山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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リーフ共和国興亡(第11回)

7.アルセマス上陸作戦
(3)首都攻防

 9月8日の第一次上陸の成功の後、スペイン軍は次々と増援部隊と補給物資を揚陸させました。9月20日までに、後続部隊1万5千人の到着を受け、上陸兵員は合計でおよそ2万3千人に達します。多数の火砲、戦車10両も含まれていました。

 9月21日、スペイン軍は、揚陸地点正面の2つの高地に対して、総攻撃を開始します。攻撃の先頭に立ったのは、再びフランコ大佐でした。
水上機母艦デダロ 艦砲射撃、それに航空部隊が濃密な支援を与えます。水上機母艦「デダロ」(左画像)の艦載機も、母艦との間を往復して航空支援を行いました。「デダロ」艦載機は、21日だけで175発の爆弾を投下しています。
 岬にあった陣地同様、この高地群にも多数の塹壕が掘られ、鉄条網と地雷に掩護されたリーフ軍兵士が立てこもっていました。リーフ兵は、優れた狙撃の腕を発揮し、数人のスペイン軍士官を撃ち倒しています。第二次大戦時に「青師団」師団長となるムニョス・グランデスAgustín Muñoz Grandesも、負傷者の一人です。
 しかし、猛烈な支援砲火の前に、守備隊の戦力はじわじわと削られていきました。
 9月23日早朝、フランコ大佐は、ついに突撃命令を下します。正午までにスペイン軍は山頂に到達。それでもリーフ兵の抵抗は止まず、銃剣やナイフを振るっての白兵戦は続きました。200名以上の損害を出しつつ、掃討戦が完了したのは、翌24日のことでした。

アルセマス上陸作戦 リーフ側も必死でした。高地が奪われたことは、首都アジールへの道が開かれたことを意味します。首都の陥落を阻止するため、アブデルクリムは、可能な限りの救援部隊を送り込み、防衛を試みました。
 が、それも支援砲火の前に粉砕されてゆきました。

 スペイン軍は、塹壕で抵抗するリーフ軍に対し、毒ガスまで使用しました。おそらくマスタードガスと思われます。十分な防毒装備を持たないリーフ軍は、混乱に陥っていきました。
 戦争における毒ガス使用は、この作戦直前の1925年5月のジュネーブ議定書によって禁止が決まっていました。ただ、発効は1928年となっていたので、この時点ではかろうじて合法です。リーフ戦争は、毒ガスが「合法」的に使用された、最後の戦場かもしれません。もっとも、発効後でも、「戦争」ではない、という主張がなされたかとも思いますが。

 10月2日、アジールを守る最終防衛線が突破されました。
 上陸以来の一連の戦闘でスペイン軍が蒙った損害は、少なくとも700人から1000人以上と言われます。一方のリーフ軍の人的損害は、明らかでないようです。

 戦術上の数字は不明ながら、戦略的にはリーフ共和国の受けた損害はきわめて大きなものでした。
 首都アジールは、アブデルクリムの故郷でもありました。地盤との連絡を絶たれたアブデルクリムの指導力は、徐々に低下します。アジールに蓄積してあった物資も失われました。補給拠点を失った、対フランス戦線も崩壊します。首都制圧から数日後、内陸へ進んだスペイン軍先遣隊と、ペタン元帥のフランス軍が接触に成功しています。
 なにより致命的だったのは、首都の陥落により、リーフ共和国の劣勢が国際社会に明らかになってしまったことでした。それまで協力的だったタンジールの商人も、手のひらを返したように冷たくなります。共和国の経済基盤となるはずだった鉱山利権も、スペインのものであるという認識が確定的となりました。
 集積物資をなくし、取引相手と資金源をも失ったリーフ軍は、以後、弾薬にこと欠く様になってゆきます。(第12回に続く
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リーフ共和国興亡(第12回)

8.崩壊
 首都アジールを失った後、冬が訪れたことが、かろうじてアブデルクリムとリーフ共和国の延命を許しました。西仏連合軍の進撃が止まった冬期の間に、アブデルクリムは、タマシントTamasintへの遷都を宣言します。そして、リーフ山脈の内部へ、2万人ほどの残存部隊を集結させることにも成功します。
 しかし、この間に、西仏連合軍も兵力の増強を進めていました。その兵力は、実にフランス軍32万5千人、スペイン軍20万人以上に及びました。量の差に加え、質においても、補給を失ったリーフ軍とはかけ離れていました。

 アブデルクリムは、西仏両国のリベラル層(追記参照)に最後の望みを託していたようです。おそらく、実効支配を印象付けながら交渉することで、独立ないし、なんらかの自治権獲得を目指していました。
 翌1926年2月には、かなりの戦力を投じてのテトゥアンへの攻撃を行いますが、これも、共和国の健在振りをアピールする狙いがあったものと思います。
 が、この最後の賭けも成功しませんでした。テトゥアンへの攻勢は撃退されます。3月にもう一度行われた攻勢も、スペイン軍のアストレイ将軍(開戦時には少佐だった外人部隊司令官)を再度負傷させたものの、決定的な勝利には至らず、かえって戦力を消耗してしまいました。
 交渉も拒絶され、すべての望みは消えました。

 4月、フランス軍3個師団を中心とした部隊が、リーフ山脈西部シャウエン(クサウエン)方面への総攻撃を開始しました。他のフランス軍部隊、スペイン軍も後に続き、リーフ山脈を包囲しながら侵攻していきます。
 リーフ軍主力は、かつての首都アジール南東の山地に立てこもり、最後の絶望的抵抗を試みました。敵軍に1000人以上の損害を与えましたが、抵抗拠点は次々と制圧されていきます。アブデルクリムの篭る洞窟の司令部も、空襲を受けました。
 5月22日には、スペイン軍部隊が、かつて大敗を蒙ったアンワールをも完全に制圧しています。
 こうして、5月下旬には、アブデルクリムは完全に包囲されてしまったのでした。

Ma_republicarif-foto.png 5月26日、アブデルクリムは、投降を決断します。それまでにリーフ軍が拘束していた捕虜300人あまりが、解放されました。但し、捕虜のうちスペイン軍士官は、民間人への空襲の報復としてそれ以前に処刑されていたようです。
 翌5月27日、アブデルクリム大統領らは、フランス軍の外人部隊へと投降しました。スペイン軍でなくフランス軍を選んだのは、処刑されるのを避けるためではないかと思います。指揮官に続いて続々とリーフ軍兵士が投降し、フランス軍によると捕虜1万2千人に及んだといいます。右の写真は、スペイン軍のレグラーレス部隊の士官たちが5月28日に記念撮影したもので、鹵獲されたリーフ軍の軍旗が写っています。
 かくて、リーフ共和国は、建国宣言から足掛け4年にして滅亡を迎えたのです。

