山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

WW2で戦没した捕虜輸送船の国際比較

 第二次世界大戦中、太平洋戦争や地中海戦域などでは相当数の捕虜の海上輸送が行われました。そして、捕虜輸送船が撃沈されて犠牲者が出る事例も相当にありました。
 塗装や通告方式が定められていた病院船と異なって、捕虜輸送船を保護する国際ルールは確立されていなかったようで、無標識のまましばしば通常の軍隊輸送船と誤認されて被害を生じています。「阿波丸」など人道支援物資輸送で活用された安導権による対応がありえたようにも思いますが、無制限潜水艦戦状態、救出作戦を防止するため秘匿が必要、捕虜輸送船は軍隊輸送船兼用で兵員や軍需物資も混載したいので特別扱い困難などの理由で、現実には難しかったのかもしれません。

 そんな捕虜輸送船について、どの程度被害が出ていたのかなと気になって、取っ掛かりとして手元の資料とネットで分かる程度の範囲で沈没事例をまとめてみました。
 捕虜輸送船というと、特に日本が運航した船が、劣悪な船内環境・沈没時の大量犠牲者でいわゆる「ヘルシップ」として知られていますが、やはり沈没船の数は日本が多いです。
 運航主体ではなくて犠牲になった捕虜の国籍で見ると、イタリア兵がかなり酷い目にあってるんですね。ドイツ軍管理下で12000人以上、イギリス軍管理下で2000~3000人は亡くなったようです。高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』の突撃師団ロードスの記事にも、ドイツ軍による投降イタリア兵虐殺と並んで捕虜輸送船2隻の触雷が紹介されていましたが、ほかにもこれほどあるとは。
 なお、以下に挙げたほか、日本関係では現地徴募の労務者多数を乗せた「隆西丸」、ドイツ関係では強制収容所代わりになっていた「カップ・アルコナ」など、敵国の捕虜ではないものの通常の自国民とも違う立場の人が大量犠牲になった船舶もありますが、とりあえず除きました。

日本の運航船
「もんてびでお丸」(7266総トン)1942年7月1日・潜水艦。豪州人捕虜・抑留者1053人死亡
「りすぼん丸」(7053総トン)1942年10月1日・潜水艦。英国人捕虜842人死亡
「すゑず丸」(4645総トン)1943年11月29日・潜水艦。主に英国人捕虜546人死亡
「玉鉾丸」(6780総トン)1944年6月24日・潜水艦。豪195人・蘭181人・英148人・米捕虜30人死亡
「勝鬨丸」(10509総トン)1944年9月12日・潜水艦。英国人捕虜380人死亡
「楽洋丸」(9418総トン)1944年9月12日・潜水艦。英・豪州人捕虜1039~1181人死亡
「順陽丸」(5065総トン)1944年9月16日・潜水艦。蘭・蘭印捕虜1477~1520人死亡 ※ほかに労務者4120人死亡
「豊福丸」(5824総トン)1944年9月20日・潜水艦。主に英国人捕虜1047人死亡
「阿里山丸」(6886総トン)1944年10月11日・潜水艦。主に米国人捕虜1773人死亡
「鴨緑丸」(7362総トン)1944年12月15日・空襲。米国人捕虜286人死亡
「江ノ浦丸」(6968総トン)1945年1月9日・空襲。米国人捕虜300~692人死亡
など23隻沈没。総計10844人死亡

ドイツの運航船
「ガエターノ・ドニゼッティGaetano Donizetti」(3428総トン)1943年9月23日・潜水艦。イタリア人捕虜1576人死亡
「アルデナArdena」(1092総トン)1943年9月23日・機雷。イタリア人捕虜779人死亡
「マリオ・ロゼッリMario Roselli」(6835総トン)1943年10月11日・空襲。イタリア人捕虜1302人死亡
「マルガリータMarguerite」(旧マリア・アマリアMaria Amalia、748総トン)1943年10月13日・機雷。イタリア人捕虜544人死亡
「シンフラSinfra」(4444総トン)1943年10月19日・空襲。イタリア人捕虜約1900人死亡
「ペトレッラPetrella」(4785総トン)1944年2月8日・潜水艦。イタリア人捕虜2670人死亡
「オーリアOria」(2127総トン)1944年2月12日・荒天による事故。イタリア人捕虜4025人死亡
「リゲルRigel」(3828総トン)1944年11月27日・空襲。ソ連・ポーランド人・セルビア人捕虜約2200人死亡

