山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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リーフ共和国興亡(第4回)

(3)アンワールの戦い
 スペイン軍部隊が到達したアメクラン川、その向こう岸は、アブデルクリムを中心としたリーフ族が実効支配する領域でした。スペイン軍の接近を知ったアブデルクリムは、遠征部隊に対して「最後通告」を発します。「川を越えた場合、実力を持って抵抗する。」
 遠征部隊司令官マヌエル・シルベストレManuel Fernández Silvestre将軍(注1)は、この通告を一笑に付します。そして、部隊に渡河前進を命じました。目的地はアンワールAnnoual(スペイン風に読めばアニュアル)。

 アブデルクリムは、すぐには攻撃に出ませんでした。正面からぶつかっても、勝ち目が無いことを知っていたからです。
 モロッコ東部を担当するシルベストレ軍の総兵力は、25000人。進撃途中に多数の駐屯地を設けて、補給線防衛のための守備隊を置きながらの前進でしたが、それでも20000人は主力部隊に握っていたと思われます。
 対するリーフ軍は、この時点で戦力として期待できるのは、せいぜい3000人程度だったようです。
 シルベストレ軍の補給線が伸びきり、兵力が分散するのをじっと待っていました。

 6月初め、沈黙を守っていたリーフ軍が攻撃に出ます。アブデルクリムが直率する300人が、アメクラン河岸のダル・アバラDar Abara駐屯地を奇襲したのです。スペイン軍守備隊250人は、かなわず退却しました。しかも、退路上に敷かれていた待ち伏せ部隊にも攻撃され、180人近くを失う大損害を蒙ってしまいます。多数の集積物資が、リーフ軍の手に落ちました。
 これは、以後続発する駐屯地襲撃の最初のケースであり、典型パターンとなります。街道各地の駐屯地が突如として包囲され、攻撃を受けます。守備隊が脱出を試みると、その先には伏兵が潜んでいるのです。

 シルベストレ軍主力は、7月上旬には、なんとか目的地アンワールへと到着していました。しかし、後方拠点が次々に攻撃されたため、補給が滞って苦境に陥っていました。特に、水の不足が深刻でした。おまけにマラリア感染も広まっていたようです。
 シルベストレ将軍は、それでも戦線維持にこだわっていました。はるかマドリードの国王アルフォンソ13世も、強気の姿勢を崩していなかったようです。
 将軍は、包囲された駐屯地を救出するべく、2度にわたって騎兵多数を含む精鋭部隊を送り出します。救援部隊は、リーフ軍陣地に対して果敢に突撃を仕掛けました。ところが、兵力では圧倒的なはずの彼らが、一度たりとも突破することはできませんでした。この戦闘で、スペイン軍は戦死者だけで340人以上を出しました。リーフ軍の死者は20人程度だったと言います。
 なぜ、このような結果になったのでしょうか。このときアブデルクリムは、リーフ軍兵士に塹壕を掘らせて強力な野戦陣地を構築させていたのです。塹壕には小銃を手にした兵士が篭り、鹵獲した機関銃まで据付けられていました。勇敢な兵士と機関銃のある塹壕を、ただの突撃によって突破することはできないという第一次世界大戦の戦訓が、「野蛮な」ベルベル人によってモロッコの地に再現されたと言えます。第一次世界大戦を中立ですごしたスペイン軍は、ここで初めて塹壕の威力を経験したことになります。

 7月21日、シルベストレ将軍は、ついに撤退を命じます。15000人の残存兵力が、出撃したメリリャをめざし後退を始めました。戦略的撤退はすぐに単なる敗走に変わり、秩序を失って潰走に陥りました。
 救援のため、陸軍航空隊が飛び立ちましたが、ほとんど役に立たなかったようです。街道上に無数の遺棄死体と放棄された物資が転がるのを、ただ呆然と見つめることしか出来ませんでした。
 このアンワールの戦いでスペイン軍が出した損害は、公式発表によると戦死8000人、負傷4000人、捕虜数百とされています。実際にはもっと大きな損害を受けた、とする見方もあります。いずれにしても、歴史的敗北といってよいのは間違いありません。数多くの植民地戦争のなかで、一局面でヨーロッパ人が受けた損害としては史上最大のケースと思われます。イタリアの第一次アビシニア戦争のケースをも上回るでしょう。
 生存者のうち、メリリャまでたどりついた者以外に、フランス領に逃げ延びたり、海軍艦艇に救出された者がかなりあったようです。生存者の中にシルベストレ将軍の姿は有りませんでした。待ち伏せによって戦死したとも、自決したとも言われます。次席指揮官も捕虜となってしまい、帰りませんでした。(第5回へ続く


注記
1 シルベストレ将軍は、戦場経験で昇進したという型ではなく、国王の個人的信頼によって重用されていたようです。国王の親友であったそうで、典型的な宮廷武官だったと言えそうです。
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リーフ共和国興亡(第5回)

4.リーフ共和国建国
 アンワールでスペイン遠征軍を壊滅させたリーフ軍は、メリリャへ向けて追撃を開始します。街道沿いに築かれていた駐屯地は、勢いに乗るリーフ軍の前に、ことごとく陥落しました。

 9月中旬、リーフ軍主力は、ついにメリリャ郊外の丘陵にまで押し寄せます。東部方面のスペイン軍は、土俵際まで追い詰められた格好です。
 メリリャを守備するスペイン軍も必死でした。本土から増援を送り込み、敗残兵を再編したほか、西部からも外人部隊主力を転用。さらに市内の民間人を根こそぎ動員して、なんとか8個大隊を用意します。沿岸には、海軍艦艇が展開して火力支援に当たりました。前線までの距離が短くなったおかげで、メリリャ飛行場の航空部隊もようやく実力を発揮し、かろうじてリーフ軍を阻止することに成功します。
 ただ進撃を食い止めるのが精一杯で、山岳に拠るリーフ軍部隊を追い払うことは容易にはできませんでした。ここでもスペイン軍の損害は、数百人に及んでいます。外人部隊司令官ミリャン・アストレイ少佐も狙撃され重傷を負いました。副長のフランコ少佐が、臨時に指揮を執ったようです。
rif_map1.png
   (当時のモロッコ北部の地図。仏領には東西に走る鉄道など交通網あるも略。)

