山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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ノモンハン捕虜の運命(第2回)

2.ソ連側の捕虜について
 日本側だけでなく、ソ連側にも捕虜は発生しています。例えば5月20日には早くも1名が満州国軍に捕らえられています。その総数は、ソ連兵84名(資料8・156頁)とモンゴル兵11名と考えられます(資料5、資料7、資料9)。

 捕虜となったソ連兵は、日本側の支給する食料に一応満足していたようです。資料14に載っている写真を見ると、山盛りの乾パンらしきものを、茶色の飲み物と一緒に食べています。傷の手当てを受けた捕虜も写っています。
 他方、ソ連側の資料では、ぼろぼろの被服を着用させるなど過酷な取り扱いを受けたとしています(資料10)。たしかに写真に移っている捕虜はソ連軍の被服をそのまま着ているようです。
 しかし、ある日本軍将校によると捕虜は歯ブラシやタオルなどを支給されていたといい、残虐な取り扱いではなかったものと思います。もしぼろぼろの衣服というのが事実なら、大量の日本軍物資を鹵獲したソ連側と違って、日本側では着替えのソ連軍衣料は用意できなかったためではないでしょうか。

 なお、このほかに張鼓峰事件の捕虜や国境侵犯で拘束されていた抑留者があり、一緒に捕虜交換交渉の俎上に上っています。ソ連側は張鼓峰事件の捕虜2名、中国戦線での捕虜1名などの返還を求めたようです(資料7)。


3.捕虜交換について
 ノモンハン事件停戦直後の1939年9月27日頃に第1回捕虜交換、外交交渉を経た翌1940年4月27日の第2回捕虜交換の2度の捕虜交換が行われています。

(1)第1回捕虜交換
 現地停戦交渉にもとづく第1回交換では、日本側捕虜として88名が送還されています。うち約半数は負傷していたといいます。将校は1名のみ含まれています(資料11)。前述のように6名が満州国軍の軍人軍属でした。資料11は満軍捕虜を5名としますが、軍属1名が抜け落ちたのかと思います。
 同時に日本軍将兵の遺体の引渡しも行われています。55体の航空兵の遺体のほか『その他』の遺体4体が引き渡されました(資料11)。『その他』の意味するところが不明ですが、五味川は捕虜として拘束中の死亡者と推測しています(資料2・238頁)。
 一方、日本側からソ連側には、ソ連人捕虜77名とモンゴル人捕虜10名が引き渡されています(資料9)。基本的に同数交換主義だったようです。あと3名が返還される予定でしたが、直前に取りやめになったといいます(資料8・156頁)。

(2)交換交渉
 その後、現地での交渉は難航し、10月10日頃を最後に交渉打ち切りとなったようです。ソ連側は未送還捕虜について少佐1名を含む7名だとし、もっと多数と推測する日本側と対立しました。日本側の照会・再調査要求に対しては、「白々しく」未確認は2~3名だと思うが案外多いかもしれないと、はぐらかしたといいます(資料4)。
 ソ連側は、モスクワの指示に従って、第1回の残り3名のほかに10名の返還請求をしていました。これは実は既述のノモンハン事件以外の捕虜・抑留者だったのですが、その点が明確でなかったため、残り3名きりだとする日本側と行き違いを生じたようです。事件外捕虜については、日本側現地軍の交渉権限を越える面もあり、これらが交渉が止まる原因となったと思われます(注記参照)。