 その後も、掃討戦と残党の抵抗が続きました。スペイン政府が、モロッコ平定を宣言したのは、およそ1年後の1927年7月になってからのことでした。(エピローグへ

追記
 どの程度リーフ側と連絡を取っての行動かは不明ですが、スペイン・フランス両国の左派政党が中心になって、反戦運動が発生しています。1925年の10月12日には、フランス共産党の指導下で、大規模な反戦ストライキも実施されました。

サンディーノ戦記―ジャズ・エイジのヴェトナム戦争

 「回転翼の海鳥たち」の参考資料として読んだ本を紹介。


高橋均「サンディーノ戦記―ジャズ・エイジのヴェトナム戦争」
                      (弘文堂,1988年)

総合評価:★★★★☆
 1920年代から30年代初頭、米国は、中米ニカラグアの内乱に介入していた。
 投入された米海兵隊と、ニカラグア政府、「英雄」サンディーノのゲリラ部隊、暗躍するメキシコなどが入り乱れ、引き際が見出せぬまま戦闘は泥沼化していく。それは、後のベトナムに似ていたのかもしれない。
 内乱以前の中米の概況から、海兵隊の苦闘と撤収、さらには「英雄」の実像まで、ニカラグア内戦を生き生きと描き出したノンフィクション。

帝国の守護者(第9回)

6.「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合(前編)
 少々さかのぼって、第一次世界大戦後のポルトガルでは、政情不安が続いていました。
 1926年、共和派のゴメス・ダ・コスタ将軍がクーデターを起こし、軍事政権が成立します。その後、実権を奪い、大統領に就任した王党派のカルモナ将軍が、財政再建を担う蔵相に起用したのが、コインブラ大学教授のアントニオ・デ・オリベイラ・サラザール博士でした。
 サラザール博士は、聴講届けを出さない学生までも授業に出るほどの人気教授だった人物です。大臣就任直後、軍の干渉にうんざりして一度は辞任しますが、カルモナ大統領に全権委任を受けて、1928年に蔵相に再就任。緊縮財政と行政改革により、奇跡的な財政再建を成功させます。
 1932年には首相を兼任します。翌年には憲法を改正、以後40年近くにわたるサラザール独裁体制、いわゆるエスタド・ノヴォEstado Novo(新国家)の幕開けです。カトリック的色彩と、規律と共同体結合を重視した内政、反共産主義に、植民地の固持という独特の国家体制と言われます。

 財政再建の成功と、植民地重視政策のため、1930年代にはひさびさに海軍艦艇の更新が実現します。駆逐艦7隻、潜水艦3隻、それに植民地用の通報艦6隻などです。建造はまたも英国頼みですが。
Albuquerque.jpg そのうちの一隻が、1934年就役の一等通報艦「アフォンソ・デ・アルブケルケAfonnso de Albuquerque」でした。通報艦avisoというのは、もともとは艦隊内の連絡用に用いられた、小型の巡洋艦と砲艦の間のような艦種のことです。無線機の発達により本来の意義は失われていましたが、フランスなど一部の国で植民地警備用の大型砲艦の分類として復活しています。英国流に言う警備スループと同じといってよいでしょう。
 要目:基準排水量1780t、速力21kt、兵装12cm×4、76mmAA×2、40mmMG×2、水上機1
 一応の水上機搭載能力を有するあたり、フランスの通報艦「ブーゲンヴィユBougainville」級に近い性能と言えます。ポルトガル海軍の広報誌“Revista da Armada”の2006年3月号に、水上機搭載状態の美しい写真が載っています。搭載機は、ホーカー「オスプレイ」水上機のようです。
 艦名の由来は、インドのゴアを征服したポルトガル史上最高の軍人と言われる人物です。同型艦「バルトロメウ・ディアス(バーソロミュー・ディアス)Bartolomeu Dias」と並び、大航海時代の栄光を思い出させる名前であります。

 サラザール政権は、国家主義的色彩が強いながらも、独伊枢軸とはやや距離を置いていました。この点、隣国スペインに成立するフランコ政権とよく似ています。
 そのフランコ政権が成立するのは、1936年7月に勃発するスペイン内戦によってでした。(詳細は、こちらの別記事シリーズを。)
 スペイン内戦が始まると、ポルトガルは、独伊枢軸と共にフランコ率いる国粋派を支援します。スペイン国粋派への援助物資はポルトガル領に陸揚げされ、その後、陸路で輸送されています。

 内戦開始2ヵ月後の9月、今度はポルトガル海軍で反乱事件が発生します。
 首都リスボンを流れるテージョ川に浮かぶ艦隊が、サボタージュを起こしたのです。反乱艦隊の中核は、スループ「アルブケルケ」「ディアス」姉妹で、それに駆逐艦「ダウンDáo」が加わっていました。
 反抗の理由ははっきりしません。一説によれば、艦隊内のスペイン共和政府シンパが、スペイン共和派支援のために行動を起こしたのだとされます。少し消極的に、国粋派支援のため艦隊が派遣されるという噂が流れたため、出撃拒否の騒ぎが起きたとも言います。また、反乱参加者の証言とされるものによれば、直接的な動機は、スペイン内戦ではなく、脱獄中の海軍共産党員の特赦を要求するためだったともあります。おそらく、これらのいずれもが正しく、あまり統一的な意思はなかったのではないかと、個人的には思います。
 鎮圧のためのポルトガル政府軍とのにらみ合いが続いた後、9月8日、「アルブケルケ」「ダウン」の2隻が動き出します。テージョ川を海に向かって下り始めたのです。
 これに対してサラザール首相(蔵相・外相・陸相・海相兼任)が採ったのは、強硬手段でした。要塞砲による直接砲撃を命じたのです。
 直ちに、沿岸要塞の15cm砲などが砲撃を開始しました。「アルブケルケ」に次々と砲弾が直撃、甲板は血に染まりました。損傷した「アルブケルケ」は停止し、反乱艦隊はついに投降します。砲撃による死者は10人、負傷者多数にのぼりました。