 こうして、メリリャと若干の島嶼だけを残し、スペイン領モロッコの東半分は、リーフ族の実効支配下に移りました。この時点をもって、リーフ共和国が事実上成立したとみることもできます。
 スペイン軍撃攘に成功したアブデルクリムは、予定していた新国家構想を次々と実行しようとしました。
 英国やフランスをはじめとした各国に承認を働きかけます。その最大の武器は、スペインが開発していたリーフ山脈の鉱山でした。鉱山利権を担保に、承認や借款を得ようという交渉が、極秘裏に進められます。特にアメリカが、かなり好意的であったようです。
 コミンテルンの支援を取り付けることもできました。
 スペインに対しては交渉による独立容認の余地を残そうとしていたようです。アブデルクリムは、1921年12月と1922年8月の2回に渡り、次のような声明を新聞に寄稿していました。「リーフはスペイン人民を憎んでいない。軍事的侵入以外は憎んでいない。」

rif_flag.png そして、1923年1月18日(2月1日?)、アブデルクリムは、念願のリーフ連合共和国の建国を正式に宣言します。モロッコ王家のスルタンからも独立し、大統領を元首に、首相以下を置き、大統領にはアブデルクリム自らが就任します。首都は、アルセマス湾からやや内陸に入ったアジール Ajdirと定められました。画像は、リーフ共和国の国旗です。
 国家による承認があったことは、私には確認できていません。代わりに、コミンテルンは、直ちに新国家を承認してくれたようです。
 国際連盟への加盟申請もしたようです。(第6回へ続く

リーフ共和国興亡(第6回)

5.スペインの動揺
(1)プリモ・デ・リベラの登場

 第一次大戦後の不況に加え、アンワール会戦など相次ぐ敗北に、スペイン本国では、国王と政府に対する不満が高まっていました。軍内部でも、モロッコ死守を主張する「アフリカ派」と、早期撤退を求める「半島派」に二分されます。
プリモ・デ・リベラ 1922年9月、ついに軍部が混乱収集に動きました。カタルーニャ軍管区司令官ミゲル・プリモ・デ・リベラMiguel Primo de Rivera将軍を先頭にした陸軍部隊が、首都マドリードへ進駐したのです。
 国王アルフォンソ13世は、プリモ・デ・リベラ将軍を首相に任命。プリモ・デ・リベラ将軍により、軍部中心の内閣が組閣されました。

 国王とプリモ・デ・リベラ将軍の関係は、良好だったようです。国王は、政治力のあるプリモ・デ・リベラ将軍を利用しての王政維持を狙っていました。
 ちょうど同時期の1922年10月に、イタリアで成立したムッソリーニ体制と類似しているように思います。アルフォンソ13世がイタリア国王とトップ会談した際、同行したプリモ・デ・リベラ将軍を「私のムッソリーニ」と紹介したとも聞きます。

 首相となったプリモ・デ・リベラ将軍は半島派に近く、モロッコ撤兵を、もともとは考えていました。
 しかし、就任後の現地視察で、サンフルホJos é Sanjurjo将軍やフランコ中佐(1923年6月昇進)らアフリカ派の軍人に説得され、方針転換します。なお、このときの視察は、撤退議論から、かなり緊迫した雰囲気だったようです。

(2)スペイン軍の改革
 プリモ・デ・リベラ将軍は、形勢立て直しを計るべく、まず軍の改革を進めました。
 第一次世界大戦を経験しなかったスペイン陸軍は、当時、完全に腐敗していました。貴族出身の士官が、総人員の12%以上を占め、かなりトップヘビーの組織構成になっていたようです。士官の給与が予算を圧迫し、装備の更新も遅れています。士官人件費が、軍事予算の6割と言う少し怪しげなデータまであります。
 人員面の改善策としては、外人部隊の増強と、現地のモロッコ兵部隊(ムーア兵・モーロ兵)の増強が行われました。もちろん、本国陸軍も可能な限りの再編成が試みられたようですが、貴族士官の整理は十分とはいえなかったようです。(この人事面は、スペイン内戦に至るまで最終解決されません。)

スペイン陸軍のルノーFT-17軽戦車 装備面では、航空機や戦車、輸送用のトラックの増強が図られました。
 すでに戦車部隊については、フランスから輸入したシュナイダー突撃戦車とルノーFT-17軽戦車(左画像)の合計20両ほどが、1922年春にモロッコへ投入されていました。これに加えて、国産戦車の開発生産が進められます。
 航空部隊に関しては、海軍機の出動が要請され、1924年には水上機20機以上が進出します。

 軍の改革と共に、アンワールでの敗北の原因究明も進められました。特命委員会の調査の結果、軍指揮官に加えて、国王にも責任があるという発表がされています。1923年1月に、身代金支払いにより捕虜350人が解放されていますが、彼らの証言も採用されたのでしょうか。
 この調査結果もあって、国王アルフォンソ13世は、すっかり実権を失い、主導権はプリモ・デ・リベラ将軍に移ることになりました。(第7回へ続く

リーフ共和国興亡(第7回)

