山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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チモール―知られざる虐殺の島

 イスラエル情勢が、相当に危ない状況になっているようです。PKO部隊にも被害が出ているとか。
 イスラエル・シリア国境のゴラン高原には、自衛隊のPKO部隊が展開していますが、その割りにほとんどニュースを聞きません。ゴラン高原の活動は、もう10年にもなりますから、忘れられてしまっているのか。
 とある掲示板で冗談めかしてこの話を書いたら、「イラクからはもう撤退したの知らないのか」と返答をもらってしまったのですが、ただの煽りだったと信じたいものです。みんな本当に忘れてしまったのでしょうか。
 ゴラン高原駐留のPKO部隊(UNDOF)では、2005年7月末まででは、地雷5名、殺人2名の敵対行動による犠牲者を出していたとあります。
参考:外務省資料
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/g_undof.html
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/undof.html

 ところで、イスラエル情勢の緊迫化の煽りを食ったか、そこそこ報道されていた東ティモールのニュースも、聞かないような気がします。独立の際には、日本の自衛隊も支援に行ったのですが。ちょっと冷たいような。


田中淳夫「チモール 知られざる虐殺の島」
                 (増補版,彩流社,1999年)

チモール―知られざる虐殺の島総合評価:★★★★☆
 「探検家」である著者が、東ティモールの近現代史について、自己の経験も踏まえながらまとめた一冊。ポルトガル統治時代から、太平洋戦争前の日本との関係、戦時中の日本占領時代、戦後の独立運動やインドネシア軍の侵攻などを丁寧に追っていく。
 増補版は、1988年に刊行された初版に、最近の情勢を加筆した内容になっている。
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うなぎと梅干

 今日は、土用丑の日ということで、うなぎを食べる日ということになっているそうです。とか書いているうちに、もう日付は変わりましたが。
 この風習、「バレンタインチョコ」みたいに、江戸時代に誰かが考えたそうですね。源内さんでは時代が合わないともいいますけど、とにかく誰か仕掛け人がいたのは確かなようです。由来はさておき、うなぎは大好物なので、食べる理由になるからちょうどいいのですけれど。

 ところで、うなぎと梅干は、どういうわけだか相性が悪いということになってるそうです。スイカと天婦羅なんてのと同じ、いわゆる食い合わせが悪いというのですが。
 これ、医学的根拠は見当たらないそうですね。スイカと天婦羅は、明らかにおなかを壊しそうですが、うなぎ梅干はむしろ体に良いらしいとか。
 じゃあ、味覚的にはどうかというと、鰻のくどさが酸味で消えて、これまた良い組み合わせのような気がします。ひつまぶしにすると、なおよろしいんじゃないかしら。

 では、この食い合わせ伝承の起源は、何なのでしょう。
 (1)たまたま当たった人がいて、以来定着した。
 (2)店員が鰻をツマミ食いするのに困った鰻屋の主人が、一計を案じて、この伝承を創作して店員に信じ込ませた。そのうえで、毎食梅干を出すようにして、ツマミ食いを止めさせた。なんて話もあるようですが。

 実は、これも、鰻屋の販売戦略絡みだったという説があります。
 そもそも丑の日の鰻という仕掛けは、土用丑の日には「う」のつく食べ物を食べると良いという伝承が、すでにあったのを利用したといわれます。つまり、もともとは、「う」なぎ以外の「う」めぼしでも良かったわけです。
 ところが、安い梅干で済まされては鰻屋としては面白くないわけです。そこで、これまた頭の良い誰かが、「土用丑の日の鰻」という売り文句と一緒に、「鰻と梅干」は食い合わせが悪いよという話を広めたのではないか、というわけです。
 あるいは似た説として、鰻屋に嫉妬した梅干屋のほうが、噂を広めて妨害しようとしたのかもしれません。
 ちなみに、今書いた2つの説は、私がたった今適当に考えた新説でありますので、人に話して笑われてもご勘弁を。

