山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第2章・前編)

2.機械化工兵
 昭和九年三月十七日、独立混成第一旅団が編合された。
 日本陸軍最初の機械化部隊の誕生である。
           ―土門周平「人物・戦車隊物語」―

 日本陸軍の持っていた変わった兵器として、工兵隊の装甲車両「装甲作業機」、通称「SS機」が挙げられます。壕を掘ったり、トーチカを爆薬や火炎放射機で攻撃するための戦闘工兵車のさきがけです。アイディアとしてはなかなか進んだところがあるように思われます。画像は最終生産型の96式装甲作業機戊型。
96式装甲作業機戊型 1931年に試作された装甲作業機が最初に実戦配備された部隊が、独立工兵第一中隊でした。この独工1中隊は、1934年に新設された日本陸軍最初の機甲部隊である独立混成第1旅団に属する工兵隊です。独混第1旅団は自動車化歩兵連隊1個と、戦車第3大隊・戦車第4大隊を基幹としており、支援部隊である工兵までも機械化した先進的なミニ機甲師団でした(注1)。独工1中隊には、93式装甲作業機4機と95式野戦力作車(装甲クレーン車)1両が、輸送用のトラック9両とともに配備されていました。人員は194人。後に2個中隊・材料廠の旅団工兵隊に拡張され、装備車両に軽装甲車4両・トラック13両が追加されています。
 装甲作業機・独混第1旅団と、いずれもアイディアとしては優れたものに思えますが、実績は不振でした。旅団は、日中戦争初期のチャハル作戦などに参加しますが、本格的な機械化部隊を使えるような戦闘ではなかったことなどから、バラバラに分遣されてしまいます(注2)。先行量産段階の装甲作業機は長距離行軍に耐えず、故障車を路肩に埋めて隠し、あとで回収に来るといった苦労をしました。
 1938年8月の張鼓峰事件の際にも、旅団工兵隊(第1中隊欠・注3)は出動命令を受けます。戦史叢書では自動車化と書いてあり、たしかに本来はそうなのですが、実際には鉄道輸送の関係で車両などの重装備はほとんど除かれています。到着前の停戦成立のため、実戦には加わっていません。これが旅団工兵隊としての最後の出動になります。

 機械化部隊は贅沢すぎるし使い勝手が悪いと批判が高まり、張鼓峰事件中の1938年8月に、独混第1旅団はとうとう解隊されてしまいます。2個の戦車大隊はそれぞれ連隊に名目だけ昇格して、支援部隊を欠いた第1戦車団を新設。歩兵連隊は徒歩部隊に改編。砲兵大隊は独立野砲兵第1連隊となりました。
 旅団工兵隊は工兵第24連隊として独立します。新設予定の第24師団への編合を目指し、機械化工兵ではなく通常の歩兵部隊用工兵へと改編されました。装甲作業機は新設の専門部隊である独立工兵第5連隊に集められることになり、工兵第24連隊が編成教育を担当しています(注4)。
 戦車部隊から支援部隊を切り離してしまったこの措置は、ノモンハン事件において日本戦車の活動を大いに阻害する結果を招きます。