 なぜ、サラザール首相は、こうした強硬策を採ったのでしょうか。
 もしかしたら、1910年のポルトガル革命の記憶が蘇ったのではないか、と思います。あの時は、海軍艦艇の王宮への艦砲射撃が、帰趨を決しました。今度は共産主義者の手によって、それが再現されるのではないかと、博士は恐れたのではないでしょうか。この当時、ポルトガル海軍内部には、共産主義者がかなりの数存在していましたから。

 制圧された3隻からは、反乱兵たちが引きずり出されました。中心人物とみなされた60名あまりは、カーボ・ベルデCabo Verde諸島へ流刑となっています。その多くが、マラリアや飢餓に倒れたものと思われます。
 損傷した「アルブケルケ」は修理され、引き続き植民地警備にあたりました。マカオの警備に訪れたこともあります。終戦直後には、日本軍に占領された東ティモールの奪還作戦にも、姉妹艦と揃って参加しています。
 中立政策のおかげで、第二次世界大戦を無事に生き延びた「アルブケルケ」。しかし、その先にもう一度、砲火に身を晒す運命が待ち構えていたとは、誰に予想できたことでしょうか。(後編へ続く

帝国の守護者(第10回)

6.「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合(後編)
 1945年、第二次世界大戦終結。
 大きな戦争の終りは無数の小さな戦いの始まりでした。疲弊したヨーロッパの本国に対して、世界中の植民地が独立を求めて動き始めたのです。時に泥沼の戦闘を伴いながら、東南アジアや北アフリカ、中東では、次々と独立が実現していきます。
 インドも例外ではありませんでした。1947年に英国は帝国の象徴だったインドの独立を認めます。時代の流れは急速に変わっていたのです。

 インドに植民地を保有していたのは英国だけではありません。フランス、そしてポルトガルも小さな植民地を残していました。独立したインドは、当然、両国に対しても植民地の返還を求めてきます。
 フランスは、交渉の末に住民投票を条件として返還を容認します。1954年までには仏領インドが消滅しました。
 これに対して、ポルトガルは交渉を拒絶します。おそらく、わずかでも譲歩を見せたなら、インドばかりでなく他の植民地でも独立運動が激化することを恐れたのだと思います。当時のポルトガルは、依然としてアンゴラやモザンビーク、東ティモールなどを領有する植民地帝国でした。
goa_map.png
 (第二次世界大戦後のポルトガル領インド。面積は正確にはもっと狭い。)

 ポルトガルのサラザール首相はインドの死守を命じ檄を飛ばします。指令に従い「アルブケルケ」もインドのゴアに展開してポルトガル軍艦旗を翻します。
 インド側も徐々に実力行使を行い、しめつけを強めます。手始めに内陸部のダトラとナガル・アベリの通行を制限すると、1954年7月には「義勇兵」を送り込みます。駐留するポルトガルの警察官と小競り合いした程度で占領。独立を宣言させたうえ、併合してしまいます。ポルトガルは通行制限のために増援部隊が送れなかったのです。
 ポルトガルは自由通行を求めて国際司法裁判所に提訴します。国際司法裁は通常は当事国双方の同意が無いと裁判できませんが、インドは一方的提訴を認める選択条項に署名していたため、こうした訴訟が可能でした。1957年には判決が出て、両地域に対するポルトガルの主権が認められます。しかし、一方で軍隊についての通行権は認められなかったため、結局、ポルトガルは両地域を奪還することはできませんでした。
 さらにインドは、非武装の群集で、残るゴアやディウの占領を試みます(1955年)。今度はポルトガルが実力を行使しました。ポルトガル軍の銃撃により22名が死亡し多数の死傷者が出る惨事となります。
 国際的な非難の高まりを無視してサラザール首相はなおも交渉を拒絶します。1960年にインドが提案した、特権維持を認めた妥協案も相手にしませんでした。

 1961年、ついにインドは最終手段をとる決心をします。いわゆるゴア武力解放(ゴア接収)です。
 現地のポルトガル総督府もこのインド側の動きを察知していました。増援部隊を送るよう本国へ要請し、守りを固めようとします。総督は「ショリソを送られたし」という電文を打っていました。ショリソとは、チョリソ・ソーセージのこと。これは、対戦車グレネードを意味する暗号でした。ところが、本国政府が送ってよこしたのは本物のソーセージだったのです。本当は要請に応じて弾薬を空輸しようとしたのですが、周辺国が中継基地の利用を拒絶したため不可能となり、代わりにとぼけて本物のソーセージを送ったという真相だったようです(注1)。かくもポルトガルの政府組織は腐敗していました。物質戦力比は隔絶、人的面でもこれでは、勝敗は戦う前から明らかだったのです。

 12月18日早朝、インドの海軍部隊が動き出します。
 ゴア攻略:フリゲート「ベトワBetwa」「ベアスBeas」、スループ「カヴェリーCauvery」
 ディウ攻略:軽巡洋艦「デリーDelhi」
 アンジェディバ島攻略:軽巡洋艦「マイソールMysore」、フリゲート1隻、「INS Venduruthy」基地の陸兵
 支援機動部隊:空母「ヴィクラントVikrant」、フリゲート3隻、旧式駆逐艦1隻
 これに補給艦1隻と掃海艇4隻も加わった大部隊でした。アンジェディバAngediva島とは、ゴアの南方に浮かぶ小島です。

 対するポルトガル海軍の兵力は、以下のようなものでした。
 ゴア:スループ「アルブケルケ」、哨戒艇「シリウスSirius」
 ディウ:哨戒艇「ベガVega」
 ダマン:哨戒艇「アンタレスAntares」
 最有力艦が「アルブケルケ」。3隻の哨戒艇は20mm機銃1基を持っただけのモーターボートです。航空部隊の支援もありません。

 インド側のゴア攻略艦隊は湾内に侵入してきます。そして、停泊中の「アルブケルケ」の姿を発見しました。
 このとき、ポルトガル海軍によると「アルブケルケ」では作戦会議の途中だったとされます。一方、インド海軍によると、基地攻撃に飛来したインド軍機を迎撃していたといいます。いずれにしても、インド艦隊の出現は奇襲攻撃になったようです。
 3隻のインド艦は、8000ヤード(7.3km)の距離から「アルブケルケ」に対して砲撃を開始します。「アルブケルケ」も緊急出航し、かなわぬながら応戦をします。インド側のうち2隻は英41型「レパードLeopard」級の新鋭フリゲートで、残る「カヴェリー」は、第二次世界大戦型の英「ブラック・スワンBlack Swan」級スループでした。最弱の「カヴェリー」だけでも「アルブケルケ」と互角です。艦齢30年近い老嬢には、いささか手強すぎる相手でした。
 短時間ながら激しい砲撃戦の後、直撃弾多数を浴びた「アルブケルケ」は、自ら擱坐して果てました。戦死者1名、重傷者が艦長ほか10名と、奇跡的に人的損害は小さかったようです。

