山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

帝国の守護者(第3回)

2.「リンポポの場合」(中編)
 1899年、ボーア戦争に苦しむ英国は、ポルトガルと秘密協定を結びます。このウィンザーWindsor秘密条約は、ポルトガル領内での英軍の作戦行動を容認するかわりに、英国はポルトガル植民地の安全保障をするという内容でした。締結地ウィンザーは、1386年に両国が初めて同盟を結んだのと同じ場所です。
 これによって、ポルトガルの海軍拡張は停止されることになります。以後、1930年代まで、1000tを超える軍艦はまったく建造されませんでした。(ド級戦艦の建造や米戦艦「ユタUtah」の購入など計画が無かったわけではないのですが。)
 麗しい同盟関係が復活したと見えますが、実は裏があります。前年の1898年に、英国は、ドイツとの間でも秘密協定をしています。その内容は、ポルトガルの融資弁済が滞った場合の、ポルトガル領の分割方法を約定したものでした。幸い、この協定が実行されることは無かったのですが、英国の腹黒紳士ぶりは、恐ろしいものです。

 なにはともあれ、英国との同盟関係が強まったのですが、それは同時に、英国の外交方針への追従を強めることにもなりました。
 1904年に日露戦争が勃発すると、英国は同盟国として日本を支援します。そして、英国により、ポルトガルにも当然の如く協力が求められたのです。

 アフリカ沖に浮かんで調査活動(1902年)などしていた砲艦「リンポポ」に、本国の海軍省から特別任務の指令が下ります。それは「厳正中立を維持せよ」、すなわち、露バルチック艦隊によるポルトガル領利用を阻止しろ、というものでした。
 「リンポポ」はポルトガル領アンゴラの大漁Great Fish湾(ポルトガル名:虎Tigres湾)に展開します。大漁湾は人口数戸の漁村でしたが、遠浅の海岸が多いアンゴラには珍しく、水深が深い良好な泊地でした。アンゴラはアフリカ西海岸ですから、モザンビークからならはるばる喜望峰を回って行ったことになります。いつ移動したのかはわかりませんが、小さな砲艦には、さぞかし大変な航海だったのではないでしょうか。
 待ち構えていた「リンポポ」は、12月5日、1隻の外国船を発見します。それは、バルチック艦隊へ石炭を補給するためにやってきたドイツ貨物船でした。
 「リンポポ」艦長のペレイラSilva Pereira少佐は、ドイツ船に湾外への退去を指示しました。そして、ドイツ船が従う様子を見せないため、威嚇射撃を命じます。小さくても本物の主砲の 57mm砲が轟然と火を噴き、弾着の水柱が上がりました。ドイツ船は慌てて逃げ出します。

戦艦スワロフ 翌12月6日、ついにバルチック艦隊主力が姿を見せます。スエズ運河経由の別働隊と分かれても、なお戦艦「クニャージ・スワロフKniaz Sourov」(旗艦:ロジェストウェンスキー中将座乗、右画像)他3隻、装甲巡2隻などの大艦隊です。一時退避していたドイツ船も引きつれ、湾内に侵入してきます。
 これに対し、湾の奥に待機していた「リンポポ」は、再び出動します。湾内に錨を下ろした旗艦「スワロフ」に接近すると、司令官への面会を求めます。
 このときすでに艦齢15年近い「リンポポ」の老朽化した様子は、小説「坂の上の雲」にも描かれています。ロシア側の乗員が残した報告書や手記に同じ記述があり、小説の描写は忠実なようです。それによると、薄汚れた、実に貧相な船だったといいます。
 ロジェストウェンスキー提督と面会したペレイラ艦長は、ポルトガル領海を侵犯しているとして、艦隊の湾外への退去を求めます。これに対し、ロジェストウェンスキー提督は、湾の中心部は陸地から3海里以上離れているため領海外だと主張します。ペレイラ艦長は、湾口から内側は全て領海であるとして譲りません。
 実力を行使すると気丈に告げるペレイラ艦長ですが、それは退屈な日常においてうれしい出来事だ、と笑いものにされてしまいます。

 実は、この後が、どうなったのかよくわかりません。ロシア側の参謀セミョーノフ中佐によると、「リンポポ」は最後通告書を得るために一度帰還したとあります。同じくバルチック艦隊のポリトゥスキー技師は、ポルトガル側は領海外だと騙されてしまったと、妻への手紙に記しています。また、歴史家の児島襄氏は、著書「日露戦争」の中で、中立条項違反とならない24時間の寄港を認めたと書いています。ネット上の情報には、ドイツの研究者の見解であるとして、英巡洋艦「バロッソBarroso」を応援に呼びに行ったともあります。
 個人的には、セミョーノフ中佐の見解を支持したいと思います。ポリトゥスキー氏は、あくまで司令部要員ではなく伝聞情報に過ぎません。ドイツの研究者の情報は一見かなり細かいのですが、ドイツ船の船長の手記が基礎になっている部分が多いため、信頼性に乏しいように思います。「バロッソ」なる英艦も存在しないようです。もっとも、ブラジル艦には存在するので、ネット上に引用される際の転記ミスとも考えられます。
 最後通告書を所持していないのは不思議ですが、バルチック艦隊に対して実力行使に出ることは実際には困難なため、半ば意図的に持参しなかったというのは穿ちすぎでしょうか。
 児島氏の記述は、原史料が何であるのかわかりませんが、セミョーノフ報告と直ちに矛盾するわけではありません。仮に24時間と言うことで合意し、それを超えた場合の対応について、上級司令部の指示(含、最後通告)を得るために帰還したというようにも考えられます。(なお、児島氏は、バルチック艦隊が大漁湾に寄港したのは、連絡事項があるというポルトガル側の希望によるものだとしていますが、これは信じがたいと思います。それならば、ドイツ補給船は追い払われないで済みそうです。単純に、仮泊地として適当なために利用しただけ、では無いでしょうか。)

 いずれにしろ、会見の後「リンポポ」が出港したのは、確かなようです。
 そして、再びバルチック艦隊に会うことはありませんでした。バルチック艦隊は翌日には出港し、独領アングラ・ペケナAngra Pequena(現ナミビア)に向かっていたからです。言うまでもなく、バルチック艦隊は翌1905年5月27~28日(つまり101年前の今日)の日本海海戦(対馬海戦)で壊滅し、帰ることはありませんでした。
 おそらくその後も「リンポポ」は、しばらくアフリカに駐留を続けますが、後に本国へ移動したようです。そして、今度は本国で自国民同士の戦闘を経験することになります。(後編へ続く

追記
 当時の新聞記事『タイガー・ベイに於ける紛争(リスボン発)』によると、ドイツ艦船が侵入という情報を受けて出動したということになっています。おそらく補給に現れたドイツ貨物船のことでしょう。
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