山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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ノモンハン捕虜の運命(第3回)

4.帰還捕虜の処遇について
(1)処遇の原則

 捕虜交換によって帰国した日本兵については、第1回交換後すぐの9月30日に「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15)で、陸軍省から関東軍へ処理方針が示されています。
 これによると、(ア)一律に取調べを行い、有罪と見られれば起訴すること。(イ)無罪者・不起訴者のうち必要な者は厳重な懲罰処分とすること。(ウ)服役・懲罰が完了した者は、必要ならば償勤兵として教化隊へ配属すること。(エ)将来については本人の希望があれば、日本以外での生活を斡旋することなどとされています。
 この方針が提示される前に、すでに関東軍では独自に査問委員会を設置していたようですが、方針に従って10月2日に関作命甲232号(資料16)を発し、一連の措置を開始します。なお、関東軍としては当初は寛大な処分で済ます方針だったという軍医の証言があります(資料22・73頁)。

 帰還捕虜は新京陸軍病院の新站分院に収容され、関東軍参謀今井大佐の指揮の下、取調べ・特設軍法会議を受けます。実働要員として、2名の法務官や西田中佐以下の関東軍憲兵隊などが送り込まれます。
 新站陸軍病院は周辺に他の施設がなく隔離に適していたため、選ばれたようです。病院とは言いつつ、正規の医療関係者は退去させられて代わりの特選の将兵が配属され、衛生兵に変装した憲兵もいるような状況だったといいます。特に重大被疑者が入った独房の待遇は、半ば死んだも同然だったという憲兵の回想もあります(資料14・下272頁)。こうした医療体制の不備との因果関係は不明ですが、収容中に3名の重傷者が死亡しています。
 第2回交換の帰還捕虜も、同様に新站陸軍病院へ収容されました。こちらでも収容中の死者が少なくとも1名発生しています。

(2)取調べと軍法会議
 第1回交換での帰還者の場合、11月16日に軍法会議が開かれているため、それまでの約1ヵ月半の間、種々の取調べが行われたものと思います。第2回交換では、4月末から5月中旬までの半月、取調べ期間が置かれています。
 尋問では、捕虜になったときの状況が第一に問題とされたようです。日本陸軍においても、公式には捕虜になること自体は違法とはされないため、敵前逃亡罪(陸軍刑法75条1号)が主たる被疑事実となったものと思われます。「陛下の特別のお計らいで罰せられることはない」から経緯を正直に話せと言われた者もいたようです(資料14・下274頁)。
 このほか、ソ連側での処遇、特に思想教育がどのようなものであったかも重視されたようです。スパイが送り込まれることを警戒したのでしょう。

 意外なようですが、起訴されて特設軍法会議にかけられた者は、それほど多くないようです。第2回交換帰還者についての集計資料は確認できていないのですが、第1回交換の場合、起訴者は帰還者82名中の2名のみです(資料17)。前述のようにあくまで捕虜になること自体は、罪に問えないためでしょう。ただ第1 回交換では重傷者が多く、人事不省の間に捕虜となったことは有利な事情であるため、第2回に比べて不起訴者の割合が高かった可能性はあります(*1)。
 それでも、理不尽と思える起訴例もあります。例えば、被弾炎上して自爆しようと急降下したところ、運良く火が消えたため不時着して5日間さ迷った後、ついに気絶したところを拘束された航空兵曹長が「敵前逃亡罪」で起訴されました。有罪判決を受け、懲役2年10ヶ月のうえ一等兵に降格となっています(資料14・下273頁、資料25・35~36頁、資料22・97頁)。さ迷ううちに帰還に絶望していた点をとらえて「逃亡」ということのようで、相当な拡大解釈といわざるを得ないでしょう。下士官だったため、処分が重くなったと考えます。ただ、自爆を試みた点が評価されたのか、酌量軽減(刑法66条)が認められています。

