山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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スペイン内戦と海軍(第15回)

7.海上作戦の経過
 (4)ビスケー湾と言う選択


 バレアレス諸島奪回をあっさりと断念した共和政府中枢は、艦隊主力のビスケー湾派遣という戦略上の一手を打ち出します。

 この頃、ビスケー湾方面では、共和政府側のバスクVasco地方政権が孤立していました。北西部の国粋派支配地が、内陸で東へ突出していたため、海岸部のバスク~アストゥリアス地方一帯だけが取り残されてしまったのです。
 ただ、港湾都市ヒホンGijónで蜂起した国粋派部隊だけは、なんとか鎮圧に成功しています。国粋派の軽巡「セルベラ」が、ヒホンの救援に出動しましたが、無駄でした。蜂起部隊は『防衛は不可能。兵舎は炎焼中、敵は侵入を開始。頭上に火が!』との決別電を「セルベラ」に発して、8月16 日に全滅しました。地中海では、マリョルカ島の上陸作戦が始まった日です。
 国粋派は、東部の部隊をフランス国境へ向けて北上させます。フランスからバスク地方への陸上補給線を遮断するためです。整備が終わった国粋派海軍も、戦艦「エスパーニャ」、軽巡「セルベラ」、駆逐艦「ベラスコ」と現有戦力を全て投入して、激しい艦砲射撃を開始します。
 これに対し共和派は、捕虜を人質として艦砲射撃の中止を要求するなど、手段を選ばない抵抗をします(実際に処刑)。しかし、結局9月半ばまでにはイルンIrún、サン・セバスティアンSan Sebastiánが陥落。バスク地方は、陸海から完全に包囲されてしまいました。
spain_map2.png

 バスク地方は、海に山が迫る地形です。工業は比較的発達していましたが、農業生産力は低く、食料の多くは輸入に頼っていました。国境地帯の喪失と、海上包囲により、その生命線が絶たれる危機的事態となったのです。

 この時点でのビスケー湾方面の海軍力では、エル・フェロルを押さえた国粋派が圧倒的に優位でした。バスク軍も漁船を徴用して武装して独自の海軍力整備には努めていましたし、共和政府も、すでに潜水艦数隻を派遣してはいましたが。9月19日には、その共和派の潜水艦「B6」は、国粋派の駆逐艦「ベラスコ」などにより撃沈されてしまっています。
 共和派艦隊主力の派遣は、一気にこの状況を打開するはずでした。

 9月21日、戦艦「ハイメ1世」、軽巡「リベルタード」(旗艦:ブイサ少佐座乗)、同「セルバンテス」、駆逐艦6隻からなる共和派艦隊主力は、ビスケー湾をめざしマラガを出港します。軽巡「メンデス・ヌネス」と駆逐艦3隻だけが、海峡の防備に残されました。
 この時、低速の「ハイメ1世」も残留させようと言う見解もあったようですが、実行されませんでした。艦隊に同行したソ連顧問のクズネツォフ大佐は、このことを回顧録で悔やんでいます。(大佐は、この判断を無政府主義者のせいにしていますが、真相は?)
 心配されたジブラルタルの沿岸砲台や、エル・フェロルの部隊による妨害もなく、派遣艦隊は無事にバスク地方に到着できました。

 ところが、期待された艦隊は、ほとんど活躍することはありませんでした。
 食料輸入すらも途絶しかけていたバスク地方ですから、艦隊用の燃料の備蓄は、ほとんどありませんでした。弾薬は言うまでもありません。
 また、対空砲も戦闘機もほとんど配備されていなかったため、艦隊は一方的な空襲にさらされます。
 整備不良の「ハイメ1世」も頭痛の種でした。

 そして、派遣から10日ほど経った9月29日、決定的な事件が起きます。防備が手薄になったジブラルタル海峡を、国粋派巡洋艦部隊が急襲したのです。(エスパルテル岬沖海戦)
 狼狽した共和政府は、ビスケー湾作戦の中止を命じました。10月頭に黒海を発したソ連補給船の護衛が地中海で必要になってきていたことも、中止の要因でしょう。
 10月17日、燃料などをなんとか都合した共和派艦隊は、少数の駆逐艦・潜水艦を残して、なんら成すところなく帰路に就きました。
 以後、ビスケー湾では、残留艦隊と徴用漁船が苦しい戦いを強いられていくのです。(つづく

追記
 バレアレス諸島攻略の中止と、艦隊主力のビスケー湾派遣という戦略判断には、政府海空相プリエトの影響が大きいように思われます。もともと彼はバスク地方出身なので、故郷であるバスク地方の危機を重視したのではないかと、私は推測します。彼は、8月後半には、バスクの地方紙向けに、バレアレス諸島攻略作戦は時期尚早だったとのコメントを発表していました。
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夜の梅

 ぼんやりと温かい夜です。
 気持ちが良いので、甘いものを買いに、近くのスーパーまでふらふらと迷い出てしまいました。
 閉店を知らせる放送を聞きながら、菓子類を物色。二つしか動いていないレジで会計を済ませて、また外へ出ました。

