山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・前編)

1.方面軍に唯一つ

 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、
 正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷張つたりけり。
 深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。
 あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。
                        ―「平家物語」より「木曽の最期」―

 島嶼戦が中心だった太平洋戦争の戦場の中で、珍しく大陸的要素が強く大規模な戦車部隊の運用に適した戦場であったのが、ビルマ戦線です。悪名高いインパール作戦が行われた戦場として知られます。
 南方作戦でビルマを占領した日本軍は、1943年に緬甸方面軍を設置して防衛にあたらせていました。その隷下には、インパール作戦の前の1944年初め時点で、3個軍=9個歩兵師団・1個混成旅団の大きな兵力を有していました。しかし、戦場の特性や大兵力の存在にも関わらず、装甲戦力はあまり置かれていませんでした。侵攻作戦時には2個戦車連隊が投入されたものの、うち戦車第1連隊は攻略後に満州へ帰還したため、戦車第14連隊だけが方面軍隷下のまとまった装甲戦力でした(注1)。

bakri19420118_03withIndiancar.jpg 戦車第14連隊は、1939年11月に3個の独立軽装甲車中隊を統合して編成された部隊で、北部仏印進駐・マレー作戦・ビルマ攻略作戦と転戦してきた歴戦の部隊です。マレー作戦では、バクリ付近の戦闘でオーストラリア軍の待ち伏せを受け、五反田重雄中尉指揮の第3中隊が全滅する損害を受けています(右画像)。1944年3月時点の連隊長は上田信夫中佐。
 歴戦の部隊らしく、戦車第14連隊の装備は興味深い変遷をたどっています。当初の装備車両は独立軽装甲車時代からの94式軽装甲車で、仏印進駐時も連隊本部などに少数の95式軽戦車を有するだけでした。それが太平洋戦争突入時には装備更新が進んで95式軽戦車が主力となり、連隊本部や材料廠の軽装甲車と混成になっています。ビルマ攻略戦の後に再度更新が行われ、対戦車戦闘力の優れた47mm砲装備の97式中戦車(いわゆるチハ改)が主力となりました。なお、このとき余剰となった95式軽戦車のうち4両は、捜索第56連隊の装備更新に充てられています。
 上記の主力戦車のほかに、珍しい兵器もたくさん持っていました。制式兵器では、最新鋭の一式砲戦車が極少数のみながら支給されていました。チハ改が主力だったことと合わせると、戦車戦を想定して優先的に対戦車能力強化が図られていたようです。また、「日本軍最強戦車」とも言われる鹵獲品のM3軽戦車も相当数保有していました。チハ改への装備更新中の1943年前半には、隷下3個中隊が95式軽戦車・チハ改・M3軽戦車各1個小隊という編制だったほどです。同じく鹵獲装備としては、広東省で鹵獲した中国軍の装輪装甲車1両も、材料廠の連絡用などに使っていました。
 戦車の改造も色々とやっていたようです。チハ改の一部には、M3軽戦車の残骸から外した装甲板をボルト止めして二重装甲型とし、主に小隊長車として運用していました。イギリス軍の6ポンド対戦車砲程度には対抗できたといいます。日本陸軍において、制式兵器の現地改造は軍の権威を傷つけるとして本来は許されなかったようですが、ボルト止めで着脱可能という便法で規制を潜脱したのだそうです。また、物資運搬用に、鹵獲トラック改造のトレーラーを製作し、各中隊に2両ずつ配備していました。正式な改造例としては、戦車用クーラーなんて贅沢品が少数支給されたこともあります。残念ながら冷媒のフロンの補給が絶えて、インパール作戦時には撤去されたようですが(詳細は別記事参照)。

