山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第3章・後編)

3.五族協和の旗の下に(承前)
nomonhan_map7.png ハンダガヤで安岡支隊の指揮下に入った満軍興安支隊ですが、7月1日になって任務が変更されます。7月3日の第23師団主力のハルハ川渡河総攻撃、安岡支隊主力の北方からの東岸攻撃とは別に、興安支隊単独でホルステン川南方での攻撃を実施することになったのです。
 このとき、ホルステン川南岸のニゲーソリモト(二本松高地)やノロ高地には、ソ連第11戦車旅団の第175機関銃狙撃兵大隊などが布陣していました。第175機関銃狙撃兵大隊は、第一次ノモンハン事件でソ連軍ブイコフ支隊の基幹戦力だった部隊です。一般中隊3個のほかT-37水陸両用戦車8両などを本来持っていたようですが、第1次事件や6月末の安岡支隊との交戦で消耗していました(注1)。支援部隊として装甲車両や砲兵も付属したものと思われますが、よくわかりません。ブイコフ支隊と同じとすれば装甲車・自走砲各1個中隊などが付属して、総兵力1200人・装甲車両20両・各種火砲12門といった程度でしょうか。
 額面上の戦力では、1個師団で1個大隊を攻めるので圧倒的に興安支隊有利と見えますが、装備の質や兵員の練度も考えると楽な戦いではありません。なお、日本側は、ソ連側の兵力を過小評価していたようで、7月7日時点でもノロ高地付近には歩兵200~300人と装甲車両12両程度と判断していました。

 7月1日夕刻、興安支隊は戦闘を開始します。この時点での手元兵力は騎兵3個連隊と砲兵、そして小堀保俊上尉率いる装甲車隊などで、部隊集結は未了でしたが、第23師団や安岡支隊とタイミングを合わせなければならなかったのです。ところが、興安騎兵第5団を前衛として出撃直後に、ソ連側装甲車両の襲撃やホルステン川北岸などからの砲撃を受け、あっさりとん挫してしまいました。
 7月2日から4日、後続部隊を集めつつ興安支隊は攻撃を続けて、ノロ高地東方7~9km付近の753高地(イミ高地)と二本松高地を占領します。これは、北岸で圧迫されたソ連側が、自主的に後退したためと思われます。興安支隊の戦いぶりは、小松原第23師団長にはかんばしくないと見られ、7月7日の総攻撃のため歩兵第71連隊基幹の岡本支隊がホルステン川南岸に増援されることになりました。

 岡本支隊の着かない7月5日から7日、興安支隊はなおも前進してノロ高地に取りつこうとしますが、ソ連側の猛反撃を浴びてしまいます。例えば最も前進した興安学校教導団(約100人)は、ノロ高地東方2kmの747高地まで迫りますが、兵力の2/3を失いました。
 この最中に、あるいは史上唯一と思われる満州国軍とソ連軍の機甲戦闘が発生しています。二本松高地に置かれた興安支隊司令部は、7月6日、敵装甲車両6両の襲撃を受けました。それを、第1独立自動車隊装甲車隊の装甲車1両が迎撃したのです。ソ連側の車種はわかりませんが、おそらく45mm砲塔装備の装輪装甲車であったと思われます。満軍装甲車の37mm平射砲でも装甲を貫徹不能な相手ではないでしょうが、数でも性能でも絶望的な差での戦闘でした。満軍装甲車はあえなく撃破され、勇敢な乗員は戦死しています。
 満足な対戦車兵器を持たない興安支隊は、ソ蒙軍の装甲車両に蹂躙されることが多かったようです。支隊司令部も、立ち向かった護衛装甲車が撃破された後に至近距離から戦車砲を浴び、蒙古少年隊の犠牲的な肉薄攻撃によりかろうじて救われています。ソ連側に損失車両は無かったものの、危険を感じて後退したのでした。この戦闘で蒙古少年隊は隊長の寺崎中尉が戦死しました。

