山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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戦史叢書の改訂版のこと

 昨日の記事で「戦史叢書」について改訂版が出ると書いたのですが、その後に気になって防衛研究所の公開情報を確認したところ、あまり期待しすぎないほうが良いみたいです。

 改訂版がでるという情報のソースとしては、2003年8月12日の読売新聞の報道があります。読売新聞によれば、戦後の安全保障なども盛り込んだ全面改訂版をCD-ROMの形で出すといい、「約10年後」(当時。つまり2013年頃)に1巻目を出したいとなっていました。

 ところが、当の防衛省防衛研究所戦史部(今の「戦史叢書」を出した時には防衛庁防衛研修所戦史室だった部署)は、この読売報道よりあとの時期に、戦史叢書の改訂版や要約版の発行について、戦史部の能力・組織・時間的に多くの困難があるとしています。これは、2007年(平成19年)に戦史部主催で行われた戦争史研究国際フォーラムにおいて、加賀谷貞司戦史部長が、議長総括の中で述べているものです(注1)。
 議長総括によると、戦史叢書については、旧軍人が執筆したことによる客観性・学術性への疑問、陸海軍別になってしまった記述(特に戦争指導関係)などの問題点が指摘され、改訂版や要約版が要望されているとします。しかし、現在の戦史部の体制では、教育や国際交流などの任務もあることをふまえると、対応は非常に困難だといいます。かつての編纂はのべ100名以上の研究員で、しかもほとんどが従軍経験者という充実した態勢で、20年以上をかけて行ったものだそうです(注2)。
 その代わりに現体制で可能なこととして、この平成19年度国際フォーラムのテーマを「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」と設定したというのです。新たな視点から新史料も駆使して太平洋戦争を再検討することが有意義であると説明されています。

 また、防衛研究所長の出した通達(注3)でも、戦史叢書の補完も触れられてはいるものの、具体的な改訂版発行の話までにはなっていません。現在の防衛政策に関係する戦史研究や、緊急性のある史料収集(関係者が生きているうちにオーラルヒストリーを聴取等)が優先事項となっており、太平洋戦史叢書はリソースの関係で基本的に後回しという感じです。
 なお、この通達の発出時期は平成15年7月で、冒頭の読売報道の少し前にあたり、これが記事の元ネタではないでしょうか。通達の内容を知った読売新聞記者が取材して、
 読売「『出版形態や体裁』とはなんぞや?」
 防衛「例えばCD-ROMの利用が考えられる。」
という様なやりとりがあったのかなと想像します。通達には、直接に戦史叢書の話ではないものの、戦後の現代史の編纂も必要という記述があり、読売報道に言う「戦後の安全保障なども盛り込」むという話によく似ています。この想像が当たっているとすると、残念ながら読売報道は勇み足だったということになりそうです。

 ただ、読売の早とちりだとしても、まだ希望を捨ててしまうには早いでしょう。早いと信じたい。
 加賀谷レポートによると、平成19年度からの新事業として海外史料の収集が始まっているそうで、旧日本軍の散逸史料や連合国側の戦争指導関連史料が調査されているといいます。連合艦隊の戦時作戦日誌のうち開戦直後の欠落部分がメリーランド大学で発見されたという話がありましたが、実はこの事前調査で得た成果だったとのこと。
 「ソースは確実だが明かせない系」と称し、密かに作業は進められてるぞという2009年1月(?)の2ちゃんねるへの書き込みもあります。そんなもの信用出来るかと言えばそのとおりで、逆に、関係者からそういう計画はないと聞いたと言う話もあったりします。
 いずれにしろ、なんらかの形で新史料に基づく研究成果は発表されるはずです。前述の通達にも補完計画が一応は挙げられているわけです。たぶん、読売新聞の言うような全面改訂版というよりは、補遺ないし小規模な「続・戦史叢書」のような形に収まるのではないかと思います。そのくらいならなんとかなるはず、と漠然たる希望的観測であります。
 なお、個人的な願望としては、とりあえず内容は旧版のままでも構わないので、PDFなど語句検索可能な形で電子化して一般向け公開して欲しいです。もちろん、逐次作成したという「正誤表」や「引用集」、おそらく今は部内専用のもの、を加えていただけると非常にうれしいのは言うまでもありません。まあ、戦史叢書みたいな詳細な戦史を電子化しても、喜ぶのはおおかた軍事オタクどもでしょうから、あまり優先順位は高くないのだろうなあ(注4)。