 来た道とは違う道で帰ろうと、少し遠回りの道をとって数歩行ったところ、ふと微かに甘い空気を感じます。
 見ると、空き地の隅に立っている小さな梅が咲いていました。白い花が、五分咲きといったところ。うす暗がりの中に、ぼう、と光をまとって浮かぶよう。
 思わず、立ち止まって見とれてしまいました。

 気付くと、会社帰りらしい人が、脇に立っていました。しばし花を眺め、携帯を取り出すと、カシュ。もうひとつ、カシュ。
 同じものに魅かれる人がいてくれると、なんだかとてもうれしいとものです。

 もうしばらく眺めてから、帰ってお茶にしました。お茶請けは、道明寺。
 そういえば「夜の梅」という羊羹がありますね。タクラマカン砂漠に行った人が、「夜の梅」を持って行って、毎夜ムフムフ笑いながら食べていたという話を、なぜか思い出しました。
 私も、道明寺をかじると、ムフムフと一人笑ってしまいました。
 良い夜です。

スペイン内戦と海軍(第16回)

7.海上作戦の経過
 (5)エスパルテル岬沖海戦~海峡の戦い1936秋冬~


 共和派艦隊主力のビスケー湾派遣は、マラガ出港直後から察知されていました。国粋派を支援するドイツ艦隊が、共和派艦隊の行動を監視していたからです。
 ドイツ艦隊から連絡を受けた国粋派海軍のモレノ大佐は、密かに出撃準備を開始します。
 このとき国粋派には切り札がありました。エル・フェロルで建造中に捕獲した最新鋭重巡洋艦「カナリアス」が、8月に就役していたのです。

 「カナリアス」に座乗したモレノ大佐は、軽巡「セルベラ」を従えて出撃し、大西洋を南下します。機動力がなく足手まといになる戦艦「エスパーニャ」は、後に残されました。
 9月29日、国粋派艦隊はジブラルタル海峡に突入します。迎撃する共和派艦隊を一掃しつつ、そのまま地中海へ抜ける作戦です。国粋派艦隊の出現に、海峡を哨戒中の共和派駆逐艦「フェランデス」「グラビナ」が、慌てて応戦します。(エスパルテルEspartel岬沖海戦)

国粋派:重巡「カナリアス」(旗艦:モレノ大佐座乗)、軽巡「セルベラ」
共和派:駆逐艦「フェランデス」「グラビナ」

800px-Destructor_Almirante_Ferrandiz1932.jpg 共和派駆逐艦は接近を試みましたが、「カナリアス」の砲火によって「フェランデス」は撃沈され、「グラビナ」も「セルベラ」に撃破されてカサブランカへ逃走してしまいました。(右画像は在りし日の「フェランデス」)
 このとき「カナリアス」は、正規の照準装置を持たなかったにもかかわらず、2万メートルの距離から射撃開始後、わずか3斉射で「フェランデス」を撃沈したと言われます。事実なら恐るべき強運だと思います。
 勝利を収めた国粋派艦隊は、予定通りマリョルカ島に入港しました。

 このエスパルテル岬沖海戦の敗北を受けて、前回述べた通り、共和派海軍のビスケー湾作戦は中止になります。
 しかし、派遣艦隊が帰還しても、もはや海峡の制海権バランスは元には戻りませんでした。地中海に進出した国粋派艦隊への対処に、兵力を裂かねばならなくなったからです。国粋派艦隊は、バルセロナなど各地を砲撃して回っていました。例えば10月30日には、「カナリアス」がロサスRosasを襲撃し港湾設備を破壊した上、漁業保護艇「マリネロ・カンテMarinero Canté」(150t、47mm×1)と小型哨戒艇1隻を手もなく撃沈しています。「セルベラ」も、マラガ沖で警戒中の巡視船2隻を海底に送っています(10月9日or11月9日)。
 警備の手薄になった海峡を、国粋派の輸送船は自由に渡れるようになりました。これにより、モロッコからの増援部隊が次々と送り込まれるようになってしまいます。

General_Sanjurjo.jpg 11月18日、ドイツ・イタリアはフランコ政権を承認します。フランコ将軍の要請を受け、独伊海空軍は、海峡周辺の共和派艦隊に一気に追い込みをかけてきます。
 伊潜水艦「トリチェリTorricelli」(左画像・注1)は、11月22日、カルタヘナ泊地の軽巡「セルバンテス」を雷撃し大破させます。この損害の上、入渠中にも空襲を受けた「セルバンテス」は、内戦終結までほとんど行動することができませんでした。
u34.jpg ドイツも「ウルスラUrsula」作戦の名の下、極秘裏に潜水艦「U33」「U34」を派遣します。そして、「U34」(右画像)は、12月12日、哨戒からマラガへ帰還直前の共和派潜水艦「C3」を雷撃撃沈しました。左下画像は救難艦「カングロ」とともに係留中の健在な頃の潜水艦「C3」。
潜水艦C3と救難艦カングロ マラガ港は頻繁に空襲にさらされます。潜水艦「B5」は、被弾したか潜航退避に失敗してか、浸水沈没してしまいました。
 翌1937年1月11日には、勢いに乗った「カナリアス」「セルベラ」が、マラガに攻撃をかけてきます。しかし、それを迎え撃てる艦隊は居ませんでした。空襲の激しさに耐えかね、すでに主力艦艇はカルタヘナへと撤退していたのです。港内に停泊していた民間船舶は、一方的に撃沈されてしまいました。

