山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --:-- | Top  このエントリーをはてなブックマークに追加

ノモンハン捕虜の運命(第1回)

1.日本側捕虜の総数について
(1)従来の状況

 第二次世界大戦直前の1939年に起きたノモンハン事件では、当時の日本軍としては大規模な捕虜が発生したことで知られます。
ノモンハン事件で捕虜となった日本側兵士たち しかし、その総数は長らく不明とされてきました。日本陸軍第6軍軍医部作成の史料による生死不明1021名という数字が、近似値として挙げられることが多かったように思います。憲兵の回想による帰還した者だけで700名以上、あるいは生還捕虜自身による推定として3000~4000名以上という数字もあり、日本の損害隠蔽を疑う見解も存在しました(資料2・下 241頁)。
 ソ連側の史料としては、捕虜566人(うち88人は交換)とするものがあります(注1)。また、ソ連の研究者のアレクセイ・キリチェンコは軽傷捕虜503名という説を述べていました(注2)。

(2)新史料の評価
 この捕虜総数の問題は、あるソ連側史料の発見により解決されたと考えます。比較的最近のNHKによる調査で知られるようになった2つのソ連軍作成の名簿のうちの一つで、「捕虜交換後の捕虜名簿」(文書32113-1-294-61~65)と称する史料です(以下便宜上「NHK史料」と呼ぶ)。
 これによると第二次ノモンハン事件で発生した日本側捕虜の総数は227名とされています(資料1・217~221頁)。

 このNHK史料には第1回捕虜交換の送還者として88名と記載があるところ、日本軍の記録(資料5)と一致しています。資料1の著者である鎌倉は、 NHK史料の捕捉範囲が総数か含みを持たせていますが、右のように第1回交換の全体像を把握できている史料なので、総数と考えるのが素直でしょう。
 また、ソ連軍戦史部のワルターノフ大佐(当時)が1991年の国際シンポジウムで明かしたところによると、1939年9月17日に現地のジューコフ司令部から方面軍に送った捕虜獲得数についての電文があるといいます(資料8・153頁)。このジューコフ電文には拘束中の死者6名、モスクワに移送した者 10名という数字があるところ、これらはNHK史料の数字と一致します。
 このような史料間の一致、日本資料との一致からするに、NHK史料はきわめて信頼性の高い、しかも捕虜総数のわかる史料と考えます。

 ただし、ワルターノフは、特に根拠史料は明示しないものの、満州国軍の捕虜は1800名との非常に大きな数字も示しています(資料8・248頁)。これが正確であればNHK史料に記された満州国軍兵の数とはまるで違ってしまい、史料の評価を変える必要が出てきます。少なくとも総数でない可能性が高いことになります。
 しかし、あまりに唐突な数字であり、根拠も不明で疑問です。当時の日本軍による推定で、第一次交換で未帰還の満州国軍の捕虜・行方不明約280名という数字とも矛盾します(資料3)。この280名という方は一見NHK史料とも食い違いますが、後述する集団脱走者を含んだ数字と考えれば、NHK史料と極端に差がある値ではなく、それほど問題とはなりません。
 結局、現時点では、前述のようにNHK史料を総数として信頼してよいと考えます。

(3)満州国軍の捕虜
 日本「側」としたようにNHK史料の227名には満州国軍からの捕虜を含んでいます。第1回交換後の待機者40名と帰国拒否者3名について満州国軍所属だと明記されています。
 このほか日本側記録(資料3)によると第1回交換での送還者のうち6名は満州国軍と判るので、全体で49名以上は満州国軍の捕虜ということになります。

 他方、ジューコフ電文では、226名中155名が日本人で、71名が中国人・朝鮮人・モンゴル人だとしています。仮にジューコフ電文の226名とNHK 史料の227名が、単に未把握だった1名の追加をしただけの違いとすれば、ほぼそのままの内訳になるはずです。NHK史料には明示されていない満州国軍兵が多いのかもしれません。
 ただ、この点は単純な1名追加と断定する根拠を持ちません。ノモンハンで202名が戦死したとされる満州国軍の日系兵士や、日本軍に参加していた朝鮮特別志願兵の扱いの問題もあります。参考にとどめるのが妥当と考えます。

 なお、満州国軍の石蘭支隊からの集団投降者234名(資料2・下23頁)ないし250名(資料4)は日ソいずれでも別枠のようです。これについてはソ連側が強硬に引き渡し拒否しており、捕虜というより亡命者という扱いになっていたのでしょう。当時の参謀次長によると「エミグラント」と称していたといいます(資料21)。
 さらに個別の脱走者13名もあったようです(資料6)。こちらもおそらく捕虜総数には含まれないと考えます。

(4)停戦後抑留者を含むか
 もうひとつ問題なのは、第2回交換で帰国した抑留軍人軍属「加藤大尉以下13名」(資料5)が含まれているかです。
 これらは、停戦後の9月27日にソ連側に拘束された軍人だったようです(資料7)。資料6で14名となっていたのが、交換時の資料5では13名となっているのが不思議ですが、ただの誤認だったのかわかりません。
 加藤大尉らの拘束以前に作成されたジューコフ電文の総数226名と、拘束以後のNHK史料の総数227名の差を単純に考えると、加藤大尉らは含まれていないことになります。

(5)小括
 したがって、捕虜となった日本兵は最大で227-49=178名と考えます。最小ではジューコフ電文の155名です。名簿の人名から、努力しだいで日本軍と満州国軍の内訳は確定できそうです。(調査後の資料は日本の防衛省防衛研究所に寄贈されたようなので、ある程度日本でも調査可能かと思います。)
 冒頭に述べたように事件直後の生死不明者は1000名を越えていましたが、その多くは草原に人知れず戦死していたのでしょう。第1回捕虜交換で82名が帰った後に、日本軍は未帰還捕虜が57~67名以上と推定していたこと(資料4)からも、行方不明の多くは捕虜ではなく戦死と見るのが妥当と考えます。
 後になされた生還捕虜による推定が大きな数となっている一因は、目撃した満軍の集団投降者を普通の捕虜と誤解したためではないでしょうか。(つづく