追記
 戦史叢書の電子化は、国立国会図書館の電子化事業のほうに期待した方がいいのかもと、後から思いました。
 あと昭和館で、すでに電子テキスト化されてましたね。注4の部隊略歴と同じく、昭和館内の端末から使えます。一回使おうとしたらフリーズして以来、使ったことが無いので忘れていました。印刷媒体の現物が開架図書で全部揃っているので、そちらで間に合ってしまう面があり。

 hikasukeさんが教えて下さったところによると、デジタル化と3分冊程度の概説書編集が進んでいるそうです。デジタル化については、とりあえず研究者や防衛研究所の史料閲覧室用に試行運用をはじめるとのこと。概説書のほうは独立回復までの時期を扱うそうで、停戦後のあれこれが出てくるのかと楽しみです。詳しくはhikasukeさんのブログ「鋼鉄の嵐の中で」をご覧ください。(2010年6月18日追記)


注記
1 加賀谷貞司「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」(平成19年度戦争史研究国際フォーラム)

2 ちなみに現在の戦史部所属の研究者は、公式サイトに掲載されている名簿によると29名。

3 「戦史史料編さんに関する指針について」(平成15年7月22日発、平成19年1月9日改正)

4 軍事オタクが喜ぶ以外には、従軍経験者やご遺族が、所属部隊のことを自分でも調査しやすくなるということはありそうです。部隊名や通称号で検索できれば、だいぶ容易になるはず。なお、復員時にまとめた部隊略歴はすでに電子化されていまして、昭和館で一般公開されて非常に便利です。
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戦史叢書の正誤表の対照表

 「戦史叢書」とは、太平洋戦争および日中戦争についての日本軍の公刊戦史です。戦後になって防衛庁防衛研修所戦史室(今の防衛省防衛研究所戦史部)が編纂して、防衛庁御用の朝雲新聞社から出版したもの。全102巻にも及ぶ大作で、この時期の戦史を研究するには欠かせない基本資料となっています。全面改訂版の編纂が進められているとの情報もありますが、本当に出るのか雲行きが怪しく、いつ出るのかはっきりしないうえ、戦術行動の詳細よりも戦争指導などの大局的部分を重視した内容になるそうで、現行版も将来に渡って貴重な資料となるものと思われます。
 さて、前置きが長くなりましたが、全102巻にもなると別の巻に付いてくる正誤表を探すのも一苦労。そこで、正誤表と本文の対応関係をメモしておくことにします。私がまとめたものではなく、戦史叢書自体に載っていた対照表を起こしただけのものですが。


※「1-2」は、「第1巻の記述についての正誤表は、第2巻に付属すること」を示す。

1巻~10巻:1-2、2-3、3-4、4-5、5-6、7-8、8-20、9-10、10-12
11巻~20巻:11-13、12-17、13-14、14-15、15-16、16-18、17-24、18-19、19-20、20-35
21巻~30巻:21-22、22-23、23-25、24-26、25-27、26-29、27-28、28-30、29-31、30-32
31巻~40巻:31-37、32-33、33-34、34-36、35-59、36-48、37-38、38-39、39-43、40-41
41巻~50巻:41-42、42-44、43-45、44-47、45-46、46-49、47-50、48-52、49-54、50-51
51巻~60巻:51-55、52-53、53-62、54-56、55-57、56-62、57-58、58-59、59-63、60-64
61巻~70巻:61-74、62-71、63-66、64-73、65-68、66-75、67-75、68-69、69-70、70-76
71巻~80巻:71-72、72-77、73-84、74-78、75-81、76-81、77-79、78-87、79-80、80-85
81巻~90巻:81-83、82-86、83-88、84-86、85-83、86-90、87-94、88-91、89-94、90-92
91巻~100巻:91-93、92-89、93-95、94-96、95-96、96-98、97-102、98-100、99-102、100-101
101巻~102巻:101-102、102-102


関連記事
戦史叢書の改訂版のこと」(2009年12月19日)

日本大学文理学部国際シンポジウム-ノモンハン事件をめぐる国際情勢-

 もう日付が変わって昨日になってしまいましたが、日本大学で開かれていたノモンハン事件についての国際シンポジウムに参加してきました。前日の夜に偶然に開催を知って、飛んでいった次第。
 元々はソ連とモンゴルの間で行われていた研究事業に、日本が加わる形で1989年のウランバートル・シンポジウムとモスクワ円卓会議から始まった国際事業で、今回で12回目になるのだそうです。産経新聞が取材に来ていたので、そのうち記事になるとは思うのですが、一応紹介しておくと日本・ロシア・モンゴルのほか中国からも2人の研究者が加わった計6人による報告とパネルディスカッションがありました。日本からは田中克彦一橋大学名誉教授。詳細は上のリンクより、日大の公式解説を参照ください。