 そして1937年2月、海峡の戦いに終わりがやってきます。
 モロッコからの増援部隊とイタリア陸軍の参加を得た国粋派軍が、マラガに地上侵攻したのです。
 共和派のマラガ守備隊は兵力だけは4万人を数えましたが、ほとんどが民兵で練度も低く、その上に塹壕構築を毛嫌いしていました。防衛線はあっさり崩壊し、戦闘開始からわずか2日で守備隊はマラガを放棄します(2月6日)。
 カルタヘナの艦隊による救援も失敗します。一説によると、「カナリアス」などに偽装したイタリア艦隊の陽動に牽制されて、行動を制約されたと言います。マラガ港内の残存艦船は、国粋派艦隊の封鎖に動けないまま、大半が自沈しました。
 マラガ陥落の際、難民数万が発生。海岸伝いに東のアルメリアAlmeríaへ避難を試みました。洋上に展開していた国粋派艦隊は、逃避行の列に砲撃を加え、難民に多数の死傷者が出ます。アルメリアへ通ずる海岸道路では、今でもこの時の犠牲者の遺骨が見つかるそうです。(つづく

注記
1 イタリア潜水艦「トリチェリ」は、その後、国粋派海軍に譲渡され、「ヘネラル・サンフルホ」と改名。画像は、譲渡後の1938年に撮影された写真。

spain_map3.png

冷たい雨の日、フキの豆板醤炒め

 こうも冷たい雨が降っていては買い物にも出たくなくなり、家にあるものだけで食事は済ませてしまいました。
 頂いたフキがたくさんあったのが、幸いです。豆板醤でピリ辛に炒めたもので、実にごはんが進みます。シャキシャキした歯ざわりが心地よく。

 今外を見ましたが、まだまだ冷たい雫が落ちています。
 少し静かになったような気がしたので、雪に変わったかと思ったのですが、雨のままでした。


 <春フキの豆板醤炒め>
材料:フキ、豆板醤、味噌、醤油、砂糖

(1)フキを鍋に入る長さに切る。塩を振って板ずりしておく。
(2)なべにお湯を沸かしておく。沸騰したら、1を入れて、茹でる。
(3)数分で透き通ってきて、茹で上がるので、取り出して、冷水にさらす。
(4)皮をむく。根本のほうから引くと、きれいに取れやすい。
(5)食べやすい長さに切ったら、ザルに上げて水気を切る。
(6)フライパンに、油を引いて、豆板醤を焦がさないように炒める。
(7)フキを入れ、軽く炒める。
(8)全体に油が回ったら、砂糖・醤油・水少々を加え、味噌も入れる。
(9)適当に煮詰まったら出来上がり。

注:あくが強い場合は、水を替えつつ数回茹で直す。

筋の通った

 フキを頂戴しました。田舎からたくさん届いて、困っているとのこと。家中がフキのにおいで、もう見るのも嫌だとか。
 ありがたく、頂きました。あとでまとめて下ごしらえしてしまうとしましょう。

 フキを下茹でするときに、さっと色が変わる瞬間が好きです。始めは少し黒ずんでいて、根元のあたりは、やや赤みがかったような色だったのが、熱湯に入れて一瞬の後に、春らしい透き通った萌黄色になります。
 さらに皮をむいて、冷水に放せば、翡翠の如し。

 ふと思ったのですが、お弁当の歌に出てくるお弁当って、あまり子供向きではないですよね。
 「これっくらいの、おべんとばこに、おにぎりおにぎり、ちょいと詰めて」という、あの歌です。刻み生姜、人参、椎茸、牛蒡、レンコン、「筋の通ったフーキ!」
 根菜類は煮物で、フキは炊き合わせみたいに添えてあるのでしょうか。
 刻み生姜とは、実に渋い。いや、すでに「ちょいと」詰めるあたりで、日本昔々話な渋さのような気もします。少なくとも、幼稚園児が「ちょいと」はしないと思います。「お前さんちょいとお待ちよ」は、歌丸師匠なおかみさん。
 なぜか唐突に出てくるサクランボさんが、紅一点、最後の光と言う感じですね。まさに「さん」付けで呼ぶにふさわしい。ニンジン「さん」、ゴボウ「さん」はどうした、筋が通らないではないかと言われましても、困りますけれど。

スペイン内戦と海軍(第17回)

7.海上作戦の経過
 (6)「Y」船の航海のはじまり


 国粋派がドイツ、イタリアの支援を受ける一方、共和派もソ連の支援を受けています。
 1936年10月1日、ソ連からの軍需物資を積んだ輸送船第一号「コムソモールKomsomol」が、黒海のセヴァストーポリを出港します。以後、10月中だけで24隻の輸送船がスペインへ向かいます。船の所属は、スペイン政府の用意したもののほか、ソ連の黒海・バルト海船団からもNKVDの事実上の管理下で極秘裏に提供されました(注1)。これらの船は、機密保持上、「Y」というコードネームが与えられていました。

