山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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人形つかい

ロバート・A・ハインライン「人形つかい」
 福島正実(訳) 原題:“The Puppet Masters” (ハヤカワ文庫、1976年)

人形つかい (ハヤカワ文庫SF)総合評価:★★★★☆
アメリカ大統領直属の秘密調査機関の捜査官サムは、「おやじ」こと局長と、赤毛の美人捜査官メアリとともにアイオワ州へ調査に向かう。異星人の円盤が墜落したらしいのだが、すでに多数の捜査員が消息不明になっているというのだ。
 現地に到着した一行が発見したのは、人間に寄生して操縦するナメクジのような生物だった。しかも、墜落地点周辺の役場や放送局は、すでに寄生生物の支配下にあったのである。
 からくも帰還に成功した「おやじ」たちは、緊急対策を採るよう大統領に迫るのだが……。
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ノモンハン事件の対戦車兵器あれこれ

 ノモンハン事件中、日本軍とて手をこまねいていたわけではなく、前の記事で触れたような火炎瓶以外にも戦車対策はいろいろと考えました。
 速射砲と呼ばれていた対戦車砲の集中が代表例です。中距離であれば(*1)、当時のソ連軍のあらゆる装甲車両を撃破する威力がありました。本来は1個歩兵連隊に1個中隊(4門)しかないのですが、ハイラル要塞に配備されていたものを抽出して独立速射砲中隊7個(単純計算だと28門)以上を編成し、第23師団に配属しています。事件後半にかけては、満州各地の師団からも速射砲中隊だけが抽出されて投入され、最後は中国戦線まで手を伸ばしてかき集めています。戦車の矢面に立つために損耗も激しく、7月20日までには18門(現地保有数の25%)を破壊されて、いっそ日本本土の速射砲と砲弾を全部送ってくれという悲鳴のような電文が関東軍兵器部から発信されています(関兵電513号)。
 やや旧式化した41式山砲も、各歩兵連隊の歩兵砲「連隊砲」と称して配備されており、対戦車用に活躍しました。トラックに積み込んで木製架台に据え付け、簡易対戦車自走砲として運用した例もあります。後半には重砲兵部隊の自衛用としても山砲が追加配備されていました。

 対戦車用に投入された新兵器の一つが97式20mm自動砲、採用間もない対戦車ライフルです。
97式20mm自動砲ノモンハン事件で鹵獲 数の詳細はわかりませんが、全部で20門から50門程度が実戦使用されたのではないかと言います。少なくとも7月29日に、ノモンハン事件用として関東軍へ10門が支給されたことが確認できます(*2)。前線に届いたものの例として第23師団の歩兵第71連隊に1門が支給されておりますが、試射した途端に破損して返却されてしまったといいます(*3)。なお、ソ連軍の鹵獲兵器リストにも1門だけ記録され、写真も残っています(右画像)。
 威力の方は、軽装甲だった当時のソ連軍装甲車両になら一応の効果があったようです。歩兵第71連隊第2大隊の大隊砲小隊長代理だった見習士官によると「本当に良い砲」だったといいます。同連隊には、前述の最初の1門が試射だけで破損してしまった後、再び1門支給されて第2大隊の大隊砲小隊に配備されていました。同連隊は小松原師団長直率の救援隊に参加し、自動砲は8月30日のバルシャガル高地での戦闘では大活躍したそうですが、最終的には破壊されたものと思われます。
 しかし、将来的な威力不足が危惧されたのか、はたまた高価格が災いしたのか、97式自動砲のその後の生産は少数に終わっています。

 もう一つの新兵器は火炎放射器(日本陸軍式には「火焔発射機」)です。ソ連軍は陣地攻撃に使い日本兵を恐怖させましたが、日本軍は対戦車兵器として持ちだしています。対戦車攻撃専門の独立工兵小隊3個が、それぞれ93式小火焔発射機を12基も装備して末期に出動したのですが、おそらく実戦には参加していません。
 火炎放射器の対戦車用法は関特演の際のマニュアルに紹介されていたり、ドイツ軍の教本にも出てくきたりするのですが、射程の短さなどからあまり有効とは思えません。しかし、日本陸軍は有力と考えたらしく、太平洋戦争中も対戦車任務に使用しています。隙間から車内に火炎を送り込んで損害を与えるという作用機序から、火砲と違って装甲厚を無視して攻撃できる点に期待したのでしょうか。