 内容の方は、持ち時間が30分ずつと短かったために深く突っ込んだものではありませんでしたが、それなりに得るものがあったと思います。
 ロシアのワシーリー・モロジャコフ教授から提示された、独ソ不可侵条約締結交渉との関係という視点は、今回のシンポジウムのテーマにぴったりのものと思いました。日本人としては、ソ連=ロシアを領土拡張主義の侵略者と単純化しがちなところ、まっとうな外交アクターとして捉えなおす機会になりそうです。「複雑怪奇な欧州情勢」の理解の助けになるかもしれません。ただ、関東軍のノモンハン事件対処の意図が威力偵察にあったという説は、ちょっと解せないと思います。リュシコフ情報の裏付けならば、張鼓峰事件でも取れていそうなものです。ホロンボイルを戦場に選んだ理由など、詰めて聞いてみたかった気がします。
 個人的には、純軍事的な部分で、ボルジギン・フスレ博士の満州国軍についての報告が特に興味深いものでした。
 中国の研究者からは、どういう話が出るのだろうと楽しみにしていたのですが、ジューコフ回想などをベースにした古典的な勝敗要因分析があっただけでした。要因としてソ連の正義と日本の不正義、下級兵士にまで思想教育が行きわたっていたことを強調したあたりが、目を引く程度でしょうか。いわく1980年代まで、中国ではさしたる研究対象となっていなかったとのことです。研究が本当に不十分なのか、あるいは政治的事情からの発表の不自由なのか、ちょっとわかりません。満州国軍にもほとんど触れないあたり、政治的に難しい部分があるのだろうとは感じます。後で産経新聞の記者が質問し、田中克彦教授からも指摘があったように、当時の蒋介石政権の事件への関心・関与がどうだったのか聞きたかったのですが。まあ、中国からも参加したことに意義があるとして、将来に期待でしょうか。

 ノモンハン事件から70周年、ウランバートル・シンポジウムから20周年という節目であるためか、モンゴル国防科学研究所のゴンボスレン教授と、田中克彦名誉教授からはこれまでのシンポジウムの経過を振り返るような発表がありました。1991年の東京シンポジウムの記録を読んだほかは詳しく知っていたわけではないので、私にはちょっと面白かったです。第1回のウランバートルで日本の発表者が現地にたどり着くまでの四苦八苦、田中克彦スパイ説(笑)など裏側の話がでました。

 一般参加者との質疑応答は、もともと長くはないうえ、後述の田中上奏文問題で時間がかかったこともあって、不完全燃焼気味だったように感じます。時間があれば、私もモロジャコフ教授に前述のあたりを伺ってみたかったのですが。
 産経新聞の記者さんからは、日本軍の細菌戦のことと当時の中国政府の認識の2点の質問が、中国の研究者に向けられていました。1点目の細菌戦の話は、中国の研究者の発表中に日本軍の給水態勢の不備に関連して一言出てきたもので、731部隊(正確には後の731部隊か)が生物兵器をハルハ川などに撒いたために日本軍自身が水源汚染に苦しんだという、いわゆる碇挺身隊の一件です。どうも想定通りの質問だったようで、とうとうと回答が出ていました。詳しくは存じ上げない分野ですが、日本軍の感染死者40名余というのは大きい数字を挙げたなと驚きました。2点目の中国政府の認識の話は、端的な回答はなくはぐらかされた印象です。

 全体を見ての感想ですが、学問の自由が保障されていることは素晴らしいなと思いました。日本万歳。
 一般参加者との質疑応答で、中国の研究者に対して「田中上奏文を偽書と認めるか」という趣旨の質問が出たところ、司会が遮って少々もめた場面がありました。前提をはっきりさせたい気持ちもわかるのですが、うかつな発言が命取りになりかねない相手の立場を、配慮すべきだと思うのです。ここで一研究者を吊るし上げてもしょうがないでしょうし、本当にその人が祖国で吊るされちゃったら、それこそどうしようもない(今はそこまでではないにしても)。自由が当たり前になって、私はそのありがたみを忘れてしまっていたのだなと、ふと気付かされるやりとりでした。
 ノモンハン事件の研究は、ゴルバチョフ時代から鉄のカーテンの向こうの情報がドッと出てきて、大きく進展してきました。そんな中で、この間のメドベージェフ大統領発言で「ノモンハン事件についての歴史修正主義は許されない」旨の冷や水を浴びせられました。ゴンボスレン教授の指摘したことですが、この国際研究シンポジウムが未来へと前進できるのか、重大な局面に差し掛かっているようです。

南極でも金曜日は海軍カレー

 全国の地方紙と共同通信の提供するニュースサイト「47NEWS」で、「南十字星」と「南極を喰らふ」という2本のコラムが連載されています。いずれも南極観測隊に同行している記者が書いているもので、うち前者は日本最初の南極調査隊である白瀬矗探検隊の出発100周年記念の秋田魁新報社による企画とのこと。これがとても面白いのです。
 南極観測船「しらせ」に乗って南極へ航海し、12月初めに南極へ到着したところ。つまりここまでは南極の話は少なく、「しらせ」艦内生活の描写が中心なのですが、そこかしこに「しらせ」の自衛艦らしさが出ていたりして十分に興味深いのです。金曜日の昼食は自衛隊定番、伝統の海軍カレーで、ついつい食べ過ぎるほどおいしいようです。私もつられて、ちょうど金曜日の今日は夕食をカレーにしてしまいました。また、木曜日の昼食はビーフステーキが固定メニューのようですが、これは「しらせ」特有の習慣なのでしょうかね。
 ほかにも、オーストラリアへの寄港の際にマヨネーズが鳥インフルエンザ予防の検疫の関係で封印されたり、捕鯨妨害目的のシーシェパード船が近くにいたり、コンクウィスキーと呼ばれる南極専用の高濃度ウィスキー(アルコール度数が高くて凍りにくい)が配られたり、ちょっと面白いエピソードが満載です。この先も楽しみ。