 1939年6月20日、第二次ノモンハン事件が起きると、日本軍は強力な戦車部隊を出撃させることを決意します。3個戦車連隊から成る第1戦車団(安岡正臣中将)のうち、戦車第3連隊(旧・戦車第3大隊)と戦車第4連隊(旧・戦車第4大隊)主力を動員し、これに支援部隊を加えて安岡支隊が編成されました。集められた支援部隊は、歩兵第28連隊第2大隊(第7師団より)、独立野砲兵第1連隊(旧・独立野砲兵第1大隊)、そして工兵第24連隊などです。歩兵と工兵を自動車化するため、自動車第3連隊が付いていました。合計すると戦車・装甲車92両、牽引野砲8門、自動車化歩兵600人、輸送車両300両といった規模です。戦車支隊の編成は、関東軍司令部にいた戦車科出身の野口亀之助参謀が進言したそうで、野口参謀自身もそのまま支隊の臨時参謀として現地派遣されています。
 歩兵以外は、ちょうどかつての独混1旅団が再結成されたのと同じに見えます。しかし、実態はかなり違っていました。工兵第24連隊は、もはや単なる徒歩工兵で、戦車との協同作戦に慣れた兵士も多くは独工5連隊に移り、残っていませんでした。支隊の司令部機能も脆弱で、臨時参謀を借りてきています。意思疎通のうまくいかない寄せ集めになっていたのです。
 このときの工兵第24連隊の編制は、徒歩工兵2個中隊と材料廠で定数388人(実数296人)でした。本来はもう1個中隊あるのですが、未編成です。ノモンハン事件への当初の出動兵力は235人。連隊長は旅団工兵隊時代の末期に着任した川村質郎大佐でした。川村大佐は築城が専門で、機械化部隊の指揮官には不向きと思えるのですが、一般工兵部隊への改編が内定していたから選ばれたのでしょうか。
 なお、装甲作業機部隊である独立工兵第5連隊にも、6月21日に自動車化工兵2個小隊の派遣準備が指示されましたが、すぐに撤回されています。7月16日に再度の準備が発令されますが、戦車団の引き揚げのせいか出動待機のままで終わります。

アルシャン地区で行軍中の安岡支隊 公主嶺を鉄道で出発した安岡支隊は、6月22日にハロンアルシャン駅に着きます。ここから自動車輸送で65km先のハンダガイ(ハンダガヤ)を経てハルハ河畔へと向かうことになったのですが(地図は別記事参照)、直前数日の豪雨にたたられて道路は沼地に変わっており、行軍は困難を極めます。装軌式の戦闘車両は進めますが、装輪式のトラックはたちまち立ち往生。しかも、装軌車両が通った後は、そのわだちで一段と道路状況が悪化します。燃料や整備用品を積んだトラックを連れていなくては、戦車も戦力が発揮できません。工兵第24連隊は道路復旧にあたりますが、資材を積んだトラックも動けなくて作業は進みません。6月24日に戦車だけはハンダガイに集結しますが、支援部隊の多くは数日遅れとなります。歩兵は途中で車をあきらめて、ハンダガイについたときには文字通りの歩兵に戻っていました。
 燃料不足は深刻で、満州航空のチャーター輸送機がドロト湖付近へ燃料を空輸するという非効率な手段まで使っています。燃料節約のために戦車隊では満州国軍から馬を借りて偵察を行い、あたら熟練戦車兵を失いました。
 安岡支隊の当初の任務は、ハンダガイ西方「タマダ」地区からハルハ川を渡河して対岸のソ連軍を包囲することでしたが、とても無理な状況でした。そもそも渡河機材も不十分で、23日付で工兵第24連隊には93式折畳舟20隻の支給が決まっていますが、これで戦車を渡すのは難しく、戦車を河に沈めて橋脚とすることまで検討していたようです。工兵第24連隊では、渡河点偵察に将校斥候を出して、1組が敵と遭遇したのか行方不明になっています。
 それでも命令は命令で、6月30日未明には安岡支隊はハンダガイを出発、ハルハ川へ向かいます。燃費の悪い89式中戦車甲は残置したり、歩兵には戦車隊の段列のトラックを分けて自動車化したりと、苦心がうかがえます。工兵第24連隊も、固有自動車を豊富に装備している独立野砲兵第1連隊からトラック10両、高射砲隊からも2両を融通してもらいました。(中編に続く

注記
1 独立混成第1旅団の編制は、独立歩兵第1連隊、戦車第3大隊、戦車第4大隊のほか、独立野砲兵第1大隊と独立工兵第1中隊から成る。日本軍としては贅沢な内容で、独立歩兵第1連隊は約300両のトラックで完全自動車化され、支援用の軽装甲車中隊まで編合。独立野砲兵第1大隊には、機動台車が付いて自動車牽引可能になった90式野砲を配備。