鰻と梅干

 今日は土用丑の日ということで、鰻(うなぎ)を食べる日ということになっているそうです。とか書いているうちに、もう日付は変わりましたが。
 この風習、「バレンタインチョコ」みたいに江戸時代に誰かが考えたそうですね。源内さんでは時代が合わないともいいますけど、とにかく誰か仕掛け人がいたのは確かなようです。由来はさておき、うなぎは大好物なので、食べる理由になるからちょうどいいのですけれど。

 ところで、うなぎと梅干は、どういうわけだか相性が悪いということになってるそうです。スイカと天婦羅なんてのと同じ、いわゆる食い合わせが悪いというのですが。
 これ、医学的根拠は見当たらないそうですね。スイカと天婦羅は、明らかにおなかを壊しそうですが、うなぎ梅干はむしろ体に良いらしいとか。
 じゃあ、味覚的にはどうかというと、鰻のくどさが酸味で消えて、これまた良い組み合わせのような気がします。ひつまぶしにすると、なおよろしいんじゃないかしら。

 では、この食い合わせ伝承の起源は、何なのでしょう。
 (1)たまたま当たった人がいて、以来定着した。
 (2)店員が鰻をツマミ食いするのに困った鰻屋の主人が一計を案じて、この伝承を創作して店員に信じ込ませた。そのうえで、毎食梅干を出すようにしてツマミ食いを止めさせた。なんて話もあるようですが。

 実は、これも鰻屋の販売戦略絡みだったという説があります。
 そもそも丑の日の鰻という仕掛けは、土用丑の日には「う」のつく食べ物を食べると良いという伝承が、すでにあったのを利用したといわれます。つまり、もともとは「う」なぎ以外の「う」めぼしでも良かったわけです。
 ところが、安い梅干で済まされては鰻屋としては面白くないわけです。そこで、これまた頭の良い誰かが、「土用丑の日の鰻」という売り文句と一緒に、「鰻と梅干」は食い合わせが悪いよという話を広めたのではないか、というわけです。
 あるいは、鰻屋に嫉妬した梅干屋のほうが、噂を広めて妨害しようとしたのかもしれません。
 ちなみに、今書いた2つの説は、私がたった今適当に考えた新説でありますので、人に話して笑われてもご勘弁を。

リーフ共和国興亡(第1回)

1.はじめに
 リーフ連合共和国とは、1923年~1926年の4年間だけ、アフリカ北部、現在のモロッコの一部に存在していた小国です。
 1920年代といえば、第一次世界大戦が終り、「民族自決」のスローガンの下、ヨーロッパに多数の独立国が生まれた時期でした。しかし一方で、まだ列強の植民地が世界中に存在していた時代。アフリカでは、リベリアを除くとエチオピア帝国のみがかろうじて独立を保っているだけでした。

 そのような中、有能な指導者に率いられ、独立国家建設をめざし立ち上がった者たちがいました。それがリーフ族であり、リーフ共和国であったのです。彼らは統治機構を整え、近代的な軍隊を創り上げます。
 そして、圧倒的に優勢なスペイン、フランスを相手に敢然と戦いを挑みました。その力戦ぶりには、スペイン軍部ですら、植民地放棄を一時考えるほどでした。

 最終的には二正面作戦という戦略ミスと、西仏連合軍の決行した上陸作戦により、リーフ軍は敗北。共和国は荒野の幻と消えます。
 しかし、敗れたとはいえ、みずから近代的な軍隊を組織してヨーロッパ列強を本気にさせ、一か八かの上陸作戦まで決断させたというのは、賞賛に値することではないでしょうか。
 この成功まであと一歩に迫った試みの概要を、その戦闘の記録とともにまとめてみたいと思います。(第2回へ続く

<目次>
1.はじめに
2.共和国前史
3.スペインの内陸進出計画
 (1)アルフォンソ13世 (2)侵攻 (3)アンワールの戦い
4.リーフ共和国建国
5.スペインの動揺
 (1)プリモ・デ・リベラの登場 (2)スペイン軍の改革
 (3)西部でも続く敗戦
6.共和国対共和国
7.アルセマス上陸作戦
 (1)反撃準備 (2)D-day (3)首都攻防
8.崩壊
9.エピローグ
 (1)決算 (2)アブデルクリムの後半生 (3)それからのアルフォンソ13世
 (4)新生スペイン共和国 (5)アフリカの将軍たち (6)スペイン内戦へ
付1.リーフ共和国関係年表
付2.参考文献一覧