 南極観測隊の食事情については、以前に西村淳「面白南極料理人」(注:堺雅人主演で映画化)という本を読んだことがありましたが、南極に向かう途中の食事情はあまり出てこなかったので、今回の連載記事も新鮮に感じました。なお、「面白南極料理人」に登場した本山秀明隊員(注:映画では生瀬勝久)が、今回の観測隊にも加わっていて記事に登場し、思いがけなく旧知の人に再会した気分です。
 映画は見逃してしまったのですが、2月にDVDが出るので買ってみようと思います。Amazonで予約すると3割近く値引きになってるようですし。

安藤伸一「南十字星―南極同行記者ブログ」(47NEWS)
澤野林太郎「南極を喰らふ―しらせで1万4000キロ 観測隊員の生活」(47NEWS)

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・中編)

4.フイ高地の死闘(承前)
 7月10日、第23師団捜索隊に対する新たな任務として、ノモンハン北西に15km以上と大きく離れたフイ高地(721高地)の占領が命じられます(地図はこちら)。師団の翼端援護という騎兵らしい任務です。日本軍は7月7日から歩兵夜襲を主力とした攻撃を実施中で、戦闘は峠を越えたと楽観視しており、捜索隊への命令は国境線確立のためのいわば「掃討戦」の一環でもあったと思われます。フイ高地は、7月初旬の渡河作戦に先立って、他の歩兵部隊によって一旦は占領されていましたが、渡河作戦中止のために放棄されていました。その後にモンゴル第6騎兵師団の一部がハルハ川を渡って再進出していたようです。
s-nomo01.jpg 将軍廟付近にいた師団捜索隊は、井置中佐の指揮の下で全力出撃します。このときに撮影されたらしい写真があり、それが左掲のものです(注1)。95式軽戦車(北満型)1両と92式重装甲車3両が写っています。毎日新聞社の画像データベース「毎日フォトバンク」にも収められており、「ノモンハン事件 捜索第23連隊、フイ高地への出撃前」のタイトルと、「敵陣一番乗りを誓う井置部隊石橋戦車隊=将軍廟で」のキャプションが付けられています(写真ID:P19950728dd1dd4phj035000)。石橋とは、捜索隊第2中隊長代理の石橋竜雄中尉のことと思われます。
 北上した師団捜索隊はフイ高地に到着、その後、さらに北のホンジンガンガでソ連側の斥候部隊と接触します。乗馬の第1中隊がさっそく追撃を開始し、装甲車中隊である第2中隊も支援のために後を追いますが、対岸のソ連側砲兵から砲撃を浴びてしまいます。モンゴル騎兵師団の76mm野砲でしょうか。この砲撃で、第2中隊は92式重装甲車とトラック1両ずつが破壊されてしまいました。第2中隊長代理の石橋中尉と2名の少尉が重傷を負うなど、人的損害もかなりあったようです。
 それでも、なんとかフイ高地の占領には成功しました。以後8月下旬までずっと捜索隊はこの地点を守備し、壊滅することになります。なお、高地といってもこの動画に明らかなように名ばかりで、さして防御力のある地形ではありません。

 7月12日、日本軍の総攻撃は停止されます。砲兵火力の不足が問題となり、重砲兵の到着を待つことになったのです。
 7月15日、フイ高地の師団捜索隊は、第1戦車団(長:安岡正臣中将)に配属となります。第1戦車団は安岡支隊の中核をなす戦車部隊として出動していたものですが、この時期にはすでに戦闘でかなりの損害を被っており、ウズル水西方ホルステイ湖畔に後退して被撃破車両の回収・整備に努めていました(注2)。配属部隊も除かれて支隊編制が解かれていたのですが、師団捜索隊などの配属により、再び安岡支隊として活動することになります。
 安岡支隊再編の意図は、ソ連側の反撃のおそれが報告されたフイ高地の守備強化でした。師団捜索隊の報告によると、ハルハ川対岸のバイン・ツァガン(白銀査干)オボ付近から、15cm加農砲の長距離砲撃を受けつつありました(注3)。第23師団からは戦車第3連隊と戦車第4連隊の各1個中隊派遣が命じられたようですが、玉田第4連隊長は明確な記憶はないと言い、もっと少数が適宜進出して協力した程度かもしれません。戦車隊のほか、時期不明ですが第7師団からの配属部隊として歩兵第26連隊第6中隊と歩兵第28連隊連隊砲中隊(山砲)が、フイ高地に進出しています。この第7師団からの配属は「北海道の熊が来た」と喜ばれました。