 インパール作戦の準備が進む中、戦車第14連隊にはさらなる増強が行われました。第21師団及び第33師団の歩兵団装甲車中隊の編入です。
 第21歩兵団装甲車中隊は、元は第21師団捜索隊の装甲車中隊だった部隊で、太平洋戦争前の1941年に師団捜索隊の復帰に伴い改編されていました。フィリピン攻略時の第二次バターン作戦に参加後、北部仏印にいましたが、1943年12月に戦車第14連隊へ第5中隊として編合されることになりました。本来の装備は97式軽装甲車5両とトラック5両などで、連隊編入後に95式軽戦車も追加されたようです(注2)。
 第33歩兵団装甲車中隊の方は、捜索第33連隊の装甲車中隊だった部隊ですが、太平洋戦争前に同連隊は解隊されていました。第33師団の他部隊とともにビルマ攻略戦に参加、そのままビルマに展開していたものです。装甲戦力の集中使用という趣旨と、インパール作戦に向けた第33師団の軽量化という事情から、戦車第14連隊に編合されたのではないでしょうか。本来の主力装備は94式軽装甲車5両でしたが、ビルマ攻略戦中に鹵獲したM3軽戦車で装備更新しており、編入時にはM3軽戦車5両とGMCトラック(鹵獲品)3両を保有していました。1944年3月5日にヤザギョウで連隊主力に合流しています。
 以上の増強の結果、1944年3月のインパール作戦開始時の戦車第14連隊は、本部・5個戦車中隊・1個砲戦車小隊・材料廠(整備中隊?)というなかなか充実した編制になっていました(注3)。装備した装甲戦闘車両の総数は資料によってばらつきがあり、連隊史によると合計で66両、戦史叢書では52両。軽装甲車や、予備として持っていたらしい戦車第1連隊残置の再生品が、勘定に入るかどうかで数値が違うのかもしれません。

インパール作戦地図 インパール作戦開始時、戦車第14連隊主力は、歩兵第213連隊第2大隊基幹の山本支隊(山本募少将)に配属されました。山本支隊は、パレル道からパレル飛行場を制圧しつつインパールへと侵攻する任務で、2個重砲兵連隊など重装備を集中された部隊です。軽装甲車の第5中隊だけは、第33師団主力方面のティディム道に回っています。
 夜間行動を中心に前進した戦車連隊は、3月14日、ウィトックで最初の戦闘に突入しました。連隊は2個歩兵中隊とともに薄暮攻撃を試みますが、地雷原に阻まれて1時間程度で停止してしまいます。態勢を立て直すうちに英軍は次の拠点のタムへと後退していました。
 気を取り直してタムへと追撃に移った戦車第14連隊は、3月20日、途中のパンタ付近で英軍戦車部隊との直接対決を迎えます。先遣任務の第3中隊第4小隊の95式軽戦車3両が、第3カラビニエ連隊(第3銃騎兵連隊、3rd Carabiniers)のM3リー中戦車小隊(6両?)と遭遇したのです。彼我の性能差は絶望的で、日本側は2両炎上・1両撃破鹵獲とたちまち全滅させられてしまいました(注4)。イギリス側は、日本戦車兵はパニックに陥って無謀にも突進してきたと記録しています。
 しかし、日本側もやられっぱなしではありません。同じ中隊の第3小隊のM3軽戦車が駆けつけ、側方に回り込んで機関部を集中射撃すると、格上のM3中戦車1両を炎上させるのに成功したのです。英軍は撤退し、かろうじて戦車第14連隊は戦場を支配できました。
 このパンタの戦闘で鹵獲された95式軽戦車は、インドに空輸され、整備後に各種の性能テストに供されました。その時に撮影された記録動画(撮影日:1944年5月3日)が下のものです。車体前面下部の逆Yの字マークは、戦車第14連隊が早くから使い続けている第3中隊の識別マーク。砲塔に取り付けられた板の縦三本の白線も、おそらく第3中隊を意味します。なお、現在はイギリスのボービントン戦車博物館に展示されているようです。(中編に続く



注記
1 他の在ビルマ機甲部隊としては、捜索連隊が4個、戦車中隊付きの騎兵連隊1個が一応ありました。うち捜索第2連隊は、特設戦車隊(中戦車)・軽戦車中隊・装甲車中隊1個ずつと乗車中隊2個を有し、比較的有力でした。捜索第56連隊・捜索第54連隊も、装甲車中隊と乗車中隊2個ずつから成り、特に捜索第56連隊は若干の戦車を保有しました。

2 「戦車第十四聯隊戦記」・254~255頁。この点、現物未確認ですが、陸戦史集「インパール作戦」では第5中隊の装備をM3軽戦車としているようです。しかし、同じく本来は軽装甲車装備であった第4中隊との混同と思われます。