 ソ連船は、武器輸送にあたっていることは秘匿し、通常貨物に混ぜて武器弾薬を積載していました。船団は組まずに一般商船を装った単独航海を行い、実際にスペイン以外の港での通商も行っています。偽装は巧妙だったようで、臨検・連行されながらも証拠不十分で解放されたケースがかなりありました。
 発見を避けるため100kmほど離岸した航路を取っていたようです。国粋派艦隊や海上査察艦の確認された危険水域は、夜間突破を試みています。
19361228_soviet_vessel_spanish_port_alicante_military_supplies_spanish_republic.jpg 無事に到着した「Y」は、カルタヘナやアリカンテAlicanteに入港し、物資を陸揚げしていきます。ただ、揚陸作業の効率が悪く、前線への輸送も滞りがちで、せっかくの物資も必ずしも有効に活用されたとは言えないようです。クズネツォフ大佐は、作業の非効率を、ここでも無政府主義者のためであるとしています。しかし、ソ連船については、機密保持のためソ連乗員が揚陸作業をする規則だったようで、いささか疑わしい弁解です。(右画像は1936年12月28日にアリカンテ港で揚荷中のソ連船「クルスク」)

 航海が順調だったのは、せいぜい初めの一月ほどの間だけでした。11月後半頃から、国粋派艦隊およびイタリア潜水艦・空軍による妨害が始まります。
 カルタヘナやバルセロナの港は、マリョルカ島から飛来するイタリア機による空襲を受けるようになります。
 イタリア潜水艦は地中海で商船を襲撃します。商船だけでなく共和派の艦艇も攻撃し、バルセロナの石油施設を夜間砲撃するなどの大胆な行動も行います。
 国粋派海軍の重巡洋艦「カナリアス」と軽巡洋艦「セルベラ」も、1937年2月末までに、少なくとも輸送船3隻を拿捕し、護衛艦艇を含め4隻を撃沈しています。前述のソ連船「コムソモール」も、2航海目に「カナリアス」に撃沈(ソ連側によれば自沈)されています。3月には、両艦はビスケー湾での通商破壊戦に移りますが、代わって重巡「バレアレス」(36年12月就役)が進出してきます。

 こうした事態に、政府軍も潜水艦部隊により、策源地のマリョルカ島封鎖を試みました。
 しかし、同島の航空機に制圧されてしまい、効果は上がりませんでした。戦果どころか、潜水艦「B4」が座礁事故を起こして沈没してしまう結果になります。

 3月、ビスケー湾方面での被害も合わせ、自国船の拿捕や積荷没収が相次いだオランダとノルウェーは、船舶保護のために艦艇を周辺海域に派遣しました。
 国際問題の深刻化を恐れたイタリアは、一時的に通商破壊を中止します。
 かわって、「モラ」級潜水艦(「アルキメーデ」級)を国粋派に供与しての作戦が始まります。乗員の一部提供などイタリア海軍の厚い支援を受けた「モラ」「サンフルホ」は、冴えない共和派潜水艦を尻目に、次々と戦果を上げていきました。最終スコアは輸送船撃沈3隻、撃破2隻以上に達しています。その中には、国際旅団への入隊志願者を輸送中だった「シウダード・デ・バレンシア」も含まれていました(注2)。
dd_hms_hunter_h35.jpg ドイツが供与した機雷による封鎖も行われたようです。アルメリアAlmeria沖で、査察任務のイギリス駆逐艦「ハンターHunter」(右画像)は、巻き添えで触雷大破。共和派駆逐艦「アルセド」に救助されています。この機雷敷設の結果は善し悪しで、当の国粋派も、後にビスケー湾方面で戦艦「エスパーニャ」を触雷で失うはめとなっています。

 様々な妨害から「Y」を守るのが、共和派海軍のこれ以降の最優先任務になって行きます。(つづく

注記
1  公式記録によれば、のべ37隻のソ連船が輸送任務を行い、うち5隻(沈没3隻、拿捕接収2隻)が失われています。失われた5隻の積載物資は合計で約2万tですが、これは通常貨物を含めての数字です。
 輸送任務に従事した乗員495人が、後に表彰を受けています。内訳は、レーニン勲章9人、赤旗Red Banner勲章29人、赤星Red Star勲章103人、Mark of Esteem316人、ソ連邦中央執行委員会表彰状Scrolls from the Central Executive Comittee of USSR授与38人となっています。