 代わって外務省を通じた交換交渉が、国境線画定や通商交渉などと並んで行われることになります。日本側の東郷大使と、ソ連側のモロトフ外相・ロフスキー次官の間でたびたび会談が開かれています(資料7・527~529頁、資料23・40~43頁、資料24・32~34頁)。
 当初、日本側の全数返還提案にモロトフも快諾し、交渉はスムーズに進むかに見えました。11月19日には、残る3名のソ連側捕虜の返還と引き換えに、日本側100名前後(うち半数以上が日本人)が返還されるとの数字も出ていました。第1回とは異なり、同数返還といった条件はありません。
 ところが、12月3日に至って、突如としてロゾフスキー次官から、残りの捕虜は3名ではなく20~30名だという確証があるとの主張が出てきます。そして、日本側が3名しか返さないなら45名しか返せないと、後退してしまいました。日本側は事件外の抑留者なら23名あると答えますが、納得されず、交渉は再び暗礁に乗り上げてしまいます。
 心底困ったであろう日本側が必死に調査したところ、送還済み捕虜の一人が、事件外抑留者23名と接触していたことが判明します。翌1940年3月17日にそのことをソ連側に通知したところ、ようやくモロトフを納得させることができました。
 こうして全数返還主義による第2回捕虜交換協定が妥結します。3月26日にまず45名の返還者名簿が日本側に渡され、4月15日に残余71名の名簿が交付されました。ソ連側の説明では、これで帰国拒否者を除く全数だとされたようです。

(3)第2回捕虜交換
 この結果、第2回交換では116名の日本側捕虜が引き渡され、このうち13名は前述のように停戦後の戦場抑留者です。資料13は第2回送還者を204名とし、これを引くサイトもありますが、第1回と第2回の合計が誤認されたものでしょう。
 日本側からは、ノモンハン事件捕虜2名です。本来はさらにモンゴル兵捕虜1名が送還される予定でしたが、その前に病死してしまったとされます(資料7・ 529頁)。ワルターノフは、日本側がソ連人捕虜を結局77名しか帰さなかったとしていますが(資料8・156頁)、この第2回分の2名を忘れてしまっています。
 その他、事件外抑留者である9名のソ連人も返還すべきものとされ、ソ連側に名簿が交付されています(資料5)。内訳は、事件外捕虜2名、偵察機乗員1 名、郵便機乗員2名、民間船員4名です。しかし、これについては実際の送還は別の機会に先送りされてしまったようで、実現したのか確認できませんでした。

 第2回で返還された純然たる捕虜103名について、日本人の数が問題です。クックスによると64名が日本軍捕虜で、39名が満州国軍といいます(資料14・下269頁)。
 ここで資料5に含まれる関東軍から陸軍大臣宛に送られた電文(関参一電611号)では、下士官6名と兵54名だと記していますが、明らかな「間違い」です。第2回送還者には、少なくとも飛行第1戦隊長の原田文雄少佐ら2名の飛行将校が含まれているはずですが(資料14・下270頁)、右の電文に表れていないからです。おそらく将校を除いた数字でしょう。除かれた理由は後で検討します。

(4)小括
 2回の捕虜交換で、日本軍146名と満州国軍45名の捕虜が生還したことになります。(つづく


注記
 この点、ワルターノフが言う日本側が残した捕虜10人(資料8・147頁)というのも、いまだにこの事件外抑留者の返還問題を誤解しているのではないでしょうか。
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続々・宮崎連隊はノモンハンで勝ったか

承前)こうして考えると、ノモンハン事件で宮崎部隊が大勝利をしたという見方は、明らかな誤りなのではないでしょうか。戦力比を見誤って中途半端な兵力を動かし、大火傷をした事例と評価するほうが、妥当でしょう。
 当時はすでに積極行動停止が中央から指導されている状況でした。投入が歩兵第16連隊のみとなったのは、現場の裁量として黙認される上限だったからでしょう。現場の裁量範囲を基準に、客観的には中途半端な戦力を出して損害を積むというのは、ノモンハン事件全体の構造によく似ているように思います。
 攻勢実施は上級司令部の責任であったとして宮崎大佐の指揮だけに限定して評価しても、際立っていたといえるか疑問です。秦郁彦も指摘している通り、昼間攻撃となることを考慮せずに第2大隊を東山に向けたのは失策でしょう。ただ、夜間に迅速な後退をしたことは、引き際の判断として正常であったと言えます。(仮に攻撃が宮崎大佐の独断であったとすれば、問題外なのはいうまでもありません。)