3年式重機関銃高射仕様_ノモンハン事件 以上のほか、97式自動砲の姉妹品ともいうべき新兵器の98式20mm高射機関砲も、本来の対空戦闘ではなく、対戦車戦闘に使用され活躍したという説もあります。当時は制式前で「試製九八式二〇粍高射機関砲」と呼ばれておりました。これに対し、Wikipediaのノモンハン事件の項目では、投入の事実はなく自動砲の誤認であるとしています。しかし、独立野砲兵第1連隊本部が、防空用に「高射機銃」を持っていたという証言(*4)があり、これは98式高射機関砲の可能性がありそうです。ほか、高射砲部隊の補助装備にも対空機銃があったようです。(左画像はノモンハン事件中の日本軍だが、使用しているのは3年式重機関銃の派生型高射機関銃)

注記
*1 ソ連側の戦車砲は45mmと一回り大口径であったため、射程外から一方的攻撃を浴びてしまうこともあったようです。そのため、新型の47mm速射砲の開発を急ぐべきとの戦訓が報告されていますが、実際に1式47mm速射砲が完成したのはだいぶ後で、生産も間に合わず真の後継とは成れませんでした。

*2 「兵器特別支給の件」(JACAR:Ref.C01003491000)

*3 「ノモンハン会報 第51号」収録の、歩兵第71連隊第2大隊の大隊砲小隊所属の見習士官の回想。ニゲーソリモト付近にいたときに最初の1門が支給されたといい、8月下旬の師団司令部への合流前と思われます。

*4 「ノモンハン会報 第25号」収録の独立野砲兵第1連隊員の回想によると、7月3日に敵機1機の撃墜を報じています。もっとも詳細不明で、ホ式13mm高射機関砲や対空銃架に据えた重機関銃などの可能性もありそうです。連隊史を一読した限りでは機種不明。

参考文献
マクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」(大日本絵画、2005年)
アルヴィン・クックス「ノモンハン―草原の日ソ戦1939」(上巻、朝日新聞社、1989年)
徳田八郎衛「間に合わなかった兵器」(光人社NF文庫、2001年)
「第2次ノモンハン事件損失兵器補充に関する件」
    (アジア歴史資料センター(JACAR):Ref.C01003492200)
「戦車第5連隊及独立工兵小隊編成に関する件」(JACAR:Ref.C01005956100)

サイダー瓶をリサイクルして火炎瓶

 ノモンハン事件というと、ソ連の大戦車隊に対し、火炎瓶を手にした日本兵というのが古典的なイメージだと思います。

 この対戦車兵器としての火炎瓶というのは、ノモンハン事件の少し前、1936年に起きたスペイン内戦中に大々的に使用されるようになったようです。現地を取材した日本人新聞記者は、国粋派のモロッコ人兵士が火炎瓶攻撃をするのを見聞きし、こんな原始的な戦法はモロッコ兵にしかできないと記しています。
 日本陸軍へ伝わったのも、スペイン内戦中に駐仏武官だった西浦進大尉(陸士34期)の報告によるようです。ノモンハン事件中の現場の発明だという話もありますが、戦闘序盤から使用しており、少なくとも将校クラスには事前の知識があったのでしょう。ちなみに西浦進は、戦後に防衛庁防衛研究所の初代戦史室長になる人物です。

 ノモンハンでの戦闘が拡大するにつれ、また火炎瓶が有効であるとの戦訓が広まるにつれ、日本陸軍は火炎瓶の大量配備に乗り出します。
 そこで必要になるのがガラス瓶です。1939年7月4日の東京朝日新聞に「空壜を動員 さあ炎熱の戦場へ贈らう」という記事が載っています。ノモンハンの戦場向けに大日本ビールとキリンビールがサイダー500万本の出荷を受注したので、在庫で足りない300万本分の空瓶回収に協力しようという内容です。7月22日に続報があり、第一波300万本は送ったから、あと200万本集めようとあります。
 「炎熱の戦場」という見出しでわかるようにあくまで飲料用ということですが、多分に火炎瓶材料用ではないかという気もします。数量が多くて兵士一人あて何本飲ませる気なのかと怪しまれそうですが、実数がわからなくてかえって防諜上有利なのでしょうか。