(3)西部でも続く敗戦
 スペイン軍の改革努力によっても、リーフ軍の勢いは、なかなか止まりません。
 東部ではメリリャだけが一時孤立した後、1921年冬には、スペイン軍は再びアンワール付近に前進拠点を設置していました。ただ、ゲリラ攻撃のため十分な補給が維持できず、こう着状態に陥ります。東部では、当分の間、街道の駐屯地の争奪戦が繰り返されることになります。

 代わって、主戦場は西部のセウタ側に移ります。
 西部は、もともとアブデルクリムの影響下に無い地域でした。そのため、スペイン軍の初期侵攻は順調だったことは、既に述べた通りです。しかし、東部での戦闘をきっかけに、西部でも激しい抵抗が始まったのです。
スペイン陸軍のルノーFT-17軽戦車隊 西部でスペイン軍は、新鋭の戦車部隊を中心に前進を図ります。
 ところが、ルノーFT-17軽戦車12両の戦車部隊は、天候不良で速度の鈍った随伴歩兵と分離してしまい、単独攻撃をするはめになってしまいました。対戦車火器を持たない部族兵を一時的に圧倒したものの、視察孔を狙撃されたり、ナイフを手に乗り移られたり苦戦します。結局、乗員多数が死傷し、2両を放棄して退却するしかありませんでした。

 天候不良に苦しめられたのは、海軍航空隊も同じでした。せっかくセウタに進出させたスーパーマリン「スカラブScarab」飛行艇は、天候不良により次々と失われ、20機中2機しか残りませんでした。
 陸軍からは、海軍機不要論さえ出てしまいます。

 リーフ共和国を建国したアブデルクリムらと西部の諸部族との間で連合協定がまとまると、西部もリーフ共和国に含まれることになりました。
 これにより、1924年初春から、強力なリーフ軍部隊が西部にも進出してくることになります。近代的な組織を導入し、優良な装備のリーフ軍は、西部の戦況をも一気に動かす力がありました。機関銃や200門以上の各種火砲も保有し、そのなかには最新式の迫撃砲まで含まれていました。兵力も、部族の在来兵士(というか戦士)とあわせ、70000人に膨れ上がります。
 リーフ共和国にとっても、西部進出は、中立港のタンジールとの間で補給線が確立されるという大きな戦略的メリットがありました。

 正規軍を中核に部族兵を加えたリーフ軍は、シャウエンに猛攻を加え、1924年秋に奪還します。装甲車を護衛につけた車列すらも、壕で足止めされた隙に手榴弾で撃破されるようになり、守備隊への補給が不能になったためです。
 このとき、スペイン軍の撤退作戦の指揮を執ったのが、フランコ中佐でした。退却は困難を極め、スペイン軍の損害は死傷12000人に及びました。待ち伏せにより、一度に40両以上のトラックが失われたこともあります。
 それでも、なんとかテトゥアンへの3万人以上の撤退を成功させたことで、フランコ中佐の名声は大いに高まります。翌1925年2月に、1924年1月まで遡及して(!)、大佐に昇進となりました。(第8回へつづく

帝国の守護者(第1回)

1.はじめに
 イベリア半島の先端、スペインの隣の小国ポルトガルは、かつて海上帝国と呼ばれた時代がありました。大航海時代初期、エンリケ航海王子を産み、スペインやマムルーク朝エジプトを向うに回して活躍した輝かしい頃。トルデシリャス条約などというものを結んで、世界を二分していた頃。
 アフリカをはじめ、南アメリカ、遠くインドや東南アジアにまで植民地を作り、海上交通でそれらを結んでいたのです。

 そうした植民地を維持する拠り所になったのは、軍事力、特に海軍力です。
 植民地を保有する各国は、砲艦と総称される小型軍艦を各地に派遣して、植民地を守っていました。国ごとに、通報艦やスループ、海防艦などいくつかの分類がされてはいましたが、いずれも植民地に君臨して、その支配の象徴的存在になっていた軍艦です。
 ポルトガルも例外ではなく、各地に砲艦を展開させていました。

 16世紀後半、オランダやイギリスなどの新興海洋国が進出してくると、ポルトガル海上帝国は、その短い黄金期を終り、徐々に衰退を始めます。モロッコでの国王の戦死、スペインによる併合、ナポレオン戦争による再占領。最良の植民地であったブラジルの独立……。
 それでも、斜陽の帝国に残された植民地を護り抜くべく、ポルトガル海軍の砲艦部隊は、戦いを続けます。そして……。
 これから、本稿では、彼女たちの戦いを追っていきます。それが、海上帝国の最後の日々、ポルトガル近現代史の一端を照らすことに繋がればと思います。


1386年 ポルトガル、英国とのウィンザー条約により、永久攻守同盟を結ぶ。
1497年 ヴァスコ・ダ・ガマが、インドへ遠征。
1510年 ゴアを占領。
1543年 ポルトガル人、日本に漂着。

1801年 ナポレオン軍、ポルトガル侵攻。王室、ブラジルへ脱出。(1821年帰還)
1822年 ブラジル独立。
1859年 西ティモールをオランダへ割譲。
1890年 英国の圧力に屈し、アフリカ植民地拡張「薔薇色地図」計画を断念。
     砲艦「リンポポ」就役。
1894年 モザンビークで、グングニャーナの乱。
1896年 非装甲巡洋艦「アダマストル」就役。
1899年 英国とウィンザー秘密条約を結び、植民地保障を得る。
1909年 河川砲艦「マカウ」就役。
1910年 ポルトガル革命。王政終結。共和制移行。

