山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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桂花無花果

 夕食後、高校時代の友人から電話をもらった。近く同窓会をするという。
 私ならいつでもひまなので当然行くよ、と答えておく。

 用件が終わったあと、
「そういえば、イチジクなんて食べますか?」
と聞かれた。
 実家からたくさん送られてくる予定があるが、もてあましているのだそうだ。食べるよと答えたら、同窓会のときに持ってきてくれるという。
 どうして食べようか、今から楽しみだ。とりあえず、甘く煮て、バニラアイスを添えるのは決まりである。

 部屋の空気が篭っている気がしたので、窓を開けると、金木犀の香りがした。いつも今頃になると、隣の庭に咲くもの。そして今年も。
 この香りをかいだのは、ほんの数月前のような気がするのだが。
 こころなしか香りが強く感じるのは、暗闇のせいか。
 くしゃみがでたので、すぐに窓を閉めた。
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回転翼の海鳥たち(第11回)

11.船舶飛行第二中隊
 ところが、1943年8月に計画を聞かされた海軍は、陸軍の計画に猛反対したようです。2D型戦標船では小さすぎるというのが主な理由でした。かつてのC.19の経験から、オートジャイロに対する不安もあったのでしょう。
 紆余曲折(追記参照)の末、既存の「あきつ丸」の改装が決まりました。海軍の協力の下、飛行甲板の拡幅など、より本格的な航空艤装が施されます。「カ号」なら30機弱の搭載が可能になったようです。同じく丙型特殊船の「熊野丸」も、護送空母に性格が変更されています。
2TL_2D_senpyosen.png さらに、2TL型戦標船「山汐丸」など2隻が、陸軍あて「特2TL型」として設計変更されます。これは、通常のタンカーに飛行甲板などを追加して、護衛と輸送を同時に行おうと言う、ちょっと欲張りなアイディアです。英国もMAC船の名で同じことをしています。(ちなみに海軍も、より高速の1TL型戦標船を素体に、特1TL型2隻「しまね丸」などを建造することにします)
(画像上から、特2TL型、原型の2TL型、2D型、参考として正規空母「雲龍」)

 1944年、艦載機部隊として「カ号」を装備した船舶飛行第2中隊が編制されました。日本初の実戦回転翼機部隊の誕生です。
 なぜ第1中隊でないかというと、三式指揮連絡機を装備した艦載機部隊の独立飛行第1中隊との混同を避けたためと思われます。
ki76.png 当初計画より本格的な空母となったため、「キ-76」三式指揮連絡機も、陸軍艦載機候補になっていました。「カ号」に敗れて不採用となった「テ号」と同じくFi156と類似した機体です。ただこちらは、「キ」番号を持つ通り、航空兵の装備として開発されたものです。

 量産型「カ号」の生産遅延などから、部隊編成は難航したようです。
 パイロットの多くは砲兵出身で、飛行学校などを経由した後、量産型が揃い始めた1944年6月頃から、本格的な訓練を受けたそうです。整備員は、船舶工兵からの転属者が多く含まれていました。
 1945年1月に編制完結したとき、総人員270名ほどの小さな部隊でした。

 しかし、ようやく誕生した船舶飛行2中隊には、乗るべき空母が存在しませんでした。
 陸軍空母の主力機の座は、三式連絡機に奪われていたのです。本格的な空母なら高性能な固定翼機が使える、といういつものパターンです。不採用となった「テ号」の仇を、Fi156兄弟機に討たれたと言えそうです。使用可能な唯一の母艦「あきつ丸」は、三式連絡機で若干の哨戒任務を実施しています。
 その後「あきつ丸」は、ただの輸送船として「ヒ81」船団に参加することになり、1944年11月に撃沈されてしまっていました。このとき積んでいた輸送物資の中に、実は若干の「カ号」もありました。但し、艦載機としてではなくフィリピンの砲兵部隊用のようです。
 そのうえレイテ島も陥落した状況で、南方航路自体も閉鎖寸前。護衛空母を加入させた大規模な船団が行動する余地は失われていました。わずかだけ竣工した特TL型も、係留されたままとなります。