 7月7日に支隊司令部員まで手榴弾を配布して全滅を覚悟したころ、ようやく岡本支隊が救援に到着します。岡本支隊は道に迷っていたようで、現地に慣れた満軍の案内が無かったのが惜しまれます。興安支隊は、安岡支隊の指揮下を離れ、岡本支隊(後に部隊長交代で長野支隊)の指揮下に入りました。
 興安支隊はホルステン川沿いに進む長野支隊の南に並んで、ホルステン南岸域での戦闘を7月末まで続けます。装備不十分な騎兵で、鉄条網で守られた陣地攻撃という難任務に挑んでいます。最左翼の騎兵第12団はハルハ川東渡目前の744高地を占領し、渡河しようとしたソ蒙軍300騎と激戦を展開するなど、それなりの成果を挙げました。7月23日に興安支隊の視察に訪れた小松原第23師団長も、支隊の奮戦を称えています。
 ただ、士気の低下が目立ち、脱走兵が続出しました。日系軍官は参謀や顧問といった高級士官までが軍刀をふるって前線に立ちますが、死傷が相次ぎ、幹部を失った部隊の士気統制はさらに失われる悪循環に陥っていました。国境警備を長く続けていた興安北警備軍と異なって、興安師は経験の乏しい新設部隊だったことも統制を欠いた一因のようです。
 7月31日、支隊司令部が爆撃を受け、野村中将も負傷後送されます。これはどうやら日本軍機の誤爆だったようです。この日、第8国境守備隊の派遣部隊(後の長谷部支隊)が増援として到着し始め、8月2日に興安支隊は後方へと下がりました。最終時の兵力は、わずか300人余りでした。興安支隊の正確な損害は不明ですが、ある参謀の記録では死傷2895人といいます。

 その後、8月上旬に旅団規模の満州国軍部隊2つ(石蘭支隊・鈴木支隊)が、軍管区の教導部隊などから集成されて出動しています。石蘭支隊はハンダガヤ南西方の970高地、鈴木支隊はハンダガヤ付近の守備を務め、兵力不足の日本軍を支えました。なお、石蘭支隊のうち歩兵1個大隊は、ソ連軍の総攻撃の最中の8月21日に日系軍官を殺害して、集団投降しています。鈴木支隊でも砲兵1個中隊が集団脱走する事件が起きています。
 興安支隊の解散後も、独立第1自動車隊は戦場に残り、停戦成立後も9月末まで輸送部隊として活動を続けました。前編で触れたような装備車両の優秀さもあったのでしょうが、その活動ぶりは日本軍自動車部隊を上回るもので、日本の沢田茂第4師団長から賞状を贈られるほどでした。成功の秘訣は、積載重量制限を守り、速度も自身の能力の80%に抑えるなど無理をしないことや、夜盲症対策に生鮮食品を確保していたことなどだそうです。
 装甲車隊も、敵戦車との交戦といった華々しいことは無かったものの、戦場にとどまっていました。野戦向きとは言えない装輪装甲車での砂地行動は苦労したようで、砂地で1両が立ち往生しているのを、8月5日に日本軍の高射砲部隊が見かけています。この日本軍部隊は、トラックで牽引して装甲車を救助しようとしたところ、自分も動けなくなってしまい、最終的には満州国軍のトラックに牽引してもらう愉快なことになりました。8月21日の石蘭支隊反乱事件では、簗瀬部隊長自ら装甲車を指揮してただちに石蘭支隊司令部の警備に向かっています。

 ノモンハン事件の結果、満州国軍の戦力価値には疑問符が付けられ、大幅な軍制改革が必要との評価を受けます。独立国の体裁を整えるために規模の拡大を進め過ぎたなどの反省が出ました。壊滅した興安師は第2師として再建され、第1師(靖安師)とともにたった2つの満州国軍の師団となっています。
 一方、満州国軍の自動車隊には高い評価が与えられ、大規模な拡張が進められています。1945年には7個自動車隊が編成済みでした。教育機関として1941年に奉天に自動車学校が開校され、1943年には自動車学校の教導部隊の中に機甲連(連は中隊に相当)が設置されています。装備は94式軽装甲車が約10両で、吉林省鉄嶺市の三咀子駐屯の日本軍部隊から移管された中古車でした。結局、この自動車学校機甲連が満軍で唯一の戦車部隊となります。ソ連対日参戦時には特に戦闘を行わなかったようなので、やはりノモンハン事件の二本松高地での戦闘が満州国軍史上唯一の機甲戦なのではないかと思うところです。(この章終わり