 そして、より問題なのは、こうした公式の軍刑法の適用ではなく、それ以外のさまざまな非公式の取り扱いだったのではないかと思われます。(つづく


注記
*1 自決を試みたことを法廷で陳述したところ、白衣の法務官に誉められ、刑罰ではなく懲罰処分である重営倉で済んだという証言があります(資料14・下275頁)。これも起訴後に無罪判決となったのではなく、予審により不起訴となって、その後で別に懲罰処分を受けたということだと考えます。
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ノモンハン捕虜の運命(第4回)

4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(3)将校への自決強要
 ノモンハン事件の捕虜について言われる最悪の不当処遇が、自決の強要です。敵前逃亡罪の最高刑には死刑もありますが、その執行方法は銃殺刑です。すなわち「自決」というのは公式な取り扱いにはありません。

 帰還捕虜全員に自決が強要されたわけではなく、将校のみが対象だったようです。
 ここで注目すべきは、4の(1)で挙げた「今次事変に於ける捕虜帰還者の取扱方に関する件」(資料15)です。この文書には軍法会議などによる処理の方針が書かれていたわけですが、特記事項として「但し将校の分限、進退に関する事項は別に措置せらるる儀と承知相成度申添う」(原文カタカナ)となっています。別の措置の内容は明示こそされていませんが、後の経過を見るに、当然に自決による非公式解決を指していたものと思います。秦郁彦も同様の推定をしています(資料22・73頁)。
 すなわち、将校については正規の手続きによらず自決させる方針が、すでに陸軍中央において決定されていたと言えます。

 実例を見ると、第1回交換で帰還した唯一の将校(中尉)は、一旦は敵前逃亡罪で起訴されています(資料17)。名前と階級から推定すると第8国境守備隊から編成された長谷部支隊の中隊長です。事件後の戦訓調査の中心人物となった小沼治夫中佐(当時)による、いわゆる小沼メモにも、「長谷部支隊の最左翼中隊、一中隊二十名となる迄大奮闘せり。中隊長居なくなり戦死として通知せり。然るに捕虜となり帰り来れり。」とあります(資料2・下148頁)。(なお、第1回帰還者中のもう一人の起訴者も第8国境守備隊の兵で、あるいは同時に捕虜となったのかも知れません。そうであれば巻き添え起訴だと考えます。)
 しかし、判決期日と同日の11月16日に「自決」しています。おそらく正式の判決言渡し前のことと思われます。

 第2回交換では少なくとも航空将校2名が帰還しました。既述のように第2回帰還者で日本人は64名、関参一電611号によれば下士官兵は60名なので、ほかに2名の地上部隊将校が帰還したものと考えられます。もっとも、この地上部隊将校について述べた文献には接したことがなく、あるいは軍属という可能性も否定はできません(*1)。
 これら第2回の帰還将校については、3の(3)で述べたように関参一電611号では帰還が報告されていません。つまり、戦死して最初から帰還しなかったとされたのだと思います。例えば原田少佐については、撃墜された7月29日に戦死と認定済だったのが、そのまま公式記録となっています(資料14・下 419頁)。
 実際には生きて帰った将校たちは、第2回の場合もすぐに自決となったわけではなく、戦訓や捕虜生活についての念入りな取り調べを受けたようです。起訴されたのかはっきりしないのですが、戦死者扱いであることからするに、おそらく第1回とは異なって記録に残る正式の起訴手続きは取らなかったものと思われます。特別査問の後に、実弾入りの拳銃と個室を与えられるといった態様だったようです。