3 第1~3中隊の編制は、いずれもチハ改2個小隊・M3軽戦車1個小隊・95式軽戦車1個小隊の計4個小隊ではないかと思います。1943年時点からチハ改が増強されたうえ、第3中隊の第3小隊がM3軽戦車、第4小隊が95式軽戦車だったことからの推定です。
 砲戦車小隊には、1式砲戦車のほか、小隊長車として97式中戦車が配備されていました。

4 英軍記録によると、日本戦車5両を撃破し1両を鹵獲となっているようですが、日本側の損害記録が正しいものと思われます。
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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第6章)

6.幻の逆襲戦

 関東軍司令官は自今ノモンハン方面(ハンダガヤ付近を含む)に於ける
 ソ蒙軍との戦闘行動を停止すべし。
               ―大陸命第357号・1939年9月16日13時10分―

 ノモンハン事件で活躍した日本の戦車部隊として戦車第3連隊と戦車第4連隊の2個が有名ですが、当時の関東軍には戦車連隊がもうひとつだけありました。1937年5月に創設され、翌年に満州へと移駐した戦車第5連隊です。他の2個連隊とともに第1戦車団(長:安岡正臣中将)を構成していました。映画「西住戦車長伝」で知られる戦車第5大隊と部隊番号は共通していますが、特に歴史的繋がりはありません(注1)。
 ノモンハン事件の2か月前にあたる1939年3月の編制は、人員定数604人に対し実数は約400人、装備車両は八九式中戦車甲24両・同乙2両・97式中戦車12両・軽装甲車15両などとなっています(注2)。最新鋭の97式中戦車が、他の2個連隊に先んじて配備されているのが注目に値します。人員の大幅な不足は、定数が前年11月に比べて約200人増えたのに対し、補充が間に合っていなかったためでしょう。ノモンハン事件が始まった後の6月末時点では、装備が89式中戦車22両・同乙1両・97式中戦車16両・軽装甲車20両となり、人員のほうも定数に達しています(注3)。

 1939年6月の第二次ノモンハン事件勃発に際しては、第1戦車団基幹の安岡支隊が出動しますが、戦車第5連隊だけは転属間もない兵が多く実戦に堪えなかったためか残置されました。御承知の通り、安岡支隊は当時史上最大規模の戦車戦を展開しますが、いまだ戦闘の続く7月上旬には戦場離脱が検討され、結局は7月下旬に帰還します。
 安岡支隊が早期引き揚げとなった事情として、当時の第1戦車団が、「昭和14年度在満軍備改編要領」に基づく大規模な改編作業の最中であったことが挙げられます。母体となる貴重な戦車部隊が消耗しては、将来に禍根を残すおそれがありました。予定された改編の内容は、戦車第3連隊が戦車第9連隊、戦車第4連隊が公主嶺学校の戦車教導隊、そして戦車第5連隊では戦車第10連隊・第11連隊の新設をそれぞれ担当するというものです。これにより、関東軍の戦車部隊は6個戦車連隊体制に倍増する計画でした。特に戦車第9連隊の編成は8月1日に期日が迫っていました。
 ノモンハンから帰還した部隊では、さっそく人員や装備の損失補充に取り組んでいます。例えば戦車第4連隊では、軽装甲車中隊(第5中隊?)の人員を補充や改編に充てようとし、中国戦線の独立軽装甲車中隊への補充用に取り上げないでほしいと希望しています(注4)。同連隊では約150人もの熟練戦車兵が死傷していました。7月28日には、第1戦車団の応急動員用として、珍しい装備である指揮戦車が追加されることになっています(注5)。なお、第1戦車団長の安岡正臣中将は8月1日に更迭、木村民蔵中将が着任しています。

 安岡支隊の撤収後、8月20日にノモンハンの戦況は急変します。ソ連軍が全面攻勢に出て、日本軍を包囲したのです。軽戦車2両・装甲車20両程度とほとんど装甲戦力を持たず機動力の乏しい日本軍は、ソ連の機械化部隊に翻弄されました。日本側に火消しに使える機甲戦力が多少とも残っていれば、ソ連軍もここまで大胆な包囲作戦は試み難かったのではないかとも思われます。
 日本の関東軍は、あわてて大規模な増援部隊の派遣を決定します。第2師団・第4師団を主力に、対戦車用として速射砲や車載山砲などを満州中からかき集めようとしました。火炎放射機と対戦車地雷・手榴弾・煙幕弾を大量装備した、対戦車肉薄攻撃用とおぼしき独立工兵小隊3個も特設されています。そして、今度こそ、いまや関東軍で唯一無傷の戦車部隊となった戦車第5連隊にも声がかかったのです。
 戦車第5連隊の派兵計画は、3個中隊(各97式中戦車7両・95式軽戦車3両)を自隊の人員装備で編成するほか、戦車第4連隊の残存戦力から編成した軽戦車中隊(95式軽戦車13両)を第4中隊として加えるというものでした。材料廠にも予備戦車若干(注6)。もしかすると、前述の指揮戦車も持っていくつもりだったかもしれません。2個連隊合同のうえ、新設予定部隊の基幹要員として差し出し予定の将兵80人まで投入した全力投球でした。