 火炎瓶の実際の効果の程ですが、ソ連側の調査によると、装甲車両の損失原因の1割以下だったようです。対戦車砲によるものが75%以上なのと比べると少ないです。随伴歩兵や警戒隊形が欠けていた7月冒頭を除くと、襲撃は困難でした。戦車小隊を前後2列に分けて警戒させる「チェス隊形」が採用されてからは、火炎瓶被害は皆無となったとソ連軍は記録しています。
 それでも歩兵の自衛用として、無いよりはずっと良かったものと思います。敵戦車を陣地に近寄りにくくさせただけでも、歩兵の被害は減ります。柔らかな砂地のため地雷が使用しにくいノモンハンの戦場で、代わりに牽制効果を得る手段として意味があったはずです。対戦車砲などで擱座させた戦車に火炎瓶でとどめを刺すことで、修理・再使用を防止する効果もありました。
 事件後半になって火炎瓶の効果が薄れた一因としては、序盤のソ連戦車は長距離走行をした後で車体が過熱していたのが、後半にはそういうことは無かったからとも言われます。日本軍は火炎瓶を着火しないで投げることも多く、車体が過熱していないと発火してくれなかったようです。そういった事情の分析、いわゆるオペレーションズ・リサーチが欠けていたので、成果を減少させてしまったのだと非難されるところでもあります。
 なお、火炎瓶対策として、ノモンハン事件後半にはソ連軍が発火しにくいディーゼルエンジン戦車を投入したと言われてきましたが、事実ではないようです。ソ連側に該当するような記録は残っておらず、ディーゼルエンジン装備車の生産時期ももっと後だそうです。スペイン内戦からノモンハン事件、さらにはフィンランド冬戦争のモロトフカクテルと散々苦労させられたことが、ディーゼルエンジン採用に影響したのは事実のようですが。

関連記事
ノモンハン事件の対戦車兵器あれこれ」(2009年11月26日)

参考文献
マクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」(大日本絵画、2005年)
徳田八郎衛「間に合わなかった兵器―もう一つの第二次世界大戦」(光人社NF文庫、2001年)
坂井米夫「動乱のスペイン報告―ヴァガボンド通信一九三七年」(彩流社、1980年)

追記:(2016年1月24日)サイダー瓶募集が主に火炎瓶用というのは勇み足と思うので修正。

間に合わなかった兵器―もう一つの第二次世界大戦

徳田八郎衛「間に合わなかった兵器―もう一つの第二次世界大戦」
                         (光人社NF文庫、2001年)

間に合わなかった兵器―もう一つの第二次世界大戦 (光人社NF文庫)総合評価:★★★★★
 太平洋戦争において日本は兵器の物量だけによって負けたのではない。兵器の質においても、粗末な設計で低品質なものだったのである。日本の歩兵には、連合国軍の戦車に対抗できる対戦車砲やロケット弾も無く、兵士たちは爆薬を抱えて肉薄攻撃するしかなかった。本土防空網も不完全で、バトル・オブ・ジャパンは実現できなかった。
 では、新型の対戦車兵器やレーダーは、どうして「間に合わなかった兵器」となったのか。その背景には、単に工業水準の問題だけではなく、軍関係者の科学技術への無理解、技術者の現場への無関心、計画的でない開発といった失敗要因があったのだ。
 枢軸国の兵器開発の失敗事情を、自衛隊で装備開発に携わってきた元一佐が解き明かす。

星に願いを

 探査機「はやぶさ」は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、なお屈せず。

小惑星探査機「はやぶさ」の帰還運用の再開について
「スラスタAの中和器とスラスタBのイオン源を組み合せることにより、2台合わせて1台のエンジン相当の推進力を得ることが確認できました。
 引き続き慎重な運用を行う必要はあるものの、この状況を維持できれば、はやぶさの平成22年6月の地球帰還計画を維持できる見通しです。」(JAXAプレスリリース、平成21年11月19日)

 動作不安定と劣化で停止していた不調スラスター2基を組み合わせて、1基分の推力を確保することに成功したとのこと。うちスラスタAは最初から不調で使っていないために劣化しておらず、この組み合わせで十分な推力が得られるようです。ほかにスラスタCも一応はまだ動くものの、劣化が進行しているため、当面は停止させたままにしておくようです。
 私には神頼みすることしかできませんが、ほかにできることもないのですから、祈っても許されましょう。「はやぶさ」が帰ってこれますように。