 母艦をなくした船舶飛行2中隊は、一時は台湾に向かう予定だったようですが、最終的に「不沈空母」壱岐に展開して、朝鮮海峡の防衛に従事することになります。
 大陸方面からの食糧などの資源輸送が、最後の重要航路となったためです。まさに、かつて言われた「生命線」というべき存在でした。
 1945年1月下旬から、およそ20機が、壱岐の筒城浜飛行場に展開して、哨戒と船団直衛を行いました。整備途上で名前の通り砂地そのままの基地でしたが、回転翼機の特性により、そうした場所でもある程度作戦可能だったようです。ただ、さすがに砂地に脚をとられての着地事故もおきてはいます。
 5月からは、対馬も「不沈空母」として活用することになり、厳原飛行場に一部が分遣されました。
 元パイロットの方によると、船団護衛時には60kgの爆雷1発を搭載して、船団の上空200mを周回したそうです。索敵手段は目視のみで、潜水艦を発見した場合、高度60mまで降下してから水平に引き起こし、爆雷投下するとのこと。敵出現の無いまま帰投する時は、威嚇のため船団前方に投下したそうです。
 エンジントラブルに苦しんだとのことで、部隊長の本橋大尉も墜落負傷しています。整備員の方の回想では、前述の着陸事故もあわせ10機前後が失われたとあります。

 朝鮮海峡方面で半年ほどの任務に就いた部隊でしたが、米英空母艦載機を始めとした戦闘機の出現増加で行動困難となり、6月から7月ころ能登半島方面への転進が命じられます。最後は、石川県の七尾基地で終戦を迎えたようです。潜水艦撃沈といった派手な戦果は、確認されていません。
 こうして、日本における回転翼艦載機の、いささか異様な出自の最初の試みは終り、次の試みまでしばし空白期間を置くことになります。(第12回へ続く

追記
 海軍としては、南方航路向けの護衛任務には、護衛空母よりも陸上機による方が適切と考えていました。乏しい建造能力の中で、護衛空母を持つ余裕は無いという頭もあったのでしょう。(この点、戦後の米海軍の評にも、日本の南方船団には護衛空母は不要だったと同旨のようです)
 対する陸軍の熱心さは、洋上航法の不安もあったのではないかと思います。
 陸軍側の計画への反対には、相談をせずに計画を進めていた陸軍への不信感や、縄張り意識もあったようです。一般船舶枠「あきつ丸」級改良型の建造には、もはや軍艦であり越権行為だと述べています。
 それでも、機動部隊用の空母不足がいよいよ深刻化したため、脆弱すぎるとしてきた特設空母に目を向けざるをえなかったようです。陸軍にやらせてみて、うまくいくなら海軍用にも採用しようと考えたといいます。(もっとも、軍令部が、陸軍が作るなら海軍にもと言ったためか、特TLの採用は同時の1944年8 月頃となりました)
 海軍側は「戦局好転の暁には」機動部隊用への転用を考えていたため、固定翼機運用と、高速の1TL型ベース(後にはさらに高速の4TL型)にこだわったものと思われます。当初2隻建造のはずが、レイテ沖海戦を経た3ヵ月後の11月には一躍15隻へ増加要求したのも、機動部隊空母の壊滅と関連しているのでしょう。
 海軍仕様では93式中間練習機(いわゆる「赤トンボ」)を主力機材に予定。機動部隊転用時には、艦上戦闘機「烈風」なども積む予定だったようですが、運用には補助ロケット装着が必要だったと言われます。

回転翼の海鳥たち(第12回)

12.氷海の翼
 第二次世界大戦が終結した後も、ヘリコプターは着実に地位を築いていきました。
 1946年3月に、北大西洋上で米海軍が行った寒冷地戦闘実験「フロストバイトFrostbite(凍傷)」作戦でも、空母「ミッドウェーMidway」艦上に、ヘリコプターが姿を見せています。大戦中から活躍していた、沿岸警備隊所属のHNS-1です。写真撮影に使われたほか、洋上に墜落した艦上機のパイロット救出にも成功し、大いに感謝されています。
 その実績もあってか、1946年7月には、米海軍最初のヘリコプター部隊VX-3が編成されています。(資料によっては1945年12月に編成とする。)