 しかし、大本営は、ノモンハン事件の終結へと動いていました。8月30日に終結意図を現地へ通知した大陸命第343号を皮きりに、9月3日には明確に攻勢中止を求めた大陸命349号を下達します。関東軍は、戦場掃除名目で戦闘を続けようとしますが、9月7日に関東軍司令部の主要職員が一斉に更迭され、完全に反抗作戦は中止となりました。翌9月8日のハンダガヤ方面での作戦など若干の攻撃が辺縁部で行われますが(別記事参照)、戦車第5連隊が砲火を交える機会はありませんでした。最終的な停戦命令の大陸命第357号は、9月16日に発令されています。
 さらなる出血を免れた戦車部隊の拡張は、予定通りに進められました。翌1940年3月には第2戦車団が創設されて、関東軍戦車隊は2個戦車団=6個戦車連隊体制となっています。
 その後、日ソ中立条約締結の一方、日本陸軍は演習名目の大動員「関東軍特種演習」(関特演)を実施するなど、宿敵ソ連との戦いに備える日々を続けましたが、日本は南進論の採用により太平洋戦争へと歩むことになります。関東軍の戦力は南方へ、日本本土へと次第に抽出されて弱体化。日ソ開戦は夢見た先制攻撃の形ではなく、無残な退却戦として実現するはめになりました。かくて関東軍がソ連軍に対して復讐戦を行う日は訪れなかったのです。(この章終わり

注記
1 戦車第5大隊は日中戦争初期の1937年8月に動員された特設部隊で、1939年6月まで中国戦線で転戦を続けました。同時期に編成された戦車第1・第2大隊がいずれも戦車連隊に改編されたのと異なり、連戦による損耗が激しかったためにそのまま解隊されました。

2 「人馬現員表提出の件」(JACAR:C01003473400)

3 「人馬現員表提出の件」(JACAR:C01003501800)

4 「戦車第4聯隊軽甲車隊の人員充用に関する件」(JACAR:C01003495800)

5 「兵器特別支給の件」(JACAR:C01003490700)

6 「戦車第5連隊及独立工兵小隊編成に関する件」(JACAR:C01005956100)

ノモンハン事件で旧日本軍が毒ガス戦を準備

『旧日本軍が満州で毒ガスの実戦使用を計画していたことが、防衛省防衛研究所で発見された関東軍の機密文書から明らかになった。発見された文書は、国際法で使用が禁止されていたマスタードガス弾7000発を前線に送るよう指示したノモンハン事件時の関東軍の作戦命令。ノモンハン事件は、太平洋戦争前の1939年に満州(現在の中国東北部)で起きた、日本の関東軍とソ連・モンゴルの軍事衝突で、日本軍がソ連の機械化部隊によって惨敗した。××大学講師の○○さんによると「日本軍の戦争犯罪を明らかにする貴重な史料。日中戦争での化学兵器使用はこれまでも知られていたが、ノモンハン事件に関しては初めて。日本軍は、毒ガスで戦況を挽回しようと考えたのではないか」という。』(毎朝新聞2011年5月21日

 ノモンハン事件時の迫撃第2連隊についてまとめてみたところ、ノモンハン事件ではかなり具体的な化学戦準備がされていたことがわかります。当時の状況を思えば、常識的な対応だと思いますが。ただ、センセーショナルな報道をしようと思えば、ネタにはなりそうな気がします。
 なお、この辺の化学戦の話は、たしか吉見義明の本にもすでに取り上げられていたと思ったので、新しい話ではないです(追記参照)。