追記
 詳しい解説として「松浦晋也のL/D」に記者会見の記録。

明日にとどく

アーサー・C・クラーク「明日にとどく」
 山高昭ほか(訳) “Reach For Tomorrow” (ハヤカワ文庫、1986年)

Reach for Tomorrow (Gollancz S.F.)総合評価:★★★★☆
 昨年3月死去したアーサー・クラークの初期SF短編集。1946年から1953年までに発表された12作品のほか、1956年出版時の序文を収録。

「太陽系最後の日」
 遠い未来、膨張する太陽は最後の時を迎え、地球は焼きつくされようとしていた。銀河をパトロールする異星人たちは、地球からの電波発信に気付いて、地球人を救出しようと試みる。ところが、異星人たちが地球に降り立ったときには、地表には知的生命の姿は見当たらなかった。もはや、手遅れだったのか?

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第1章・後編)

1.軽騎兵の突撃(承前)
 5月29日0030時、小松原第23師団長は、山県支隊の攻撃が成功してソ蒙軍はほぼ一掃されたと誤認して、ハイラルへの帰還命令を発しました。それどころではない山県支隊長は、もう1日だけ攻撃を続ける旨を報告します。
 同日未明、増援の第149狙撃連隊の到着したソ連軍は、取り残されている東捜索隊に攻撃を再開します(*1)。夜間のうちに壕を掘り直して、ささやかな強化を施した東捜索隊の陣地に、自走砲と対岸の砲兵の砲弾が降り注ぎます。うち自走砲中隊が、日本側の車両置場に効果的な砲撃を加えました。0600時には車両置場への着弾が相次ぎ、乗用車が発火、5日分の予備燃料を積んだトラックも炎上、貴重な92式重装甲車も含めて車両は全損してしまいました。
 歩戦協同の攻撃も反復されました。特に化学戦車による火炎放射が脅威を与えたようです。接近してくるソ連軍装甲車両に対して、日本兵は重装甲車が健在ならば逆襲できるのにと悔しがっています。
 1400時頃には隊付き将校の岡元少佐が撤退を具申したようですが、東中佐は拒絶しています(*2)。負傷兵若干だけを乗馬で退却させ、1500時には生存者25名となりました。そして1530時に最後の伝令を支隊本部へ送った後、1800時までに東中佐以下第23師団捜索隊は全滅しました。軍医以下11名が脱出生還、数名は捕虜となり、ほかに遺体収容時にも若干の生存者が発見されています。なお、応援に来ていた歩兵小隊も脱出の勧めを断って運命を共にしました。

 東支隊を全滅させた後、夜までにソ蒙軍はハルハ川を渡って西岸へ撤退しました。翌日日中にモンゴル騎兵が再度渡河しますが、撃退されています。
 山県支隊は29日から31日の3夜に渡って東捜索隊の遺体収容を行い、6月1日未明に戦場を去りました。

 第一次ノモンハン事件の結果、日本軍は戦死・不明171名、負傷119名の人的損害を受け、装甲車2両、乗用車2両、トラック8両、速射砲1門などを失いました。人損の約半数にあたる死傷139名(損耗率63%)、物損の大半は東捜索隊の損害です。気になるのが装甲車2両損失という点で、重装甲車の出動は1両のみだったとされるのと計算が合いません。この点、ソ連軍の自走砲中隊は日本戦車2両の撃破を報じており、前回触れたようにブイコフ上級中尉も2両と交戦したと述べています。どうやらもう1両、整備が終わって追及してきたようです。なお、満州国軍も損害を受けたはずですが、具体的統計は知りません(*3)。
 ソ連軍の損害は戦死・不明138名、負傷者198名、モンゴル軍の損害は戦死33名、負傷者不明でした。装甲車両13両、自動車15両、火砲3門も失い、日本側の意図した殲滅とは程遠いものの、日本側を若干上回る損害と思われます。一応は日本側主張国境の外へ撤退しており、航空戦でも劣勢で、引き分けないしソ連側が敗北したと言えそうです。ブイコフ上級中尉ら幹部の多くは左遷されています(*4)。
 初めて実戦投入された師団捜索隊は、その機動力は証明したと言えるでしょう。ただ、乗馬兵と装輪車両、装軌車両の混成という機動力の不均一の問題も見えました。それ以上に大きな問題は戦闘力の脆弱さです。圧力のかかる栓として使うには無理があり、敵軍に食い破られてしまいました。第23師団捜索隊のまとめた報告書では、重装甲車を軽戦車に代え、速射砲小隊を持たせれば改善されるとしています。対戦車戦闘が予想されることを考えると、妥当な方策です。それでも兵力不足・曲射火器欠如・機動力偏重で独立拠点防御には不向きな編制なのは否めないのですが、第二次ノモンハン事件では再びその種の任務を負わされることになります。(この章終り