 結果の勝敗を別に、ハンダガイ攻勢はそもそもの戦略的価値からして不明な作戦と思えます。同時期のアルシャン西方の攻勢は、鉄道端末の安全確保という戦略価値があると理解できます。これに対してハンダガイ方面の904高地付近のみ確保しようとした作戦は疑問です。渡河地点確保ならば歩兵第30連隊も動かさねばあまり意味はなく、ハンダガイの安全確保には南方対岸が敵勢力圏なのでやはり無意味に見えます。少なくとも、和平成立を危うくし、1個大隊大破するまでの価値があったとは思えないのです。
 わずかでも領土を取って有終の美を飾りたい、一部将校の虚栄心からの作戦だったような気がします。そうであったなら、最後の最後までノモンハン事件は「現場の暴走」だったということになりそうです。
 一体誰の判断で実施されたのか、もう少し詰めて検討してみることが必要かもしれません。

追記
 ノモンハン戦に参加した須見新一郎大佐は、ソ連側の測量がいい加減なところを取っておけというようなことだろうと戦後の座談会で述べています。

参考文献
防衛研修所戦史室「関東軍(1)対ソ戦備・ノモンハン事件」(戦史叢書、朝雲新聞社、1969年)
ノモンハンハルハ河戦争国際学術シンポジウム実行委員会
 「ノモンハン・ハルハ河戦争―国際学術シンポジウム全記録 1991年東京」(原書房、1992年)
秦郁彦「昭和史の謎を追う(上)」(文春文庫、1999年)
マクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」(大日本絵画、2005年)
シーシキン他「ノモンハンの戦い」(岩波現代文庫、2006年)
「満蒙現地国境画定委員会(昭和十六年度作業関係)(「チタ」、現地及哈爾賓)」
  (JACAR:B02031260400)
欧亜局第一課「10 昭和十六年度執務報告1」(JACAR:B02031358500)
藤本泰久『石坂准尉の八年戦争』(「知識の殿堂」より)

続・宮崎連隊はノモンハンで勝ったか

承前)日本側、ソ連側の双方とも、この戦いの勝利を主張しています。
 宮崎大佐の歩兵第16連隊は第2大隊長以下183名が戦死し、99名が負傷する大損害を受けています。ソ連側の記録によると速射砲2門も鹵獲されたようです。死傷者に占める戦死の比率が異常に高く、牛島康充は「戦傷者を戦場に放置して退却したことを証明する以外の何ものでもない」(シンポジウム・92 頁)と推測しています。私もこれに同感で、鹵獲兵器が出ている点とあわせると、重傷者・重火器を収容しきれないまま夜陰にまぎれて後退した惨状が想像されます。
 他方のソ連側損害は、日本側記録によると遺棄死体約70体、撃破戦車20両・装甲車2両といいます。軽微ではありませんが、戦車が後衛となって整然と後退している状況からすると、決定的打撃は受けていないと思われます。夜間になれば戦車が補給などのために後退するのは自然なことですから、先に戦場を去っていても敗退という感じではありません。
 損害面から見ると日本側が勝ったとは言いがたく、せいぜい引き分けでしょう。

 占領地域を見ると、日本側は997高地の確保に成功しています。この点で、明らかにソ連領側主張線を破っています。日本側の主張線であるハルハ河には及ばないにしても、一定の成果です。
 ソ連側はエリス山(904高地・東山・南山)を防衛できました。10日のソ連軍後退後、日本軍が一角を占領していたとも思われますが、既述のとおり第2 大隊などは夜明け前に攻勢発起点に退却しています。日中に対岸のソ連砲兵から攻撃を受けることが予想されたため、確保はあきらめたのでしょう。997高地の第1大隊が制圧砲撃を受けて、非敵側斜面から身動きがとれずにいた状況からすると、賢明な判断だったと考えます。
 領土面から見ると、停戦までなら日本側がわずかながら勝利を収めたと言えそうです。
 なお、占領地点を標識する石碑設置の件ですが、よく言われるように宮崎大佐の発案であったかは多少の疑問があります。9月19日に歩兵第30連隊も石碑を設置していますが、これは第6軍の命令があったそうです。

