山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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帝国の守護者(第4回)

2.「リンポポの場合」(後編)
 1910年10月、革命の発生によりブラガンサ朝は崩壊し、ポルトガルは王政から共和制となります(詳細は第5回参照)。国王マヌエル2世は英国へ亡命しました。
パイヴァ・コウセイロ大佐 しかし、完全にすんなりと共和制へ移行できたわけではありませんでした。元アンゴラ総督パイヴァ・コウセイロHenrique Paiva Couceiro大佐が、スペイン国王アルフォンソ13世の支援を受け、スペイン領内に王党派を集結させていたのです。コウセイロ大佐はグングニャーナ戦争で功績を挙げた人物でした。右画像はアフリカ時代のコウセイロ大佐(向かって右)と王太子ルイス・フィリペ(在位20分のマヌエル2世の兄)。
 革命から1年後の1911年10月、王党派1000人がポルトガル北部に侵入し、ヴィニャイスVinhaisの町を占領します。王家発祥の地ブラガンサ県とあり、多くの住民が王政時代の青白2色旗で出迎えたようです。この最初の反攻は、鎮圧部隊の到着前に王党派が撤収して終わります。
 翌1912年7月、王党派は2度目の反攻を試みます。今回は大砲も持つなど武装を整え、北部の古市シャーヴェスChaves攻略が当座の目標でした。陽動作戦により守備隊主力を釣り出す間に、コウセイロ大佐が率いる王党派450人が攻撃にかかります。対する残留守備隊はわずか100人でしたが、ここで住民150人が義勇兵として守備に加わります。おそらく王党派にとって住民が手向かうというのは予想外だったように思われます。攻略に手こずる内に守備隊主力が帰還してしまい、王党派は死者30人を残して敗走という結果となりました。落ち延びたコウセイロ大佐は失敗を認め、王政復古の望みは完全に潰えたかに見えました。

 さて1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ポルトガル共和国は英国との同盟関係に拠って連合国陣営として参戦していくことになりました(詳細は第6回参照)。長引く戦争にポルトガルの政治情勢は混迷を深めます。
 1917年12月、ドイツ帰りの陸軍将校シドニオ・パイス大佐が、国内の軍事的空白を突いてクーデターを起こします。共和制に厭いた国民は、この若き指導者を始めは歓迎し、「ドン・セバスティアンの再来」と称えました。ドン・セバスティアンとは、かつてモロッコで敗れ行方不明になった国王セバスティアン 1世のことで、国家存亡の危機に帰ってくると信じられていた人物です。パイスは大統領に選出されましたが、西部戦線での大敗などから次第に人心は離れていきました。
 こうした中で王党派が再び公然と動きだします。諸政党の支持の無いパイス大統領に接近し閣僚を送り込む一方、王党派軍人は「政府擁護」を名目に各地で軍事評議会を結成します。

 そして1918年12月14日、クーデターから1年でパイス大統領が暗殺されると、王党派の動きは頂点に達しました。1月初めに、共和派の急進勢力が先手を取ったクーデターを狙いますが失敗。1月19日、リスボン及び北部の要衝ポルトで、軍事評議会は王政復古を宣言します。英国のマヌエル2世には帰国の請願が行われました。第一次世界大戦が停戦となったのも束の間、内戦突入となってしまったわけです。
ポルトガル南北戦争地図.png
 リスボンでは、駐留部隊の多くが共和政府への忠誠を守ったため、蜂起は失敗しました。港の艦隊も警備のため陸戦隊を揚陸しています。王党派はリスボン郊外のモンサント山に篭城しましたが、「モンサントの梯子攻撃」と呼ばれる義勇兵も多く加わった戦闘で、3日後には完全制圧されています。
 一方、北部では王党派への支持が広まり、ほぼヴォウガVouga川以北(シャーヴェスを除く)、国土の1/3が王党派の制圧下に収まります。北部駐留の陸軍部隊の多くも同調するかせいぜい中立を選んだようで、ほとんど戦闘は生じませんでした。
 海軍には、陸軍よりも熱心な共和派が多かったと見えます。王党派に制圧された軍港ヴィアナ・ド・カステロの町に対して示威行動を試みるべく、出撃してきたのが砲艦「リンポポ」でした。「リンポポ」はこの頃には本国に移っていたようです(1912年に本国近海で座礁事故を起しているので、第一次大戦前には移動していたのかもしれません)。湾内深くに侵入すると21日夜には探照灯を点灯して市街地を照らし、次の日には威嚇射撃をしかけます。この砲撃で少年1 人が犠牲となってしまいました。恐怖した海岸部の市民は、家を捨てて山へ避難したようです。もっとも、王党派がサンティアゴ・ダ・バーラ要塞Forte de Santiago da Barraから応戦する構えを見せたため、ちっぽけな「リンポポ」では歯が立たずに結局は湾外に退却することになったのでした。

 北部を制圧した王党派は、コウセイロ大佐を首班として王国統治評議会を結成します。通称「北部王国Monarquia do Norte」の成立です。王党派は北部の8県に新知事を任命し、1910年の革命以降の全法令の廃止を宣言しました。
 ですが、ここまでが限界でした。革命以後の自由主義的な諸政策の廃止は、中産階級などを失望させたといいます。共和政府軍の鎮圧部隊が侵攻してくると、小規模な戦闘を経てアヴェイロAveiro(1月21日)、ラメゴ(2月10日)、エスタレージャEstarreja(2月11日)と北部王国の都市は陥落していきました。共和政府側の海軍艦艇は北部沿岸の砲撃や封鎖を行い、特に仮装巡洋艦「ペドロ・ヌネスPedro Nunes」や砲艦「イボIbo」はヴィアナ・ド・カステロの町を砲撃し、市街地に相当の被害をもたらしたようです。
 2月13日、北部王国の実質的な首都であるポルトが陥落すると、残る北部一帯にも再び共和国の緑赤旗が掲げられ内戦は終わります。ヴィアナ・ド・カステロ市公会堂の貴賓室に飾られていたマヌエル2世の肖像画は、丁重に取り外されたそうです。コウセイロ大佐らは再びスペインへと亡命しました。

 「リンポポ」は無事に内戦を生き延びた後、さらに長期に渡って使用されたようです。サラザール政権成立後の1933年にも、まだ現役だったらしい記録があります。おそらく新造艦の増えた1930年代中に退役したと思うのですが、正確なところは存じません。(「アダマストル」の場合へ

追記
 王党派はサラザール政権下で復権して、コウセイロ大佐も帰国を許されています。もっとも、その頃にはマヌエル2世は世継ぎが無いまま亡くなっていました。
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