英国の運航船
「アランドラ・スター Arandora Star」(12847総トン)1940年7月2日・潜水艦。イタリア人抑留者・ドイツ人捕虜・抑留者713人死亡
「シュンテンShuntien」(順天、3059総トン)1941年12月23日・潜水艦。イタリア人・ドイツ人捕虜800~1000人死亡
「ラコニアLaconia」(19680総トン)1942年9月12日・潜水艦。イタリア人捕虜1227人死亡
「ノヴァ・スコシアNova Scotia」(6796総トン)1942年11月28日・潜水艦。イタリア人捕虜・抑留者650人死亡

オランダの運航船
「ファン・イムホフVan Imhoff」(2980総トン)1942年1月20日・空襲。ドイツ人抑留者412人死亡

<参考文献>
・大内健二 『捕虜輸送船の悲劇』 潮書房光人社、2014年。
・高橋慶史 『ラスト・オブ・カンプフグルッペ〈3〉』 大日本絵画、2012年。
・常石敬一他 『世界戦争犯罪事典』 文藝春秋、2002年。
・POW研究会 「捕虜輸送中に沈没した船
・Wikipediaイタリア語版 「Internati Militari Italiani」ほかWikipediaの各船記事
Plimsoll ship data掲載のロイド船名録

第4611船団の疎開民間人

 ツイッターでもつぶやいたのですが、太平洋戦争中に米軍上陸直前のサイパン島から脱出しようとした日本の第4611船団という護送船団に、民間人の疎開者多数が乗船していたという話を見かけて気になりました。なので、とりあえずメモ書きとしてまとめておくことにします。

 見かけた話というのは、NHKの戦争証言アーカイブスに収録の石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」です。著者は海軍一等兵曹で、ブーゲンビル島から内地へ転勤途中に、経由地のサイパン島から船団護衛艦の「第八拓南丸」に便乗したという方。「サイパンも戦局急を告げ、疎開学童を含む婦女子、3、4000人が内地に引き揚げることになった。(引用中略)婦女子は輸送船バタビア丸、門司丸など15隻へと分乗した。」とあります。沖縄戦の「対馬丸事件をはるかに超える大惨事」と。
 この船団は、1944年6月11日にサイパンから横須賀方面に出航した第4611船団(Wikipedia)のことと思われます。加入輸送船は「ばたびあ丸」「門司丸」など海軍徴用船12隻と陸軍徴用船1隻で、護衛は水雷艇「鴻」以下10隻でした。米軍第58機動部隊がサイパン攻略の事前空襲で来攻したため、サイパンに在泊中の艦船を退避させるため編成されましたが、上記石黒回想のとおり、米軍機動部隊に捕捉されて空襲と水上戦闘で壊滅しました。なお、上記石黒回想で司令官が高橋少将となっているのは、手紙の画像を見ると、同じく護衛部隊の第51号駆潜艇に乗艦していた方の話に基づくようですが、おそらく後に護衛した第4804船団(硫黄島から内地に航行中に米軍機動部隊と交戦。)で駆逐艦「松」に座乗していた高橋一松少将のことと記憶が混交しているものと思われます。