注記
1 第11戦車旅団の7月20日時点でのT-37水陸両用戦車保有数は、1両だけに減っています。ただし、同旅団のノモンハン戦全期間中のT-37損失は4両にとどまるという記録もあり、よくわかりません。
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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第3章・前編)

3.五族協和の旗の下に
 善守國以仁、不善守以兵
 (善く国を守るは仁をもってし、善く守らざるは兵をもってす)
                ―鄭孝胥「大満洲建国歌」―

 ノモンハン事件は、形式的にはモンゴルと満州国の国境紛争です。実際に戦闘の主力となったのは、双方の保護者であるソ連と日本の軍隊でしたが、当事国のモンゴル軍と満州国軍ももちろん参戦していました。
 モンゴル人民革命軍は、第6騎兵師団と第8騎兵師団を主力に、第5騎兵師団から抽出の第14騎兵連隊(装甲車中隊などで増強)が第一線での戦闘に加わっています。各騎兵師団には装甲車大隊も含まれ、総計で50両ほどの装輪装甲車を装備していたようです。
 対する満州国軍は、第10軍管区=興安北警備軍(烏爾金(ウルジン)少将)と、興安騎兵師基幹の興安支隊(野村登亀江中将)、終盤には石蘭支隊(石蘭斌少将)、鈴木支隊(鈴木菊次郎少将)といった部隊が出動していました。興安北警備軍は、東西南北4つに分かれた興安省の国境警備部隊の一つで、比較的精強なバルガ人系の騎兵を主力にした5個騎兵連隊他2000~3500人程度の部隊です。興安師は、前年の1938年末に編成着手して1939年5月に完結したばかりの新設の騎兵師団で、興安騎兵第4~6・12団の4個騎兵連隊(「団」は連隊に相当)と興安砲兵団・興安迫撃砲団を基幹とします(注1)。興安支隊として出動する際に、訓練中の少年兵で構成された蒙古少年隊(日本軍との通訳要員として予定)、装甲車を含む自動車隊などが配属されて、約6000人の兵力でした。石蘭支隊・鈴木支隊は、それぞれ歩兵・騎兵混成の3000人程度の部隊だったようです。

 満州国軍というと、日本の関東軍の補助部隊としての性格が強いですが、小規模な機甲戦力として独立第1自動車隊の中に装甲車隊を持っていました。この部隊が、ノモンハン事件にも興安支隊の一部として出動したものです。
 独立第1自動車隊は、奉天に本拠を置く自動車装備の輜重部隊で、満州国軍で最大の機械化部隊でした。部隊長は、日系の簗瀬幸三郎中校(中佐に相当)。1937年11月には、本部・2個中隊・装甲車隊・材料廠という編制で、分遣中のものを含めて人員323人・自動車118両(装甲車4両・バイク11両を含む)。ノモンハン事件のあった1939年には、3個中隊基幹で装甲車隊は11両に成長していました。機械技能が要求される部隊の特殊性から、士官のほとんど、下士官兵の1/3は日系将兵が占めていたようです。日中戦争勃発後には、日本軍に協力して熱河省などでの作戦を行ったこともあります。
syasin_syuho31.jpg 装甲車隊の装備車両には数種あったようです。主力となったのは、日本製の「いすゞ」トラックをベースに、満州の同和自動車会社が艤装を担当したもので、乗員10人、武装は37mm平射砲(35mm砲とする資料もあるが誤りか)1門・重機関銃1挺・軽機関銃6挺となっています。右の写真の高粱畑の中を進む車両が該当車のような気もしますが、一見よく似ていてシャーシが違う仕様もあるため断定できません(注2)。また、1939年の装備車両11両のうち、3両は江上軍(河川部隊)より移管されたものです。江上軍は、海軍系の江防艦隊だった1936年末時点では4両の装甲車を陸戦隊用として保有しており、その後にこれらが移管されたのでしょう。
 なお、輸送用のトラック(自動貨車)は、「ダッジ」「フォード」「シボレー」を主力とし、国産車の「いすゞ」なども使っていました。トヨタや日産の車両は不具合が多かったようです。