 ただ、領土面も、最終的な国境画定まで考えると、日本側の敗北と言えそうです。(画定された国境の地図はこちら
 停戦後の国境画定交渉で、日本側は904高地南4キロの地点を通過する線を主張しました。戦前の主張線はハルハ河でしたが、占領状況からして無理がある主張と思ったのでしょう。
 しかし、1941年の最終協定では、ソ連側主張線が全面的に採用されています。すなわちエリス山(904高地ほか)はモンゴル領で、国境線は997高地(協定の「オンドル」地点と思われる)を経由するものとされました。日本側は、占領していた997高地だけは満州国領だと認めさせようとしたようですが、最終的に譲歩しています。交渉材料としては機能したかもしれませんが、結果を見る限り宮崎部隊の攻勢は無に帰したわけです。
 なお、さらに東のアルシャン地区では、後藤支隊(第1師団の一部)と独立守備歩兵第16大隊などの駆け込み攻勢が成功して、領土確保につながっています。(つづく

宮崎連隊はノモンハンで勝ったか

 日本陸軍の「不敗」の名将の誉れ高い人物に、宮崎繁三郎がいます。
 ノモンハン事件においても、第2師団の歩兵第16連隊を率いて、敗戦の中で唯一の勝利を収めたと言われます。例えば戦史叢書においても、「歩兵一六連隊(宮崎繁三郎大佐)が、たちまちにして優勢な外蒙騎兵を撃破し、この方面の戦略態勢は急速に我に有利となった」(717頁)としています。停戦後に占領地に石碑を立て、それが証拠となって国境が日本側有利になったという話もあります。
 さて、こうした話は、ソ連・モンゴル軍の資料も公開されてきた現在、どの程度正確といえるのでしょうか。別宮暖朗は「近時ソ連で公開された文書はそれまでの説をすべて覆しています。(引用中略)宮崎連隊の南方突出のため領土交渉さえ失う方が多かったという結論です。」(掲示板過去ログ)と述べますが、本当でしょうか。

nomonhan_map3.png 歩兵第16連隊(宮崎部隊)の戦場となったハンダガイ(ハンダガヤ)西方地区(ノモンハン全体地図は別記事参照)は、6月末に小競り合いがあった程度で、9月初頭まではおおむね平穏な状態でした。970高地、944高地などに満州国軍の石蘭支隊が展開して警戒していました。(石蘭支隊一部の集団投降は970高地付近で発生した事件です。)ソ連側はエリス山(904高地~東山一帯か)のエリス・オリーン・オボを国境の目安とし、885高地・904高地を占領して、997高地などにも歩哨を出していたようです。
 8月下旬に主戦場のノモンハン方面で第23師団が壊滅した後、日本軍はハンダガイ方面へと増援部隊を送り、大規模な反撃を計画します。宮崎連隊もその一部で、第2師団歩兵第15旅団(旅団長:片山省太郎少将。歩兵第16連隊及び第30連隊)基幹の片山支隊として、アルシャン経由で9月3日にドロト湖付近に到着しています。

 参謀本部などの指示で大規模反撃は中止されるのですが、片山支隊はハンダガイ西方での小規模攻勢を実施することになります。歩兵第16連隊は997高地、歩兵第30連隊は885高地を攻撃、独立歩兵第29大隊(第5独立守備隊所属)も参加する計画だったようです。決行は9月7日夜とされました。
 9月4日、エリス山のソ連軍(第80狙撃兵連隊の1個中隊)は、日本軍6名を倒して1個大隊を撃退したと主張しています。この頃、日本側は事前偵察の将校斥候を出しており、おそらくこれを誤認したものと思います。歩兵第16連隊の将校斥候は苦戦して、負傷者1名を出したようです。
 ところが南クヨヨ高地などの攻撃発起点に配置が終わった後の9月7日、作戦中止が伝えられます。歩兵第30連隊のある准尉は「憤懣にも似た気持ちで切歯扼腕した」と言います。