2 独立混成第1旅団のチャハル作戦や山西作戦での運用状況については、Yama氏のサイト『日華事変と山西省』のコラム「初陣で不評を浴びた国軍初の機械化部隊」に簡潔にまとまっている。

3 旅団工兵隊第1中隊は、同年7月から騎兵第4旅団に配属中。独混第1旅団解隊後に騎兵第4旅団工兵隊へと改編され、さらに1942年の戦車第3師団新設に際して師団工兵隊へと改編。

4 独立工兵第5連隊要員の教育用として、1938年10月に装甲作業機10機を支給。なお、独工5連隊の初期編制は3個中隊と材料廠の424人で、装備定数は、装甲作業機39機(実数10機)・軽装甲車8両(実数2両)・トラック26両。
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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・後編2)

4.フイ高地の死闘(承前)
 8月20日、天候は快晴。夜明けとともに、フイ高地は猛烈な砲撃を受けます。3時間に渡って事前砲撃は続き、これに空襲も加わりました。フイ高地は爆煙に覆われ、その煙が遠く戦線中央の友軍部隊からも見えたほどでした。
 砲撃が止んだとき、塹壕から顔を出した日本兵の目の前には、ソ連軍の歩兵と支援戦車が迫っていました。わずか30mの距離に見えたという話もあります。
 ソ連軍の第一撃は鋭く、20日12時頃には40両ほどの戦車・装甲車が陣地に接近。これに対し、井置支隊は野砲・山砲・速射砲、ダッグインした装甲車両の砲塔射撃などでありったけの重火器で応戦、十数両撃破を報じました。ソ連軍は今度は歩兵を前進させ、陣地の一角を占領します。
 しかし、日没とともにソ連軍は後退し、日本側の逆襲もあって井置支隊はかろうじて初期位置を回復します。井置支隊は破損した陣地の修復を試み、特に西側正面にはなけなしの鉄条網が展張されました。この鉄条網は翌日以降、ソ連兵の接近を抑制するのにかなり効果を発揮したようで、量が十分でなかったことが惜しまれます。
 初日の戦闘で、井置支隊の受けた物的被害は甚大でした。食糧や軍馬多数が失われ、中でも手痛いのは給水関係の被害です。水を備蓄したドラム缶は吹き飛ばされ、10本も掘っていた井戸も全て砂に埋もれて使用不能。夜露をなめてのどを潤す苦境に陥っていました。

 翌8月21日もソ連軍は北部集団の全戦力を投じてフイ高地に猛攻を加えますが、少しも前進することはできませんでした。井置支隊はことごとく攻撃を跳ね返したのです。
 この結果はジューコフを激怒させます。ソ連軍の北部集団司令官シェフニコフは更迭され、アレクセンコ大佐が替わりました。シェフニコフに対しては、一部の戦力でフイ高地を包囲して、主力はそのまま前進させるべきだったとの戦術的批判が向けられています。
 また、ジューコフは、総予備として温存していた第9装甲車旅団と第212空挺旅団などを、北部集団へと増援します。井置支隊の奮戦の証といえますが、彼我兵力差はさらに絶望的となったのです。
 対する日本側は、南部で攻勢転移して反撃する方針を決める一方、北端の井置支隊には守備命令を与えたまま放置しました。21日夜に第7師団によってわずかな増援・補給(野砲1門その他)と負傷者収容がされたほか、若干の航空支援があったにとどまっています。