 ノモンハン事件勃発直前、満軍独立第1自動車隊(簗瀬部隊)は、1個自動車中隊と装甲車隊を事前にハイラルまで前進させていました。そのため、興安支隊としての本格出動に際しても、速やかに対応できたようです。
 6月に出動命令を受けた簗瀬部隊は、ハロンアルシャンに主力を置き、第1連(中隊に相当)をハイラル、第2連をハンダガヤ(ハンダガイ)に向かわせます。出動車両は、ダッジ貨車220両・フォード貨車50両・その他トラック80両・装甲車11両などでした。自動車400両という数字は、日本軍が初期に出動させた兵站自動車と同等規模の有力なものです。
 簗瀬部隊は、さっそく満軍や日本軍の部隊・物資の輸送にあたります。優秀な外国車を豊富に装備した簗瀬部隊は、日本軍の輜重部隊よりも悪路に強く、効率的な輸送を行うことができました。後の調査によると、満軍の自動車の1日あたりの平均走行距離は450kmに達していました。
 6月28日に興安支隊はハンダガヤに集結し、日本軍の戦車部隊である安岡支隊の指揮下に入ります。(後編に続く

注記
1 資料によっては、興安師ではなく興安第2師とするものもありますが、誤りと考えます。ノモンハン事件後の1940年に師団を再建する際に第2師と改称したことが、混同されているものと思われます。

2 画像出典:内閣情報部「写真週報 第31号」(内閣印刷局、1938年9月14日)。なお、「藤田兵器研究所」の満洲帝国軍のページには隊列を組んだ鮮明な写真が掲載されています。

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第2章・後編)

2.機械化工兵(承前)
type95tank_nomonhan.jpg 第23師団主力の渡河作戦も失敗に終わった日本軍は、東岸の安岡支隊に戦力を集中し、攻撃再興を図ることにしました。大打撃を受けた戦車第3連隊はマンズテ湖付近へ後退し、戦車第4連隊や工兵第24連隊は増援到着まで守備態勢に移行します。7月4日から6日にかけて、戦車第4連隊は、失地回復を図るソ連軍の歩戦協同部隊と激戦を繰り広げ、6日だけで89式中戦車甲6両・95式軽戦車5両・軽装甲車1両が撃破されました。ソ連側の反撃はすべて撃退され、そのつどソ連側も数両の装甲車両を失いました(注1)。右の画像はこの時期のものと思われ、「擱座せるベーテー戦車」「鹵獲せるベーテー戦車」という解説が付いていましたが、日本の95式軽戦車に見えます(注2)。
 7月7日夕刻、薄暮に紛れて日本軍の東岸総攻撃が再開されます。今度は歩兵が主役で、消耗した戦車部隊は脇に下がりました。工兵第24連隊も左翼の歩兵第64連隊に協力して前進し始めたのですが、とたんに運の悪い一撃を受けます。対岸から飛来したソ連軍の長距離砲弾1発が、行軍中の連隊本部を直撃したのです。連隊長の川村質郎大佐は後頭部に弾片を受けて、副官や軍医らが駆け寄った時には手遅れでした。なお、歩兵第72連隊(酒井部隊)も同様に行軍中に砲撃を浴び、一挙に300人が死傷する損害を受けています。
 連隊長を失いながらも、代理となった第1中隊長の薮内烈夫大尉の下で工兵第24連隊は奮闘しました。詳細な戦果は不明ですが、工兵としての爆薬技能を生かして、橋梁爆破や対戦車肉薄攻撃に従事したようです。9日には1個小隊を第7師団の歩兵第26連隊(須見部隊)に配属しています。12日夜、歩64に配属の工兵隊がハルハ川の橋梁爆破を試みて、ソ連側装甲車多数と遭遇して壊滅していますが、これも工兵第24連隊の一部である可能性があります。
 しかし、結局7月12日まで断続的に続いた夜襲主体の日本側総攻撃も失敗に終わります。ホルステン川にかかるソ連側軍橋を一部爆破するなど、かなり良い線まで行っていたようですが、ハルハ川西岸の砲兵による損害が懸念されて前進停止が命じられたのです。対抗可能な友軍重砲兵の到着を待つという理屈でした。こうして、一時的にせよソ連軍を東岸から一掃できたはずの最後の勝機は去ったのです。このときソ連軍は、第11戦車旅団長ヤコブレフ大佐や第149狙撃兵連隊長レーミゾフ少佐ら幹部が戦死し、訓練未了の第82狙撃師団を前線に送るところまで追い込まれていました。