 しかし、なぜか歩兵第16連隊だけは翌8日夜に出撃します。宮崎大佐の独断専行とも、例の辻政信参謀の差し金との説もありますが、経緯は不明のようです。
 まず、第1大隊を997高地へ差し向け、軽い戦闘だけで未明には高地を占領しました。
 奇襲成功と見た宮崎大佐は、9日未明、予備の第2大隊を東山高地へ出撃させます。第2大隊は前進開始しますが、昼前に東山に接近したところでソ連軍機械化部隊の反撃に遭い、苦戦に陥ります。宮崎大佐は残る第3大隊と配属砲兵大隊を増援して対抗させました。歩兵第30連隊にも救援出撃が命令され、前進しています。
 ソ連側は、守備隊のモンゴル軍第8騎兵師団の第23騎兵連隊を救うために、ソ連軍の第603狙撃兵連隊、第6戦車旅団の1個大隊(約50両)が駆けつけ、第57狙撃兵師団の砲兵連隊が火力支援しました。航空支援もあったようです。ソ連側指揮官らは997高地占領を904高地方面への包囲運動と考えていました。そのため日本軍の本格的越境攻撃ととらえて、本腰を入れた反撃に出たものと思います。
 日没近い19時頃にソ連側は歩兵、戦車の順に後退し戦闘は終わります。宮崎大佐は追撃を断念し、10日の夜明け前に第1大隊以外は攻撃発起点に後退しました。

 997高地は歩兵第16連隊が占領したまま推移し、16日の停戦を迎えることになります。ソ連側は一時997高地の奪還を考慮したのか、付近へ兵力集中を行ったようですが、すぐに中止したようです。ソ連従軍作家のシーモノフは「面白いものが見られる」と言われて出かけますが、作戦中止で引き上げる大量の戦車部隊を見ただけに終わっています。
 なお、13日夜にも大隊規模の戦闘があったとソ連側は主張しており、日本側の記録にも904高地付近で多数の照明弾や銃声が観測されていますが、実際に戦闘をしたという記録には接していません。(つづく

ノモンハン事件後の国境線

 ノモンハン事件後の外交交渉では国境線画定の交渉が行われました。
 チタやハルピンでの会談の後、モスクワでの1940年6月の会談で一応の協定に達しています。範囲はボイル湖以東、アルシャンに至るまでのハルハ河流域です。ソ連側はアルシャン地区を対象とすることには難色を示したようですが、現に戦闘が行われた地域だとの日本側主張が通っています。
 ただ、現地作業段階で、地図上にはあったオボが現存しなかったなどの問題から一時中断。最終協定は1940年8月15日、現地作業完了は同年10月15日にずれ込んでいます。

 画定後の国境についてあまり良い地図が無いようなので、かなり適当ですが作図してみました。戦史叢書「関東軍(1)対ソ戦備・ノモンハン事件」収録の地図を基礎としています。なお、戦場の詳細地図は別記事参照
nomonhan_map2.png ソ連・モンゴル側主張線は、戦史叢書において、日本側が鹵獲した地図によるとされているものを基本としています。(主張線外としましたが、1417高地についてはモンゴル政府は自国領だと考えているふしもあります。)
 日本側主張線も戦史叢書のハルハ河という記述にしたがっています。(しかし、戦史叢書の付図の中には、一部地域でハルハ河以南に国境線を描いてあるものもあります。)
 確定国境線は、1941年の現地作業終了時に作成された、満州国とモンゴルの協定書に基づいて推測した線です。ハンダガイ南東の三角山から、南のヌムルグ河(ネメルケン河)に入り、その第一支流を東方に遡っています。