 7月24日2030時、フイ高地にソ連側の攻撃が実行されます。参加したのは、モンゴル第6騎兵師団の2個騎兵連隊と装甲車大隊(12両)ほかで、日本側記録によればこの時もバイン・ツァガン・オボ付近からの支援砲撃を伴っていました。ソ連側の公式記録によれば、威力偵察であったと言います。私見としては、日本側の総攻撃(23~25日)と同時期のため、日本側の戦力を分散させる陽動攻撃の意味合いもあったのではないかと考えます。
7月24日フイ高地での井置支隊の戦闘 日本側の布陣は、フイ高地西正面に配属歩兵中隊、北面に捜索隊第1中隊、南面に第2中隊を配置していたほか、この日の黎明に進出してきた戦車第3連隊第1中隊の竹下小隊(89式中戦車3両)が加わっていました。増援の戦車小隊は、井置中佐の命令で高地北側で右翼第1中隊の援護についており、砲撃を避けるために茂みに深さ1mほどの壕を掘って前面に掩体を築き、戦車をダッグインさせています。
 モンゴル軍は、日本軍の右翼、つまり竹下戦車小隊に重点を置いて2度に渡って攻撃をかけました。第1波では装甲車大隊及び騎兵約200騎が、第2波では騎兵200騎と対戦車砲2門が右翼に向かっています。うち装甲車は無理な突進はせず、遠巻きに砂丘の稜線に隠れて砲塔射撃を行ったようです。
 これに対して、竹下小隊も徹底してダッグイン姿勢からの砲塔射撃を実施し、連隊砲と協力してモンゴル軍を退けています。師団捜索隊の軽戦車と装甲車は右翼へ出撃して、反撃を行ったようです。戦車小隊や連隊砲の砲撃は確実に目標をとらえていたようで、モンゴル側は接近するにつれて大隊規模の砲撃を浴びたと記録しています。もっとも、モンゴル側記録は、それでもひるまずに前進を続けたとしていますが。
 モンゴル側記録によれば2100時(日本時間との時差の有無不明)、モンゴル軍は攻撃を終了して、ハルハ川西岸へと撤退をしました。日本軍の戦例集によれば、日本側の損害なし、モンゴル軍の装甲車2両が擱座、別に2両が損傷し、対戦車砲2門破壊、遺棄死体30名などとなっています。しかし、モンゴル側の公式記録では装甲車の喪失は無かったとなっているそうです。
 いずれにしろ、この時点では日本軍のフイ高地防衛は見事に成功したわけです。戦車第3連隊のダッグイン戦術も、平坦な地形に対応した措置として適切なものだったといえるでしょう。日本軍の戦例集は、この戦闘を戦車が有効に陣地を利用した例として称賛しています。

 この7月24日の戦闘から間もなく、日本軍の総攻撃はまたも頓挫し、26日に第1戦車団は駐屯地への帰還を開始します。したがって、このフイ高地での勝利が、第1戦車団にとって最後の戦闘ということになりました。ノモンハン事件の最末期に第1戦車団の一部が再出動しますが、戦闘の機会はありませんでした。
 フイ高地で戦車隊が活躍したことは、かえってソ連側の目を引いて、後のソ連側の総攻撃で重要攻撃目標となる拙い結果を招いたとの見方も師団捜索隊関係者などにあるようです(注4)。しかし、遠く北側からの渡河包囲作戦はジューコフの着任直後から計画されて、7月初旬には着手寸前だったわけですから、これは逆恨みかなと思うところです。(後編1へ続く

注記
1 この画像は、若獅子神社公式HP管理人の日向昭了氏よりお借りしました。同氏の別サイト「ひなちんの城」の戦時写真館>その他車両に、より大判の画像が公開されています。毎日フォトバンクの画像と合わせてご覧ください。
 なお、コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」の93頁(画像70番)にも同じ写真が掲載されています。同書では、7月中旬~下旬の撮影で場所はフイ高地、95式軽戦車は戦車第4連隊所属と解説されていますが、これは誤りです。おそらく、95式軽戦車は戦車第4連隊にしかないものと誤解して、同連隊がフイ高地へ一部を派遣したとされる7月中旬以降と撮影時期を推定したものと思います。しかし、前回触れたように、第23師団捜索隊にも95式軽戦車が2両配備されていたようです。

2 被撃破車両の回収作業支援のため、関東軍野戦自動車廠の一部や関東軍砲兵隊の牽引車などが7月14日に現地に送られています。ノモンハン事件で撃破後に修理された日本戦車が多い背景には、こうした支援部隊の努力もあったわけです。戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連側の損傷車両の回収体制が充実しているのを見て回想録でうらやましがっていますが、事件当時もなんらか対策を取るよう上申していたのではないでしょうか。
 参考:「関東軍命令の件」(JACAR:C01003484400)