アブデルクリム
(リーフ共和国大統領アブデルクリムの回顧録)

リーフ共和国興亡(第2回)

2.共和国前史
(1)モロッコ分割

 17世紀以来、現在のモロッコに当たる領域は、アラウィー朝モロッコのスルタンが統治していることになっていました。このアラウィー朝は、現在のモロッコ王室であります。
 しかし、19世紀中ごろから、フランス及びスペインによる植民地化が始まり、さらに地方部族の反乱やお家騒動などが相次いだため、アラウィー朝は20世紀初頭には完全に弱体化していました。
 そして、1912年に結ばれたフェズFez条約と仏西協定の結果、モロッコは、仏西2国の分割統治による保護国化が決められてしまいます。スペイン領には、名目的なスルタンの総督(ハリーファ)が置かれます。もちろん実権を握ったのは、西仏の高等弁務官でした。以後、フランスは、急速に内陸部への支配力の浸透を進めることに成功します。

(2)アブデルクリムの登場
アブデルクリム_アブドゥル・クリム こうした中、一人の指導者が現れます。後にリーフ共和国大統領となるアブデルクリム(Abd el-Krim、アブド・アル=クリム、アブドゥル・クリム 注1)です。
 彼は、西領モロッコのベルベル人系部族であるリーフRif族の支族ワリギールOuriaghel族の出身でした。裕福な裁判官の家柄だったようです。
 仏領モロッコの首都フェズFezにあるカラウィーンQarawiyin大学で、イスラム法などを学んだ彼は、次第にリーフ族の独立を目指すようになります。大学卒業後、一時は裁判官を継いでスペイン植民地府やスルタン政府の統治に協力しますが、1915年からは通信社に勤めだします。その記者活動が咎められ、投獄されてしまいました。
 脱獄に成功したアブデルクリムは、ワリギール族の族長に就任。周辺部族との抗争を終結させ、西領モロッコ東部のリーフ族統一と安定に成功します。1920年頃には、スルタン政府からもスペイン植民地府からも、事実上の独立状態を確保していました。
 さらに、彼は、リーフ族の完全な独立国家建設も進めていきます。イギリスやフランス、ドイツ等の政治家や商人と密かに接触を計ります。武器調達や資金援助はもちろん、銀行の設置や通貨の発行など、幅広い分野での協力確保が目的でした。
 第1次世界大戦でのドイツの活躍にも影響され、アブデルクリムは軍備を重視します。軍事面では、弟のムハンマドも中心的な役割を果たしていたようです。外国人の軍事顧問としては、元ドイツ軍将校でフランス外人部隊からの脱走兵でもあるクレムスという人物がいました。リーフ軍は、空軍の整備まで計画していたというのですが、残念ながら詳細は存じ上げません。(第3回へ続く


注記
1 アブデルクリム(アブド・アル=クリム)の人名表記についてですが、これ全体で一個の名字に近いようです。おそらく元の意味としては「(寛大なる)神のしもべ」。後半のel-Krimは「寛大な」というのが本来の意味で、ここでは神の尊称として用いられています。
 なお、アル=クリム以外にも同様の神の尊称は多数存在し、人名に用いられているようです。例えば「アル・アズィーズ」で「比類なき威力の」、「アル・ハキーム」で「叡智ある」といった具合。イスラム教圏の人名でアブドゥルさんという言い方が出てきますが、これはこういった「アブド・アル~」系の名前の「~のしもべ」という部分だけを勝手に切り取っていることになり、不適切なようです。

参考:「アラブ人名の表記と読みに関する注意点」(東京外語大)

リーフ共和国興亡(第3回)

3.スペインの内陸進出計画
(1)アルフォンソ13世

スペイン国王アルフォンソ13世 宗主国のスペインは、この時、まだ王国でした。
 当主は「生まれながらの国王」アルフォンソ13世。現在のスペイン国王ファン・カルロス1世の祖父にあたる人物です。対外拡張的な志向を持ち、強い国王を目指した人物だったように思います。古い型の君主と言えるかも知れません。
 アルフォンソ13世は、1902年に親政を開始すると、ただちに植民地拡張を図ります。密かにポルトガルの併合を狙っていたとも言います。