 そして、同年から翌1947年にかけて、ヘリコプターは反対側の南極の空にも現れることになります。米海軍が演習を兼ねて実施した、大規模な南極調査「ハイジャンプHighjump」作戦です。
 派遣されたのは、海軍と沿岸警備隊合同の第68任務部隊(空母「フィリピン・シーPhillipine-Sea」以下水上機母艦2隻、砕氷艦2隻、潜水艦1隻など)で、このうちの水上機母艦2隻に誕生間も無いVX-3飛行隊所属のS-51(シコルスキーR-5の発展型)ヘリコプターが、2機ずつ搭載されています。沿岸警備隊所属の砕氷艦「ノース・ウィンドNorthwind」ほか1隻にも、沿岸警備隊のHNS-1が1機ずつ搭載されていました。
 調査の総指揮を執るリチャード・バード退役少将は、戦前にも南極調査隊長であり、ケレットK-3オートジャイロを南極に持ち込んだことがあります。南極に最初の回転翼機を持ち込んだ人物が、進化した機体と共に帰ってきたわけです。
 持ち込まれた総計6機のヘリコプターは、艦隊内や基地との連絡任務に用いられたようですが、その詳細は残念ながら記録に明らかでないようです。事故のためか2機は失われました。

 翌シーズン(1947~48)にも第39任務部隊(海軍砕氷艦「バートン・アイランドBurton-Island」「エディストEdist」)が編成され、南極に送り込まれます。
 なんと今度は、ヘリコプターが主役として期待されていました。作戦名はその名も「ウインド・ミルWindmill(風車)」と、実にぴったりです。
bell47.png 参加した2隻の砕氷艦には、各2機のヘリコプターが搭載されています。機種は、前回と同じHO3S-1(S-51の海軍制式)に加え、HTL-1(ベル47海軍制式。画像は陸軍仕様H-13)も1機含まれていました。初期の成功作2機種が、揃い踏みの格好です。
 今回も強風のために事故が相次ぎ、HTL-1は墜落、HO3S-1も損傷してしまいましたが、水路調査や連絡、測量用の航空写真撮影などに活躍し、高い評価を得ることができたようです。墜落時にも幸いにして死者は出ませんでした。
 ちなみに1月27日には、日本の「橋立丸」捕鯨船団(日本水産=現ニッスイ)と遭遇し、乗船していた監視員が移乗したりと交歓しています。
 任務部隊は、1948年3月末に、無事にノーフォークへ帰還しました。

 このようにして、艦載回転翼機は、極地調査に欠かせない装備になってきたのです。後に日本が南極観測船「宗谷」を設計した時にも、当然のようにヘリコプターが搭載されたのでしたが、それはまた別の話としましょう。(第13回に続く

追記
 捕鯨母船「橋立丸」の前身は、大戦中1944年に竣工した1TL型戦時標準船(大型タンカー)。
 日本水産(株)の保有船で、南方占領地からの石油輸送に投入されたが、二航海目の往路に台湾沖で空襲を受け損傷。内地へ帰還したまま終戦を迎えていたものを、大改装して捕鯨母船とした。
 1946~47年期の第一次南氷洋捕鯨から参加しており、第39任務部隊と遭遇したのは第二次南氷洋捕鯨の際。

 バード少将のハイジャンプ作戦と言うと、オカルト方面で有名なようです。なんでもナチスドイツの残党と交戦したとか、南極にある穴から出てきた地底人と戦ったとか。
 とすると失われた2機のヘリも、地底人の円盤に撃墜されたのかもしれません。なんてな。

昭和15年の君が代補遺

 昨日の記事「昭和15年の君が代論争」について若干補足を。
 昭和12年に初めて君が代の載った「修身」教科書は、こちらの「たむたむのページ」の国旗国歌のページで該当箇所を読むことができます。(現物のスキャン画像あり)