関連記事:「鋼棺戦史:第1部第5章 悪名高き部隊

追記(2011年5月24日)
 確認したところ、吉見義明「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店、2004年)の118頁に言及あり。

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第5章)

5.悪名高き部隊

 締約国は、前記の使用を禁止する条約の当事国となつていない限りこの禁止を受諾し、
 かつ、この禁止を細菌学的戦争手段の使用についても適用すること
 及びこの宣言の文言に従つて相互に拘束されることに同意する。
       ―「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の
            戦争における使用の禁止に関する議定書」(ジュネーヴにて1925年)―

 戦車などの装甲戦闘車両を装備している兵科というと戦車兵や騎兵が典型です。逆に意外な兵科としては、日本陸軍の場合、化学戦部隊(化兵)が挙げられると思います。機密度が高く史料が少ないうえ、戦争犯罪と関わる暗部のせいか軍事オタクから興味をもたれることも珍しいマイナー部隊。しかし、ノモンハン事件や日中戦争、太平洋戦争など各地で実戦参加していた部隊。本章では、そのひとつである迫撃第2連隊(明石部隊)を取り上げることにします。

 化学兵器=毒ガスというと直ちに国際法違反の戦争犯罪のような印象ですが、第二次世界大戦当時は使用そのものこそ禁止する条約がある一方(1925年のジュネーヴ議定書)、開発や製造までは合法でした。そのため、1925年議定書を批准しなかった日本やアメリカはもちろん、批准したソ連やイギリスなども公然と化学兵器を部隊配備していたのです。報復専用という建前であったのでしょう。
 このような状況下で、日本陸軍は、対ソ戦において化学兵器が実戦使用されることを想定していました。ノモンハン事件前年の張鼓峰事件でも、ソ連軍による化学兵器使用の可能性についてかなり真剣に調査が行われています。ただ、日本陸軍が、化学兵器の積極的使用まで意図していたものかは疑問を感じます。化学兵器の戦力化は国の化学工業力に制約されますから、貧弱な化学工業しか無い日本には大規模な化学戦を実施する能力は無く、化学戦に大きな期待をかけるのはどう考えても現実的ではなかったはずです。作戦要務令が「瓦斯を使用するは報復手段として予め之を許されある場合に限るものとす」(瓦斯用法・第2)と定めた建前通り、報復専用とみなされていたのではないでしょうか。

prototype-Type 94 Gas Scattering Vehicle 日本陸軍の化学兵器は、迫撃砲をはじめとする各種火砲の化学砲弾や航空機投下のガス弾と並び、化学戦車というべき装甲車両による撒布が重要な展開手段でした。具体的には、94式甲号撒車と97式甲号撒車の2種類の化学戦車が量産されています。これらはいずれも、有人の前車と、無人トレーラーの後車で構成されました。前車は94式/97式軽装甲車をベースにして開発された車両で、軽装甲車と同じく砲塔式の機銃1門で武装していました。後車は撒毒装置を搭載しています。姉妹車両として、後車を毒ガス中和剤である晒し粉を散布する仕様に変えた、94式/97式甲号消車も一緒に開発・配備されました。(画像は94式甲号撒車の試作車両)

 ノモンハン事件約1年前の1938年5月、満州チチハルで日本陸軍最初の常設化学戦部隊として編成されたのが、迫撃第2連隊(後の通称号:満州第525部隊)です(注1)。部隊名だけ見ると迫撃砲装備の砲兵隊に思えますが、実際には化学砲弾発射用の迫撃砲と化学戦車を装備した毒ガス戦部隊になっていました。平時編制は本部と2個中隊及び材料廠から成り、第1中隊が迫撃中隊(94式軽迫撃砲12門)、第2中隊が瓦斯中隊(94式甲号撒車・消車約10両)、当初の人員定数454人。迫撃砲などは馬匹運搬だったようで、馬定数72頭を保有しています。
 初代連隊長は明石泰二郎中佐でした。名前でわかるように、日露戦争時の諜報戦で有名な明石元二郎の親族(甥・注2)です。この明石泰二郎は、化学戦学校である陸軍習志野学校の教官などを務めた、化学戦の専門家でした。明石はノモンハン事件中も連隊長であったため、史料では明石部隊の名が見られます。