 19世紀末の米西戦争に敗れた結果、スペインに残された植民地は、モロッコと西サハラ、それに現在の赤道ギニアに当たるわずかな領土だけでした。キューバは独立し、フィリピンとグアムはアメリカに奪われてしまっています。
 スペイン自身、植民地経営に自信を失くしていた節もあります。グアム以外のマリアナ諸島など、太平洋の残存領土は全てドイツに割譲しています。フィリピンも本来はドイツに割譲する予定があったようです。西サハラも、オーストリアに割譲する話が持ち上がっていたと言います(注1)。キューバとモロッコの一部以外、不採算というのが実体だったようです。

 ところがアルフォンソ13世は、こうした方針を転換させていきます。既述の通りフランスとの間で積極的に交渉を重ね、スペイン領モロッコと西サハラの境界を画定。従来手付かずだった内陸部への進出も強化していきます。主な狙いは、リーフ山脈にある鉱物資源でした。同時に、治安を気にしたフランスの強い要請の結果でもありました。第一次世界大戦でも中立を保つと、黙々とモロッコ経営に向かうのです。その割には、進捗は果々しくないとも見えるのですが。
 スペインが、フランスにモロッコ分割を認めさせることができた背景には、英国の思惑があったようです。北部モロッコをフランスが握ることで、ジブラルタル海峡の制海権を失うことを恐れたといわれます。スペインならば安全とは、なかなかなめられた話です。おそらく正しい読みですが。

(2)侵攻
 第一次世界大戦も終わった1920年、アルフォンソ13世は、ついに大規模な侵攻作戦を命じます。東部のメリリャMelilla、西部ではセウタCeutaを拠点に、数万の大部隊が動き出しました。
外人部隊時代のフランシスコ・フランコ将軍 はじめ、スペイン軍は快進撃に成功します。抵抗がなかったのですから、当たり前ですが。西部からの軍は、10月にはベルベル人の聖地の一つとも言われるシャウエンXauen(クサウエン。綴りはChaouenとも)に達しました。その先鋒には、同年にできたばかりの外人部隊(注2)の副長フランシスコ・フランコ Francisco Franco Bahamonde少佐(左画像)が立っていました。
 しかし、1921年1月になると、徐々に地元勢力との戦闘が発生するようになります。抵抗を排除し、街道を整備し、街道沿いに駐屯地を設置しながら進軍は続きます。補給線は、この街道一本だけでした。鉄道は、西部のセウタとテトゥアンTetouanの間に、軽便鉄道が敷かれているのみだったようです。
 2月中旬、ゲリラ攻撃やマラリアに倒れる兵士を出しつつも、東部から進軍してきたスペイン軍25000人は、メリリャとセウタの間、アルセマス(アルホセイマ)Alhucemas湾に注ぐアメクランAmekran川にたどり着きます。(第4回へ続く


注記
1 HAUS氏による情報。

2 フランコ少佐が率いる「外人部隊Legión Española」は、名前とは裏腹に、その90%以上がスペイン人から成っていました。徴兵制の本国軍とは別立ての、いわば制度化された傭兵部隊です。以前のモロッコ勤務中にフランス外人部隊に触発されたフランコ少佐らが、設立を提言したといいます。今でも存続していますが、外国人募集を完全に止め、ただのエリート部隊になっているようです。
 また、駐モロッコスペイン軍には、「カサドーレスCazadores」(猟兵)と呼ばれる軽歩兵を中心とした陸軍通常部隊、外人部隊のほか、「レグラーレスRegulares」(略称:FRI)という組織が含まれていました。和訳すると「モロッコ人正規兵」とでもなるでしょうか。よくある植民地の現地人部隊でした。
 スペイン正規軍以外のモロッコ現地人で構成された武装組織としては、武装警察(略称:PI)と、形式的にはモロッコ王朝のスペイン領総督(ハリーファ)に所属する軍隊も存在しました。なお「ハルカHarka」と呼ぶ補助部隊も一部資料にありますが、これは正式な組織というより、現地人武装集団を指す一般名詞のようです。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

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