーカイブス』日本放送協会ウェブサイト
駒宮真七郎『戦時船舶史』駒宮真七郎、1991年
日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』上巻、日本郵船、1971年
防衛庁防衛研修所戦史室『マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年

謝辞
 ツイッターで助言を頂いた、天翔艦隊管理人様にお礼を申し上げます。
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山猫男爵

Author:山猫男爵
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連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
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