 当時問題になった新興宗教「ひとのみち」とは、今の「PL教団」につながるものとされるようです。当時も全国に130ほどの支部を持つ勢力でした。指導者が不敬罪で逮捕され、昭和12年4月には本部閉鎖命令が出ています。
 ちなみに、この当時話題になった新興宗教としては、神道系の「扶桑教一派」なるものが新聞に載っていました。『又も邪教の正体暴露 衣冠束帯姿に隠れて婦女十数名を犠へに 淫楽に耽る怪教主』(国民新聞昭和12年6月25日付)
 これは、自身たちの神を八百万の最高神として、教祖はこれを代表するものであることを根拠に、絶対服従を求めたとかいう事件のようです。開祖はインド系の書物にアイディアを得たとか。

 『学校よそに男女生徒数十名が桃いろ享楽』(国民新聞昭和12年2月28日付夕刊)という扇情的な題名の記事がありました。
 ここででてくる学生は16~18歳くらい。桃色享楽とはどんなことかというと、豊島園にピクニックをしたのをはじめ、海水浴、クリスマスの晩餐会、新年会などなどとあります。感覚がだいぶ違いますね。
 平日は午後中、授業をサボって煙草や酒を楽しんでいたともありますけど。

昭和15年の君が代論争

 最近話題の国歌斉唱・国歌教育ですが、戦前にも式典での君が代斉唱が、一大論争になったことがあるのは、ご存知でしょうか。

 今回の裁判でも問題になった教育と国歌という論点ですが、そもそも、君が代が教科書に載ったのは、そう昔のことではありません。実は、日中戦争真っ只中の昭和12年(1937年)に、修身の教科書に収録されたのが初めてなのだそうです。
 国内の軍国主義色が強まる中、国体観念の高揚に力を注ぐ文部大臣の肝いりで、教育改革の一環として導入が決まったものです。
 同時に、君が代の「万代不易の国体」を歌った意味をも教えることになりました。ところが、教師を含め、その由来などを解する者がいなかったことから、教員教育用の国策映画「君が代の由来」まで制作されることとなります。

 当時、『学校よそに男女生徒数十名が桃いろ享楽』にふける事件や、「ひとのみち」などの新興宗教の広まりが問題化していました。事変以来、不良少年が増加したとの指摘もあります。ある少年審判長(現在の家裁判事)は、その原因を『国民精神の弛緩』とコメントしています。
 その対策の意味も含め、教育改革の動きが進んでいました。例えば、『新日本精神を叩き込み』『西欧思想への批判力養成』をするという高等学校(現在の大学)の新教育方針も、定められています。具体的には、従来の個人本意の立場からの国家社会(社会契約論の意味か?)という説明から、『人の立場即ち日本人として生まれてきた国民の立場』に基づく説明へと転換が図られたり、天皇機関説排撃が盛り込まれたりしています。

 こうした流れの中、太平洋戦争突入前年の昭和15年(1940年)、君が代斉唱を巡り、ついに論争が勃発してしまいます。そのきっかけは、皇紀2600年の祝賀式典に際して、政府が、君が代斉唱のあり方について、強引な決定を行ったことにありました。

ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い

 天高く馬肥ゆる秋と言いたくなるお天気です。鰯雲というのでしょうか、が浮かんでいます。
 「馬肥ゆる」なんて言うと、とてものどかな感じですが、実際には剣呑な状況を意味するらしいですね。収穫期になると、活力つけた異民族騎兵がせめてくるぞってな。
 1939年9月、ポーランド騎兵がドイツ軍に決死の突撃をしている頃ですが、地球の反対モンゴルの草原、騎馬民族の地では、とある死闘が終りを迎えていました。ノモンハン事件です。


マクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」
 小松徳仁(訳)、鈴木邦宏(監修)、(大日本絵画,2005年)

ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い (独ソ戦車戦シリーズ)総合評価:★★★★★
 事件再評価の動きの中でしばしば言われる「ロシア側資料」を基礎に、ロシア人研究者がまとめた研究書。両軍装甲車両の行動を中心に、ロシア側から見た地上戦の様相、戦訓などを語る、独ソ戦車戦シリーズ第七弾。
 本邦初公開写真多数を含む多数の図版掲載。
 監修者による日本側資料に基づく注釈入り。

回転翼の海鳥たち(第13回)