 さて、第4611船団は上記のように船舶保護が主目的だったので、私は、疎開する民間人はあまり便乗していなかったのではないかと思い込んでいました。なお、第4611船団の編成時点では、日本側はサイパンの攻略が直ちに始まるとまでは確信しておらず、とりあえず空襲から船舶を避難させようという認識だったようです。
 当時のサイパン島では、米軍上陸に備えて、民間居留民などの非戦闘員の本土疎開が推進されていました。民間航路の貨客船に乗せたり、増援部隊を運んだ輸送船の帰路に便乗させたりしていましたが、「亜米利加丸」(Wikpedia)や「白山丸」(Wikipedia)などが撃沈されて数百人単位の死者が出ていました。

 第4611船団の加入船を見てみると、「ばたびあ丸」や「門司丸」辺りは前者約180人、後者約80人ともともと相当の旅客設備を持っていたようですが、ほかは貨物船が多いようです。ただし、当時は兵員輸送用の軍隊輸送船として改装された貨物船が多く、貨物船でも人員輸送に使われた可能性はあります。「門司丸」も本来の旅客設備に加えて、船倉までいわゆる蚕棚式の寝台を組んで、初期の南方作戦では南海支隊の砲兵900人を運んだ実績があるとのこと。
 とりあえず、加入船についての文献を適当に当たってみたところ、以下の3隻にはサイパンから本土疎開する居留民が乗船していた可能性があると思われます。
batabiamaru.jpg
 「ばたびあ丸」(大阪商船・4392総トン):便乗者140人中18人死亡(駒宮『戦時船舶史』205頁)。画像は沈没しつつある同船ですが退船完了後か。
 「麗海丸」(東亜海運・2812総トン):邦人42人死亡(駒宮『戦時船舶史』266頁)
 「門司丸」(日本郵船・3836総トン):不明。『日本郵船戦時船史』では便乗者約1000人とありますが(上・713頁)、主にトラック島で収容した「海軍特殊設営隊」800人のようで(上・716頁)、サイパン島では同じ日本郵船所属の「高岡丸」(サイパン沖で6月5日被雷沈没)の遭難船員59人を追加乗船させたものの(上・700頁)、一般疎開者が乗っていたとは確認できませんでした。特殊設営隊の正体は未調査ですが、建設要員として使役されていた囚人部隊ではないかと思います。 なお、「ばたびあ丸」が撃沈された際、生存者の一部は「門司丸」に救助されたため、一時的に疎開民間人が「門司丸」に乗ったのは間違いないようです。

 加入船のうちで民間人の移動に最も適していたと思われる「ばたびあ丸」の便乗者が140人にとどまり、どうも全船に疎開者が乗っていたわけでもないことを考えると、上記石黒回想のサイパンからの疎開者3000~4000人乗船(商船1隻あたり婦女子300~350人×隻数、護衛艦1隻あたり70~80人×隻数)という推定は過大と思います。
 乗船中の疎開者の犠牲者数も、上記のとおり、「ばたびあ丸」18人と「麗海丸」42人という以上の資料がまだ確認できません。「ばたびあ丸」生存者の多くは「門司丸」に救助されたようですが、「門司丸」も本土行を断念してサイパンに戻り、米軍の艦砲射撃で撃沈されたため、最終的には乗船者のほとんどが死亡されたのではないかと思います。
 一部の方だけは「門司丸」沈没時に米軍艦艇に救助されて、ハワイなどの収容所に送られて生還という幸運な経過を辿っています。冒頭の石黒回想でも4人の方の名前が挙げられており、戦没した船と海員の資料館研究員の上澤祥昭の講演でも事例が紹介されています(『逗子ロータリークラブWeekly Report』2010-2011・34号(PDF))。陸上に逃れられた方があったのか不明ですが、「門司丸」船員や便乗中の「高岡丸」船員の場合、洋上で米軍捕虜になった方(「門司丸」7人・「高岡丸」4人)以外は生還者がなく、生存可能性は乏しいと思われます。

 戦場で民間人保護がどのように行われたのかという問題の参考事例として、もう少し掘り下げてみたい気もします。

参考文献
石黒隆一「サイパン沖で沈んだ疎開者輸送船団の悲劇」『NHK戦争証言アーカイブス』日本放送協会ウェブサイト
駒宮真七郎『戦時船舶史』駒宮真七郎、1991年
日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』上巻、日本郵船、1971年
防衛庁防衛研修所戦史室『マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年