 8月22日、戦闘3日目にして井置支隊の陣地は侵食され始めます。防備の脆弱な高地東側からソ連軍戦車が侵入したのです。夕刻には野砲中隊の陣地が蹂躙され、中隊長も戦死します。それでも果敢な抵抗は続き、この夜、捜索隊第2中隊は37mm砲(おそらく95式軽戦車の主砲)で2両の敵戦車撃破を報じています。捜索隊の副官は、夜陰にまぎれて負傷者をトラック2両で第23師団司令部へと後送し、お土産に速射砲2門の支給を受けますが、折悪しく敵襲があったため司令部の自衛用に取り返されてしまいました。
 23日、フイ高地東側で終日激戦が続きました。日本側では連隊砲が戦車5両撃破を記録。ソ連軍は猛砲撃で応え、19時頃までには日本軍の重火器の大半が失われます。ソ連兵の侵入で支隊本部も移動を余儀なくされました。井置中佐は夜襲による一斉反撃を命じ、支隊の各部隊はそれぞれ対峙する敵に突進しましたが、かえって大損害をこうむってしまいます。捜索隊第2中隊は全戦車・装甲車が撃破され、中隊長以下壊滅状態。工兵中隊は帰還不能となり、そのまま独自行動で戦線離脱。この夜襲についても日本軍の戦例集は非難し、多方面に出撃せず東側に集中反撃すべきだったと評しています。なお、ソ連側戦史では、この23日夜をもってフイ高地陥落と記録されているようです。
type93_13mmMG.png 24日、夜明けとともにソ連軍の手番となります。夜襲で消耗した日本軍陣地は、東側から一気に崩壊していき、西端の歩兵陣地付近に残存部隊が圧迫された状態となります。兵力は当初の1/3の273人、なかでも旗本というべき師団捜索隊は本部5人・第1中隊29人・第2中隊2人だけ、残された重火器は修理中の連隊砲1門きりでした。壕の中にダッグインしたまま撃破された日本戦車の残骸を、侵入したソ連戦車が戦利品として牽引して持ち去りますが、日本兵はただ見送ることしかできませんでした(注1)。なお、右のソ連軍が停戦後に撮影した戦利品写真を見ると、92式重装甲車の93式13mm機関砲が2門混じっており、第23師団捜索隊の装備品だったものと思われます(画像赤丸部分)。

 24日午後、井置大佐は最後の決断を下します。独断撤退です。決断の経緯は、部下から進言があったとも、支隊の指揮官会合で決まったとも言われますが、はっきりしません。確かなのは、すでに23日午前には上級部隊と通信途絶状態で独断せざるを得なかったこと、午後4時に井置名で撤退命令が出されたことのみです。「マンズテ湖道を経て敵の側背を攻撃しノモンハンに向かい前進せんとす。」名目上はあくまで攻撃であり、前進でありました。
 22時撤退開始の予定でしたが、月が明るすぎるために翌25日午前2時に遅れて出発(注2)。午前10時半頃に満州国軍と接触し、トラック3両による輸送援助と誘導を受けて、オボネ―山(将軍廟北西5km)西方15kmの満軍北警備軍へと収容されました。フイ高地の初期兵力759人のうち、269人だけがこのときの脱出者でした。基幹部隊の第23師団捜索隊は70%を超える死傷率を記録しています。その後、師団捜索隊は予定とは違ってノモンハンにはゆかず、オボネー山付近の守備を命じられ停戦を迎えます。
 井置大佐は独断撤退の責任を問われ、停戦2日後の9月17日に自決に追い込まれます(注3)。その死は2年後になってから戦病死として公表されました。靖国神社への合祀は、太平洋戦争終結後の1949年まで認められませんでした。しかし、8月20日に南部での反撃実施が決まった時点で、フイ高地の戦術的価値は失われていたのであり、遊兵化した井置支隊に漫然と守備を続けさせた第6軍や第23師団司令部こそ責められるべきではないかと思われます。たまたまソ連軍の戦術ミスでフイ高地は敵の大戦力を数日間も拘束できましたが、ジューコフの指摘したように、一部の戦力で包囲したうえで迂回されれば、このような成果も本来は期待できなかったはずです。少なくとも連絡途絶・全滅寸前となった8月24日時点では、井置大佐の決断は違法な無断撤退ではなく、正当な独断専行と言えるでしょう。