 さて、これら自決が、強制的なものであったのかです。
 当時の価値観からすれば、自発的な側面もあったと考えられます。原田少佐は帰還した際には、自決する覚悟だったようです(資料14・下271頁)。捜査完了前に自決することを警戒されて、厳重な監視下に置かれ、用便の際にも憲兵が付いていたといいます。なお、原田少佐に対して「名誉の戦死をとげた」と書かれている出版物を渡して自決を迫ったという話もありますが、これは誤りのようです。ソ連に抑留中に、自分の戦死を賞賛する日本の新聞報道に接したことから、自ら覚悟を決めたというのが真相でした(資料22・上75頁)。
 しかし、明らかに強制があったと見られる例もあります。一人の将校は取り調べに対して、負傷して捕虜になったことは恥じないし、我々を盾として逃げた「○○○の生きている間は我々も死ぬ必要なく生還を恥ずる必要なし」(原文カタカナ)などと答えていたようです(資料19。なお*2参照)。この将校も入院中に「自殺」したとされますが、発言からすると、とうてい納得しての自主的な行為とは思えません。
 将校が捕虜になるという現実が、陸軍の名誉のためにとうてい受け入れがたいものであったため、本人の意思に関わり無く自決処分とされたと評価するのが妥当でしょう。

 ただし、自決以外に、家族と連絡を取らず身分も明かさないことを条件に、変名で満蒙開拓団に参加するという提案も、航空将校2名に対して行われたとする三好中佐(当時。航空兵団参謀)の後の証言があるようです。ブラジル移民として処理する献策をしたという別の将校の証言もあります。しかし、少なくとも原田少佐はこれを拒絶し自決を選んだと、いずれの証言者も述べています(資料22・75~76頁)。
 なんらか、こうした非公式な救済策が検討された可能性はありそうです。温情的といえばそうですが、そもそも捕虜になることが罪ではないのを考えると、やはり妥当な処遇とは言いがたいと私には思えます。

 なんらかの救済の動きはあったにせよ、陸軍刑法と正規手続きでは死刑とならないだろう捕虜将校たちは、結局非公式手続きによって死を選ばされ、「名誉の戦死」を遂げることになったのです。(つづく


注記
*1 本文公開後、満州国軍の日本人将校1名が確認できました。元は日本軍の将校のはずで、あるいはこの人物が不明数のうちの1人かもしれません。

*2 引用文中の○○○の伏字につき、皇族軍人で途中で転属となった東久邇宮盛厚中尉のことではないかとの仮説を立てている研究者もいるようです。
 しかし、私は第23師団長であった「小松原」中将だと思います。ソ連軍の従軍作家シーモノフが、捕虜となった日本軍将校から、「小松原が満州へ飛び去った。反撃準備の表向きだったかもしれないが、じつは単に自分が助かるためだった」旨の言葉を聞いたとしており(資料10・157頁)、これが帰還将校と同一人物と考えるからです。

ノモンハン捕虜の運命(第5回)

4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(4)下士官兵のその後
 将校に比べると、下士官兵については、まだ緩やかな処分で済んだようです。
 第1回交換者ではごく一部が起訴されたほかは、全員が部隊長から懲罰処分を受けています(資料17)。おそらく第2回交換についても同様でしょう。下された懲罰処分の内容は様々だったようで、重営倉3日や重謹慎20日などの例があります。懲罰処分はそのまま新站陸軍病院で実施されたようで、特に作業などはなく、軍人勅諭の暗唱をするなどして過ごしたといいます。

 懲罰処分終了後、簡単な精神教育などを受けて、兵役満了まで部隊へ再配属されました。元の部隊へ戻されることはなく、外地の部隊へ分散して配属になったと言います(資料14・276頁)。
 例えば、満州東部国境で建設任務に当たる秘密部隊に配属されたという人がいます。一種の懲罰部隊「教化隊」だったと思われます。正規の陸軍教化隊は姫路にあった1個のみですが、これに類する素行不良者を集めた部隊は関東軍にも設けられていたようです。
 傷病兵については新京陸軍病院に移され、きちんとした治療を受けています。ある傷病兵の場合、内地の相模原陸軍病院へ転院になり、満期除隊まで入院していたといいます。内地での面会は自由だったといいます。元教官の将校が個人的に手回しをしてくれたようで、かなり幸運な部類なのでしょう。
 兵役満了後、少なくとも一部は普通に満期除隊して、日本へ帰還できたようです。例えば前掲の相模原陸軍病院へ移った方は、故郷へ帰って生活しています。ほかにも東京で花屋を開業した例も有るようです。再就職先は軍が世話したといいます。
 再召集を受けて部隊配属された例もありますが、南方の第一線部隊への配置は免れたようです。軍人として信頼できなかったのでしょう。ただ、中には樺太の歩兵部隊に送られて、太平洋戦争末期に再びソ連軍の捕虜となった兵の例もあります(資料22・上84頁)。