謝辞
 ツイッターで助言を頂いた、天翔艦隊管理人様にお礼を申し上げます。

日本の戦時商船塗装がカウンターシェイド迷彩であったことを示す史料

1 日本商船の大戦後期仕様迷彩
外舷2号色系迷彩 太平洋戦争後期、日本商船の多くは緑色の迷彩塗装を施されていました。いわゆる外舷2号色系迷彩というもの。

 当時の日本では、有事の商船保護のため船舶保護法(昭和16年法律第74号)という法律があり、その第3条1項が、「命令」(注1)の定めるところにより、海軍大臣(またはその委任を受けた海務院長官(後に海運総局長官))が船主等に対して戦時に船の設備について必要な指示を出す権限を与えていました。この条項にいう「命令」としては船舶保護法及関東州及南洋群島船舶保護令施行規則(注2)が制定されており、その第5条で海務院長官(後に海運総局長官)が船舶保護法3条の規定により運航業者や船主に船舶の自衛設備などに必要な指示を出せることになっていました。
 件の緑色の商船迷彩も、この船舶保護法に基づく海運総局長官の船舶保護指示第29号(注3)として定められたものです。なお、この緑色の外舷2号色系迷彩が採用される以前には、「防空鼠色」(外舷1号色系迷彩とも)という紺青顔料の入った青みがかった灰色が使われていました。

SS_TatsuyouMaru.jpg 外舷2号色系迷彩はおおむね右上のイラストのような塗り分けになります。その下の画像は2A型戦標船の実物写真(注4)で、白黒写真ですが、実際に舷側が塗り分けされていることが判ります。ただし、水線部の塗装は指示通りに実施されたのか疑問もあるようです。2号色水線塗料は「赤色水線塗料の代用品」と書いてあり、既存の赤色水線塗料が調達できるかぎりはそちらを使い続けていたのかもしれません。

2 理論的根拠についての仮説
 右上イラストのように船体の船首尾部分を舷側中央より明るめの色とする迷彩塗装について、何か理論的根拠があったのでしょうか。
 この点について、『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』(以下『軍艦の塗装』)では、船体を小型に見せかけて距離測定を誤らせる狙いだったようだとしています(加藤、8頁)。同書は、米海軍のメジャー8系迷彩(巡洋艦の船体の一部を明るい灰色に塗り分けて駆逐艦に見せかける方式)に似た方式と述べます。
 一方、岩重多四郎が、カウンターシェイド迷彩の理論に基づいているとの仮説を提示していましたが、「根拠資料は今のところ見つかっていない」として裏付け史料は未確認でした(岩重、24頁)。カウンターシェイド迷彩というのは、物体の陰影が付く部分を明るい色に、逆に陰影の付かない部分を暗い色に塗ることで、見かけの明暗差を無くして目立たなく背景に溶けこみやすくなるという発想の迷彩塗装です(注5)。

3 海軍航海学校における研究報告書
 気になってアジア歴史資料センター(JACAR)でウェブ公開された史料を調べたところ、この外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩の理論に基いて制定されたことを示す記述を、海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 という史料(以下「本件報告書」。注6)の中に確認することができました。

 この史料は、1943年4月2日付の海軍大臣訓令(注7)にもとづき、同年4月~7月に日本海軍の海軍航海学校で行われた迷彩塗装に関する研究の報告書です。ただし、現時点でアジ歴に公開されているのは、その報告書を陸軍の第三陸軍技術研究所が陸軍船舶の迷彩塗装研究の参考資料として入手した写しです。そのため、原本にある色見本が省略されている難点があります。
 この海軍航海学校における迷彩塗装に関する研究の存在自体は、従前から知られており、例えば『軍艦の塗装』でも「昭和18年3月に横須賀の海軍航海学校に設置された対潜塗色の委員会」について言及があります(加藤、84頁)。
 船舶保護指示第29号の中で、外舷2号色系迷彩は海軍航海学校の研究により夜間に有効な迷彩と判定されたことが説明されており、本件報告書が制定の基礎資料になっていることが窺えます。