2 貨客船「シウダード・デ・バレンシア」(3946総t)は、フランスからバルセロナへ向かう途中、1937年5月30日に「サンフルホ」か「モラ」のいずれかによって雷撃撃沈されています。同船には、各国からの義勇兵250人ほどが乗船しており、うち60人ほどが戦死しているようです。(同船のことかわかりませんが、「カタロニア賛歌」にも海没経験のある義勇兵が出てきます。)
 このときは、共和派も、かなり潜水艦を警戒していたようですが、守りきることはできませんでした。前日の29日には護衛艦として巡視船など2隻がついていたほか、水上機による直掩は2日間とも行われていました。航路も、かなり沿岸ギリギリを取っていたようです。
 同船は被雷後5分の短時間で沈没。しかし、沿岸航路であったため、すぐに漁船などが救助を行うことができ、比較的犠牲者は少なく済んだように感じます。
 直掩機は雷跡を発見して警告していたほか、爆雷による反撃と、着水しての救助まで行っています。

スペイン内戦と海軍(第18回)

7.海上作戦の経過
 (7)ビルバオへの道


 地中海で「Y」を巡るシーレーンの戦いが始まった頃、ビスケー湾でも、バスク地方へのシーレーンを巡る、元漁船たちの苦闘が始まっていました。
 ビスケー湾への派遣艦隊主力が撤収した後も、駆逐艦「ホセ・ルイス・ディエス」「シスカル」、潜水艦4隻、水雷艇「3号」という共和政府軍艦隊が残留してはいました。しかし、実際に戦いの主役となっていったのは、これらの正規艦艇ではなく、バスク地方政権が独自に整備した武装漁船艦隊でした。
 対する国粋派は、すでにジブラルタル海峡の制海権を握っていたため、巡洋艦部隊を自由に地中海と行き来させながら、優勢な艦隊を使用してきます。また、反乱軍側も多数の特設艦艇を封鎖戦に投入しています。

PortofBilbao.jpg ビスケー湾の戦いの焦点となったのは、バスク政府の首都ビルバオの港(右画像は現在のビルバオ港)です。ここへ向けて、主に英国からの食料が輸送されてきていました。国粋派艦隊は、ビルバオ周辺に網を張って、共和政府側の民間船を手当たり次第に拿捕していきます。
 これに対して、バスク艦隊も果敢に撃って出ます。1936年12月下旬エル・フェロルへ軍需物資輸送中のドイツ商船「プルートーPluto」「パロスPalos」を、相次いで特設砲艦2隻により拿捕してしまいます。消極的な正規艦艇が成し得なかった大戦果です。
 ところが、これはドイツの激しい反応を招きます。ドイツ政府は報復を宣言すると、翌37年1月1日行動を開始。独軽巡「ケーニヒスベルクKönigsberg」などが、商船3隻を拿捕した上、都市に対して威嚇射撃を行います。
 これに慌てた共和政府は、バスク地方政権の部隊を含めた全艦隊に、外国船への一切の敵対行動を禁止する命令を発しました。もともと消極的だった共和派艦隊ですが、これ以後、通商破壊戦などの積極作戦をとることは、ほとんど見られなくなってしまいます。

 1月7日に、ビルバオが空襲を受けた際、停泊中の共和派潜水艦「C4」は、高射砲で爆撃機1機を撃墜しています。これは、共和派海軍の潜水艦が内戦中にあげた、唯一の確認戦果であるようです。(他に、漁船改造の特設哨戒艇1隻を砲撃で撃破している可能性あり)

 国粋派のビルバオ包囲網は、じわじわと狭められて来ます。
 3月5日には、重巡「カナリアス」が、マチチャコMachichaco岬付近を航行中のバスクの輸送船団を襲撃し、マチチャコ岬沖海戦が発生します。

国粋派:重巡「カナリアス」
共和派:特設砲艦「ナバーラ」など3隻、特設哨戒艇1隻、漁船2隻、輸送船2隻

 護衛部隊や付近の沿岸砲台が奮戦したものの、3t分のニッケル貨(ベルギーで鋳造した独自通貨用)を載せた輸送艦「ガルダメスGaldames」と、米国・メキシコからの兵器(航空機8機、火砲31門等)を積んだ貨物船「マル・カンタブリコMar Cantábrico」が拿捕されてしまいます(注1)。
nabarra.jpg 護衛部隊も、特設砲艦「ナバーラNabarra」(左画像)を撃沈され、同じく「ギプスコアGipuzkoa」が大破炎上する大損害を受けました。特設哨戒艇1隻も、損傷してフランスへ逃亡したままになっています。特設砲艦と呼べるような大型船を4隻しか持たなかったバスク艦隊には、痛恨の一撃でした。
 一方「カナリアス」は、至近弾により数名の死傷者が出たのみでした。
 しかし、バスク海軍の犠牲的な戦いの間に、「カナリアス」がすでに拿捕していたエストニア貨物船「ヨークブルークYorkbrook」は、脱走に成功しています。この船は、フィンランドからの補給物資を搭載しており、その中心は日本製の31年式山砲が42門だったと言います。海戦で沈んだバスク特設砲艦「ナバーラ」は、バスク奮戦の象徴的存在になりました。アイルランド生まれの詩人・作家セシル・デイ・ルイスCecil Day Lewisは、その悲劇的な戦いを詠った「ナバーラ」という詩を発表しています(注2)。
Diez-Bilbao.jpg なおこんなときでも、共和派中央海軍の駆逐艦「ディエス」は、機関不調を理由に港に引きこもったままだったようです。地元の人々は、同艦を「港のペペ」と呼んで軽蔑しました。(右画像はビルバオ碇泊中の「ディエス」)