13.ワルキューレの騎行
 今では軍事用語としてすっかりおなじみになった「強襲揚陸艦」という言葉があります。ヘリコプターなどで部隊を空輸する方式の上陸作戦用の軍艦です。
crossroad.jpg 第二次世界大戦後、この強襲揚陸という発想が生まれた背景には、核兵器の実用化という事情があったと言われます。戦艦「長門」が沈んだ核実験「クロスロード作戦」(1946年7月写真)のように、大艦隊・船団が1発の核兵器で全滅する可能性がでてきたのです。そこで、大船団でゆっくりと上陸する代わりに、輸送ヘリを使って短時間に上陸部隊を送り込めないかと考えられたわけです。

 強襲揚陸の研究に取り掛かった米海兵隊は、1947年12月に、ヘリコプター実験部隊HMX-1を編成します。
 翌1948年には、護送空母「パラウPalau」に搭載されたHO3S-1(S-51)を使った、最初の揚陸実験が行われます。わずか5機を使い、たった10人の兵員を輸送しただけですが、大成功との評価を得ることができました。同年8月にも、同じ「パラウ」とHO3S-1が8機の組み合わせで上陸演習に参加しています。「エセックスEssex」級空母でも同様の実験があったようです。

 1950年、朝鮮戦争が勃発。
 さっそく、海兵隊のヘリ部隊も派遣されることになります。HMX-1から抽出したHO3S-1ヘリ4機と人員、それに固定翼のOY-1観測機(L-5海軍仕様)からなる実戦部隊VMO-6が編成され、護送空母「バドエン・ストレイトBadoeng Strait」に乗って釜山へと向かいます。地上に展開したVMO-6は、観測や救助任務に活躍。任務の合間を見て、空母での夜間発着実験なども行われました。
 さらに、翌年9月には輸送ヘリ部隊HMR-1も派遣され、新型のHRS-1(S-55海軍仕様)ヘリ15機を使って成功を収めます。シコルスキーS- 55は、S-51を拡大改良したもので、兵員10名を輸送可能という画期的な性能を誇り、初期の傑作といわれる機体です。強襲的な運用こそ無かったものの、1個中隊を一挙に輸送するなどしています。s55.png
 このほか、朝鮮戦争では、陸海空軍のヘリコプターが本格的に使用され、その存在価値を知らしめました。(追記参照)

 米国以外でも、ヘリコプターの運用は一気に広まります。
 特に英海軍が強襲揚陸の可能性に注目し、1953年には空母「シーシュースTheseus」からウエストランド「ホワールウィンドWhirlwind」(S-55のライセンス型)1個中隊を運用しています。
 そして、1956年のスエズ動乱において、空母「シーシュース」「オーシャンOcean」の2隻による世界初のヘリ強襲揚陸を実行しています。2隻合計で22機のS-55を飛ばして、415名のコマンド部隊をポートサイドに上陸させました。数機が被弾しましたが、失われたのは事故による1機のみでした。このとき、フランス海軍も空母「アロマンシュArromanches」などにヘリコプターを搭載して行動しています。

 こうして強襲揚陸が現実的になると、臨時に空母を使うのでなく、上陸部隊の収容設備のある専用の母艦が欲しくなってきます。朝鮮戦争中の1951年には、「パラウ」での実験を踏まえた米海兵隊は、はやくも専用艦の要求をしています。
s58.png 1955年になって、米海兵隊についに護送空母2隻の改装予算がつきます。これに基づき翌年に実現したのが、強襲ヘリ空母CVHA「セティス・ベイThetis Bay」でした。S-55をさらに発展させたHUS-1(S-58輸送型の海軍名。後にUH-34に改名。)を16機搭載し、兵員390名を収容という性能です。世界初の本物の強襲揚陸艦になります。しかし、護送空母ベースでは性能不足と判明し、2番艦はキャンセルされてしまいます。
 代わって、1958年には新造の強襲揚陸艦LPHの予算がつきます。後の「イオージマIwo Jima」級の始まりです。さらに、「エセックス」級空母「ボクサーBoxer」など3隻も、対潜空母から強襲揚陸艦へと改装が行われています。