 その研究内容としては、1943年4月2日の海軍大臣訓令にもとづき、日本近海での対潜自衛を主眼に、(1)視認を困難にする迷彩、(2)方位角判定を困難にする迷彩、(3)速力判定を困難にする迷彩の3項目がテーマになっていました。
 横須賀鎮守府に呉鎮守府が協力する建前で、実質は横須賀の海軍航海学校を中心とした委員会(委員長:三川軍一海軍航海学校長)が設置され、航海学校や機雷学校などの実施学校や在勤武官・防備隊などの護衛部門などの海軍士官多数のほか、船舶運営会や日本郵船関係者も若干参加しています。
相良丸 次のとおり実船に迷彩塗装をして比較し、潜水艦や航空機を使って観測するかなりの規模の実験が行われています。実験に先立つ予備調査では、ドイツ商船の「リオ・グランデ Rio Grande」や、特設運送艦「相良丸」(右画像)も観察対象になっています。この「相良丸」には、戦後に著名となる福井静夫技術少佐考案の特徴的なダズル迷彩が施されていました(注8)。

 5月26日(予備実験):駆逐艦「葦」(右舷1号色・左舷2号色)、「楡」(右舷3号色・左舷4号色)
 6月3日(第1回実験):第7603船団(横浜→神戸)加入の「昭宝丸」(1号色)、「清洲丸」(2号色)、
    「五星丸」(3号色)、「親和丸」(4号色:舞廠式塗粧、注9)、「諾威丸」(5号色:ドイツ船式)
 6月24日(第2回実験):第1624船団(横浜→釧路)加入の「弘和丸」(2号色系塗り分け)、
    「大成丸」(5号色系塗り分け)、「乾瑞丸」(鼠色)

 本件報告書冒頭の成果概要を見ると、「(ニ)上部構造物及び船首尾は陰影を消去する為、淡色とするを要し、二一号色、五一号色を可とす」(原文カナ。送り仮名・読点を補う。)と書かれており、外舷2号色系迷彩において船首尾に明るい21号色塗料が採用された理由がカウンターシェイド迷彩であったことがわかります。
 このほか、マストの頂部を淡色とすべきこと、沿岸航行で陸地が背景の場合に2号色系が有効なこと、迷彩により方位角・速度判定を妨げるのは困難という意見が出てこの目的に有効な塗装案に至らなかったことなども記されております。なお、塗装関係以外に、方位角判定を困難にするために鳥居形のデリックポストは避け、単脚マストにすべきことや、前後のマストを中心線から左右に振り分けて設置すべきこと、迷彩だけでは視認防止が不十分なのでマストの短縮が急務であることなども指摘されています。

 本件報告書は、外舷2号色系迷彩がカウンターシェイド迷彩であったことを裏付ける史料というだけでなく、米英海軍に比べて体系的でなかったと言われる日本海軍の船舶用迷彩研究について、実際のところ、どの程度の研究がされていたのか伺われる史料として興味深いものと思います。なお、本件報告書には、日本海軍の空母に外舷2号色系迷彩類似の緑色迷彩が適用された理由については直接触れられていないため、その点はさらに調査が必要なところと思います。

注記
1. ここでいう「命令」とは、個別的ないわゆる命令の意味ではなく法令の形式の分類で、国会の議決による「法律」以外の行政機関が定める法令の総称。「政令」や「省令」の類のこと。