注記
*1 ソ連側は夜通し戦ったと言っていますが、少なくとも統制のとれた攻撃はできなかったようです。

*2 岡元少佐は、その後1430時頃に増援要請のために送り出されたため、戦死を免れました。小松原日記は、報告のための帰還や救出部隊への参加をしなかったとして、岡元少佐を非難しています。扇廣も「私評ノモンハン」や「歴史と人物」誌上の座談会において、事実なら責任があると言っています。

*3 断片的情報としては、ノモンハン・ブルド・オボ付近で砲撃により1個小隊全滅しているのを目撃したとか、モンゴル軍が騎兵第1団の12名を捕虜にしたという記録があります。

*4 ブイコフ上級中尉は戦意不十分などの理由で後方部隊へ左遷されますが、幸運にも死刑は免れ、極東戦犯法廷(東京裁判)に証人として出廷しています。

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第1章・中編)

1.軽騎兵の突撃(承前)
 5月23日~26日にブイコフ支隊主力とモンゴル第6騎兵師団がハルハ川を渡河して展開したのと同じころ、山県支隊もノモンハン北方のカンジュル廟へ到着しました。東捜索隊は少し南のアムクロへ集結しましたが、この際、移動速度の遅い乗馬中隊は半日遅れの到着だったようです。日本側の作戦では、28日朝からの攻撃でソ蒙軍を包囲殲滅することになり、東捜索隊には機動力を生かして渡河地点「川又」を占領し退路を断つ任務が与えられました。主力はアムクロから、低速の乗馬中隊は先行して将軍廟からの出撃とされます。(下図参照。NATO兵科記号準拠。)

nomonhan_map5.png 5月28日0300時に移動を始めた東捜索隊主力は、途中で乗馬中隊と合流し、さしたる抵抗を受けることなく0600時前には渡河地点「川又」から1.7km東方にある比高数mの砂丘に展開を終えます。捜索隊の戦闘業務詳報の図によると、「がけ」を背に西向きに半径100m程度の半円形の陣を敷いたようです。車両は陣地左翼(南側)に集められました。守備配置に就いたのは人員150名以下で、重装甲車1両のほか、機関砲2門、重・軽機関銃3丁、擲弾筒2門という小兵力でした。一部を野営地点に残したうえ、軽機関銃4丁と擲弾筒2門を乗せたトラックが故障脱落したためです。
 ソ連側の布陣は中央にモンゴル軍第6騎兵師団、両翼に歩兵1個中隊を配置していました。0340頃に装甲車を含む日本軍部隊の侵入に気付きますが、態勢が整わないうちに、東捜索隊に左翼をすり抜けられたようです。0530時頃から東捜索隊と交戦し始めますが、はじめのうちは装甲車数両だけでやってきては、日本軍に撃退されています。おそらく東捜索隊の出現を知らないで通りがかっただけの者もあったのでしょう。0700時頃には「フォード豆戦車」の鹵獲記録があり、これは橋を渡ろうとしたブイコフ上級中尉のFAI装甲車だったと思われます。ブイコフ車は東捜索隊の追撃から逃れようとして沼にはまり、ブイコフ以下の乗員は辛くも車外脱出に成功しています。
 日本側の攻撃で、ソ蒙軍は川又付近に圧迫されていました。モンゴル騎兵師団は約半数が潰走に陥っています。見た目には日本側の包囲作戦が成功しつつあったわけですが、戦線が広過ぎたうえに通信機の不備で各部隊は連絡がうまくとれず、バラバラに戦っていたのが実態でした。扇廣が「分進分撃」と評しているのは言いえて妙です(*1)。まあ、ソ連側の混乱もひどかったようですが。