 他のポルトガル艦も次々と後を追いました。「アルブケルケ」と同じくゴアに在泊の哨戒艇「シリウス」と、ダマンの「アンタレス」は、対空戦闘に従事した後に自沈。
 ディウの「ベガ」も、インド巡洋艦「デリー」との直接対決はあきらめて、インド軍機2機を相手に対空戦闘をしましたが、必死のジグザグ航行でもかわし切れずに撃沈されました。インド側の主張によれば「デリー」はポルトガル船2隻を砲撃して1隻を撃沈、1隻を自沈に追い込んだとありますが、あるいは後者は「ベガ」のことを遠望して誤認したのでしょうか。なお、インド艦「デリー」は、元英軽巡「アキリーズ」で、かつてラプラタ沖海戦において独装甲艦「シュペー」を自沈に追い込んだ古強者でした。
 こうしてポルトガル極東艦隊は全滅したのです。

 陸上でも小規模な戦闘があった後、翌12月19日にポルトガル総督府は降伏しました。ポルトガル軍死者31人、インド軍死者34人(注2)。総督以下3000人が捕虜となりました。
 ポルトガル政府では、潜水艦2隻・駆逐艦1隻・補給艦1隻の救援艦隊派遣も検討されましたが、間に合いませんでした。仮に間に合ったとしても、かえって損害を増すだけだったでしょう。
 1622年にアルブケルケ提督が占領したゴアは、340年ぶりに、護る「アルブケルケ」の手から奪い返されたのです。

 紛争前のまだ平和だった頃、「アルブケルケ」は、警備と同時に練習艦任務にも就いていました。士官候補生を乗せての練習航海の途上、1960年には日本の横浜にも寄港しています。戦後初めて来日したポルトガル軍艦として、話題になったそうです。若者を育てながら過ごす晩年。そのまま静かに生涯を終われたなら、きっと、そのほうが彼女にとっては幸せだったことでしょう。
 沈没した「アルブケルケ」の残骸は、1966年に引き揚げられ解体されました。(エピローグへ

注記
1 ポルトガルの現地部隊が要請した物資は、阿部真隠「波乱万丈のポルトガル史」(泰流選書,1994年)など対空兵器とする日本語資料もあり。また、本物のソーセージが送付された事情について、本国側が暗号を忘れていたからとの説明もあるが、 ∵ごま∴@kurumigi氏の調査によると正確には本文のような事情だったようである(参考ツイート1ツイート2ツイート3)。(2012年12月19日訂正)

2 ポルトガル軍死者17人、インド軍死者20人とする資料もあり。

帝国の守護者(第11回)

7.おわりに ―リスボンの春―
 ゴアの喪失と前後して、ポルトガルは泥沼の植民地戦争に突入していきます。アンゴラ、モザンビーク、ギニア、東ティモール……。
 サラザール首相は、それでも妥協を認めませんでした。植民地の実情を報じた査察官は公職追放し、愚民政策を維持します。死守命令に背き捕虜となったゴア守備隊は、帰国を禁止され、後に帰国を認めた後も、総督は公職追放になりました。
 植民地戦争に資源が投じられた結果、本国では労働力が不足し、経済・財政状況の悪化を招きます。一時は、軍事費が国家予算の45%に達しました。これは、現在の北朝鮮の推定値を優に上回る割合です。ポルトガルはヨーロッパの最貧国に転落しました。帝国の誇る広大な植民地は、回収不能の不良債権でした。
 度重なるクーデターにも倒れなかったサラザール首相ですが、1968年に椅子から落ちたショックで、脳内出血を起こし病床につきます。代わってマルセロ・カエターノMarcelo Caetano博士が首相に就きましたが、サラザール博士には、この事実は隠されていました。サラザール博士は、自身が首相であると信じたまま、2年後に(主観的には)幸福な最期を遂げます。

 サラザール体制を承継したアメリコ・トマス大統領とカエターノ首相も、1974年に軍事クーデターによって打倒されました。
 このとき、多数の兵力が出動しながらも、ほとんど流血はありませんでした。砲撃命令を受けたフリゲート「ガーゴ・コウチーニョGago Coutinho」ほかの海軍艦艇も、命令を拒否し、砲身を空に向けて沈黙を守ったと言います。血の代わりに、市民が飾ったカーネーションが街を彩ったことから、カーネーション革命と呼ばれることになりました。
 クーデター後、左翼的軍事政権が成立して、全ての植民地の放棄が宣言されました。
 かくてポルトガル海上帝国は、その終焉を迎えたのです。

 これより前、帝国を護ってきた砲艦は、すでに姿を消しつつありました。もはや、少数の砲艦が駐留しても、事態収拾には有効でなくなっていたのでしょう。
 おそらく最後の一隻となったのは、1970年代前半に退役した、1918年製の河川砲艦「テテTete」でした。リンク先の画像が1971年撮影のモザンビークの川に浮かぶ「テテ」最晩年の艦影です。(外伝へ続く


主要参考資料
<書籍>
阿部真隠「波乱万丈のポルトガル史」(泰流選書,1994年)
ウラジミル・セミヨノフ「ラスプラタ」(画報社,1911年)
小田滋「解説 条約集」(三省堂,第9版,2001年)
金七紀男「ポルトガル史(増補版)」(彩流社,2003年)
森島守人「真珠湾・リスボン・東京―続一外交官の回想」(岩波新書,1991年)
「帝国陸海軍補助艦艇」(歴史群像37,学習研究社,2002年)
「Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946」(1980年)
 同「1906-1921」(1985年)、「1860-1905」(1979年)

<ウェブページ>
Marinha Portuguesa - Página Inicial」(葡語)
  ポルトガル海軍公式サイト。海軍広報誌も閲覧可。
Indian Navy」(英語)
  インド海軍公式サイト。
H.M.S.Falcon」(英語)
  英海軍河川砲艦についてのサイト。「マカウ」についてのページ有。
中國軍艦博物館」(中語)
  中国近代海軍についての非常に詳細なサイト。清朝海軍から現代まで。
第1次大戦」(日語)第1次大戦についての高名サイト。前後の各戦争についても。
The Naval Data Base.」(日語)膨大なデータを収録した「近代世界艦船事典」。
野次馬的アジア研究中心」(日語ほか)
  アジア旅行記のほか、「飛び地領土研究会」という素敵なコンテンツも。