 肉親への連絡は広く行われたようで、第23師団から内地の連隊区司令官に対して、帰還者家族への連絡要領について出された命令が残っています(資料18)。戦死扱いになったものは靖国神社に祭られてしまっているから生還が許されなかったという話がありますが、この命令は戦死として処理されてしまっていた17名についてのものなので、事実とは異なる俗説のようです。この命令では、不起訴となったことで捕虜としての汚名は消滅したのだから、家族に資料提供してその旨を十分に説明し、名誉回復に配慮するよう指示されています。特に、重傷で人事不省に陥ったケースなどについては、その功績を賞賛すべきとまで言っているのは、西洋的な捕虜観と通じるものがあり興味深いです。
 家族のほうでは戦死したと思っていたので、生存を知って大騒ぎだったようです。中には行方不明からの認定戦死ではなく、上記17名中7名のように「腹部盲管銃創」などの検死結果までついたり、遺骨が渡されていたケースもありました。戦死誤認の多発は軍内でも問題視されています(資料20)。なお、家長が軍から生存通知を受けたものの、他の家族には明かさなかったというケースもあるようです。
 ここで、ノモンハン事件では公式には捕虜は無かったことになっているという類の話もありますが、実際には捕虜の存在は公式に認められて、「極めて少数かつ重傷患者」(大阪朝日新聞・昭和14年9月20日夕刊)という具合ながら新聞記事でも捕虜交換が報道されています。第2回捕虜交換交渉が難航していることも報じられていました(大阪毎日新聞・昭和14年10月22日夕刊)。ただし、帰還者個人が捕虜であったことを明かすことは禁じられており、警察官が毎日様子を確認に来ていたという方もいます(資料14・276頁)。

 資料15の捕虜の処遇方針では、本人の希望があれば外地定住を斡旋するという一項がありました。実際にこの道を選んだ例も有るようです。第2回捕虜交換で帰国した航空隊下士官の1人は、有罪判決を受けて1942年末まで関東軍刑務所で服役後、満州国軍へと入隊して活躍したといいます(資料12・345 頁。なお*1)。ほかに満州国警察の警官に採用された例(資料22・上79頁)、満蒙開拓団に入った例もあります。
 「本人の希望」を口実に軍が事実隠蔽のために用意したとも見えますが、建前どおり本人を守るという配慮も大きいのだと思います。当時の市民感情からすると、捕虜一家は村八分となるおそれも強かったでしょう。前掲の相模原陸軍病院に入院した方の場合も、当初は偽名を使って満州に残ることを希望していたのが、元教官に説得されて故郷に帰ることになったと言います。

(5)小括
 苦戦の末にやむなく捕虜となって生還したものに対して、日本軍の処遇は酷で理不尽なものでした。特に将校に対しては、自決強制の方針が陸軍省から指示され、本人の意向に構わず自決が迫られました。下士官兵については、一部は敵前逃亡罪として起訴投獄され、多くの者は懲罰処分の後に再配置されました。拡大解釈による公式処罰と、もろもろの非公式な不利益取り扱いが行われたのです。
 満期後も故郷に帰らず満州国軍に転身した者もあり、これは軍の処遇方針にも予定された措置でした。世情を考えれば本人のためでもあるにしろ、幸福な運命ではないでしょう。
 もっとも、手厚い看護を受けたうえ満期除隊して帰郷できた者もあり、人事不省の末に捕虜となった者を賞賛するなど、軍が一定の配慮を示した面も見られました。(つづく