 上記の歩兵総攻撃最中の7月9日、安岡支隊の解組と第1戦車団の帰還が発令されています。理由としては、第1戦車団の損耗が、予定される戦車部隊拡張(注3)に悪影響を与えると危惧されたこと、指揮系統の複雑化回避などが言われます。実際、第1戦車団の損害、特に将校の死傷は激しいものがありました。ただし、第1戦車団の帰還は現地部隊の反対で7月下旬まで延期となり、フイ高地方面などで若干の戦闘を行っています(第4章参照)。
 安岡支隊の解組で、最も割を食ったのと思われるのが、工兵第24連隊でした。もともと兵力300人程度の小さな部隊で兵站機能に不安があったのが、世話役の安岡支隊まで失い、赤の他人の第23師団の指揮下に放り込まれたからです。どこの組織でもありがちですが、こと日本陸軍においては、このような臨時配属の継子部隊は冷遇される傾向がありました。
 工兵第24連隊の食糧事情は、悲惨な状態に陥ります。米飯が調達できず乾パンを常食したり、他部隊の残飯を渡されたりと、文字通り冷や飯を食わされたようです。3日くらい雑草を食べて飢えをしのいだとの回想もあります。日本陸軍では加給品といって菓子などの特別食が支給されることがあり、ノモンハン事件では割合に潤沢に供給されていたのですが、工兵第24連隊が事件中に受け取れたのは一人宛サイダー2本・ビール1本・羊羹1本だけでした。
 なお、連隊長が戦死して大尉の若造が代理だったということも、発言力の弱さから不遇を招いたのだと思われます。

 7月中旬から、工兵第24連隊は第23師団配属となり、砲兵団の陣地構築や、歩兵に協力しての対戦車戦闘などに駆り出されます。詳細は不明ですが、連隊長代理だった薮内大尉の回想では、残存兵力数十人まで打撃を受けたといいます。これらの攻撃は失敗に終わりました。
 日本軍が持久戦体制に移った7月末ころ、補充要員約300人を得て連隊は戦力を回復します。新たな連隊長として沼崎恭平中佐も現地に到着しました。不足がちだった築城用資材も多少はもらったようで、せっせと各部隊のために陣地を作っています。8月には、南北の連絡線確保のためホルステン川に木造の2本目の軍橋を完成させ、「新工兵橋」と命名しました。ある兵士の回想によると、褌一つで水に浸かる架橋作業はつらいものであったのに対し、陣地作りは掘りやすい砂地なので楽だったそうです。なお、沼崎中佐は、地形的に現在の第一線は防御陣地に向かないから、もっと後退して築城するべきとの意見具申をしていましたが、採用されませんでした。
 8月20日、ソ連軍の総攻撃が始まった時、工兵第24連隊は第6軍司令部の護衛部隊として後方に移動したため、難を逃れます。8月27日、小松原第23師団長は、包囲された前線部隊を救うべく、師団の残存部隊を直率して最後の出撃をしました。沼崎中佐は、元気が無く絶望的な決意を固めた風情の小松原中将を見送っています。小松原救援隊はホルステン川沿いに新工兵橋を目指して前進しますが、31日までに兵力の過半を失って帰りました。
 工兵第24連隊は、9月の停戦まで守備配置についた後に撤収しました。ノモンハン事件における連隊の損害は死傷約200名とも言われますが、正確な数は不明です。その中には、連隊長川村大佐や小隊長2名以上の戦死のほか、第1中隊長・連隊長代理を務めた薮内大尉や、連隊副官の負傷が含まれていました。