2. 施行規則の名称が長いのは、船舶保護法を関東州などの船籍船につき準用した関東州及南洋群島船舶保護令(昭和16年勅令第458号)の施行規則も兼ねているため。

3. 「船舶保護資料第18号」『昭和十九年度 船舶保護資料綴』 1944年、JACAR Ref.C08050094900、画像14枚目。

4. 出典:「中国軍艦史月刊」>「台湾海域日本沈没船艦紀録」によると「辰洋丸」(辰馬汽船、6892総トン)。

5. カウンターシェイド迷彩については「岩重輸送船団史」>「塗装ガイド」にイラスト付きの解説あり。

6. 海軍航海学校 『研究実験成績報告 第 号(船舶迷彩研究実験)』 1943年、JACAR Ref.C14020256800

7. 海軍大臣 「船舶ノ迷彩ニ関スル実験研究ノ件訓令」 (昭和18年4月2日官房備機密第117号)

8. 「相良丸」の迷彩について、福井本人によれば、塗装をしたシンガポール現地では「他の艦船に比して著しく効果が大である」と好評だったそうです(福井静夫 『日本特設艦船物語』 、光人社、2001年、190頁)。そのため、研究対象に選ばれたのかもしれません。もっとも、本件報告書では「相良丸に対する航海学校に於ける観測成績に依るも方位角並に速力判定を困難ならしむるに適当なる塗粧法に関しては結論に達せず」(原文カナ)とあり、顕著な効果は確認できなかったように思われます。

9. 舞鶴海軍工廠式の迷彩塗装と思われるが詳細不明。

参考文献
岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2009年。
加藤聡(編) 『モデルアート5月号臨時増刊―軍艦の塗装』 通巻第561集、モデルアート社、2000年。
 

旧日本軍戦車の砲塔旋回と肩当て照準

 旧日本軍の戦車についてときどき話題になるのが、主砲の肩当て旋回・照準機構です。

 戦間期から第二次世界大戦までの世界各国の戦車では、砲塔を旋回させるために手回し式のハンドルを動力に使うことが一般的でした。砲塔リングの縁にギア溝が刻んであって砲塔が回る仕掛けです。照準調整も左右は砲塔ごとハンドル旋回して行い(下図2)、上下の調整(俯仰角)は別のハンドル操作で調整します。後になると砲塔旋回用の小型エンジンを積んだりした動力旋回砲塔も登場しますが(注1)。
 これに対し九七式中戦車チハなど日本陸軍の戦車の多くには、砲手が肩で砲尾を押し上げたりするだけで下図3のように砲塔から独立して上下左右に主砲を振れる独特の砲架構造(注2)が備わっていました。水平方向の砲耳だけでなく、垂直方向にも砲耳が通っているので砲だけが左右にも方向転換できるのです。手回しハンドルなどで操作するのに比べて瞬間的な俯仰角等の調整が容易なため、熟練した砲手ならば走行振動を体で吸収して、戦車を走らせながらの射撃(行進射)を有効に行うことが可能だったと言われます。八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲(口径57mm)で採用されて以後、九五式軽戦車や九七式中戦車などの主要な日本戦車の搭載砲に用いられてきました。
 なお、九五式軽戦車や九七式中戦車などが肩当て照準を採用といっても、砲塔の基本的な旋回動作は諸外国と同様にハンドル(転把)式の砲塔回転機を用いて行います(注3)。砲塔駐転機と呼ぶ固定装置も備わっており、このロックを解除しなければ地面の傾斜で砲塔が勝手に回ってしまうということはありません。戦車操典による正しい照準動作は、右手と右肩で砲架を支えつつ左手でロック解除→左手でハンドルを回して旋回→左手でロック固定という流れになります(注4)。
 こういうと肩当て式は良い事ずくめのようですが、搭載砲が重くなれば操作時の身体的負担は大きくなります。日本でも主に一式中戦車に搭載されたと思われる一式四十七粍戦車砲の後期型では肩当照準をあきらめて、転把照準に変えています。同軸機銃の採用も発砲反動で難しいという話があり、おそらく一番右に図示した様な現象が起きるのではないでしょうか。

