山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

帝国の守護者(第2回)

2.「リンポポ」の場合(前編)
 19世紀後半、欧州列強は、アフリカ大陸の内陸部に目を向けます。それまでのアフリカは、沿岸部に点々と植民地が存在しただけだったのが、急速に変化するのです。
 1885年のベルリン会議において、植民地境界は海岸線の実効支配の有無による原則が確定すると、内陸権益確保のため各国は競い合ってアフリカへの侵攻を始めます。

 この新ルールは、ポルトガルにとって大きな脅威でした。古い植民地帝国であるポルトガルは、アフリカ各地に拠点を持っていました。しかし、小さな国力・人口のポルトガルにとって、広い領域を実効支配することは困難だったのです。
 それでも、ポルトガルも新しいルールに対応するべく、動き始めます。アフリカ西岸のアンゴラと、東岸のモザンビークに持っていた植民地を確立すると共に、両地域の間のザンビアやジンバブエを占領しての大陸打通を試みたのです。ポルトガルは、これを「薔薇色地図」計画と呼びました。当時の議会説明に用いられた地図で、ポルトガルの領土がピンク色に塗られていたことにちなみます。

砲艦リンポポ そして、その尖兵として1890年に就役した軍艦の1隻が、砲艦「リンポポLimpopo」でした。
 英国製で、2本マストに背の高い1本煙突、全長37mの小さな軍艦だったようです。排水量288t。武装は、57mm砲1~2門に機関砲若干といったものでした。艦名は、モザンビークにある川に由来します。ロシア海軍の観察によると、河川砲艦だったといいます。名前からすると納得できる話ですが、写真を見ると小型ではあっても普通の航洋船のようです。ただ意識的に河川用として建造されたかどうかは別として、大きさからは、河川での使用が可能だったと思われます。
 同時期に、ポルトガルではほかにも多数の砲艦が建造されていました。

 ところが、「リンポポ」が就役したのと同じ1890年、ポルトガルは「薔薇色地図」の放棄を余儀なくさせられます。英国の圧力のためでした。
 もともと英国は、ポルトガルにとって、古くから密接な関係にあった国です。1386年に両国がウィンザーで結んだ攻守条約は、現存する世界で最も古い同盟関係とも言われているほどです。
 しかし、今回は別でした。南アフリカを領有し3C政策を標榜する英国にとって、ポルトガルの植民地拡張は目障りだったようです。英国は、ジンバブエからの撤退を求め、事実上の最後通牒を突きつけたのです。
 ポルトガルは引き下がるしかありませんでした。

 無力を痛感したポルトガルは、乏しい国力を投じて、精一杯の海軍拡張に走ります。国王カルルシュ1世の号令の下、4000t級防護巡洋艦「ドン・カルルシュ1世Dom Carlos I」以下、2000t級防護巡3隻、2000t級非装甲巡1隻などが建造されました。
 ただ悲しいかな、最優秀艦「カルルシュ1世」は、英国に発注した艦でした。なお残りはフランス製とイタリア製、国産の混成です。

ングングニャーナNgungunhane.jpg 植民地拡張というのは、原住民にとっては、侵略以外の何者でもありません。当然、激しい抵抗を招くことになります。
 ポルトガル領モザンビークにおいても、1894年に大規模な蜂起が発生します。ガザ王ングングニャーナNgungunhane(左画像)に率いられた蜂起軍が、ポルトガル軍を撃破し、中心都市ロレンソ・マルケスLourenço Marquesに迫ったのです。
 この事態に、おそらく「リンポポ」も加わった駐留艦隊が出撃、蜂起軍に艦砲射撃を加えました。おかげで、ロレンソマルケスは、かろうじて陥落を免れます。
 1895年末にングングニャーナは捕縛され、ようやく反乱は終結します。1896年2月に、リンポポ川の艦隊上で、原住民とポルトガル軍との間で停戦が協定されました。捕虜となったングングニャーナは、「戦利品」として本国へ連行されて終身刑となります。(中編へ続く
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