 ノモンハン事件終結から半月後の1939年10月に第24師団が新設されると、工兵第24連隊は予定通りにその隷下に入ります。そして、一般の師団工兵部隊となったのでした。太平洋戦争では沖縄戦に参加して壊滅しています。
 日本陸軍の機械化工兵は、1942年にようやく誕生した戦車師団の工兵隊となっていきます(注4)。装甲作業機部隊の独立工兵第5連隊は解隊され、戦車第1師団(第1戦車団の後身)と戦車第2師団および教導部隊に改編されました。戦車第3師団工兵隊は、独立混成第1旅団工兵隊第1中隊の後身である騎兵第4旅団工兵隊を改編してできたもので、いわば工兵第24連隊の兄弟にあたる部隊です。それらの実態はというと、太平洋戦争の終戦近い1945年3月の戦車第1師団工兵隊には、装甲作業機24機・装甲兵車12両(定数54両)・装軌貨車3両(定数44両)などが配備されていたようです。大幅な定数割れの数字が、日本陸軍の諸兵科連合機械化部隊の夢と現実を見せてくれています。
 ひとつ面白いのは、ノモンハン事件中に工兵第24連隊の連隊長代理として活躍した薮内烈夫大尉が、戦車第2師団の後方参謀(階級は少佐)になったことです。歩戦協同に苦労した経験に期待する人事であったのか、単なる偶然なのかはよくわかりません。なお、事件中、薮内大尉は、あの辻政信参謀と一時行動をともにしたことがあるといいます。辻参謀からは「将来お前は参謀になるだろうが、参謀の仕事は机上では駄目で、兵とともに戦うべき」旨の助言をもらい、薮内はこの言葉に感銘を受けてずっと大事にしたそうです。(この章終わり

注記
1 例えば7月4日の戦闘では、ソ連軍もBT-5快速戦車3両が日本戦車と交戦して損傷したのを認めています。対してこのソ連戦車部隊は、日本戦車1両の撃破を主張しているところ、戦車第4連隊も7月4日に89式中戦車甲1両が損傷したことを認めています。

2 画像引用元:樋口紅葉「ノモンハン実戦記」(大東出版、1940年)

3 第1戦車団の隷下3個戦車連隊について、戦車第3連隊は戦車第9連隊、戦車第4連隊は公主嶺学校の戦車教導隊、戦車第5連隊は戦車第10連隊という具合に各新設部隊の編成を担当することが決まっていました。

4 戦車師団の工兵隊のほかにも、機械化された特殊な工兵部隊が若干は存在しました。大規模なところでは、満州東部国境の森林地帯を突破するための伐開機部隊である独立工兵第12連隊や、トーチカ爆破用の遠隔操縦車両などを装備した独立工兵第27連隊が挙げられます。
 独工12連隊は、太平洋戦争中にはニューギニア方面の飛行場建設に送られますが、輸送途中に多くが海没してしまいました。同連隊の生き残りは満州に帰還し、ソ連対日参戦時には、横道河子方面で伐開機などで居留民を護送して無事に避難させています。矢野和子さんの手記「東満より遥かなる故国へ」に、そのときの様子が描かれています。

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第2章・中編)

2.機械化工兵(承前)
 安岡支隊がハルハ川渡河点付近へようやく到着し始めたころ、寝耳に水の転進命令が通達されます(注1、2)。安岡支隊の渡河は中止で、ハルハ川西岸への渡河は第23師団主力をもってし、安岡支隊(右岸攻撃隊)はノモンハン北方マンズテ湖付近から20km南下しハルハ川東岸のソ連軍を攻撃せよというのです。総攻撃予定日は7月3日で、安岡支隊は助攻部隊として1日早い7月2日に攻撃開始予定。
1tkb_0701.png 渡河という難題は無くなったものの、はるかノモンハン北方の攻撃発起点への移動も容易ではありません。2個の戦車連隊は自隊の移動で手いっぱいとなり、随伴歩兵の歩兵第28連隊第2大隊(梶川大隊)が借りていた戦車隊の段列用トラックは、原隊に帰ってしまいます。またも梶川大隊の歩兵は、徒歩に戻っておいてきぼりとなり、総攻撃開始時には間に合いませんでした(注3)。独立工兵第22連隊(一部)なども車両不足で残置されています。幸い、工兵第24連隊は引き続き自動車を利用でき、将軍廟を経由して7月2日にマンズテ湖付近に到着できています。安岡中将は、なるべく支隊の団結を高めるため、車両移動可能な部隊については早々と協同の戦闘隊形を組ませて行軍させています(右図参照)。
 なお、右岸攻撃隊となった安岡支隊の編制は大きく変更され、歩兵第64連隊主力が追加されました。砲兵も、独立野砲兵第1連隊から野砲兵第13連隊(第23師団より)の1個大隊に交換されており、独混1旅団時代からの精鋭機械化砲兵が除かれ、代わりに馬匹牽引の旧式砲に代わってしまいました。新着の歩兵第64連隊は、当然ながら徒歩で、随伴歩兵としての機動力は期待できません。安岡支隊の戦車中心の諸兵科連合部隊としての能力は、支援部隊のさらなる鈍足化で低下しました。日本軍指揮官の戦車への無理解として批判されるところです。ただ、歩兵に関しては、たとえ自動車化歩兵だったとしても、単なるトラックでは元々戦場行動は困難と思われ、歩戦分離の悲劇は避けえなかったとも思われます。