 ノモンハン事件停戦後、第23師団は日本軍としては特異な機械化師団として再建されることになります。第23師団捜索隊は、10月4日には95式軽戦車5両を支給されることが決まっています。戦車第4連隊から中古戦車が回されたようです。後には第23師団捜索隊は捜索第23連隊へと拡大改編されています。別に師団戦車隊まで新設され、2個中隊規模の軽戦車が装備されました。
 軍の機械化推進の実験部隊としての意味合いもあったようですが、結果的にはノモンハン付近の平原向け特殊師団という程度に終わり、同種の師団はほとんど生まれませんでした。太平洋戦争時には師団戦車隊は抽出されて戦車第16連隊へと改編されてしまい、師団主力も南方進出に際して軽装備化され、さらに海没で消耗という運命をたどります。捜索第23連隊は非力な97式軽装甲車を駆って、ルソン島リンガエン湾で米軍と戦い、再び壊滅しました。(この章終わり

注記
1 ソ連側記録によると、ノモンハン事件では7両の日本戦車が鹵獲されています。主力戦車部隊である第1戦車団関係で鹵獲されたものとして、95式軽戦車と94式軽装甲車各1両が確認できますが、そのほかは不明です。おそらく第23師団捜索隊第2中隊の装備車両が相当数鹵獲されているものと思います。
 92式重装甲車の主砲でもある13mm機関砲は、5門の鹵獲記録があります。

2 行軍の順序は、先頭から歩兵第6中隊・捜索隊第2中隊・野砲中隊・歩兵第9中隊・速射砲中隊・連隊砲中隊・捜索隊第1中隊。本文で触れたとおり、工兵中隊は23日の夜襲の際に単独行動で撤退しています。

3 井置大佐は、当初は部下だけを撤退させて自決する意思だったとも言われます。しかし、部下に自決を止められて撤退を終えた後は、むしろ生きて戦訓を伝えることを考えていたようです。停戦1週間前の9月8日に妻にあてた手紙が残っており、そこには「今となっては長生きして戦争の実際を世間に伝える必要がある。」それこそが部下への供養となるだろう旨がつづられています。
 井置大佐を自決に追い込む中心的役割を果たしたのは、第23師団長の小松原道太郎中将と言われます。もともと井置に不信感を持っていた彼は、撤退についても不当と考えたようです。また、騎兵関係の高級士官たちの間にも、騎兵の名誉を守るために自決させようという動きがあったようです。

イタリア戦車と日本戦車は似てるよね

 親戚の子へのクリスマスプレゼントにする本を買いに、都心の本屋に行ってきました。5年前にも書きましたが、どうにもプレゼントのセンスに自信が無いので、本に頼ってしまいます。
 幸い手ごろな本があったので包んでもらい、これも本屋に置いてあったお菓子そっくりのキャンドルを添えることにしました。このキャンドルがチョコレートやタルトの形に良くできていて、甘い香りが実においしそう。思わず食べてしまいそうで、小さな子どもにはうっかり渡せない代物ですが、もうあの子には大丈夫でしょう。

総力戦体制研究―日本陸軍の国家総動員構想 で、ついでにうろうろ本を眺めてきたところ、右掲の纐纈厚「総力戦体制研究」(社会評論社、2010年)という本が新しく出ていたので購入。目次を眺めた程度で、内容はまだ詳しく読んでいませんが、1981年初版の同名書の改訂版でした。
 ちと気になったのは表紙の写真です。ほとんどの写真は日本軍が被写体で、日本の総力戦体制を研究対象とした本書の内容にあってるのですが、なぜかイタリア戦車の写真が一枚混じっています。第二次世界大戦時のイタリア軍の主力戦車であるM13/40中戦車、厳密には小改良型のM14/41の写真らしいですが。
 たぶん、日本戦車と間違えて使われてしまったのだろうと思います。M13シリーズは、装甲をリベットで接合した構造とか、わりと垂直な前面装甲とか、同世代の日本の主力戦車だった97式中戦車チハシリーズと外観も性能も似ています。特に、47mm砲装備のいわゆるチハ改(新砲塔チハ)は、全体の印象がかなり近い気がしますがどうでしょう。いや95式軽戦車のほうが近いでしょうか。
 このミスは、日本軍オタク・イタリア軍オタク両方を敵に回しますぞ。日本軍びいきは、ヘタリアなんぞと間違えるなと言うでしょう。ビバ・ドゥーチェな人は、どうせマイナー軍隊ですよとへこたれる……いや、そんな細かいこと気にしないかな。
 人も本も見た目で判断しちゃいけませんが、ちょっと良くない予断を与えられてしまいましたことよ。中身の編集はちゃんとしてるのかなあ。