3 この報告を、上司の小松原師団長は過大だと評価していたようです。井置中佐からの報告は2~5割引したほうが良いと日記に記し、実際に安岡中将に裏付け調査するよう求めています。

4 戦史叢書 関東軍(1)・551頁

NHKの特殊潜航艇番組への疑問

 今日12月8日は、日本海軍が真珠湾奇襲を行って太平洋戦争が始まった日です。
 毎年この頃になると、太平洋戦争関係のテレビ番組が放送されます。おととい12月6日のNHKスペシャルでは、「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜航艇~」という番組をやっていました。淡々として一見悪くはなかったのですが、ちょっとおかしいところがあったように思いました……が、こっちが酔っぱらってちゃんと放送内容を理解してなかっただけの部分が大きいようです。ああ恥ずかしい。

 一点目。今回の番組では、日本海軍が特殊潜航艇の戦果として発表した戦艦「アリゾナ」撃沈というのが、真実であったのかというのが検証されています。
 「アリゾナ」の隣には別の船が停泊していて雷撃は困難なこと、「アリゾナ」の残骸に魚雷の命中痕跡が無いことから、「アリゾナ」を沈めたのは特殊潜航艇ではないと結論付けていました。そして、虚偽の戦果発表が作り上げられた背景(潜水艦系の有泉龍之介参謀の関与)や、実際には軽巡洋艦「セントルイス」を攻撃して失敗していたのではないかとの仮説も紹介されていました。有泉参謀と淵田中佐のやり取りを記録した史料の現物は面白かったです。
 ただ、戦艦関係で「アリゾナ」の調査だけで済ませてしまったのは、もったいないと思います。特に、他の戦艦「オクラホマ」や「ウェスト・バージニア」を雷撃したとの仮説が、まったく出てこなかったのは残念です。たしか10年ほど前の話ですが、日本海軍が空襲時に撮影していた航空写真に、特殊潜航艇の攻撃らしいものが写りこんでいたという写真解析結果が出ています。参考資料の米紙記事にも出てくる話なんですが。テーマからすると、この話の検証が番組の中心になるのではないか、NHKの映像解析技術で何かわかるのではないかと期待していたので、正直がっかりです。

(以下、無茶苦茶でした。再放送を見たところ、ちゃんとネットカッター(防潜網切断器)の形状で、真珠湾参加艇だと同定してますね。しかも、ロサンゼルスタイムズの記事にも、NHKの協力者だったパークス・スティーベンソン(Parks Stephensonなんでパークス・スティーフェンソンかな)が出てきてネットカッターの話をしていました。)
 もう一点、新たに発見された「横山艇」らしい特殊潜航艇の同定について。少し乱暴な気がします。そもそも真珠湾攻撃に参加した甲標的ではないかもしれません。
キスカで鹵獲された特殊潜航艇 曳航用のケーブルが付いて3分割された状態で沈んでおり、戦闘で沈んだのではなく海没処分されたというのは番組内でも解説されたとおりです。そうであれば、どこか他の戦闘で鹵獲され、ハワイに移送された甲標的の可能性が否定できません。甲標的は、キスカ島やガダルカナル島でもアメリカ軍に鹵獲されているのです。右の写真はキスカで米軍に撮影されたもの。
 番組を見ていて漠然と上の疑問を持っていたのですが、その後、ロサンゼルスタイムズの記事に、NHKの同定は誤りと思われる記述をみつけてしまいました。これによると、1994年から2001年までの海底調査で特殊潜航艇の「3片の残骸(The three pieces of the sub)」が見つかったが、ガダルカナルなどで回収された戦利品(a war trophy)らしいとあります。断定はできませんが、3分割というあたりNHKで紹介されとのと同じ艇のようです。ちなみに調査を行ったテリー・カービーTerry Kerbyは、同じハワイ海域での日本潜水艦「伊401」の船体発見などを発見している考古学者で、こういう番組を作るならNHKも接触してると思うのだけれど。


 酒を飲みながらぼんやりと見ていて記憶が怪しく、虚偽報道だ、ねつ造だと断定する自信はないです。ただ、記憶通りの内容だったら、問題のある番組内容だと思います。大本営発表の嘘というのが番組のテーマに関わっていただけに、ちと悪質な気がいたします。NHKの番組には、基本的に信頼を置いてるんだけどなあ。
 とりあえず、今宵の深夜(12月9日午前1時10分)から再放送があるので、それを見直してみます。