nomonhan_map7.png 7月2日、安岡支隊主力はマンズテ湖付近に集結を終え、夕刻から進撃を開始します。733高地(安岡支隊では地図の文字を読み違え、738高地と呼称)を経て、ハルハ川とホルステン川の合流点(川又)に至るのが計画でした。工兵第24連隊主力も、軽装になってトラックから下車し、前線へ歩き出します。低速の歩兵第64連隊は、先行して7月1日夜から攻撃に移っています。歩兵たちは、日の丸を掲げた友軍戦車隊が駆けつけてきたのを見て歓声を上げました。しかし、疲れ切った歩兵たちに戦車に随伴する余力はなく、歩戦の協同は翌3日までありませんでした。
 2日の夕刻から夜にかけて、2つの戦車連隊は、それぞれ戦車独力でソ連軍陣地を攻撃しました。戦車第3連隊(吉丸連隊)は、歩兵第64連隊を追いこして時速15kmで敵陣に突入し、戦車・装甲車約10両を失って午後9時頃に引き上げました。戦車第4連隊(玉田連隊)は、予定針路を東へ外れながらも独断で夜襲を敢行し、かなりの戦果を得たのが知られています。無線の不調や視界不良、目標物の少なさなどで、日本軍戦車は部隊行動が大変だったようです。なお、この時点でのソ連側東岸部隊は第9装甲車旅団と第149自動車化狙撃連隊(第36自動車化狙撃師団より)で、各種の装輪装甲車60両以上を装備していました。日本側記録に「敵戦車」とあるのは、BT-5戦車と同じ45mm砲装備のBA-10装甲車などの誤認と思われます。
 この夜、工兵第24連隊主力は予備隊として後列にあり、直接の戦闘には参加していません。第1中隊(長:薮内烈夫大尉)だけは、敵軍橋の奪取という特別任務が与えられていました。敵地に潜入して追撃用に橋を奪取し、無理なら爆破せよという命令です。夕闇と雷雨に紛れて薮内中隊は分離前進し、川又が視認できる地点まではたどり着きますが、鉄条網で覆われた堅固な敵陣地にぶつかってしまいます。突破不能と判断した薮内大尉は、部下を塹壕を掘って待機させました。薮内中隊は、連隊主力と翌7月3日正午まで連絡途絶し、連隊主力では非常に心配しました。