参考画像:M14/41中戦車(左)、97式中戦車(47mm砲型、中)、95式軽戦車(右)
M14tank.jpg 帝国陸軍九七式中線車 [新砲塔チハ] (1/35スケールプラスチックモデル組立キット) type95tank.jpg

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・後編1)

4.フイ高地の死闘(承前)
 ありったけの砲兵を投じた7月下旬の総攻撃も失敗に終わった日本軍は、攻勢をあきらめて持久戦の態勢作りに移行します。対峙したまま越冬することも想定していたようです。しかし、輸送力の不足から、鉄条網などの築城資材は不十分な量でした。南北36kmもの長大な戦線を維持するには兵力も不足でしたが、これ以上兵力を増やすことも兵站能力の関係から容易ではありませんでした。
 第23師団捜索隊は、師団主力から約15kmと遠く離れたまま、フイ高地(721高地)の守備を命じられます。守備に適した歩兵部隊と任務を交代することも検討されたようですが、実現しませんでした。代わりにとばかり、歩兵・砲兵・工兵・速射砲の各1個中隊が追加で配属されています(注1)。歩兵と工兵は築城作業用でした。北のホンジンガンガと南のシャリントロゴイ山の2つの周辺拠点には、満州国軍の興安北警備軍から各1個騎兵連隊が配置されます(注2)。なお、8月上旬に参謀(辻政信少佐?)がフイ高地を訪れて、歩兵部隊との任務交代があることを告げたとの話があり、事実ならば捜索隊の築城に対する関心を削いだ可能性がありそうです。
721_0819.png 8月2日には数日間の孤立に耐えるような陣地・通信・弾薬・水の準備が指導されています。
 師団捜索隊は配属工兵を中心に防御陣地の築城を進めましたが、資材不足で遅々としており、工事の完成度は1/3以下でした。散兵壕や連絡壕は一応掘り終え、自動車用の退避壕などもあったようです。しかし、本部の壕ですら天幕を張っただけで掩蓋が無く、外周に鉄条網もありませんでした。右図には一部のみ鉄条網が描かれていますが、これは21日になって急遽設置されたものです。この点、ソ連側記録ではコンクリートで固めたトーチカなどで要塞化されていたように書いていますが、自軍の苦戦を正当化するための誇張と思われます。
 工事の遅延の問題に加え、井置支隊の防備計画は、全周防御となっていない欠陥があったとの批判があります。ちょうど「C」の字のような布陣で、東の満州国領側は開放されていたようです。客観的に見て敵中に孤立する可能性があった以上、不適当でしょう。本章の冒頭に引用したように、日本軍がまとめた戦例集では失敗事例として収録されています(注3)。

nomonhan_map6.png 一方、ソ連側は、このまま冬籠りするつもりなど毛頭なく、着々と総攻撃の準備を進めていました。
 ジューコフの立案した作戦計画は、機甲部隊の機動力を活用した両翼包囲です。正面の歩兵部隊が金床として日本軍を拘束しているうちに、南北から回り込んだ機甲部隊がハンマーとなって叩き潰す、いわば現代版の金床戦術。この計画のため、中部集団には第36自動車化狙撃兵師団・第82狙撃兵師団主力・第5機関銃狙撃兵旅団、南部集団には第6戦車旅団主力・第11戦車旅団主力・第57狙撃兵師団・第8装甲車旅団・モンゴル第8騎兵師団、そしてフイ高地を含む北部集団には第11戦車旅団のうち戦車大隊2個・第7装甲車旅団・第82師団の第601狙撃兵連隊・モンゴル第6騎兵師団と区分されています。このほか、予備兵力として第212空挺旅団と第9装甲車旅団などがありました。
 ソ連軍の総攻撃開始は8月20日朝と決まります。