1914年 第1次世界大戦勃発(~1919年)
1916年 連合国側で参戦。
1917年 特設砲艦「アウグスト・デ・カスティーリョ」就役。
1919年 王党派が北部で割拠し「王国」を名乗るも、鎮圧。
1926年 クーデターにより、カルモナ将軍が大統領就任。
1932年 サラザール蔵相が、首相に就任。
1934年 一等通報艦「アフォンソ・デ・アルブケルケ」就役。
1936年 スペイン内戦に介入。
1939年 第二次世界大戦勃発(~1945年)するも、中立を宣言。
     連合軍(1941年)、次いで日本軍(1942年)が、東ティモール占領。
     オランダ海防戦艦「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」自沈(1942年)。
1943年 アゾレス諸島を連合軍に提供。
1955年 国連加盟。
1961年 ゴア紛争。インドの残存植民地喪失。
     アンゴラ独立戦争勃発。
1968年 サラザール首相退任。
1974年 カーネーション革命により、サラザール体制崩壊
1999年 マカオ返還。
2002年 東ティモール独立。国際法上、ポルトガルからの独立。

帝国の守護者(第2回)

2.「リンポポ」の場合(前編)
 19世紀後半、欧州列強は、アフリカ大陸の内陸部に目を向けます。それまでのアフリカは、沿岸部に点々と植民地が存在しただけだったのが、急速に変化するのです。
 1885年のベルリン会議において、植民地境界は海岸線の実効支配の有無による原則が確定すると、内陸権益確保のため各国は競い合ってアフリカへの侵攻を始めます。

 この新ルールは、ポルトガルにとって大きな脅威でした。古い植民地帝国であるポルトガルは、アフリカ各地に拠点を持っていました。しかし、小さな国力・人口のポルトガルにとって、広い領域を実効支配することは困難だったのです。
 それでも、ポルトガルも新しいルールに対応するべく、動き始めます。アフリカ西岸のアンゴラと、東岸のモザンビークに持っていた植民地を確立すると共に、両地域の間のザンビアやジンバブエを占領しての大陸打通を試みたのです。ポルトガルは、これを「薔薇色地図」計画と呼びました。当時の議会説明に用いられた地図で、ポルトガルの領土がピンク色に塗られていたことにちなみます。

砲艦リンポポ そして、その尖兵として1890年に就役した軍艦の1隻が、砲艦「リンポポLimpopo」でした。
 英国製で、2本マストに背の高い1本煙突、全長37mの小さな軍艦だったようです。排水量288t。武装は、57mm砲1~2門に機関砲若干といったものでした。艦名は、モザンビークにある川に由来します。ロシア海軍の観察によると、河川砲艦だったといいます。名前からすると納得できる話ですが、写真を見ると小型ではあっても普通の航洋船のようです。ただ意識的に河川用として建造されたかどうかは別として、大きさからは、河川での使用が可能だったと思われます。
 同時期に、ポルトガルではほかにも多数の砲艦が建造されていました。

 ところが、「リンポポ」が就役したのと同じ1890年、ポルトガルは「薔薇色地図」の放棄を余儀なくさせられます。英国の圧力のためでした。
 もともと英国は、ポルトガルにとって、古くから密接な関係にあった国です。1386年に両国がウィンザーで結んだ攻守条約は、現存する世界で最も古い同盟関係とも言われているほどです。
 しかし、今回は別でした。南アフリカを領有し3C政策を標榜する英国にとって、ポルトガルの植民地拡張は目障りだったようです。英国は、ジンバブエからの撤退を求め、事実上の最後通牒を突きつけたのです。
 ポルトガルは引き下がるしかありませんでした。

 無力を痛感したポルトガルは、乏しい国力を投じて、精一杯の海軍拡張に走ります。国王カルルシュ1世の号令の下、4000t級防護巡洋艦「ドン・カルルシュ1世Dom Carlos I」以下、2000t級防護巡3隻、2000t級非装甲巡1隻などが建造されました。
 ただ悲しいかな、最優秀艦「カルルシュ1世」は、英国に発注した艦でした。なお残りはフランス製とイタリア製、国産の混成です。

ングングニャーナNgungunhane.jpg 植民地拡張というのは、原住民にとっては、侵略以外の何者でもありません。当然、激しい抵抗を招くことになります。
 ポルトガル領モザンビークにおいても、1894年に大規模な蜂起が発生します。ガザ王ングングニャーナNgungunhane(左画像)に率いられた蜂起軍が、ポルトガル軍を撃破し、中心都市ロレンソ・マルケスLourenço Marquesに迫ったのです。
 この事態に、おそらく「リンポポ」も加わった駐留艦隊が出撃、蜂起軍に艦砲射撃を加えました。おかげで、ロレンソマルケスは、かろうじて陥落を免れます。
 1895年末にングングニャーナは捕縛され、ようやく反乱は終結します。1896年2月に、リンポポ川の艦隊上で、原住民とポルトガル軍との間で停戦が協定されました。捕虜となったングングニャーナは、「戦利品」として本国へ連行されて終身刑となります。(中編へ続く

帝国の守護者(第3回)

2.「リンポポの場合」(中編)
 1899年、ボーア戦争に苦しむ英国は、ポルトガルと秘密協定を結びます。このウィンザーWindsor秘密条約は、ポルトガル領内での英軍の作戦行動を容認するかわりに、英国はポルトガル植民地の安全保障をするという内容でした。締結地ウィンザーは、1386年に両国が初めて同盟を結んだのと同じ場所です。
 これによって、ポルトガルの海軍拡張は停止されることになります。以後、1930年代まで、1000tを超える軍艦はまったく建造されませんでした。(ド級戦艦の建造や米戦艦「ユタUtah」の購入など計画が無かったわけではないのですが。)
 麗しい同盟関係が復活したと見えますが、実は裏があります。前年の1898年に、英国は、ドイツとの間でも秘密協定をしています。その内容は、ポルトガルの融資弁済が滞った場合の、ポルトガル領の分割方法を約定したものでした。幸い、この協定が実行されることは無かったのですが、英国の腹黒紳士ぶりは、恐ろしいものです。