 砲塔の肩当て操作と言った場合もう一種類あるのが、砲塔自体の旋回までもハンドルではなく肩当てによって行う方式です(下図1)。古くは、旋回砲塔を備えた最初の戦車として第一次世界大戦に登場したルノーFT軽戦車も、砲塔内側に設置された取っ手を握って人力旋回させるという同系列の操作法を採っています。日本では、九四式軽装甲車がその例です。
 非常に簡易な構造で済みますが、傾斜地では操作が難しくなります。なお、九四式軽装甲車の場合、砲塔駐転機でロックすることだけは可能だったようです。

<注記>
1.日本戦車でも75mm砲を載せた三式中戦車以降の中戦車では、砲塔の大型化に対応して電動式の砲塔旋回装置を採用しました。司馬遼太郎こと福田定一少尉も、戦車兵時代の回想的エッセイ「戦車の壁の中で」(初出:「小説新潮」26巻6号、1972年)において、三式中戦車の電動砲塔について言及しています。三式中戦車の電動旋回砲塔は、微妙な操作が容易だった手動式ハンドルに比べて軽快さで劣り、狙った位置に停止するのが難しかったとのこと。ただし、福田少尉が機械操作が下手だった点は差し引く必要がありそうです。また、手動に切り替えての微調整は可能だったと思われます。

2.日本戦車以外に採用例が無いわけではなく、例えばライバルであるアメリカ陸軍のM2A4軽戦車は、肩当式のM20型連動砲架を介してM3型37mm砲を積んでいました。M20型連動砲架は日本戦車同様の垂直軸砲耳を有する構造で、上下方向だけでなく左右にも10度ずつ砲身を振ることができ、またハンドルでも肩当てでも操作可能でした。後継のM3軽戦車でも改良型の連動砲架を採用しています。行進間射撃を目論んで俯仰角調整のみは肩当てによる例もイギリスなどにあったようです。

3.この点、たとえば「戦車マガジン」別冊の「帝国陸海軍の戦闘用車両」(デルタ出版、1992年)に、九五式軽戦車について「砲塔は手動旋回であるが、これはギアによる旋回ではなく、軽装甲車同様に砲手(車長)が主砲に肩を当て、肩の力で旋回させる方式だった」(64頁)とあるのは誤りです。同書65頁の砲塔内部写真でも明らかに砲塔旋回用のハンドルが写っていますし、砲塔リング部分にギア溝が掘ってあるのが見えます。

4.「戦車操典」、第2部 戦車隊教練、第46項参照

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<参考文献>
佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他―日本の陸戦兵器徹底研究」(光人社NF文庫、2011年)
橘哲嗣「M3/M5スチュアート」(「戦車マガジン」1993年6月号、45頁)

ある731部隊関係者らしき人物の海没戦死

 ネット上のとある海軍予備士官の従軍記を読んでいたところ、少し気になるエピソードに出くわしました。
 「わがトラック島戦記」というその従軍記の著者は、海軍予備学生第3期の予備士官(最終階級はポツダム昇進で大尉)で、館山砲術学校の対空専修を経てトラック島の第46防空隊付になった方です。編制改編に伴い、第41警備隊付から第46警備隊付と所属が変わったそうですが、実質は変わらずトラックの春島で対空戦闘に従事されていました。
 問題の記述は、トラック島への移動過程が書かれた第2章「トラック島へ赴任」の中にあります。館砲を卒業した著者は、「第2長安丸」という特設運送船に乗船して1944年4月12日に横浜から出航、サイパン島とグアム島を経由してトラック島へ向かうのですが、そこで次に引用する奇妙な陸軍軍医が登場するのです。

 「第二長安丸の士官室の便乗者は、館山砲術学校同期のH、W、私(以上トラック島行き)、N、O(ポナペ島行き)と陸軍軍医少尉(どこかの島の鼠の調査とか)の6名で、指揮官、船長、1等航海士らと食事を共にした。」(太字は引用者強調)