帝国の守護者外伝(前編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(前編)
 ポルトガルがアジアに保有した植民地には、インドやマカオ以外に、東ティモールがありました。
 いえ、正確には、マレーからインドネシアに至る東南アジア一帯がポルトガル領だった時期もありました。しかし、それらの大半は英国とオランダによって奪い取られてしまったのです。オランダとの協定により、かろうじて残されたのが、ティモール島の東半分だけでした。葡領ティモールは、ディリDiliの総督府を中心として、細々と存続していくことになっていたのです。

 ポルトガルに代わってインドネシアの大半を領有したオランダにとって、このオランダ領東インド(蘭印)は、生命線とも言うべき貴重な植民地になります。古くは香料貿易、下って各種プランテーション、そして近代では石油も採掘されています。ナポレオン戦争などで本国が占領されたりすることはあっても、この蘭印だけは回復を図り維持し続けました。
 このため軍事力の配備も、本国はごく軽装備の小兵力だったのに対し、蘭印駐留の植民地軍はかなり有力な装備を持つという、いささか奇妙な態勢になっていました。特に海軍においては、この傾向が顕著でした。
 19世紀後半から20世紀にかけて、そのオランダ海軍の中心となっていた存在は、海防戦艦と呼ばれる種類の軍艦です。「戦艦」とは言いますが、排水量は 2000tから大きくても7000t程度と、軽巡洋艦並の大きさしかありません。軽巡に比べると速力でも航洋性でも劣る代わり、戦艦並の強力な装甲と、数は少ないながらこれも戦艦並の主砲を積んだ防衛専用艦でした。戦艦というよりは、装甲砲艦ないし装甲海防艦と呼んだ方がイメージに合うかと思います。
 北欧諸国などの他の海防戦艦ユーザーは、本国防衛用に使っていましたが、オランダ海軍は、植民地防衛の切り札として海防戦艦を建造していました。

Zevprov_old_anchor.jpg そうして、オランダ海軍最後の海防戦艦となったのが、「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンDe Zeven Provinciën」です。
 要目:満載排水量6510t、速力16kt、
     航続力2100海里/16kt
     兵装28cm×2、15cm×4、75mm×10ほか
 1910年就役の石炭レシプロ艦で、前寄りに2本の煙突が立っています。主砲は、前後に単装砲塔が据えられ、外見としては「三笠」などの前ド級戦艦を、多少シンプルにしたような姿です。
 艦名は、オランダ海軍にとって由緒あるものです。直訳すると「七つの州」になりますが、これは「七州連合」というオランダの美称のことです。日本の場合で言えば、「八島」といったところでしょうか。さらに加えて、オランダが誇る名将デ・ロイテルde Ruyterことミシェル・アドリアンソーンMichiel Adriaenszoon提督の旗艦の名前でもありました。

 残念なことに、この海防戦艦「プロヴィンシェン」は、生まれながらにして旧式艦と言っていい存在でした。完成前の1906年に英国でドレッドノート級戦艦が生まれ、各国もそれに続いてしまっていたためです。もともと通常の戦艦よりは見劣りする海防戦艦ですから、在来型の本格戦艦ですら歯が立たないド級戦艦の前では、問題外の存在となってしまったのです。
 もっとも、軽巡以下の艦艇に対してなら、当たれば強力な主砲が脅威となる希望は残っていましたが。
 そのようなわけで、オランダの海防戦艦は本艦で打ち止めとなり、計画された発展型はキャンセルとなりました。代わって本格的なド級戦艦の建造計画が立ちましたが、これも第一次大戦勃発のあおりで無かったことになります。

 第一次大戦では、オランダは最後まで中立を維持しました。「プロヴィンシェン」は、この間、本国の警備にあてられたようです。
 大戦後は蘭印艦隊に配備され、艦隊旗艦の栄誉を担います。旗艦だったのは1925年までで、同年就役の新鋭軽巡「ヤヴァ(ジャワ)Java」にバトンタッチしています。旗艦の座を譲った後も、「プロヴィンシェン」は蘭印鑑隊に所属します。外に対しては、徐々に海外進出を強める日本を警戒し、内に対しては、こちらも高まりを見せる独立運動に対して睨みを利かせていたものと思います。

 1933年、そんな「プロヴィンシェン」艦上で、大事件が発生してしまいます。水兵たちがストライキを起したのです。主原因は、給与の切り下げでした。財政難に苦しむオランダ政府が、支出削減の一環として、海軍兵士の給与を1割カットすると発表したのに反発したのです。
 これに、現地人水兵のインドネシア独立派も加わっていたようです。
 一説によると、映画「戦艦ポチョムキン」の影響を受けて実行されたとも言われます。

 2月5日、スマトラ島北部沿岸を練習航海中だった「プロヴィンシェン」で、現地人水兵、ついで本国人水兵も加わってストライキが始まります。水兵たちは、士官たちを拘束して艦内を掌握してしまいました。
 しかし、オランダ政府は、交渉に応じるはずもありませんでした。政府は、このストライキを、共産主義者と独立派による政治目的の反乱事件と警戒したようです。
 交渉に応じない政府に対し、水兵たちは、示威行動を行って要求を通そうと決意しました。拘束を逃れた一部士官たちの妨害工作を受けながら、「プロヴィンシェン」は、植民地政庁のあるジャワ島へ向かって進撃を始めます。

de zeven provincienbomb1933 政府も、強硬姿勢を崩しません。ついには、2月10日、政府軍のフォッカーT.IV双発水上雷撃機が、爆弾を抱えて飛び立ちます。「プロヴィンシェン」上空に到達したフォッカー機は爆弾を投下。爆弾は甲板を直撃し、23名が死亡、多数が負傷する大惨事となってしまいました。
 直ちに政府軍部隊が同艦に乗り移ると、反乱水兵たちを制圧し、士官を救出しました。オランダ版「ポチョムキン」の反乱は、こうしてあえなく終了したのです。
 いきなり爆撃とは、なかなか荒っぽいやり方です。一説によれば、威嚇爆撃のつもりが、狙いがそれて直撃弾になってしまったとも言います。もしそうであったとしたら、いろいろな意味でひどい話です。