 なにはともあれ、英国との同盟関係が強まったのですが、それは同時に、英国の外交方針への追従を強めることにもなりました。
 1904年に日露戦争が勃発すると、英国は同盟国として日本を支援します。そして、英国により、ポルトガルにも当然の如く協力が求められたのです。

 アフリカ沖に浮かんで調査活動(1902年)などしていた砲艦「リンポポ」に、本国の海軍省から特別任務の指令が下ります。それは「厳正中立を維持せよ」、すなわち、露バルチック艦隊によるポルトガル領利用を阻止しろ、というものでした。
 「リンポポ」はポルトガル領アンゴラの大漁Great Fish湾(ポルトガル名:虎Tigres湾)に展開します。大漁湾は人口数戸の漁村でしたが、遠浅の海岸が多いアンゴラには珍しく、水深が深い良好な泊地でした。アンゴラはアフリカ西海岸ですから、モザンビークからならはるばる喜望峰を回って行ったことになります。いつ移動したのかはわかりませんが、小さな砲艦には、さぞかし大変な航海だったのではないでしょうか。
 待ち構えていた「リンポポ」は、12月5日、1隻の外国船を発見します。それは、バルチック艦隊へ石炭を補給するためにやってきたドイツ貨物船でした。
 「リンポポ」艦長のペレイラSilva Pereira少佐は、ドイツ船に湾外への退去を指示しました。そして、ドイツ船が従う様子を見せないため、威嚇射撃を命じます。小さくても本物の主砲の 57mm砲が轟然と火を噴き、弾着の水柱が上がりました。ドイツ船は慌てて逃げ出します。

戦艦スワロフ 翌12月6日、ついにバルチック艦隊主力が姿を見せます。スエズ運河経由の別働隊と分かれても、なお戦艦「クニャージ・スワロフKniaz Sourov」(旗艦:ロジェストウェンスキー中将座乗、右画像)他3隻、装甲巡2隻などの大艦隊です。一時退避していたドイツ船も引きつれ、湾内に侵入してきます。
 これに対し、湾の奥に待機していた「リンポポ」は、再び出動します。湾内に錨を下ろした旗艦「スワロフ」に接近すると、司令官への面会を求めます。
 このときすでに艦齢15年近い「リンポポ」の老朽化した様子は、小説「坂の上の雲」にも描かれています。ロシア側の乗員が残した報告書や手記に同じ記述があり、小説の描写は忠実なようです。それによると、薄汚れた、実に貧相な船だったといいます。
 ロジェストウェンスキー提督と面会したペレイラ艦長は、ポルトガル領海を侵犯しているとして、艦隊の湾外への退去を求めます。これに対し、ロジェストウェンスキー提督は、湾の中心部は陸地から3海里以上離れているため領海外だと主張します。ペレイラ艦長は、湾口から内側は全て領海であるとして譲りません。
 実力を行使すると気丈に告げるペレイラ艦長ですが、それは退屈な日常においてうれしい出来事だ、と笑いものにされてしまいます。

 実は、この後が、どうなったのかよくわかりません。ロシア側の参謀セミョーノフ中佐によると、「リンポポ」は最後通告書を得るために一度帰還したとあります。同じくバルチック艦隊のポリトゥスキー技師は、ポルトガル側は領海外だと騙されてしまったと、妻への手紙に記しています。また、歴史家の児島襄氏は、著書「日露戦争」の中で、中立条項違反とならない24時間の寄港を認めたと書いています。ネット上の情報には、ドイツの研究者の見解であるとして、英巡洋艦「バロッソBarroso」を応援に呼びに行ったともあります。
 個人的には、セミョーノフ中佐の見解を支持したいと思います。ポリトゥスキー氏は、あくまで司令部要員ではなく伝聞情報に過ぎません。ドイツの研究者の情報は一見かなり細かいのですが、ドイツ船の船長の手記が基礎になっている部分が多いため、信頼性に乏しいように思います。「バロッソ」なる英艦も存在しないようです。もっとも、ブラジル艦には存在するので、ネット上に引用される際の転記ミスとも考えられます。
 最後通告書を所持していないのは不思議ですが、バルチック艦隊に対して実力行使に出ることは実際には困難なため、半ば意図的に持参しなかったというのは穿ちすぎでしょうか。
 児島氏の記述は、原史料が何であるのかわかりませんが、セミョーノフ報告と直ちに矛盾するわけではありません。仮に24時間と言うことで合意し、それを超えた場合の対応について、上級司令部の指示(含、最後通告)を得るために帰還したというようにも考えられます。(なお、児島氏は、バルチック艦隊が大漁湾に寄港したのは、連絡事項があるというポルトガル側の希望によるものだとしていますが、これは信じがたいと思います。それならば、ドイツ補給船は追い払われないで済みそうです。単純に、仮泊地として適当なために利用しただけ、では無いでしょうか。)

 いずれにしろ、会見の後「リンポポ」が出港したのは、確かなようです。
 そして、再びバルチック艦隊に会うことはありませんでした。バルチック艦隊は翌日には出港し、独領アングラ・ペケナAngra Pequena(現ナミビア)に向かっていたからです。言うまでもなく、バルチック艦隊は翌1905年5月27~28日(つまり101年前の今日)の日本海海戦(対馬海戦)で壊滅し、帰ることはありませんでした。
 おそらくその後も「リンポポ」は、しばらくアフリカに駐留を続けますが、後に本国へ移動したようです。そして、今度は本国で自国民同士の戦闘を経験することになります。(後編へ続く

追記
 当時の新聞記事『タイガー・ベイに於ける紛争(リスボン発)』によると、ドイツ艦船が侵入という情報を受けて出動したということになっています。おそらく補給に現れたドイツ貨物船のことでしょう。