追記
 再放送をちゃんと見て誤解に気付いて良かったです。NHKの方、今後も頑張ってください。
 ロサンゼルスタイムズでのスティーフェンソンの推理だと、今回発見された艇は真珠湾内のウェスト・ロックで自沈して、その後に付近で起きた爆発事故の残骸サルベージの際に発見・引き上げされたんではないかと言います。しかし、湾口付近で「セントルイス」と交戦したとすると矛盾しそうです。5隻全部の船体が発見されても、まだまだ謎は残っているんですね。

参考資料
Pearl Harbor mini-submarine mystery solved?”(ロサンゼルスタイムズ2009年12月7日)
真珠湾で発見された特潜」 日米の戦闘詳報比較など非常に詳細なサイト。

ビルマ独立秘史―その名は南機関

泉谷達郎「ビルマ独立秘史―その名は南機関―」
                    (徳間文庫、1989年)

総合評価:★★★★★
 太平洋戦争中、ビルマの独立運動を支援するために作られた日本軍特務機関「南機関」があった。開戦前から、オンサンやネ・ウィンらビルマ独立派の活動家たちと密かに接触し、活動の準備を進めていたのだ。その目標は、ビルマ独立義勇軍(BIA)の組織。
 中野学校出身者で元機関員の著者が、元機関長や幹部たちから集めた情報も基に明らかにした、特務機関の活躍と挫折の記録。

Google日本語入力に軍事用語を入れてみた

 最近噂のGoogleの日本語IME「Google日本語入力」を試してみました。学術用語・専門用語にかなり強いそうで、ネットスラングの類まで充実しているとか。
 では、軍事用語だったらどうなんでしょうということで、やってみたら以下のような結果になりました。思いつきで放り込んで、出てこなかった言葉は赤字にしています。語彙に関しては非常にできる子ですね。せいけいさ→成形炸薬弾、えきれ→液冷エンジンなど、入力途中で示す変換候補も結構適切です。
 ちなみに「装軌装甲車」は変換できなかったのですが、「装軌装甲車一覧」は変換候補に出てくるのが可笑しいです。たぶん、Wikipediaからも採録した影響で、項目が立ってる後者だけが出てきたようです。ベータ版なので、今後使用データが集まれば改善されるのでしょう。

滑腔砲(かっこうほう)、曲射砲(きょくしゃほう)、徹甲弾(てっこうだん)、擲弾筒(てきだんとう)、
無限軌道(むげんきどう)、早期装甲車(そうきそうこうしゃ、装軌装甲車)、噴進砲(ふんしんほう)、
成形炸薬弾(せいけいさくやくだん)、繋駕(けいが)、門橋(もんきょう)、降下猟兵(こうかりょうへい)
縦深防御(じゅうしんぼうぎょ)、側貌書き(そくぼうかき、側防火器)、薙射(ていしゃ)、
ご超勤務上等兵(ごちょうきんむじょうとうへい、伍長勤務上等兵)、偕行社(かいこうしゃ)

龍驤(りゅうじょう)、翔鶴(しょうかく)、震洋(しんよう)、あきつ丸(あきつまる)、駆潜艇(くせんてい)
測距儀(そっきょぎ)、高角砲(こうかくほう)、単装砲等(たんそうほうとう、単装砲塔)、
内火艇(「ないかてい」でも「うちびてい」でも出る)、魚雷落射き(ぎょらいらくしゃき)、水交社(すいこうしゃ)

液冷エンジン(えきれいえんじん)、層流翼(そうりゅうよく)、呑龍(どんりゅう)、震電(しんでん)
瑞星(ずいせい)、空技廠(くうぎしょう)、空対空ミサイル(くうたいくうみさいる)

支那事変(しなじへん)、大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)、あ号作戦(あごうさくせん)、
思考作戦(しこうさくせん、蕋江作戦)、主務酒盗(しゅむしゅとう、占守島)、
東郷ターン(とうごうたーん)、秋山支隊(あきやましたい)、第二南遣艦隊(だいになんけんかんたい)

東久邇宮(ひがしくにのみや)、栗田健男(くりたたけお)、南雲忠一(なぐもちゅういち)、
井上成美(いのうえしげよし)、牟田口廉也(むたぐちれんや)、佐藤幸徳(さとうこうとく)、
大井篤(おおいあつし)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)、辻政信(つじまさのぶ)、
渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)、秋山真之(あきやまさねゆき)、秋山好古(あきやまよしふる)

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・前編)

4.フイ高地の死闘

 一地を固守すべき任務を有する部隊が、
 各方面に対し陣地を堅固に設備するの著意を欠き、
 為に戦闘著しく困難となりし戦例
         ―教育総監部編「『ノモンハン事件』小戦例集」―

 日本軍守備隊は、全面を封鎖されながらもすべての攻撃を撃退しつづけた。
 敵はここでは、高地の全面からとりかこむ、強力な防禦構築を備えていた。
       ―S・N・シーシキン「一九三九年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」―