 損傷した「プロヴィンシェン」は、すぐに修理されました。ただ、同年中に、練習艦へと類別変更となり、第一線を退いています。

 オランダ水兵たちは知らなかったかもしれませんが、実際の「ポチョムキン」の反乱は、映画とは違って悲惨な末路を辿っています。艦隊の賛同を得られなかった「ポチョムキン」乗員は、投降を余儀なくされ、処刑やシベリア送りとなったのです。
 具体的な記述は見つけられなかったのですが、オランダの反乱水兵たちも、過酷な運命を辿ることになったものと思われます。
 鎮圧した側の蘭印政府・オランダ海軍にも、太平洋戦争という厳しい未来が待っていました。「プロヴィンシェン」も例外ではありませんでした。(中編へ続く

帝国の守護者外伝(中編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(中編)
 1939年5月、第二次世界大戦が勃発します。オランダは今回も中立を宣言していました。ところが、翌1940年5月にドイツ軍がオランダへ侵攻。オランダ本国は、わずか5日間の戦闘で降伏に追い込まれてしまいました。
 幸いヨーロッパの主戦場から離れた蘭印植民地政府は、本国とは異なり、その後も抵抗を続けることができました。そして1941年12月8日、日本の参戦を迎えることになります。

 太平洋の戦いは、真珠湾・マレー沖海戦と相次ぐ連合軍の大敗で始まりました。
 それでも、東南アジア地域の連合国軍、オランダ・英連邦・米国は、合同部隊を編成して迎撃を試みます。海軍部隊も連合艦隊を編成することになり、司令官にはオランダ海軍のカレル・ドールマンKarel Willem Frederik Marie Doorman少将が就任。ドールマン少将の旗艦は、オランダの新鋭軽巡「デ・ロイテルde Ruyter」でした。

 砲術練習艦に格下げとなっていた「プロヴィンシェン」も、老骨に鞭打って参陣することになります。5年前の1936年に「プロヴィンシェン」は、「スラバヤSoerabaja」と名前を変えていました(以下「スラバヤ」と呼称)。名前を、建造中の新型軽巡に譲るためだったのですが、名前を継ぐはずだった艦は、建造中にドイツ軍に捕獲されてしまい、大戦後の完成となっています。
 変わったのは名前だけでなく、練習艦として改装もされていました(改装後の写真)。画像の通り、舷側前寄りの方の15cm砲と、75mm砲の大半が撤去されています。煙突も2本から1本に変わっており、おそらく機関の半数が撤去されたものと思われます。後部マストまでも撤去され、シンプル過ぎていくらか間の抜けた艦影になっています。代わりに40mmなどの対空機銃は追加されたようです。なお、1941年までには15cm砲と75mm砲は全て撤去されていたのではないかとの話もあります。

 さて、連合軍が迎撃作戦をする上で問題となったのが、中立地帯であるポルトガル領東ティモールの扱いでした。
timor_map.png
 ティモール島は小さな面積ではありましたが、東南アジアとオーストラリアの中間という、戦略的に重要な位置を占めている島です。オーストラリアは、ここを拠点に本土へ侵攻されるのではないかと懸念していました。また西ティモールのオランダ軍も、中立地帯経由で奇襲上陸されるのではないかと警戒していました。

 ポルトガルは中立国です。しかし、日本軍を前にしては、中立を維持する実力は無いと見られていました。
 実際のところ、東ティモールに駐留していたポルトガル軍の兵力は、軽歩兵1個中隊300人と国境警備騎馬隊70人程度でしかありません。1938年までは哨戒艇「ディリDili」が存在していましたが、それも退役した今、一隻の軍艦もありません。小さな飛行場はあるものの軍用機もゼロです。

 お題目だけの中立はいかに無力か、オランダは身をもって知ったばかりでした。また、日本軍が中立国を平気で侵犯することも、タイ王国のケースで明らかになっていました。
 日本参戦から10日も過ぎない12月17日、連合軍は行動に移ります。東ティモールの保障占領を決めたのです。
 実行部隊として白羽の矢が立ったのが、老兵「スラバヤ」でした。「スラバヤ」は、陸軍兵を乗せた蘭印総督府直轄の巡視船「カノープスCanopus」を護衛して、葡領ティモールの首都ディリへと向かいます。自らも陸軍兵を乗せています。陸軍部隊の兵力は合計で600人程度。蘭豪混成だったようです。
 ディリに到着した小艦隊は、直ちに部隊を上陸させました。幸い、ポルトガル軍が抵抗することは無く、飛行場などの重要施設はすぐに接収されました。滞在していた日本の領事館員と「民間人」31名が拘束されています。
 ポルトガル総督は中立侵犯だと抗議しましたが、陸路からも連合軍部隊が侵入してくると、占領を黙認せざるを得ませんでした。東ティモールに展開した連合軍の総兵力は、ブレンガン・キャリアー装甲車2両を含む1300人ほどだったようです。
 無事任務を終えた「スラバヤ」は、意気揚々とスラバヤ軍港へ引き上げました。

 東ティモール占領を知ったサラザールは、連合軍に対し、猛抗議を行います。そして、交渉の結果、中立維持できるだけのポルトガル軍を配備することを条件に、連合軍は撤収するという約束に成功します。
 条件を満たすため、モザンビーク植民地軍から派遣準備が進められ、800人の増援部隊が用意されました。増援部隊は輸送船「ジョアン・ベロJoão Belo」(6365総t)に乗り込み、極東艦隊所属のスループ「ゴンザルベス・ザルコGonçalves Zarco」の護衛の下、1942年1月26日にロレンソ・マルケスを出発しています。(後編へ続く

追記
「カノープス」要目:排水量773t、兵装37mm×2
 オランダ海軍所属ではなく、植民地総督府の直轄。総督府は、このほかにも20隻以上の哨戒艦艇を保有。中には2000tを越えて水上機を積める物もあったが、日本軍との戦いにより、ほぼ全滅。一部は日本軍により鹵獲使用。

「ゴンザルベス・ザルコ」要目:排水量1174t、速力16.5kt、兵装120mm×3、40mm×2
 「ゴンザロ・ヴェーリョGonçalo Velho」級2番艦。正式分類は、二等通報艦である。

 「スラバヤ」の画像を取り違えていたことに気付き、撤去。正しくは「コーニギン・レゲンテス」級のものだったようです。要目は「Royal Netherlands Navy Warships of World War II」と「WARSHIPS LINE of All the World's Fighting Ships 1855-2005 by Dimitry G. Malkov」に拠り修正。(2010年6月19日)

リーフ共和国興亡(第13回)