 4月8日には、英国政府が自国商船に対し、ビルバオ周囲100マイルからの退去を勧告します。ある英国議員は、この勧告を『英国人がスペイン艦隊を恐れたのは、1588年以来初めての屈辱』と評しています。
 しかし、一部の勇敢な英国商船は、勧告を無視してビルバオへ向かいました。そのうち、商船「マクグレーガーMacGregor」などは、軽巡「セルベラ」を中心とした国粋派艦隊から威嚇射撃を受け、駆けつけた巡洋戦艦「フッドHood」、駆逐艦「ファイアドレイクFiredrake」などの英国艦隊の後見により、かろうじて突破に成功しています。この際の英国政府の主張は、軍需物資以外の食糧輸送なのだから、自由通行を認められるべきであるというものであったようです。

 陸上での国粋派の攻勢も強く、4月26日には、あの悪名高いゲルニカGuernica空襲が実行されています。ゲルニカは、バスク地方の古都でした。

Acorazado_espana.jpg 国粋派は、完成した新鋭敷設艦「ユピテル」などにより、機雷封鎖も試みています。
 ところが、4月30日に悲劇が起こります。サンタンデル沖で国粋派戦艦「エスパーニャ」が、この機雷に接触して、浸水沈没してしまったのです。幸い、乗員は同行中の駆逐艦「ベラスコ」に救助されたものの、旧式とはいえ唯一の戦艦を喪失してしまいました。(右画像は沈みつつある「エスパーニャ」)
 この方面の機雷戦が共和派側に与えた被害は、特設哨戒艇1隻と掃海艇3隻を撃沈と一応のものですが、懸命の掃海のおかげで、余り交通妨害にはなりませんでした。機雷作戦は、なんとも割に合わない結果となってしまったのです。

 海上での漁船艦隊の奮戦もむなしく、6月14日にバスク政府は、首都ビルバオの放棄を決断します。これ以後のバスク戦線は、陸海に渡る掃討戦の様相を呈していきます。(つづく

注記
1 拿捕された輸送船「マル・カンタブリコ」は、国粋派の手によって仮装巡洋艦に改装され、逆に封鎖作戦に投入されています。152mm砲を4門、ドイツ製の88mm高射砲4門、20mm機銃数基など、かなり強力な兵装になったようです。

2 セシル・デイ・ルイス「ナバーラ」より、以下一部引用。
『その光は 時を越えて 灰になった星のように光っている
 「ナバーラ」の受難が 海のただ中に消されたずっと後までも』
 なお、ルイス氏は、作家としてはニコラス・ブレイクNicholas Blakeのペンネームで活躍しており、そのほうが有名かもしれません。「野獣死すべし」とか。

スペイン内戦と海軍(第19回)

7.海上作戦の経過
 (8)ビスケー湾の戦いの終り


 1937年6月14日、バスク政府は、首都ビルバオの港に停泊する艦船全てに、脱出命令を下します。ビルバオ放棄が決定したのです。
 大型の貨物船から、小は遊覧ボートまで、難民を満載して次々と出港していきます。目的地は、まだ共和派勢力下に残るサンタンデルSantanderやヒホン、それにフランス南部の各港です。軍艦とて例外ではなく、駆逐艦「ホセ・ルイス・ディエス」「シスカル」は、亡命するバスク政府の要人輸送にあたりました。
 運良く脱出できる船もある一方、タンカー「ゴベオGobeo」など運の悪いものは、国粋派艦隊に拿捕され、あるいは撃沈されてしまいました。こうした光景は、共和派の港湾都市が陥落するたびに繰り返されていきます。

 この時、共和派海軍の潜水艦3隻が、まだビスケー湾にありました。
 これらは、国粋派の巡洋艦を目標として何度か襲撃を試みています。例えば、「C4」が軽巡「セルベラ」を(6月21日)、「C6」が重巡「バレアレス」を(8月24日)雷撃しています。 しかし、魚雷の不良や低い練度のため一発の命中もなく、逆に爆雷で追い払われてしまいました。

 8月25日にはサンタンデルが陥落。潜水艦「C2」「C4」は、封鎖線を潜って要人を救出すると、フランスへ脱出。駆逐艦「ディエス」も、英国のファルマスFalmouthへ脱出してしまいます。

 10月21日、生き残りの艦艇が集結した共和派にとって北部最後の拠点ヒホンも、激しい砲爆撃の前に陥落。これをもってバスク・アストゥリアス戦線は消滅します。

spain_map4.png

 共和派の残存艦艇の多くも無残な最期を遂げることとなりました。
駆逐艦シスカル1937 潜水艦「C6」は、空襲で損傷し潜航不能となります。一度は脱出を試みて敷設艦「ユピテル」と交戦しますが、最後の魚雷も命中させられず、ヒホンへ帰還して自沈してしまいました。
 駆逐艦「シスカル」(右画像)は、ヒホンの難民救出中に空襲で沈没。この「シスカル」は、英国のジョージ6世の戴冠式に、スペイン代表として参列したこともある艦です。
 水雷艇「T3」は、脱出途中に座礁し浸水。フランスへはたどり着いたものの結局放棄されました。

