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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第3章・前編)

3.五族協和の旗の下に
 善守國以仁、不善守以兵
 (善く国を守るは仁をもってし、善く守らざるは兵をもってす)
                ―鄭孝胥「大満洲建国歌」―

 ノモンハン事件は、形式的にはモンゴルと満州国の国境紛争です。実際に戦闘の主力となったのは、双方の保護者であるソ連と日本の軍隊でしたが、当事国のモンゴル軍と満州国軍ももちろん参戦していました。
 モンゴル人民革命軍は、第6騎兵師団と第8騎兵師団を主力に、第5騎兵師団から抽出の第14騎兵連隊(装甲車中隊などで増強)が第一線での戦闘に加わっています。各騎兵師団には装甲車大隊も含まれ、総計で50両ほどの装輪装甲車を装備していたようです。
 対する満州国軍は、第10軍管区=興安北警備軍(烏爾金(ウルジン)少将)と、興安騎兵師基幹の興安支隊(野村登亀江中将)、終盤には石蘭支隊(石蘭斌少将)、鈴木支隊(鈴木菊次郎少将)といった部隊が出動していました。興安北警備軍は、東西南北4つに分かれた興安省の国境警備部隊の一つで、比較的精強なバルガ人系の騎兵を主力にした5個騎兵連隊他2000~3500人程度の部隊です。興安師は、前年の1938年末に編成着手して1939年5月に完結したばかりの新設の騎兵師団で、興安騎兵第4~6・12団の4個騎兵連隊(「団」は連隊に相当)と興安砲兵団・興安迫撃砲団を基幹とします(注1)。興安支隊として出動する際に、訓練中の少年兵で構成された蒙古少年隊(日本軍との通訳要員として予定)、装甲車を含む自動車隊などが配属されて、約6000人の兵力でした。石蘭支隊・鈴木支隊は、それぞれ歩兵・騎兵混成の3000人程度の部隊だったようです。

 満州国軍というと、日本の関東軍の補助部隊としての性格が強いですが、小規模な機甲戦力として独立第1自動車隊の中に装甲車隊を持っていました。この部隊が、ノモンハン事件にも興安支隊の一部として出動したものです。
 独立第1自動車隊は、奉天に本拠を置く自動車装備の輜重部隊で、満州国軍で最大の機械化部隊でした。部隊長は、日系の簗瀬幸三郎中校(中佐に相当)。1937年11月には、本部・2個中隊・装甲車隊・材料廠という編制で、分遣中のものを含めて人員323人・自動車118両(装甲車4両・バイク11両を含む)。ノモンハン事件のあった1939年には、3個中隊基幹で装甲車隊は11両に成長していました。機械技能が要求される部隊の特殊性から、士官のほとんど、下士官兵の1/3は日系将兵が占めていたようです。日中戦争勃発後には、日本軍に協力して熱河省などでの作戦を行ったこともあります。
syasin_syuho31.jpg 装甲車隊の装備車両には数種あったようです。主力となったのは、日本製の「いすゞ」トラックをベースに、満州の同和自動車会社が艤装を担当したもので、乗員10人、武装は37mm平射砲(35mm砲とする資料もあるが誤りか)1門・重機関銃1挺・軽機関銃6挺となっています。右の写真の高粱畑の中を進む車両が該当車のような気もしますが、一見よく似ていてシャーシが違う仕様もあるため断定できません(注2)。また、1939年の装備車両11両のうち、3両は江上軍(河川部隊)より移管されたものです。江上軍は、海軍系の江防艦隊だった1936年末時点では4両の装甲車を陸戦隊用として保有しており、その後にこれらが移管されたのでしょう。
 なお、輸送用のトラック(自動貨車)は、「ダッジ」「フォード」「シボレー」を主力とし、国産車の「いすゞ」なども使っていました。トヨタや日産の車両は不具合が多かったようです。

 ノモンハン事件勃発直前、満軍独立第1自動車隊(簗瀬部隊)は、1個自動車中隊と装甲車隊を事前にハイラルまで前進させていました。そのため、興安支隊としての本格出動に際しても、速やかに対応できたようです。
 6月に出動命令を受けた簗瀬部隊は、ハロンアルシャンに主力を置き、第1連(中隊に相当)をハイラル、第2連をハンダガヤ(ハンダガイ)に向かわせます。出動車両は、ダッジ貨車220両・フォード貨車50両・その他トラック80両・装甲車11両などでした。自動車400両という数字は、日本軍が初期に出動させた兵站自動車と同等規模の有力なものです。
 簗瀬部隊は、さっそく満軍や日本軍の部隊・物資の輸送にあたります。優秀な外国車を豊富に装備した簗瀬部隊は、日本軍の輜重部隊よりも悪路に強く、効率的な輸送を行うことができました。後の調査によると、満軍の自動車の1日あたりの平均走行距離は450kmに達していました。
 6月28日に興安支隊はハンダガヤに集結し、日本軍の戦車部隊である安岡支隊の指揮下に入ります。(後編に続く

注記
1 資料によっては、興安師ではなく興安第2師とするものもありますが、誤りと考えます。ノモンハン事件後の1940年に師団を再建する際に第2師と改称したことが、混同されているものと思われます。

2 画像出典:内閣情報部「写真週報 第31号」(内閣印刷局、1938年9月14日)。なお、「藤田兵器研究所」の満洲帝国軍のページには隊列を組んだ鮮明な写真が掲載されています。
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山猫男爵

Author:山猫男爵
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