9.エピローグ
(1)決算

 第三次リーフ戦争の結果、スペインは勝利したものの大きな代償を支払うことになりました。人的損害はスペイン軍だけで4万人以上に及んだものと推定されます。戦費もかなり大きなものとなり、国家予算の1/3以上が消えました。
 フランス軍の損害は戦死者が約4千人で、負傷者の数はわかりません。余談ですが、フランス軍は負傷者救出に航空機を有効活用し、3000人以上を運んだようです。
 対するリーフ軍側の損害は5千人程度と言う数字がありますが、おそらく正確な数は永久に不明のままでしょう。現在でも残存化学兵器の被害者が生じているという情報もありますが、モロッコ政府が調査を禁止しているため、これも詳細不明です。


(2)アブデルクリムの後半生
 フランス軍に投降し捕虜となった元大統領アブデルクリムは、死刑とならずに済みました。代わりにインド洋に浮かぶ仏領レユニオン島への流刑となります。流刑といっても、それほど厳しい拘束は無かったようです。第1回に掲載した回顧録は、この時期に書かれたものです。
 第二次世界大戦後の1947年にアブデルクリムはリビアへと移送されることに決まります。ところが、護送中の船から海へ飛び込むと、まんまと脱走に成功してしまいました。
 その後はエジプト政府に「英雄」として保護を受けて、アラブ諸国の独立運動に参加していたようです。例えば1948年にはカイロに設置された北アフリカ解放委員会の代表者に据えられ、会の樹立を宣言しています。その宣言の内容は、アラブとマグレブのイスラム教徒としての団結を謳い、チュニジア、アルジェリア、そしてモロッコの完全独立を要求するものでした。
 しかし、モロッコが独立を実現した後も故郷に帰ることは無いまま、1963年にエジプトで生涯を終えました。


(3)それからのアルフォンソ13世
 モロッコ征服という願いを果たしたスペイン国王アルフォンソ13世ですが、その喜びの日々は長く続きませんでした。
 リーフ戦争がスペイン国民にもたらした負担は耐え難いものでした。おまけに世界恐慌の波も重なります。経済状況の悪化を食い止めることができなかった宰相プリモ・デ・リベラ将軍は、1930年に辞職に追い込まれ、数ヵ月後に亡命先のフランスで失意のうちに死亡します。
 プリモ・デ・リベラ将軍の失脚の背景には、彼が軍部の改革を試みた結果、軍人貴族の支持を失ったこともあるようです。

 「ムッソリーニ」を失ったアルフォンソ13世は、停止されていた憲法の復活と総選挙を公約して王政維持を図りますが、もはや限界でした。
 1931年4月に公約どおり実施した総選挙で与党敗北という大勢が明らかになると、最終結果を待たずしてプリモ・デ・リベラ将軍と同じくフランスへと亡命するはめになります。「私が国民の愛を失っていたことを知った」との言葉を残して。スペイン第二王政の終焉です。
 イタリアに移り復位工作を続けましたが実らず、1941年に三男のフアンへ当主の地位を譲り、ローマのホテルの一室で世を去ります。なお、亡命中にブルボン家家長の地位も承継していますが、これは次男へ渡りました。(エピローグ続く

帝国の守護者外伝(後編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(後編)
 さて、日本側では、東ティモールをどのように見ていたのでしょうか。
 日本海軍は、早くから東ティモールに注目していました。南方侵攻に当たっての軍事利用に加えて、石油資源の存在が予想されたことも海軍の興味を引きました。そのため、戦前から、海軍系の国策企業が進出を進めていました。飛行艇による航空便も企画され、「綾波」号などによる飛行が実施されています。
  ayanami.png大日本航空「綾波」(海軍97式飛行艇民間型)
  (画像元:アイコン&お絵描き工房
 現地に駐在した社員には、海軍の特務機関「鳳機関」の工作員が混じっていました。
 なお、オーストラリアも、対抗するような形で航空便を就航させています。

 しかし、太平洋戦争開戦が決まったとき、東ティモールをどうするかは、なかなか決定できませんでした。
 海軍としては、前述の流れのまま、占領を進める方針だったようです。
 これに対し陸軍上層部は、ドイツとの関係で、親枢軸的なポルトガルを刺激することは避けたいと考えていました。
 同じ陸軍でも、現地司令部の南方軍では、行動秘匿などの作戦行動上の便宜から、海軍に同調していたようです。ただし、その下の第16軍には兵力分散につながるとして嫌う意見もあったようで、現地部隊でも一枚岩ではありません。
 結局、開戦までに意見の一致を見ることはできませんでした。

 開戦後、連合軍による保障占領が明らかになると、再び激論が交わされます。
 陸軍上層部は最後まで躊躇しましたが、2月7日、「自衛の為」に東ティモールへの侵攻を命ずる、大本営命令が下ります。作戦秘匿のため、ポルトガル政府への事前警告は行わないものとされました。
 もっとも、この侵攻決定後も、長期的な占領をするか否かは未定のままでした。

 議論の間も、東南アジアでは激戦が続いていました。
 太平洋戦争最初の大きな水上戦となった1月24日のバリクパパン海戦では、アメリカ駆逐艦部隊がオランダ潜水艦と共同で日本軍の船団を襲撃し、輸送船4 隻、護衛の哨戒艇(旧式駆逐艦)2隻を撃沈破する大戦果を挙げました。実は、このアメリカ艦隊は、ティモール島クーパンから出撃したものです。
 ただ、戦力的に劣る連合軍は、じりじりと圧されていきました。練習艦「スラバヤ」(元海防戦艦「プロヴィンシェン」)も、とても積極的な行動をとることはできず、スラバヤ軍港に係留されたまま、防空砲台として戦うのみでした。

 そして、2月17日、ついにティモール島攻略作戦が開始されるのです。
 支援艦隊(重巡「那智」「羽黒」、軽巡「神通」、水上機母艦「瑞穂」、駆逐艦10隻)に守られて、輸送船5隻が出港します。乗り組むのは、歩兵第228 連隊を基幹とした「東方支隊」約5000人で、第38歩兵団装甲車隊も含まれていました。別に、海軍の空挺部隊、いわゆる「空の神兵」も投入されています。
 南雲機動部隊が、オーストラリア北部のダーウィンを空襲(2月19日)して、間接支援を行います。
 連合軍艦隊は、妨害に出動してきませんでした。同時に行われたバリ島攻略への対処で手一杯だったのです。