 フランスのブレストに避難した「C2」「C4」は、幸い抑留は受けないで済みました。ただ、潜入した国粋派の特務部隊に捕獲されそうになる、という危機はあったようです。両艦は、その後、無事にカルタヘナの本隊へ合流しました。

損傷した駆逐艦ホセ・ルイス・ディエス 共和派に残る大西洋唯一の水上艦となった駆逐艦「ディエス」は、英国へ逃れた後に、フランスへ移動していました。
 そして、内戦も終りに近づいた1938年8月27日、本隊への合流を計ります。しかし、ジブラルタル海峡で重巡「カナリアス」、駆逐艦「ウエスカ」「セウタ」の国粋派艦隊に待ち伏せされ、損傷。かろうじて英領ジブラルタルへ遁入します。
 12月30日に再度の突破を試みますが、今度も敷設艦「ブルカノ」等に阻止され、機銃まで撃ち合う接近戦となります。あまりに近くてか、発射した魚雷が「ブルカノ」の甲板を飛び越えたそうです。深く傷ついた「ディエス」はジブラルタル付近で自ら擱座してしまい、ついに英軍によって抑留される事となってしまいました。(左画像は損傷した「ディエス」。艦首左舷に大破孔が見える)
 こうして、ビスケー湾方面の共和派艦隊は、完全に消滅したのです。

 なお、この大西洋・ビスケー湾方面での国粋派海軍による通商破壊は、特設艦艇を中心に内戦終結まで続きました。
貨物船カンタブリア 内戦も終り近い1938年11月2日にも、英国の会社がチャーター中の共和政府貨物船「カンタブリアCantabria」が沈んでいます。食糧輸送中に、仮装巡洋艦「ナディール」こと「シウダード・バレンシア」の砲撃を受け、撃沈されたようです。右画像は「シウダード・バレンシア」から撮影された、哀れな「カンタブリア」の写真。英国クローマーCromer沖7海里付近といわれています。
 2週間後の11月19日にも、同じ「シウダード・バレンシア」によって、共和派の輸送艦「ゲルニカGuernica」が撃沈されています。この「ゲルニカ」は、その名に明らかなように旧バスク海軍の輸送艦でした。(つづく

スペイン内戦と海軍(第20回)

7.海上作戦の経過
 (9)戦艦の受難


 ビスケー湾で食料船団を巡る戦いが続いていた頃、地中海でもソ連からの「Y」船団の航海は続いていました。共和派海軍は軽巡「セルバンテス」が大破してしまったため、残る「リベルタード」「メンデス・ヌネス」の2隻が、護衛の中心でした。駆逐艦も忙しく駆け回ります。
 軽快艦艇が護衛に活躍する一方、戦艦「ハイメ1世」は、あまり出番がありませんでした。機動力が低いためだろうと思います。

 1937年4月23日、「ハイメ1世」は、陥落したマラガの艦砲射撃のため、久しぶりに出撃します。ところが、帰路に座礁して損傷してしまいました。
 「ハイメ1世」の損傷を知った国粋派海軍は、2日後に重巡「カナリアス」「バレアレス」をカルタヘナへ出撃させ、止めを刺そうと試みます。しかし、国粋派艦隊がカルタヘナに到着したときには、「ハイメ1世」はアルメリアへ移動しており、作戦は空振りに終わりました。共和派の航空隊が反撃に出ましたが、こちらも戦果を挙げられませんでした。

カタロニア讃歌 (ちくま学芸文庫) 5月3日、共和派支配地のバルセロナBarcelonaで市街戦が発生します。無政府主義者が政府内の権力奪取を図ったとも、共産党の謀略であるとも言われています。一週間ほどで鎮圧されるまでに、2千人の死傷者が出たようです。
 この時、共和政府艦隊は鎮圧部隊の輸送に出動しました。有名な「カタロニア賛歌」にも、わずかに記述があります。

 空襲に苦しむ共和派軍は、モロッコにある国粋派の航空基地を艦砲射撃で破壊しようと企画したこともあるようです。その主役は「ハイメ1世」となるはずでした。しかし、その「ハイメ1世」は5月21日に再び空襲を受け、かえって大破させられてしまいます。
 その後「ハイメ1世」は、カルタヘナで細々と修理を続けましたが、約1ヵ月後の6月17日に謎の爆発事故を起こして着底してしまいました。国粋派の「エスパーニャ」についで、共和派の「ハイメ1世」も退場し、こうしてスペイン海軍の保有する戦艦は全て失われてしまったのです。