 同じ頃、スエズ動乱で成功した英海軍も、コマンド母艦Commando Carrierの名の下に強襲揚陸艦保有を決め、空母「アルビオンAlbion」「ブルワークBulwark」の2隻を改装しています。この2隻は1961年のクウェート紛争で早速実戦投入されています。
LST_osumi.png 仏海軍も強襲揚陸機能のあるヘリ巡洋艦「ジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc」の建造をし、かくて強襲揚陸という発想は、世界の海軍に広く受け入れられるに至りました。本格的な強襲揚陸艦でなくても、多くの揚陸艦にヘリコプター運用能力が付されるようになっていきます。(画像は日本の輸送艦「おおすみ」)
 発展した強襲揚陸艦は、ベトナム戦争や湾岸戦争などでおおいにその力を発揮することになります。(第14回に続く

追記
 なお、米海兵隊の最初のヘリ実験部隊HMX-1は現在でも存続しており、新型機などの研究のほか、大統領専用ヘリコプターの運用を担当していることで知られます。

 朝鮮戦争では、米海軍は空母のほか戦艦・巡洋艦にもヘリコプターを搭載して、連絡や弾着観測に使用しました。
 日本の掃海部隊が参加したことで知られる元山上陸作戦(1950年10月)の際には、艦載ヘリを機雷捜索にも使用しています。救助飛行の際に偶然機雷を発見したことから、投入が決まったようです。日本側の記録にもしばしば登場します。一部の機体は、現地改造で機銃を搭載していました。LST型揚陸艦を改装したヘリ掃海母艦も、1950年末に投入されたようです。
 ヘリコプター最大の活躍は救助用としてで、各軍合計25000人以上を救ったとも言われます。

回転翼の海鳥たち(第14回)

14.空飛ぶペンギン
 第二次世界大戦終結から10年が経った1955年夏、敗戦国日本で、1隻のヘリコプター搭載船の計画が動き出します。
 その船の名は「宗谷」。海上保安庁所属の灯台補給船、前身は大戦を生き延びた旧日本海軍の特務艦でした。ご存知の通り、第3回国際地球観測年に応じて、日本も南極観測隊を送ろうという企画が立案され、その観測隊を運ぶ砕氷船として選ばれたのです。

 他サイトにも詳しいので詳細は省きますが、多くの寄付金もあって1956年10月、「宗谷」は無事に大改装を終えます。種別は巡視船。満載排水量は約4200tでした。
soya1.png その船体後部には飛行甲板と格納庫が設置され、防衛庁から移管されたベル47小型ヘリコプター2機が搭載されました。まだ護衛艦などでもヘリの搭載例は無く、戦後日本の艦船としては、最初の本格的な回転翼機搭載を実現した船です(追記参照)。このほか船体前部には水上機1機が搭載されています。
 パイロットは旧陸海軍の航空部隊出身者が中心でした。中には空母「翔鶴」経験者や、有名な芙蓉部隊出身者もいました。

 竣工から一月もない1956年11月8日、「宗谷」は第1次観測に出航します。東京水産大学の練習船「海鷹丸」(1450総t)を従えての航海です。この「海鷹丸」にも飛行甲板が設置され、朝日新聞社提供のベル47「ペンギン号」が搭載されています。
 途中でヘリの発着試験を行いながら、翌1957年1月、ついに南極の氷海へと到着。「海鷹丸」と分かれると、早速、前路偵察のため搭載ヘリを発進させます。この偵察活動は、米国がまとめた「氷海航法」という教本を参考に行われたそうです。
 偵察で発見した航路を辿り、1月24日に接岸に成功。越冬隊と資材を揚陸し、2月15日に帰路に就きます。砕氷能力不足で航行不能となりますが、ソ連砕氷船「オビОбь」(排水量12600t、英表記“Ob”)に救出され、4月24日になんとか凱旋を果たしたのでした。最悪の場合「宗谷」を放棄して、ヘリで「海鷹丸」へ脱出する予定だったようです。