 7月3日、安岡支隊は、再び川又を目指して出撃します。今度こそは歩戦協同を実現しようと、吉丸戦車第3連隊長は自ら歩兵第64連隊の指揮官たちを訪ねて打ち合わせをしていました。工兵第24連隊主力の部署はよくわかりませんが、歩兵第64連隊の後に続く形で前進したものと思います。
 正午頃に発進した戦車第3連隊の中戦車22両・軽装甲車7両は、小さな丘の多い地形を活用して砲撃を避けつつ、733高地へ向かいます。せっかくの歩兵との打ち合わせもむなしく、敵陣突入の時点では、ほとんど戦車隊単独になっていました。日本戦車は、途中でソ連軍の戦車・装甲車とも激しく交戦します。この頃までに、ソ連軍は新たに第11戦車旅団の1個中隊(BT-5戦車8両)を西岸に送っており、そのうちの3両が戦車第3連隊に撃破されたことを認めています。ほか、第9装甲車旅団の偵察大隊装甲車中隊(BA-10装甲車12両)や76mm歩兵砲などが、戦車第3連隊と交戦しています。日本側主力は有効射程・機動力で明らかに劣る89式中戦車でしたが、乗員の技量の高さとソ連戦車の装甲の薄さのため、互角に戦えていたようです(注4)。
 敵陣を蹂躙しようとする日本戦車ですが、ここでいわゆるピアノ線による悲劇が起きます。夕暮れ時で視界が悪い中、ソ連軍の仕掛けた対戦車障害鉄条網(ピアノ線)が、吉丸部隊の戦車の履帯に絡みついたのです。速力が落ちた車両は、ソ連の装甲車や対戦車砲に次々と撃破されました。吉丸部隊は戦車13両を失い、連隊長以下の幹部が壊滅しました。
 昨夜に前進していた薮内工兵中隊の目の前でも、友軍戦車が敵陣に突っ込もうとしては鉄条網に足を取られて、いずれも行動不能となってしまいました。工兵なら鉄条網を切除できる能力があったのに、間に合わなかったことが惜しまれます。その後、薮内中隊は、後続の歩兵第64連隊第1大隊に協力して陣地攻撃を行い、激しい砲撃を受けつつも一角を占領しています。この戦闘で、歩64の田坂第1大隊長は敵戦車砲の直撃を受けて戦死しました。
 一方、戦車第4連隊はこの日も単独行動で健在でした。3日夜、同連隊長の玉田大佐は、歩兵第64連隊本部を訪れて、強襲は無謀と進撃停止を取り決めます。このとき、工兵第24連隊長の川村大佐も同席しており、旧知の玉田大佐と無事を喜び合いました。(後編に続く

注記
1 渡河地点へ移動中の6月30日に、安岡支隊の戦車第4連隊が、ソ連側の第11戦車旅団の分遣隊と交戦しています。日本側記録によると、日本側の2個戦車中隊その他が、ソ連側の戦車8両・装甲車3両などと交戦したものの、特に目立った戦果・損害は無かったようです。その後、95式軽戦車1両が対戦車砲で撃破され、僚車が仇を討って鹵獲しました。

2 渡河予定地点で、工兵第24連隊のある兵が、魚を撃とうとして小銃の銃口を水中に入れて発砲したところ、銃身が膨らんで破損してしまったという事故がありました。三八式歩兵銃殿申し訳ありません。

3 梶川大隊は、24時間以上遅れた7月3日夕刻に前線に到着。

4 日本軍のまとめた『ノモンハン事件小戦例集』では、「劣勢なる戦車を以て優勢なる敵戦車に対し地形を利用して火力を発揚し常に主導的地位に立ち之を撃破したる戦例」として、7月3日の戦車第3連隊の対戦車戦闘が紹介されています。これによると、射程に優る敵から先制射撃を受けたものの、応射せずに距離600mまで急接近し、稜線の陰に停止してから射撃したといいます。日本側記録によると、2-3時間の戦闘で戦車2両喪失と引き換えに、敵戦車を数両撃破しています。15時頃にソ連戦車が後退すると、包囲するように追撃してさらに3両を撃破しました(損害1両)。
 解説されている教訓として、「対戦車戦闘では攻撃精神と団結があれば劣勢でも勝てる」旨のものであるのが、太平洋戦争での日本戦車の苦難を思うと暗い気持ちにさせます。今次欧州戦の実況に照らしても正しいと力説しているのですが、これはどの辺の戦闘を指すものか興味深いです。

うさぎや

あけましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願いいたします。

卯年ということで、阿佐ヶ谷の和菓子屋「うさぎや」のどら焼きを買ってきて食べました。
どら焼きが名物の上野広小路うさぎや系の、のれん分けした店だそうです。
ちなみに、阿佐ヶ谷限定らしい、うさぎまんじゅうというのも、かわいらしく美味しいです。
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山猫男爵

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