 共和派も一方的に空襲を浴びたわけではなく、航空部隊を動員して国粋派の拠点や艦隊を攻撃しています。しかし、航行中の艦船に対する攻撃はほとんど戦果があがりませんでした。もともと洋上作戦を考慮していたイタリア空軍と違い、ソ連人パイロットを中心とした共和派空軍は、移動目標に対応できなかったのです。
 そこで、共和派空軍は、泊地攻撃に狙いを変えます。バレアレス諸島に停泊する国粋派の艦船を攻撃したのです。今度は見事に命中弾を与え、共和派は歓喜します。
deutschland_1937.jpg ところが、実際に命中したのは、国粋派艦隊にではなく、公式には中立のドイツやイタリアの艦船だったのです。5月24日には伊輸送艦「バルレッタ」、26日には独水雷艇「アルバトロス」が被害を受けます。独伊政府の激しい抗議に関わらず、29日にも、イビサ泊地で独装甲艦「ドイッチュラント」が2発の命中を受け、100人を超える死傷者を出してしまいました。(右画像は「ドイッチュラント」艦上での葬送)
 5月31日、装甲艦「シェーア」を中心としたドイツ艦隊が、報復としてアルメリア市街を200発以上砲撃。破壊家屋35棟、死者19人を出します。
 一連の誤爆の原因は、パイロットの艦型識別能力の不足にあるように思われます。世界大戦誘発を意図した故意の爆撃という見方もあるようですが、戦況が依然均衡していたこと、同じころにソ連では大粛清が始まりソ連としては即応態勢とは考えにくいこと、共和派海軍が独伊艦隊との摩擦を非常に恐れていることなどからすると、単純ミスと考えたほうが良さそうです。

 その後も6月中には独軽巡「ライプツィヒ」が「潜水艦の攻撃を受けた」と報告するなど、問題が続きます。
 独伊両国は、不干渉委員会で、安全海域の設置や政府潜水艦の抑留、自衛戦闘の許可、各国連合艦隊による示威行動などを主張。これが認められなかったため、ついに両国は、6月末に海上査察からの離脱を宣言します。同調したポルトガルも陸上査察を中止。不干渉体制は崩壊の危機を迎えます。(つづく

スペイン内戦と海軍(第21回)

7.海上作戦の経過
 (10)「国籍不明」潜水艦とニオン会議


 海上査察からの離脱を宣言したイタリアは、1937年8月から通商破壊活動を再開します。
 8月中だけで、アフリカ北岸などの地中海海域で空襲を受けた船は7隻以上。潜水艦によりソ連船「トゥニヤーエフ」が撃沈され、共和派駆逐艦「チュルカ」が大破します。「チュルカ」を撃破したのは伊潜水艦「ジャレアJalea」のようです。
 さらに、英駆逐艦「ハヴォック」までが、伊潜水艦「イリデ」(後にスペインに「ヘネラル・ロペス」として貸与)の雷撃を受ける始末。但し、「ハヴォック」は逆に爆雷で反撃して、「イリデ」を追い払っています。ちなみに、この「ハヴォック」は、第二次世界大戦中に「イリデ」の同型艦「ベリロBerillo」など多数のイタリア艦艇を撃沈することになるのですが、それはまた別のお話です。

 9月に入っても、イタリア海空軍の活動は止みません。ソ連船「ヴラゴーエフ」、英船「ウッドフォード」が伊潜水艦に撃沈されます。
 たまりかねた英国は駆逐艦4隻を地中海に増派し、ついに潜水艦掃討に乗り出す構えを見せます。
 フランスなどもこれに同調、9月9日に、スイスのニオンNyonで新たな関係国会議を開催します。ドイツ・イタリアは出席を拒否しますが、議事は進行され、英仏艦隊に地中海での「国籍不明」潜水艦に対する攻撃権限を与える決議が採択されます。このニオン決議に従い、英仏海軍は駆逐艦50隻以上を地中海に展開します。
 この強硬姿勢はイタリアにとって思いがけないものでした。イタリアは歩み寄りを見せ、ニオン会議への参加を承諾します。
ガレアッツオ・チアノ外相 すると、英仏両国も修正案を提示します。その内容は、(1)イタリアも「国籍不明」潜水艦の掃討作戦に参加する。(2)国粋派支配地域への交通路の監視はイタリアの分担とする、というものでした。イタリアはこれを受け入れます。「国籍不明」外相と揶揄された伊外相チアノ(右画像)は、「いまや、海賊は警官になった」と、その手記に記しています。
 イタリアが修正案を受け入れたことで、世界大戦勃発を懸念していた英仏両国は心底ほっとしたものと思います。大量の駆逐艦の展開による財政負担も回避されたことですし。

 ニオン会議後、イタリア潜水艦は活動を停止します。もっとも翌38年の1月頃に、また一時的に活動を行い数隻を撃沈してはいますが。

 「国籍不明」潜水艦が鳴りを潜めたといっても、「Y」船団の航路は、まだ安全になったわけでもありませんでした。「カナリアス」「バレアレス」姉妹を中心とした、国粋派艦隊の襲撃が続くのです。
 そして、この海上交通線を巡って、内戦中最大の海戦を含むいくつかの戦闘が発生することになります。(つづく
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山猫男爵

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