 東捜索隊の装備の中で、重装甲車搭載用の13mm機関砲は、ソ連側AFVの装甲の薄さもあってかなり有効だったようです。日本側の記録によると、少なくとも5両の戦車を撃破したといいます。ソ連側も13.2mmの大口径機関銃はBA-6中装甲車(最大装甲厚8mm)などに有効だったと認めています。ただ、砂塵付着による動作不良に苦しんだようです。
 東捜索隊が少数持ってきた92式重装甲車も、それなりに活躍していたようです。前述のブイコフ上級中尉のFAI装甲車も、日本軍の装甲車2両(*2)に追いかけられたといいます。「ノモンハン実戦記」などによると、第2中隊長自らが乗った92式重装甲車は、敵装甲車を体当たりで撃破したこともあると言いますが本当でしょうか。装甲わずか6mmの重装甲車でぶつかって大丈夫だったのか、事実なら少々心配なところです。あるいは逃げようとしたブイコフ車が沼に落ちたのを、体当たりの戦果と誤認ないし誇張したのかもしれません(*3)。

 28日午後に入ると、次第に東捜索隊は圧倒されはじめます。ソ連軍は西岸にいた第9装甲車旅団の1個中隊及びSU-12自走砲中隊、歩兵・工兵各1個中隊を渡河させて攻撃を行っていましたが、午後には再編成されたモンゴル騎兵も加わってきます。夕刻には第149狙撃連隊も少しずつ駆けつけてきました。
 東中佐は山県支隊主力へ救援を求める伝令を放ちますが、満足な救援部隊は得られませんでした。それどころか、歩兵第64連隊の尖兵中隊は、捜索隊と同じく退路遮断任務で西隣に展開していたのですが、2130時には「任務ヲ終リ」支隊命令に基づいて北上し、支隊主力と合流してしまったのでした(*4)。支隊主力は川又進出という方針を変更しており、捜索隊から東方2kmほどの733高地付近に停滞していました。1個小隊だけが独断で捜索隊の救援にやってきましたが、焼け石に水です。
 日没後の2230時には車両置場にソ連軍が迫ったため、東捜索隊は陣前出撃を行って撃退しますが、中隊長が2名とも戦死するなどの大打撃を受けます。28日の捜索隊の損害は戦死19名・負傷72名で、死傷率5割を超えていました。
 この間、山県支隊長から東捜索隊に対して、すでに朝には733高地への転進命令が出ていたとされるようですが、扇廣によればねつ造の疑いが強いといいます(*5)。対して、現任務を続行せよとの支隊命令が午後に出ていたのは確実なようです。夕刻と未明の2回、山県支隊本部は弾薬補給隊を東捜索隊へ送りますが、いずれもソ連軍に捕捉されて全滅しました。(つづく

注記
*1 扇・63頁。「分進合撃」という戦術用語のもじり。

*2 日本側の出動記録に1両のみとあるのと矛盾します。ソ連側の誤認とも思えますが、次回述べるように実はもう1両追加出撃していた可能性もあります。

*3 ただ、「ノモンハン実戦記」によると体当たり直後に中隊長戦死となっており、ブイコフ車の件とは時刻が合いません。中隊長の戦死は夜になってからです。軍の広報書籍という文献の性格上、若干の創作・演出が入っていると思われるので、劇的にするために時系列を動かしたとも考えられます。

*4 この中隊の戦闘の様子は東捜索隊からもよく見えており、対戦中のソ連軍が退却するために煙幕射撃をしたことなどを記録しています。煙幕射撃を毒ガスではないかと心配していました。

*5 扇・66~67頁。

外国人参政権法案と国民の選挙権の希釈の違憲性

 永住外国人などに地方選挙での選挙権を付与する法案が、現実的な話として出てきているようです。法学をちょっとかじった者としては、憲法との関係が気になっています。個人的には、違憲なのではないかと思うところ。
 これまで、外国人の参政権は、憲法上で選挙権などが保障されているかという切り口で、裁判上も何度か争われてきました。判例上は、マクリーン事件(*1)以来の権利性質論をベースに、権利の性質上、参政権も保障されないわけではないが、選挙権・被選挙権は国籍保持者にのみ保障されるという立場が固まっているようです。まっとうな解釈だろうと思います。
 問題は、憲法上の権利ではないとしても、法律で選挙権を積極的に認めることは憲法上許されるのかです。