帝国の守護者(第4回)

2.「リンポポの場合」(後編)
 1910年10月、革命の発生によりブラガンサ朝は崩壊し、ポルトガルは王政から共和制となります(詳細は第5回参照)。国王マヌエル2世は英国へ亡命しました。
パイヴァ・コウセイロ大佐 しかし、完全にすんなりと共和制へ移行できたわけではありませんでした。元アンゴラ総督パイヴァ・コウセイロHenrique Paiva Couceiro大佐が、スペイン国王アルフォンソ13世の支援を受け、スペイン領内に王党派を集結させていたのです。コウセイロ大佐はグングニャーナ戦争で功績を挙げた人物でした。右画像はアフリカ時代のコウセイロ大佐(向かって右)と王太子ルイス・フィリペ(在位20分のマヌエル2世の兄)。
 革命から1年後の1911年10月、王党派1000人がポルトガル北部に侵入し、ヴィニャイスVinhaisの町を占領します。王家発祥の地ブラガンサ県とあり、多くの住民が王政時代の青白2色旗で出迎えたようです。この最初の反攻は、鎮圧部隊の到着前に王党派が撤収して終わります。
 翌1912年7月、王党派は2度目の反攻を試みます。今回は大砲も持つなど武装を整え、北部の古市シャーヴェスChaves攻略が当座の目標でした。陽動作戦により守備隊主力を釣り出す間に、コウセイロ大佐が率いる王党派450人が攻撃にかかります。対する残留守備隊はわずか100人でしたが、ここで住民150人が義勇兵として守備に加わります。おそらく王党派にとって住民が手向かうというのは予想外だったように思われます。攻略に手こずる内に守備隊主力が帰還してしまい、王党派は死者30人を残して敗走という結果となりました。落ち延びたコウセイロ大佐は失敗を認め、王政復古の望みは完全に潰えたかに見えました。

 さて1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ポルトガル共和国は英国との同盟関係に拠って連合国陣営として参戦していくことになりました(詳細は第6回参照)。長引く戦争にポルトガルの政治情勢は混迷を深めます。
 1917年12月、ドイツ帰りの陸軍将校シドニオ・パイス大佐が、国内の軍事的空白を突いてクーデターを起こします。共和制に厭いた国民は、この若き指導者を始めは歓迎し、「ドン・セバスティアンの再来」と称えました。ドン・セバスティアンとは、かつてモロッコで敗れ行方不明になった国王セバスティアン 1世のことで、国家存亡の危機に帰ってくると信じられていた人物です。パイスは大統領に選出されましたが、西部戦線での大敗などから次第に人心は離れていきました。
 こうした中で王党派が再び公然と動きだします。諸政党の支持の無いパイス大統領に接近し閣僚を送り込む一方、王党派軍人は「政府擁護」を名目に各地で軍事評議会を結成します。

 そして1918年12月14日、クーデターから1年でパイス大統領が暗殺されると、王党派の動きは頂点に達しました。1月初めに、共和派の急進勢力が先手を取ったクーデターを狙いますが失敗。1月19日、リスボン及び北部の要衝ポルトで、軍事評議会は王政復古を宣言します。英国のマヌエル2世には帰国の請願が行われました。第一次世界大戦が停戦となったのも束の間、内戦突入となってしまったわけです。
ポルトガル南北戦争地図.png
 リスボンでは、駐留部隊の多くが共和政府への忠誠を守ったため、蜂起は失敗しました。港の艦隊も警備のため陸戦隊を揚陸しています。王党派はリスボン郊外のモンサント山に篭城しましたが、「モンサントの梯子攻撃」と呼ばれる義勇兵も多く加わった戦闘で、3日後には完全制圧されています。
 一方、北部では王党派への支持が広まり、ほぼヴォウガVouga川以北(シャーヴェスを除く)、国土の1/3が王党派の制圧下に収まります。北部駐留の陸軍部隊の多くも同調するかせいぜい中立を選んだようで、ほとんど戦闘は生じませんでした。
 海軍には、陸軍よりも熱心な共和派が多かったと見えます。王党派に制圧された軍港ヴィアナ・ド・カステロの町に対して示威行動を試みるべく、出撃してきたのが砲艦「リンポポ」でした。「リンポポ」はこの頃には本国に移っていたようです(1912年に本国近海で座礁事故を起しているので、第一次大戦前には移動していたのかもしれません)。湾内深くに侵入すると21日夜には探照灯を点灯して市街地を照らし、次の日には威嚇射撃をしかけます。この砲撃で少年1 人が犠牲となってしまいました。恐怖した海岸部の市民は、家を捨てて山へ避難したようです。もっとも、王党派がサンティアゴ・ダ・バーラ要塞Forte de Santiago da Barraから応戦する構えを見せたため、ちっぽけな「リンポポ」では歯が立たずに結局は湾外に退却することになったのでした。

 北部を制圧した王党派は、コウセイロ大佐を首班として王国統治評議会を結成します。通称「北部王国Monarquia do Norte」の成立です。王党派は北部の8県に新知事を任命し、1910年の革命以降の全法令の廃止を宣言しました。
 ですが、ここまでが限界でした。革命以後の自由主義的な諸政策の廃止は、中産階級などを失望させたといいます。共和政府軍の鎮圧部隊が侵攻してくると、小規模な戦闘を経てアヴェイロAveiro(1月21日)、ラメゴ(2月10日)、エスタレージャEstarreja(2月11日)と北部王国の都市は陥落していきました。共和政府側の海軍艦艇は北部沿岸の砲撃や封鎖を行い、特に仮装巡洋艦「ペドロ・ヌネスPedro Nunes」や砲艦「イボIbo」はヴィアナ・ド・カステロの町を砲撃し、市街地に相当の被害をもたらしたようです。
 2月13日、北部王国の実質的な首都であるポルトが陥落すると、残る北部一帯にも再び共和国の緑赤旗が掲げられ内戦は終わります。ヴィアナ・ド・カステロ市公会堂の貴賓室に飾られていたマヌエル2世の肖像画は、丁重に取り外されたそうです。コウセイロ大佐らは再びスペインへと亡命しました。