 日本軍も、ソ連軍の総攻撃に無警戒だったわけではありませんでした。ソ連本国での諜報活動から、8月に総攻撃があるとの情報をつかんで警戒していたのです。張鼓峰事件でソ連軍の総攻撃があった8月6日が怪しいとの予想までしていました。記念日を期して総攻撃をする自軍の習性を、相手にも当てはめてしまった筋の悪い推論です。
 幸か不幸かほぼ日本軍の予測通り8月7日から8日にかけてソ連軍は攻勢をとり、待ち構えた日本軍に撃退されました。日本側砲兵は、大盤振る舞いの破砕射撃を行って「大戦果」を報じています。ソ連側の意図は戦線整理程度だったようですが、日本側は総攻撃と誤認し、撃退成功と安心してしまったのでした。
 本物の総攻撃の兆候が出たのは8月17日です(注4)。真っ先に気付いたのはフイ高地の師団捜索隊で、ソ連軍の大規模な渡河が始まったのを発見して通報します。翌18日には、フイ高地方面のソ連側兵力を、1個師団と戦車旅団1個、2個騎兵連隊、1個砲兵旅団とかなり正確に掴んでいました。軍砲兵隊も、ソ連側砲兵の応射が一挙に十倍になったと異常事態を記録しています。しかし、これらのせっかくの情報は有効活用されないままに終わったようです。

 8月19日、もはやソ連軍の総攻撃意図は明らかでした。前線各部でソ連軍部隊の移動が確認され、なかでも北方では実際の攻撃が始まったのです。ソ連軍とモンゴル第6騎兵師団が、ホンジンガンガとシャリントロゴイの満軍騎兵に襲いかかり、夕刻までには撃破してしまいます。
 フイ高地の井置支隊は早くも孤立したことになります。その兵力は師団捜索隊(注5)基幹の759人、主要装備は軽戦車2両・重装甲車2両と野砲4門(2門とする資料あり)・山砲3門・速射砲3門。対するソ連側は1個歩兵連隊・2個戦車大隊・1個装甲車旅団・1個砲兵大隊で、彼我兵力差は20対1とも50対1とも評されます。(後編2へ続く

注記
1 第23師団より野砲兵第13連隊第4中隊、工兵第23連隊第2中隊。第7師団より歩兵第26連隊第9中隊、歩兵第25連隊速射砲中隊。原所属がばらばらの寄せ集めで、特に第7師団からの配属が中心を占めます。

2 満軍騎兵は、北のホンジンガンガに騎兵第8団、南のシャリントロゴイに騎兵第2団が展開。ほか、後方のマンズテ湖付近に北警備軍司令部と騎兵第1団。

3 フイ高地での戦術行動が日本軍の戦例集で低く評価されている背景には、責任者となる井置中佐が無断撤退という「不名誉」の末に死亡しているために、遠慮なく批判できたことがあったのではないかと思えます。例えば、安易な陣前出撃の実施が捜索隊第1中隊を例として批判されていますが、これは戦場各地でしばしば見られた行動です。井置支隊を代表例=スケープゴートとして批判することで、随所で得られた戦訓を教育材料として生かしつつ、他の失敗指揮官たちの名誉が傷つくのを回避したのではないでしょうか。

4 これより早い8月12日には、軍砲兵隊では敵砲兵が両翼へ分散しつつあることを観測しており、あるいはこれは攻勢の準備のための移動とも見えますが、定かではありません。

5 作間少尉が率いる乗馬1個小隊欠。作間小隊(騎兵約25名および軽機関銃)は、8月17日に師団主力方面へ抽出され、歩兵第71連隊(森田徹大佐)に配属。8月21日にニゲーソリモト付近でソ連軍の戦車8両・歩兵200人と交戦して撃破され、生存者は8月24日夜に第23師団司令部へとたどり着いています。
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

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