 この点、最高裁は、地方選挙での選挙権に関する平成7年判決(*2)で、「永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるもの」への地方選挙権付与は立法政策の問題であると述べ、合憲の余地があるとの立場(許容説)を採っています。いわゆる傍論ではありますが、れっきとした多数意見で示された判断として尊重に値するものです(*3)。

 しかし、憲法上保障された国民の選挙権との関係で見た場合、国民の選挙権が希釈される点で、許容説は不当な解釈ではないかと考えます。
 もし外国人の投票を認めると、国民の選挙権がわずかなりとも薄められます。選挙権を有する国民を総体として見ると、国民の選挙権の投票価値の合計が従来は100%だったのが、例えば99%に下がることになります。個々の有権者にとっても、一票の価値が下がります(*4)。
 つまり、憲法上保障された権利の制限を生じますが、これを合憲とするような上手い理屈は無い気がします。最高裁は地方自治と国政の違いをよりどころにするようですが、最高裁自身が前段の「住民」の解釈で述べているように(*5)、地方自治も国の統治機構の一部で、同じ国民主権原理に貫かれている制度であることからすると不自然です。まして、一般的な公共の福祉論の筋で考えると、選挙権が国民主権という憲法の根本原理に関わる重要な権利である一方、対立するのが憲法上の人権でもない外国人の選挙権では、ちと苦しいでしょう。

 平成7年判決が挙げたような限定された要件(例えば、永住資格で当該市町村へ10年以上定住)での選挙権付与なら、そうそう簡単に自治体乗っ取りのようなことにはならないとは思います。
 でも、実害が小さいから簡単に許してよいということではなく、憲法の基本原理に関わる部分として慎重に扱うべきだと思うのです。


注記
*1 最高裁大法廷判決・昭和53年10月4日・民集32巻7号1223頁。

*2 最高裁第三小法廷判決・平成7年2月28日・民集49巻2号639頁。

*3 裁判官の独り言云々と揶揄される補足意見などとは別格。

*4 なお、いわゆる一票の格差の問題とは質的に差があります。一票の格差は憲法上の有権者間の権利配分の問題(平等選挙)ですが、外国人選挙権の場合は憲法上の有権者とそうでない者の間の問題です。外国人参政権の方は、選挙制度設計という手続きの問題では済みません。

*5 以下の部分。「国民主権の原理及びこれに基づく憲法15条1項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法93条2項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味する」

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第1章・前編)

1.軽騎兵の突撃

 半リーグ 半リーグ 半リーグ前進
 死の谷へ入るは 総員600騎
      ―アルフレッド・テニスン「軽騎兵旅団の突撃」―

 1939年(昭和14年)5月、満州西部の満州国=モンゴル国境地帯で、国境紛争が勃発しました。いわゆるノモンハン事件です。国境警備兵の小競り合いから始まった戦闘は、9月の停戦まで5カ月にも渡る複数師団規模の激突へと発展します。
 ノモンハン事件は、日本陸軍の初めて経験した近代戦だとよく言われますが、戦車戦としては世界的に見ても当時史上最大の規模でした。日本側が戦闘に加入させた装甲車両は100両以上、ソ連側は実に約1000両にも及びました。カンブレーの戦いやスペイン内戦の例を上回る数です。
 ノモンハン事件は、5月の第一次事件と、6月末からの第二次事件に分けられます。その第一次事件から、すでに双方が装甲車両を戦場に送りだしていました。平坦な地形は車両の機動に適し、また広大な原野で小兵力での効率的な戦闘をするには機動力が必要だったためと思われます。