 「リンポポ」は無事に内戦を生き延びた後、さらに長期に渡って使用されたようです。サラザール政権成立後の1933年にも、まだ現役だったらしい記録があります。おそらく新造艦の増えた1930年代中に退役したと思うのですが、正確なところは存じません。(「アダマストル」の場合へ

追記
 王党派はサラザール政権下で復権して、コウセイロ大佐も帰国を許されています。もっとも、その頃にはマヌエル2世は世継ぎが無いまま亡くなっていました。

リーフ共和国興亡(第8回)

6.共和国対共和国
 西領モロッコという言い方でもわかるとおり、現在のモロッコにあたる地域は、スペイン領ともう一つに分かれていました。
 そのもう一方の宗主国であるフランス第三共和国は、スペイン領の戦いを、これまで静観していました。仏領モロッコの平定は、すでにおおむね完了していたため、あせることはなかったのです。

 しかし、1924年頃、リーフ共和国の勢力がスペイン領西部にまで及ぶようになると、ついにフランスも行動を開始しました。リーフ軍のあまりの勢いに、連鎖的に仏領内でも抵抗運動が拡大することを恐れたためでしょう。スペイン領西部には、仏領モロッコに続く街道がありました。
 1924年5月、フランスのモロッコ植民地軍64000人のうち、12000人が、国境を越えスペイン領内に侵入し拠点を設置します。スペイン軍の方式同様に、街道沿いには多数の駐屯地が設営されます。
 フランス軍の狙いは、直接対決によるリーフ共和国打倒ではなかったと思われます。兵力規模としても小さく、一定以上の前進もしませんでした。おそらく、西領からの接触と仏領からの逃亡を阻止することが、主な狙いだったと考えます。仏領にも小規模な抵抗運動は存在しており、そのゲリラが、安全な西領へ逃げ込むこんでしまうことは、これ以前から問題になっていました。

 これに対し、リーフ共和国も、すぐには戦いを挑みはしませんでした。フランス政府に抗議をするだけで、まだ攻撃はしません。もちろん、そんな抗議は通じなかったのですが。
 フランス軍の質は、スペイン軍の質をはるかに上回っていると予想されました。アブデルクリムは、二正面作戦の愚かさを十分に理解していました。
 ただ、いつまでもフランス軍を放って置くわけにもいかない事情がありました。フランス軍の進駐したワルハWargha渓谷は、ちょうどリーフ軍の補給路にも当たっていました。それに、弱腰の姿勢はアブデルクリムの求心力を低下させ、連合部族の離反を招く虞もあります。
 シャウエン攻略が完了し冬も過ぎた1925年4月、アブデルクリムは決断を下します。リーフ軍精鋭4000人を率い、ワルハ渓谷へ出撃します。フランスに対する開戦でした。
 おそらく、アブデルクリムの狙いは、短期決戦にありました。一挙にフランス軍を撃破しつつフランス領に侵攻、仏領モロッコの首都フェズを押さえることで、講和に持ち込もうとしたものと思います。あるいは、仏領モロッコ内の一斉蜂起に期待した可能性もありますが。

 対仏戦においても、リーフ軍は快進撃を見せます。
 ワルハ渓谷の駐屯地を陥落させたのを皮切りに、駐屯地を次々と制圧していきます。フランス軍は、3000人以上の死傷者を出して各地で敗走しました。拠点を孤立化させ攻略する戦術を、リーフ軍は完全に身に着けていました。
 6月までに66か所の仏軍駐屯地のうち9か所を陥落させ、さらに30か所の放棄に追い込んだリーフ軍は、仏領内の部族の協力を得ながら進み、首都フェズに20マイルまで到達します。

 けれど、ここまでがリーフ軍の攻勢限界でした。
 思いがけない敗北に衝撃を受けながらも、フランス政府は和平交渉には応じませんでした。代わりに、スペインとの間で交渉を行い、共同作戦協定を締結します。
 徹底した武力鎮圧を決意したフランスは、フェズに次々と兵力を集中させます。開発の遅れたスペイン領と違い、仏領内には鉄道が敷設されていました。内線作戦の効果の前に、リーフ軍の進撃は阻止されたのです。
 さらにフランスは、本国軍を動員します。投入兵力は、ライン川方面から抽出された70個大隊(10万人)をはじめ、実に16万人以上。指揮を執るのは、第一次世界大戦の英雄アンリ・フィリップ・ペタンHenri Philippe Petain元帥でした。
 圧倒的な兵力により、フランス軍の反撃が始まります。(第9回へ続く


追記
 フランス領に侵攻し、最大の勢力になった頃の1925年8月17日、アブド・アル=クリムは、米「TIME」誌の表紙を飾っています。日本の田代某氏が表紙を飾りそうになったことでも知られる、あの情報誌です。

帝国の守護者(第5回)