 若干の改装工事を受けた「宗谷」は、10月に第2次観測に向かったのですが、今度は往路で航行不能に陥ります。米砕氷艦「バートン・アイランド」(1947年の風車作戦に参加した艦)の支援を受けながら再起を図りますが、水上機で越冬隊を収容するのが精一杯、犬は置き去りという苦い結果に終わったのでした。
 ある「宗谷」乗員は、「バートン・アイランド」の搭載ヘリでの前路偵察が徹底しているのを見て、非常に勉強になったと言っています。

s58_ja.png 第2回観測の失敗で、馬力不足の小型砕氷船の限界を思い知らされた日本は、新戦術にかけることにしました。その切り札が、西側最新鋭の大型ヘリS-58の採用でした。従来のベル47に加えて、シコルスキーS-58輸送ヘリを2機も搭載しようというのです。
 当時、各国の砕氷船を見ても、ヘリコプター搭載は一般化していながら、空輸を主体にした方式というのは類を見ませんでした。偵察用のベル47系列しか積んでいない米国艦はもとより、ソ連砕氷船「オビ」もミーリ(ミル)Mi-4(S-58相当の東側の傑作)大型ヘリ2機や大型水上機を積んではいましたが、主に直接接岸揚陸によっていたようです。逆に言えば、外国の本格砕氷船は、空輸などという小手先の手段によるまでもなかったともいえますが、それでも後に空輸方式が広まることを考えると画期的と言ってよいでしょう。(なお、軍事的な揚陸作戦へのヘリ本格使用開始とほぼ同時期です。)
soya2.png
 改装要領は、従来の飛行甲板よりも1段上に大型の飛行甲板を設置するとともに、船内に燃料タンクを配置するというものでした。格納庫も小さすぎるため撤去されて、S-58は露天係止になりました。(ベル47の搭載方式が私にはよくわかりません。配置図を見ると飛行甲板に「ベル格納装置」との記載があります。)

 1958年11月、改装成った「宗谷」は、三度の南極行へと出発します。水上機1機を含む航空機5機を搭載した「航空母艦」と呼びたいような雄姿です。
 南極に到着した「宗谷」は、翌年1月14日から2月3日にかけて、計58便の飛行により、14名の越冬隊と57tの資材搬入に見事成功します。雪上車や水上機をも吊り下げ空輸してみせました。生存していたタロ&ジロを発見したのも、偵察に飛んだヘリコプターでした。
 なおS-58の運用は、物資搭載作業の関係で、手狭な飛行甲板から直接よりも、氷上の板敷きヘリポートから行われることが多かったようです。

 翌年の第4次観測以降も、航空指令室の設置など改良を受けながら「宗谷」の活動は続き、第4次の場合126t/103便の空輸に成功しています。
 船体が老朽化した「宗谷」は、1961~62年の第6次観測を最後に、南極観測船としての任を終えました。しかし、さらに15年以上に渡り、砕氷巡視船として北の海の守りをつとめました(搭載ヘリは無)。

s61.png その後、南極観測船の運用は、海上保安庁から海上自衛隊へと移っています。1965年に就役した後継の砕氷艦「ふじ」(満載排水量9120t)はS-61 輸送ヘリ2機とベル47偵察ヘリを搭載し、「宗谷」の血をひいて強力な空輸能力を持った船でした。「ふじ」は、海上自衛隊初の本格的なヘリコプター搭載艦でもあります。
 一方、海上保安庁でも砕氷機能を有する巡視船を必要とするため、1978年に新型の砕氷巡視船を就役させています。「そうや」を襲名したこの巡視船は、ヘリコプター搭載型巡視船PLHに分類され、海上保安庁最初の新造ヘリコプター搭載船にもあたる船です。搭載機はベル212中型ヘリ(軍用UH-1の系列)。この2代目は、現役で北の海の守護神として働いています。
 最後に、退役した「宗谷」ですが、観測船時代の姿に戻って今も東京湾に浮かんでいます。
 fuji.png sirase.png soya3.png
(左より順に、砕氷艦「ふじ」、同じく「しらせ」、巡視船「そうや」)
第15回へ続く

追記
 「宗谷」以前にも、捕鯨母船に航空機を搭載していたケースがあるようですが、詳細を知りません。「宗谷」航空要員の中に、大洋の捕鯨船出身という方がいるのですが。

回転翼の海鳥たち(第15回)