 見ての通り、ほぼソ蒙側の主張国境通りの線引きです。日本軍が駆け込み攻勢を行ったハンダガイ西方地区も、結果としてソ蒙側主張が通ったようです。宮崎繁三郎大佐が率いる第16連隊の活躍で日本側が領土を獲得したというのは、最終結果を見る限り、伝説に過ぎないと思います。この点は別記事をご覧ください
 唯一、アルシャン地区の線引きは、モンゴル政府が非常に不満だったようです。こちらでは停戦間際に日本軍の後藤支隊(第1師団の一部)と独立守備歩兵第16大隊などが三角山を駆け込み占領したことが、線引きのポイントとなりました。あるモンゴルの将軍は、500平方キロが失われたと言っています。なお、この一帯は、グーグル・アースの国境線では停戦協定と異なってモンゴル領になっているのですが、中国が実効支配しているようです。中国の観光地図では、ノモンハン停戦後の確定国境線が明確に現国境として載っているものがあります。
 いずれにしろ、面積ではソ蒙側が勝利したといって良さそうです。アルシャン地区で互角の面積を占領したという言説を目にしたことがありますが、地図のとおり、まるで及ばない結果でした。

ノモンハン地名リストと詳細地図

ノモンハン事件関係の地名などをあれこれメモ。
それから、作成した戦場地図を掲載。
なお、停戦後の国境画定については別記事の地図参照。

nomonhan_map1.png
<地形>
・ゴル:河川。ゴール。
・ノル:湖沼。ノール。
・~水:湖沼のうち淡水のもの。
・~湖:湖沼のうち塩水のもの。
・オボ:石積み。モンゴルの道祖神らしきもの。オボー。
・スメ:廟。仏教寺院。
・オーラ:山。「~オリーン・オボ」は「~山オボ」。
・ウンドルルク:丘。

<一般地名>
・ノモンハン:ノモンハン・ブルド・オボ。ノムハン。ソ連側主張国境要点。
・将軍廟:日本側前線司令部所在。ジャンジン・スメ。(ソ連側一部地図ではヨシマル付近に誤記)
・デブデン・スメ:ソ連側地図では満州領内ドロト湖北方12km付近だが詳細不明。しばしば将軍廟と混同。
・ハロンアルシャン:阿爾山。温泉。日本側鉄道端末の一。ハンダガイ南東。
・ハイラル:海拉爾。日本側鉄道端末の一。第8国境守備隊駐屯の要塞在り。
・ウズル水:ノモンハン西の小池。(ソ連側のウズル・ノルはアブタラ湖?)
・バイン・ツァガン山:白銀査干山。日本側渡河点対岸の高地。
・ハマル・ダバー山:810高地。ソ連側前線司令部所在地。ハルハ河屈折点西岸台地。
・タムスク:タムサク・ボラグ(美味なる泉)。ソ連側航空基地。
・三角山(ヌムルグ河畔):1031高地。マナ山の一部(南東の日本側呼称ハルハ山が頂上か?)
・ネメルケン河:現在の表記はヌムルグ河が一般的か。
・ヤンフー湖:ソ連側呼称。フイ高地北東の満州領内。ソホルマルテ湖?

<戦場地名>
・フイ高地:721高地(海抜721m)の「21」の語呂。パーレツ高地(指高地)。溥儀に由来は誤伝。
・ノロ高地:742高地。語源はノゴー・ウンドルルク(緑ヶ丘)?
・川又:ハルハ河・ホルステン川合流点。
・バルシャガル台地:川又北西の台地。レーミゾフ高地。
・733高地:バル西高地。バルシャガル台地西部。738高地としばしば混同。
・イミ高地:753高地の「53」の語呂。
・クヨヨ高地:944高地。
・フラト・オリーン・オボ:ソ連側国境屈折点。970高地?
・南クヨヨ高地:南944高地。ハンダガイ西方。
・997高地:エリス・オリーン・オボと同じとする資料があるが誤りか?
・904高地:歩兵第16連隊(宮崎部隊)激戦地。エリス・オリーン・オボと略同。
・ヨシマル:ドロト湖畔。安岡支隊集結地跡。
・タマダ:ハンダガイ西方。安岡支隊ハルハ河渡河の予定経由地。
・コマツ台:川又対岸高地。「小松」原師団長より命名。
・ハラ台:コマツ台北方高地。小松「原」師団長より命名。
・廃墟:フイ高地対岸付近のソ連側地名。イヘ・ボルハン廟(ベイスン廟)の跡か?
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
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Twitter:baron_yamaneko

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