 当時のソ連軍は、満州西部国境と接するモンゴルに、第57特別軍団を駐留させていました。隷下に自動車化歩兵師団1個、戦車旅団1個、装甲車旅団3個、騎兵旅団1個を持ち、非常に機械化率の高い特異な編制の部隊です。
 1939年3月、第57特別軍団は第11戦車旅団の機関銃狙撃兵大隊(長:ブイコフ上級中尉)を基幹とするブイコフ支隊をノモンハン方面へ進出させます(*1)。その後に、火炎放射機能を有する化学戦車小隊なども増援として送られ、モンゴル軍からは第6騎兵師団(*2)が出動しています。5月27日時点でのソ蒙軍前線兵力は約2300名(半数強はモンゴル兵)、AFVはT-37水陸両用戦車8両・T-26系の化学戦車5両・BA-6中装甲車などの装輪装甲車39両、ほかトラック型の自走砲SU-12が4両などとなっていました。さらに予備兵力として第36自動車化狙撃師団の第149狙撃連隊(長:レーミゾフ少佐)と砲兵1個大隊がタムスクに控えており、戦闘開始後に増援として前線にやってきます(*3)。ソ蒙軍指揮官はイヴェンコフ大佐。

 対する日本側は、ハイラルに要塞部隊の第8国境守備隊を置いたほか、新編の第23師団を満州西部の駐留部隊としていました。これらを統括する第6軍の創設が計画されていましたが、第一次ノモンハン事件の時点では未編成です。
 満州国軍とモンゴル軍のしばしの小競り合いの後の5月13日、第23師団が最初に本格的に出撃させたのが、第23師団捜索隊(長:東八百蔵中佐)を基幹とする東支隊でした。
 師団捜索隊とは半機械化の偵察部隊で、本部と第1中隊=乗馬中隊(乗馬小隊3個)と第2中隊=重装甲車中隊(重装甲車小隊・乗車小隊)から成っており、師団騎兵機械化の先駆けとして当時の新設師団特有の編制です。人員定数は300名余ですが、出動兵力は220名と言われます(*4)。当時の第23師団捜索隊は乗馬小隊1個を他所に分遣中でした。重装甲車中隊には92式重装甲車5両が配備されていましたが、故障のため1両しか動けませんでした(*5)。
 さて、東捜索隊は勇んで出撃したのですが、ハルハ川東岸にいたモンゴル軍騎兵部隊は「戦車1両と装甲車7両」(モンゴル軍記録)を伴う強力な日本軍の接近に気付いてすぐに退却に移り、地上戦闘は無いというあっけない結果に終わります。92式重装甲車はハルハ河畔にまで達して対岸に威嚇射撃を行い、味方の歩兵を「すわ敵戦車か」と驚かせただけでした。

 ところが、一旦は撤退したソ連側は、今度はモンゴル騎兵だけでなくブイコフ率いるソ連軍も加えた兵力で、ハルハ川東岸に進出してきます。彼我がお互いに戦力を上積みしていく、危険なゲームです。
 5月27日、日本の第23師団は、今度は歩兵第64連隊(長:山県武光大佐)の1個大隊を基幹とする山県支隊約2100名(うち満州国兵450名)を繰り出します。これには、ささやかな機甲戦力として第23師団捜索隊も組み込まれていました。このときも92式重装甲車は整備が終わっておらず、当初の兵力は1両だけでした。やむなく、故障車両から主砲の92式13mm機関砲を降ろして、2門を持ちだしています。これらは大砲を全く持たない東捜索隊の主力火器として活躍することになります。
 なお、東捜索隊の乗車小隊はもちろん、本来は徒歩の山県連隊の歩兵もトラックが臨時配属されており、満軍部隊は騎兵であるのとあわせて、日本側も全般に機動力の高い編制になっていました。(つづく

注記
*1 機関銃狙撃兵という変わった名称ですが、実質は普通の歩兵と大差ないように思えます。AVS-36シモノフ自動小銃をある程度装備しており、その辺が一般の狙撃兵大隊と異なる特色なんでしょうか。詳しい方があればお教えください。

*2 騎兵連隊2個・装甲車大隊・砲兵大隊を基幹とし、定数は約1600名。

*3 日本側は、このタムスク付近の予備兵力に気付いていませんでした。強引な包囲作戦がとられた背景には、この過小評価があったように思われます。
 なお、ソ連側は、タムスクでは予備兵力の配置が遠すぎたと後に評価しています。

*4 戦史叢書などに引用の歩兵第64連隊の記録による。ただし、「出動部隊の将校職員表並人馬一覧表提出の件」(JACAR:C01003474100)によれば、208名とも。

*5 92式重装甲車は騎兵用の軽戦車で、最高時速40kmなどカタログスペックは割合に優秀でしたが、工業製品として未熟だったようです。故障が頻発したと言われます。
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