注記
1 566人とするソ連側文書について。
 出典は、三浦信行、ヤコブ・ジンベルグ、岩城成幸「“ノモンハン事件”の見直しをめぐって―日露の史料で読み解く“ノモンハン事件”の一側面」『AJ Journal』5号、2010年、76頁および注33参照。
 この史料の信ぴょう性は、後述の第1回捕虜交換の人数88人を正確に記録している点では、一見よさそうに思えます。しかし、戦死者数や負傷者数は著しく不正確なうえ、正確に出せるはずの引渡遺体の数すらも6281体と、日本側戦場掃除記録の4386体と大きく異なり、粉飾の可能性など疑問が残ります。

2 A・キリチェンコ推定について。
 上記のようなNHK史料からの推定とは異なり、ソ連科学アカデミー東洋学研究所(当時)のキリチェンコは、日本側の軽傷・投降捕虜の数は503名であると主張しているようです(資料27・上202頁)。キリチェンコはシベリア抑留などの日本人捕虜に関する研究で著名な人物で、元KGB大佐の諜報関係者とされます。平成3年に保阪正康との対談で語ったとされる数字で、有力な反対仮説であると思われます。
 これによると軽傷・投降捕虜503名のうち103名が捕虜交換で帰国し、400人がソ連側に残ったといいます。103名という数は、後述の第2回捕虜交換での純然たる捕虜の帰還数と一致しています。すると、第1回交換分及び死亡者を合せて、捕虜総数は597名以上という計算になります。
 しかし、キリチェンコの根拠とした史料が不明であり、評価を保留せざるをえません。最近とある筋から聞いた話によれば、キリチェンコはこの推定を撤回したのではないかともいいますが。
スポンサーサイト

はやぶさの帰還

 もう昨日のことですが。

「小惑星探査機「はやぶさ」の現在の状況について」
「-イオンエンジン再点火、地球帰還へ向け第2期軌道変換を開始へ-」
「本日イオンエンジンを再点火させて動力飛行を開始しました。イオンエンジンの再点火確認時刻は11時35分です。今後、平成22年3月頃までイオンエンジンによる加速を徐々に行い、地球帰還へ向けた第2期軌道変換を引き続き実施する予定です。」(JAXA)

 無事に再点火確認と。推進剤は十分に残っておるそうで、あとは最後の1基になった姿勢制御装置が持つかどうかでしょうか。
 順調に行けば1年後の2010年6月頃に地球にカプセル突入させる予定とのこと。お帰りなさいの準備には十分に時間があります。

太平洋戦争の日本軍捕虜人数

 太平洋戦争時に米軍捕虜となった日本兵の埋葬記録が、発見されたそうです。とても貴重な史料だと思われます。

『南方で捕虜死亡の日本兵6千人リスト、埋葬地など記載』
「発見されたのは、米国の戦争捕虜に関する情報機関が1952年3月に作成した『日本兵捕虜死亡者リスト』。計約400ページで、日本の軍人、軍属について、一部重複の可能性があるが、5979人のローマ字表記の氏名、所属階級、捕虜番号、死亡日、死因、埋葬場所の墓地名が記されている。」(読売新聞 2009年2月1日)

 ウルリック・ストラウスによると、太平洋戦争時に連合国軍によって捕虜とされた日本軍人・軍属の数は、1945年8月15日の停戦までに約48000人であったといいます。これは米軍及び英連邦軍によって捕虜とされた人数で、中国軍やソ連軍によって捕らえられた人数は含んでいません。このうち9000人強は植民地出身の軍属で、朝鮮半島と台湾がほぼ半々となっています。(もっとも別の箇所では総数を35000人ともしています。)
 また、厚生省の記録によると、終戦時に日本国外や千島列島に展開していた日本軍関係者の数は約330万人に上るとされます。このほとんどは連合軍の捕虜となったものと思われ、うち50万人ほどが米軍管理下に収容されたようです。
 今回発見された文書は、作成時期からすると、終戦時に降伏した日本軍捕虜を含んだ名簿ではないかと思います。

 なお、今回の文書が、連合軍による捕虜殺害があった証拠と見るのは、無理があるように感じます。終戦後の捕虜まで含んだ名簿だとすると50万人中の6000人であり、それまで南方各地で栄養失調状態にあったことも考えると、異常な高率ではないでしょう。
 玉砕した日本軍拠点、例えばタラワの死亡率の高さや、いくつかの証言から、連合軍側による投降日本兵殺害があったのは事実だと思います。
 しかし、それらの違法行為は、捕虜として正規の処理に乗せられないまま行われたと考えるのが自然です。今回のような埋葬記録には登場しない暗数です。少なくとも米軍の場合、ひとたび正規の手続きに乗ってしまえば、おおむね国際法に則った人道的処遇を受けられたと見るほうが、多くの体験談に合致するものと思います。

 いずれにしても、今回の発見で、少しでも最期の状況が判明したり、一部の遺骨だけでも故郷に帰すことができたりすることを切に願うものです。


参考資料
ウルリック・ストラウス「戦陣訓の呪縛―捕虜たちの太平洋戦争」(中央公論新社、2005年)
アジア太平洋戦争における海外からの引き揚げ」(「社会実情データ図録」より)
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
参加企画
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ
にほんブログ村 その他趣味ブログ ミリタリーへ
リンク
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール(不要ならそのまま):
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。