 2月20日、上陸開始。主力部隊は蘭領の西ティモールへ上陸、一部が東ティモールへと上陸しました。横須賀第3特別陸戦隊の空挺部隊も、飛行場占領を狙って、西ティモールへ降下します。
 対する連合軍は、西ティモールに、豪軍を中心に2000人程度が展開していました。戦車・装甲車若干のほか、自動車100両以上を持っていたようです。東ティモールの兵力は、既述の通り1300人ほどです。(米陸軍を含む増援部隊投入も計画されていましたが、これは空襲で妨害され、失敗に終わっています)
 連合軍は、ほとんど抵抗せずに後退しました。即日、クーパンとディリの中心都市は占領されています。唯一、日本海軍の空挺部隊だけは、機械化部隊に蹂躙されて大損害を出しています。

 その後、後退する西ティモールの連合軍と、退路を遮断する日本軍分遣隊との間で激しい戦闘となりました。日本軍は阻止線を突破されますが、急行した軽装甲車隊が活躍して、連合軍は追い詰められます。
 2月23日、連合軍主力1000名が投降して、主要戦闘は終わりました。日本軍の損害は死傷150人ほど。連合軍の損害は死傷270人ほどと捕虜約1200人でした。
 東ティモールを中心に、投降しなかった約1000人はゲリラ化して抵抗を続けました。それに対する掃討戦は4月中旬まで続き、一応の平定を見ます。

 砲術練習艦「スラバヤ」にも最期の時が迫っていました。すでに、ティモール攻略に先立った2月18日の空襲により、爆弾を受けて損傷しています。3月1日に日本軍がジャワ島へ上陸すると、その翌日、行動不能の「スラバヤ」は、港を封鎖するために自沈して果てました。
 連合軍艦隊主力は、これより先に、スラバヤ沖・バダビア沖海戦で壊滅しています。ドールマン少将も、旗艦「デ・ロイテル」とともに、海に消えました。「スラバヤ」と一緒に東ティモール保障占領に従事した「カノープス」も、インド洋への脱出途上で3月5日に撃沈されました。
Soerabaja_oct46_sunk.jpg 進駐した日本軍は、自沈した「スラバヤ」を引揚げ、浮砲台として利用したようです。しかし、太平洋戦争末期に、再び閉塞船として自沈させられ、その生涯を完全に終えています。マストなど一部だけが水面に突き出した、無残な姿が写真に残っています。

 なおポルトガル軍は、基本的に傍観するのみでした。オエクシの分遣隊だけが、日本軍と交戦したようです。
 東ティモールは、終戦まで日本軍の占領下にありました。ポルトガル政府の用意したモザンビークからの増援部隊は、英領コロンボを経由してインドの葡領ゴアまで到達していましたが、日本軍に展開拒否されています。既存の駐留軍は、わずかな自衛装備を残して武装解除されました。
 その後、現地での反ポルトガル闘争が活発化。鎮圧に向かった駐留軍(連合軍残党も参加)が返り討ちに遭うに至り、日本軍は「保護」名目でポルトガル人を事実上強制収容したようです。この反ポルトガル闘争の背後には、日本の特務機関の扇動があったと言われます。
 一部のポルトガル人は、連合軍兵士の残党とともにゲリラ戦に身を投じました。(1943年1月、連合軍残党と共に豪州へ脱出)

 ポルトガルは一応中立を守りましたが、1943年8月には、大西洋のアゾレス諸島を連合軍に提供しています。この裏では、戦後の東ティモール回復に関する密約があったようです。日本政府は、中立違反としてポルトガルを非難しましたが、サラザール首相に「それならば東ティモール占領についても問題とせざるをえないが良いか?」と切り返されてしまっています。ある日本の外交官は、サラザールの手腕に感心したと書き残しています。
 第二次世界大戦後の1945年9月27日、モザンビークから今度もスループ「ザルコ」に護衛された兵員輸送船「アンゴラAngola」が到着し、ポルトガルの支配は復活しました。このとき、スループ「バーソロミュー・ディアス」「アフォンソ・ド・アルブケルケ」も支援にやってきたようです。ポルトガル海軍にとっては「大艦隊」です。
 かくて東ティモール人の悪夢は、まだ長く続くことになります。

追記
 この「プロヴィンシェン」を主役とした仮想戦記という、実にマニアックなものが存在しています。伊吹秀明「帝国戦記」(学研社,2000年)に収録の『南海のゼーゴイセン』がそれです。
 「帝国大海戦」というシリーズの外伝短編集だそうです。史実同様の南方作戦の中で、「プロヴィンシェン」が、独装甲艦ばりの活躍を見せます。
 まあ、史実では本稿の通り練習艦になっていますし、現役だったとしても、石炭焚の低速艦がどこまで戦力になったか疑問ですが。いくら主砲は28cmでも 2門だけでは夾叉しても命中するのかとか、装甲は厚くとも水中防御は無きに等しいのではないかとか……。史実のノルウェーの海防戦艦「ノルゲNorge」「エイズボルドEidsVold」は、ナルヴィクでドイツ駆逐艦にあっさり捻られてますしね。
 ただ、どうもやられ役感が拭えないオランダ艦隊が、活躍する話と言うのは珍しくていいか、としておきましょう。
 ちなみに、タイトルの「ゼー・ゴイセンZee Geusen」というのは、オランダ私掠船艦隊の異名で、「海乞食」の意です。

 東ティモール独立の際に、豪軍と自衛隊が平和維持部隊として派遣されたのは、記憶に新しいところですが、両軍が戦った過去を考えると、なかなか感慨深いものがあります。オーストラリアの素早い部隊派遣の様を見ると、ティモールに対する最前線意識の強さが感じられる気がします。
 最近、東ティモールはまた荒れているようですが、残念なことです。

 ティモール占領に関する日本側の新聞記事を発見したので、引用しておきます。
『チモール島ポルトガル領は昭和十六年十二月以来英蘭濠軍が自衛に名を藉り不法占拠しており、(中略)わが軍は自衛上その地域に作戦せざるを得なかった。しかしながら帝国は、きわめて公明正大なる措置をとり、ポルトガル側が中立的態度を保障するかぎり領土保全を保障し、自衛上の目的達成のうえは同島より撤退する旨を明らかにし、ポルトガル側も十分これを了解した。』(大阪朝日新聞,1942年3月13日)

参考文献(本編と同じものに加え)
田中敦夫「チモール 知られざる虐殺の島」(彩流社,1999年)
The Netherlands East Indies 1941-1942」(英語)
  オランダ側から見た、蘭印攻略作戦の軍事面の全容。日本人執筆者も参加。
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