注記
*1 満軍入隊した人数について。引用の資料12には2名とあるが、第2回送還者のうち1名は自決を図り後遺症を負っているため従軍できる状態にはなく、1名の誤りと思われる(資料22・上80頁)。

キウイの収穫

 今日は雨が降ったり止んだりで寒い一日でしたが、昼頃に少し晴れ間が出たので、庭のキウイフルーツの収穫をしました。

 kiwi.jpg spider.jpg

 右の蜘蛛の巣の写真は一昨日の夕方のもの。今日はいなくなっていました。

 今年は少し枝を落としすぎたせいか、例年よりも少なめでしたが、それでも47個を収穫できました。本当はもう1個あったのですが、鳥につつかれてしまったのか、穴が開いていたので木守りに残しました。
 そのうちリンゴを買ってきて、一緒に袋詰めして熟成させようと思います。

今度はメバチ

 先日、東大西洋のクロマグロについて漁獲規制強化や養殖による対応という報道がありましたが、今度はメバチマグロの漁獲も規制強化という話が入ってきています。

メバチ30%削減を=事務局が提案-中西部太平洋まぐろ委」(時事通信12月1日)
「太平洋中西部のマグロ資源を管理する中西部太平洋まぐろ類委員会(WCPFC)事務局がメバチマグロ漁獲量の30%削減を提案していることが分かった。8日から韓国・釜山で開かれる年次会合で議論される見通し。」

 メバチマグロはクロマグロよりも安いマグロとして流通しており、普段の食事にも影響が出そうです。

 日本は、「漁業者への影響が大きい」として直ちに削減には応じられないとしているといいます。
 今回問題になっている中西部太平洋水域では、2006年の場合、太平洋全体のメバチマグロ漁獲量22万6千トンのうち、約半分の12万3千トンを占める水揚げがされています。さらにそのうち、最大割合の約3万6千トンを日本船が水揚げしているようです。たしかに、日本の漁船が最大の影響を受けることになります。
 ちなみに、日本以外ではフィリピン、インドネシア、韓国、台湾などが多いとされます。特に、ここ数年で2万トンを漁獲するようになったインドネシアの伸びが目立ちます。単にこれまで捕捉できなかった暗数が表出してきたという面もあるのかもしれませんが、気になるところです。

 では、肝心の資源状態がどうかというと、日本の調査では1970年以降の総資源量は、ほぼ安定しているということです。1970年以前に比べると絶対的な資源量は減っているものの、加入量が増加しているため、資源が安定利用できているようです。現在の資源水準のほうが、再生産が増え利用が最大効率化する資源量(MSY水準)に近いのだそうです。
 初期資源量に対する現在の資源水準は、仮説によっては海区平均で28%と言い、一見するとぎょっとする数字です。この数字を出して、マグロは絶滅寸前といわれれば、納得しそうです。
 しかし、これでも理論上MSYを上回っており、もっと資源量が減るような漁獲をしうるといいます。(絶対数を減らしすぎると、加入量が減った場合に劇的な影響になるでしょうから、単純にもっと減らしたほうがいいとはいえないでしょうけど。)
 結局、現状の捕獲では乱獲とは言えないと結論付けています。もっとも、高い加入量が続かない場合、資源枯渇につながるとは言います。

 個人的な感想としては、漁獲統計上の暗数や、資源推定の不確実さ、絶対的な資源量減少による冗長性の小ささ、インドネシアなどの急激な伸びなどを考えると、早めに手を打っておくのも必要だろうとは思います。特に、今のところそれほどではない中国の漁獲が、今後増加する蓋然性からすると、そう思えます。だいたい、マグロなどの大型魚を食べすぎという気がするのは、さておいても。
 ただ、一応、科学的に見ると、日本の主張がそんなにおかしいわけでもないとは言えそうです。


参考
平成19年度 国際漁業資源の現況 」(独行法・水産総合研究センター)
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山猫男爵

Author:山猫男爵
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