15.Hunter&Killer
 第二次大戦中から期待されていた対潜作戦機としての艦載ヘリも1950年代中期には、なんとか形になってきました。吊下ソナー(1945年搭載試験)、対潜魚雷(1950年搭載試験)などの装備が揃い、S-55のように信頼の置ける機体も出てきたからです。
 1953年、米海軍は、シコルスキー社にS-55を発展させた対潜ヘリの開発を命じます。その成果として1954年に初飛行したのが、世界最初の本格対潜ヘリHSS-1(後SH-34に改称。既出のS-58系の最初の実用機)です。
hss1.png 本格対潜ヘリといっても、HSS-1は、まだ搭載能力が不足していました。そこで、捜索装備をした追跡機Hunterと、魚雷を装備した攻撃機Killerの2機以上を組にして使うハンター・キラー方式を採っています。
 対潜空母には、固定翼対潜機に並んでHSS-1部隊が搭載されるようになりました。

 一方、空母以外の艦艇への対潜ヘリ搭載で先陣を切ったのは、カナダ海軍でした。大量のソ連潜水艦と高速の原子力潜水艦時代到来に対応するため、小型艦への有力な対潜機搭載の可能性を探り始めたと言われます。
 1956年、カナダ海軍は、河級フリゲート「バッキンガムBuckingham」に仮設飛行甲板を設置し、空母用に保有していたH04S-3対潜ヘリ(S-55系)の搭載実験をはじめます。翌年には、「サン・ローランSt.Laurent」級護送駆逐艦「オタワOttawa」を改造して、さらに研究を続けます。
 小型艦への搭載で問題となったのが、着艦の困難さでした。カナダ海軍は「ベア・トラップBeartrap」と呼ばれる降着補助装置を開発することで、この問題を解決します。ヘリコプターと艦をケーブルでつないだ後、艦側でケーブルを巻き取り、拘束具で確保することで安全に着艦できる仕組みです。この装置は各国に広まり、今でも使用されています。

 カナダ海軍は、「サン・ローラン」級7隻をヘリコプター護送駆逐艦に改装。ベアトラップ装備など所要の改装を受けて、最初の艦が再就役したのは1963年のことです。
 搭載機にはCH-124、すなわちHSS-2「シーキングSea-King」(S-61対潜型。後にSH-3と改称)のカナダ仕様が選ばれ、1機が搭載されました。これはHSS-1の後継機として、本来は空母搭載用に開発された大型機です。それまでのレシプロエンジンより強力・軽量なタービンエンジンを使用することで、捜索装備と攻撃兵装の両立を実現した画期的な機体でした。
 このほか、改良型の「アナポリスAnnapolis」級2隻の新造も行われています。(1964年就役)

 ほぼ同じ頃1958年、英海軍も、新造艦としては世界初のヘリ搭載小型艦となる部族Tribal級フリゲートの建造を開始します。1番艦「アシャンティAshanti」は、カナダ海軍の改装艦の再就役よりも早い、1961年11月に就役しています。
 ただし、搭載機は小型のS-58系やウエストランド「ワスプWasp」で、独自の捜索装備を持たない限定的な対潜性能でした。対潜性能という面だけ見ると、米海軍の無人対潜ヘリDASHに近い魚雷運搬機に留まったようです。
 1962年には、イタリア海軍も、新造のヘリ搭載フリゲート「カルロ・ベルガミーニCarlo Bergamini」級を就役させています。わずか基準排水量1400t余の小型艦で、竣工時の搭載機は、アグスタ社がライセンス生産したベル47の改良機でした。(第16回へつづく

実録アヘン戦争

 もうあれから5年も経ったのかと、ニュース映像を見ていて思いました。
 「テロとの戦い」という大義のきっかけとなったあの日から。


陳舜臣「実録アヘン戦争」
             (中公新書,1971年)

実録アヘン戦争 (中公文庫)総合評価:★★★★☆
 眠れる獅子と呼ばれた清帝国の実力を露呈し、中国植民地化の発端となったアヘン戦争。
 アヘン没収を強行し開戦を招いた、欽差大臣林則徐。彼は、身の程知らずの暴走者なのか、それとも英明な改革派だったのか。
 中華的外交の有様、「自由貿易」の大義を掲げた英国の立場、清朝内部の権力闘争などをまとめながら、東洋史の一大転換点、その全体像を描き出す。
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