 米軍のサイパン上陸を2カ月後に控えたこの時期に、わざわざ野生動物の調査のために南方に向かう軍医とは、いったい何者でしょうか。

 私は、この軍医少尉の正体は、満州第731部隊こと関東軍防疫給水部本部に関係する細菌戦要員だったのではないかと考えます。
 731部隊に代表される日本陸軍の生物戦組織については、これまでの研究で、サイパン島などのマリアナ諸島においてペスト菌の散布を計画していたことが判明しています。島を疫病で汚染して、米軍による航空基地としての利用を妨害しようという意図であったようです。当時においても細菌兵器の実戦使用は国際法違反でしたから、この作戦は陸軍参謀本部の関与の下で極秘裏に進められていたと推測されています。
 このマリアナ諸島での細菌作戦準備のため、731部隊などから十数人の軍医・研究員らが集められて、中部太平洋方面へ海路派遣されたのですが、実はこのうち岩崎光三郎軍医大尉(当時)指揮する3人が「わがトラック島戦記」の著者と同じ松5号船団加入船の「第18御影丸」(トラック島行き)に乗船していたのです。当時の海上移動は危険になっていましたから、敵襲による被害極限のため分散乗船することは十分に考えられます。
 そして、マリアナで生物兵器としての使用が予定されたペスト菌は、ネズミとノミによって媒介される病原体です。731部隊でもペスト感染させたネズミにより蔓延させる方式が検討されており、ネズミは不可欠な作戦資材でした。
 問題の軍医少尉は、このペスト作戦用ネズミの現地調達の可能性や、野生ネズミへの伝染がどの程度期待できるかなどを調査するため、派遣されたのではないでしょうか。悠長な生物学調査ではなく、米軍上陸後に備えた特殊任務であったとするなら、こんな時期にネズミの調査に赴くのも納得できます。研究者の秦郁彦によれば、マリアナ作戦用の派遣要員にネズミ飼育担当の軍属が含まれていることから、作戦資材のネズミも携行していたのではないかといいます。しかし、ネズミの大量輸送は共食いなどのおそれから難しく、現地調達の可能性を探るためのネズミ調査が並行して行われたとしても、不自然ではありません。
 ただ、後述のようにほぼ同時戦死となる731部隊岩崎軍医らに対しては異例の参謀本部葬が行われるのですが、その際に謎の軍医少尉に該当する人物は祭神となっていないことが気にかかります。同じ任務であれば、一緒に葬儀が行われてもおかしくないと思われますが、指揮系統上で参謀本部直轄要員ではなかったとすれば一応説明はつきます。

 そもそも予備的調査段階だったのか、あるいは実行寸前だったのか不明ですが、結果としてマリアナ諸島での細菌兵器実戦使用は無かったようです。「わがトラック島戦記」の著者や軍医少尉が乗船していた「第2長安丸」と、岩崎軍医ら乗船の「第18御影丸」は、ともにグアム島を出港後の5月10日未明、米潜水艦「シルバーサイズSilversides」に相次いで雷撃されて撃沈されてしまいました。謎の軍医少尉はこの戦闘で戦死し、「第18御影丸」の岩崎一行も全滅しています。731部隊要員の中にはサイパン島に上陸したグループもあるようですが、同地の玉砕戦に巻き込まれ、生存者は全くないといいます。
 秦郁彦は、仮にペスト菌を実戦投入すれば日本軍の方が被害を受ける結果になったのではないかと推測し、使用が無かったのは幸いであると評価しています。私も、大きな被害を受けるのは衛生装備不十分な日本軍の方で、しかも推定2万人の日系民間人や多数の現地人が居住していたこと、万一露見すれば米軍による報復を誘発しただろうことを考えると、実戦に至らずに済んで本当に良かったと思います。

参考文献
自由平の書棚」より「わがトラック島戦記
秦郁彦「昭和史の謎を追う〈上〉」(文春文庫、1999年)より「日本の細菌戦」
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