 第一次ノモンハン事件で全滅した第23師団捜索隊は、再建されて第二次ノモンハン事件にも出動しました。新たな隊長である井置栄一中佐に率いられ、しばしば井置捜索隊と呼ばれます。
 再建後も基本編制は変わらず、本部と乗馬中隊、装甲車中隊から成っています。分遣中だった乗馬1個小隊や騎兵学校への派遣学生が呼び戻されたほか、騎兵第6連隊補充隊と騎兵第20連隊補充隊から各60名が転属してきました。
 変化があったのは、装甲車中隊の装備車両です。元は92式重装甲車5両でしたが、7月初旬にはうち2両が95式軽戦車へと強化されていたようです。これは戦史叢書にも出てこない、あまり知られていない事実と思います。戦車第4連隊から移管された軽機関銃装備の中古車で、いわゆる北満型であったものと思われます。ちょうど第一次事件で失った重装甲車2両が軽戦車で補充されたように見えますが、軽戦車の移管は東捜索隊が全滅前の5月28日に申請が出て同日に決まっており、偶然の一致のようです(*1)。おそらく出動すらできなかった故障車の更新分だったのでしょう。損害補充分としては別に7月初旬に97式軽装甲車2両が指示されておりますが、補充実現の有無・時期は把握できませんでした(*2)。

 6月25日に再編成が終わると休む間もなく、井置捜索隊は師団主力に従いノモンハン地区へ向かいます。その兵力は250名強、装甲車両5両、自動車約10台、馬150頭余でした。出陣に際して井置中佐は、「復讐の日、正に来れり」という訓示をしています。
 7月2日からの最初の総攻撃では、井置捜索隊はハルハ川に架けられた軍橋の守備という第二線任務を割り当てられます。部隊の性質からいえば機動力を生かして先陣を受け持つべきような気もしますが、貧弱な軍橋では軽戦車の渡河は無理だったうえに、再建間もなく隊の団結も不十分だったのでしょう。
ノモンハン事件中、散開した第23師団捜索隊の将兵とBA-10装甲車 7月3日昼頃、捜索隊本部と第1中隊(乗馬)が西岸に渡河し、第2中隊(装甲車)は東岸に残されます。渡河の順番としては師団司令部や衛生隊よりも後で、最後尾付近です。すでに西岸では激戦中で、橋のたもと付近にもソ蒙軍の装甲車両が迷い込んできている状況でした(*3)。捜索隊も、東岸の独立野砲兵第1連隊の90式野砲と協力しながら、何度か装甲車両の攻撃を撃退しています。詳細は不明ですが第2中隊も戦闘をしていたようで、この日の終わりまでに37mm砲弾65発と13mm機関砲弾450発を消費したと記録されています。
 右上の有名な写真は、7月3日に撮影された第23師団捜索隊のものです。といっても本物の戦闘風景ではなく、撃破済みのBA-10装甲車を使った「やらせ写真」と言われます。この後、装甲車をバックに万歳をする写真も残っています(*4)。92式重機関銃を装備していることなどからすると第2中隊の乗車小隊のようです。
 7月4日には渡河作戦は中止となり、捜索隊は師団司令部とともに東岸へ撤退しました。小松原日記によれば、後方にまとめられていた乗馬群に砲弾が当たり、かなりの損害を受けたようです。同様の渡河点付近への砲撃では、師団参謀長の大内大佐も戦死しています。

 7月5日夕刻、予備兵力としてウズル水に待機していた捜索隊に、第二次ノモンハン事件で初めての攻撃任務が与えられました。ノモンハン・ブルド・オボ付近の警察分駐所に侵入した敵部隊の撃退です。捜索隊は、装甲車中隊を先行させ、本部と乗馬中隊は騎乗及び徒歩で後を追いました。
 ソ連側兵力の詳細は不明ですが、それほど強力なものではなかったようで、2300時までには分駐所周辺から一掃されています。しかし、井置捜索隊も、乗馬中隊の小隊長1人がこの日に戦死しました。(中編につづく

注記
*1 「兵器特別支給並びに特別交換の件」(JACAR:C01003459100)

*2 「ノモンハン事件損失兵器射耗弾薬第1次補充に関する件」(JACAR:C01003474000)。私見としては、補充の軽装甲車は少なくとも事件中には前線に届かなかったのだろうと思います。7月10日にさらに92式重装甲車1両を失うところ、8月下旬になっても前線配備実数が4両に減ったままで、補充が無かったと見るほうが自然なためです。

*3 ソ連側は日本軍の渡河作戦を察知できず、逆に北部からの渡河包囲作戦を行うつもりで、部隊を移動中でした。そのため、まったくの不期遭遇戦だったようです。おまけにジューコフ司令官は、タムスク方面から移動中の戦車旅団・装甲車旅団を、到着次第に偵察抜きで逐次投入したため、日本軍は多数の装甲車両にもなんとか対処することができました。ソ蒙軍は、少なくとも130両の装甲車両が各個撃破される結果となっています。

*4 コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」88頁の画像63参照。
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