3.「アダマストル」の場合
カルルシュ1世
 ポルトガル国王カルルシュ(カルロス)Carlos1世は、強権的で評判の良くない王様だったようです。海軍拡張や宮廷費の濫費など、財政面でだらしがなく、おまけに女性関係でもだらしがなかったと言います。
 まあ、そのおかげで、海軍は、防護巡洋艦「ドン・カルルシュ1世」、小型防護巡「アメリア王妃Rainha Dona Amelia」ほか2隻といった新型艦を手にすることができたわけですが。
 「アダマストルAdamastor」(左下画像)もこのとき建造されたうちの一隻で、装甲を持たないちっぽけな巡洋艦でした。排水量は1700tほど。船体のわりに強力な15cm砲を2門装備しています。名前こそ巡洋艦ですが、航洋砲艦とでもいうべき軍艦でしょう。名前の由来は、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を通る際に現れたという精霊の名でした。
 カルルシュ国王は、ますます強権を発揮し1906年には議会を解散してしまいますが、1908年に、とうとう暗殺されてしまいました。犯人は共和派の活動家でした。

 王太子もこのとき重傷を負ってしまい、「在位」20分のギネス記録で亡くなります。そこで即位したのが次男で、今のところ最後のポルトガル国王となるマヌエル2世です。彼も負傷したのですが、一命は取り留めました。
 このマヌエル2世は、強権を発揮したのか、それとも議会重視の立憲改革をするのか。それがはっきりする前に、もう次の時代の波が押し寄せてきてしまいました。

 1910年10月3日、共和派軍人による革命クーデターが発生します。
 クーデターの首謀者は、カンディド・ドス・レイスCandido dos Reis海軍中将でした。反乱軍は、リスボンの石畳を血に染めて、王党派政府軍との市街戦に突入します。
 クーデターの知らせを聞いたとき、国王は、ブラジルの次期大統領フォンセッカHermes de Fonseca元帥と豪華な晩餐の途中だったそうです。おそらくその後のカード遊びはお流れになってしまったことでしょう。
 さて、ここで、予定されていた海軍艦艇による艦砲射撃が始まりません。レイス中将が説得したはずの士官たちが、日和見を決め込んだのです。
 期待した市民の動きもなく、反乱軍は戦意を失い始めました。それでも、一部の熱狂的な海軍陸戦隊だけが、広場に陣取って戦闘を続けました。

 翌10月4日になって、ついに艦隊が動き出します。
 その先陣を切ったのが「アダマストル」でした。カルボナリ党と呼ばれる下士官たちが、士官を突き上げ実権を握ったのです。
 「アダマストル」は王宮に向けて砲門を開きました。帝国の護りとして建造された砲艦が、国王に対して牙を剥いた瞬間でした。防護巡「サン・ラファエルSão Rafael」も後に続きます。国王は慌てて王宮を脱出しました。
 午後になると、それまで沈黙していた最有力艦の「カルルシュ1世」も動き出しました。王党派のスループに砲撃を浴びせると、陸戦隊を上陸させます。同艦の王党派士官は惨殺されたようです。
 海軍主力が反乱軍に回ったのを見て、リスボン駐在の各国外交官も自国の船へ避難しようと動きがあわただしくなります。すると、その動きを見て国王が降伏したのだと勘違いした市民までが、いっせいに街に飛び出してきました。
 そして多数の市民を目にした王党派部隊は、市民が襲ってくると勘違いして、急にあっけなく投降してしまったのです。
 かくて大勢は決しました。回りくどいですが、前国王の名を冠した艦が、王政にとどめを刺したと言えなくも無いでしょう。

 翌10月5日、王党派の抵抗が止んだのを、避難先の避暑宮殿で知った国王マヌエル2世は、王室ヨットでポルトガルを離れます。ジブラルタルを経由し、英国へと亡命したのです。
 クーデターの首謀者、レイス中将が臨時首相に……なりませんでした。なぜなら、レイス中将はすでにこの世にいなかったからです。クーデター初日に海軍艦艇が動き出さないのを見た中将は、失敗と早とちりしてピストル自決してしまっていたのです。ああ勘違い。

巡洋艦アダマストル こうして、「アダマストル」の活躍により、多くの勘違いに彩られたポルトガル革命は成功しました。
 成立した共和政府によって、防護巡「カルルシュ1世」「アメリア王妃」の2隻は、「アルミランテ・カンディド・ドス・レイス」「レプブリカRepublica(共和国)」と改名されました。悲劇(?)の提督レイス中将の名も、このようにしてめでたく後世に残ったわけです。

 国王の忘れ形見の艦艇は、数年後の第一次世界大戦の際、ポルトガルの主力艦となって働きます。「アダマストル」も、船団護衛や沿岸警備に従事したようです。ただ、特に大きな戦闘は経験しませんでした。
 第一次大戦後も「アダマストル」は、他のより有力な艦が次々と退役させられる中、さらに旧式の装甲巡洋艦(1876年製の気帆走装甲艦の後身)「ヴァスコ・ダ・ガマVasco da Gama」と並んで、長期に渡って使用されました。極東植民地マカオにも駐留し、1932年の第一次上海事変の時には居留民保護のために上海へ急行して陸戦隊を揚陸しています。ようやく「アダマストル」が退役したのは、新造の通報艦が就役し始めた1933年になってからのことでした。(「アウグスト・デ・カスティーリョ」の場合へ

追記
 革命の際、リスボンの港には、ブラジル海軍のド級戦艦「サン・パウロSão Paulo」が停泊中でした。英国で竣工したばかりの最新鋭艦で、本国へ回航途上に次期大統領を迎えに寄ったもの。その威力は、当時世界最強ともいわれます。
 逃亡した国王が匿われていると疑った反乱軍は、同艦の臨検を要求しますが、あっさり拒絶されています。「サン・パウロ」が実力行使すれば、1隻でポルトガル海軍を全滅させることができたでしょうから、反乱軍にはとうてい手出しできませんでした。もし戦闘となれば、革命自体が失敗したかもしれません。
 目の前で展開されたポルトガル革命はブラジル水兵たちに大きな影響を与え、約1ヶ月半後の水兵反乱事件を起すきっかけとなったと言われます。
参考:『大戦艦』(「三脚檣」より)
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山猫男爵

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