 1939年6月に第二次ノモンハン事件が勃発後、迫撃第2連隊にも出動命令が下ります。7月2日にノモンハン最寄駅のハイラルまで前進したあと、8月7日に第23師団に配属、といっても8月10日過ぎまでは後方待機していたようです。8月20日時点での出動兵力は明石連隊長以下の404人で、2個中隊がおそらく平時のほぼ全力を動員。出動した94式甲号消車/撒車の前車(実質は94式軽装甲車)の数は、阿部武彦によれば8両程度(注3)、後述する事件後の復旧状況からすると10両以上と思われます。
 ハイラルでの待機は無為に行われたのではなく、この間に化学戦資材を着々と集積していました。8月8日には、ハルピン陸軍病院配備の除毒車(化学剤で汚染された衣類等の洗浄用機材)1両の前送を受け、同月9日には主に迫撃第2連隊用だろう軽迫撃砲通常弾7200発、軽迫撃砲用マスタードガス弾(秘匿名:黄A)5000発がハイラルへ発送されています。このほか、4年式15cm榴弾砲用マスタードガス弾(秘匿名:黄E)が2000発、あか筒(くしゃみガス発煙筒)が10000個、消函(中和剤)10000個、孫呉陸軍病院配備の除毒車1両といった化学戦資材が第23師団管理下に前送されたことも確認できます(注4)。
 化学兵器の使用に関する交戦規定も関東軍から発令されていたようで、上記の各種化学兵器の使用に関しては関作命甲第114号に基づくよう指示が出ていました(注4)。残念ながら、交戦規定の内容は未確認です。

gasmask_nomonhan.jpg こうした化学戦準備は、ソ連側の化学兵器使用を牽制し、実際に敵側の化学攻撃が行われた場合には速やかに報復を実行するためだったと思われます。日本側はソ連軍の化学兵器使用を強く警戒していました。実際、ソ連側は42個もの化学戦大隊をノモンハン事件に向けて動員していたとの説もあります(注5)。左画像はソ連軍の装備を鹵獲した日本兵の写真で、ソ連軍のガスマスクを着用したとおぼしき兵も写っています(注6)。
 特に8月上旬に急に資材の前送が進められたのは、この時期に日本側がソ連軍の化学戦実行への危惧を強めたからでしょう。このころ、日本側は攻撃を断念して対陣したままの越冬の準備に移っており、積極的な化学戦を企図する状況にありません。一方、日本側は、「8月中旬にソ連軍の大規模な攻勢がある」、「ソ連軍化学戦大隊が8月1日に鉄道で到着した」とのスパイ情報を得ていました。後から見ると奇妙な話ですが、当時の日本側判断としては、ソ連軍の攻撃は戦車によるものも航空機によるものも7月に失敗して「無効」だと判明しているため、次のソ連軍攻勢では最後の手段として化学兵器が投入される可能性が高いと予測していたようです。

nomonhan_map6.png さて、日本側の予測とは違い、ソ連軍は8月20日から戦車を主力とした通常兵器による総攻撃を開始しました。(右図は8月19日の両軍の態勢。ただし、迫撃第2連隊の所在は不明のため非表示。)
 8月20日の迫撃第2連隊の正確な所在は不明ですが、おそらく兵站拠点のウズル水付近にあったものと思われます。22日には、フイ高地(721高地)を迂回して侵入してきたらしいソ連軍の戦車及び歩兵がウズル水地区へ現れ、いきなり戦闘となりました。日本側記録ではソ連戦車30~50両・歩兵400~500人といいますが、これは過大と思います。兵站地区のために日本側の守備兵は手薄で、迫撃第2連隊ではやむなく1個小隊を臨時の歩兵に仕立てて警戒線を張り、整備兵までもが鹵獲機銃や火炎瓶を手に応戦しています。軽装甲車も参戦したものと思われますが、性能的にとても敵戦車に正面から対抗することはできなかったでしょう。連隊はかろうじてソ連軍の撃退に成功したものの、小隊長の准尉が重傷を負うなどしました。なお、付近の野戦病院などもかなりの被害を受けたようです。
 22日夕刻、迫撃第2連隊に対し、軽迫撃砲4門(1個小隊)の師団司令部(752高地南南東2km)付近への進出と、連隊主力のホルステイ湖付近での援護任務が命じられました(23師作命甲197号)。
 23日に日本軍が攻勢転移すると、迫撃第2連隊主力は「その他」の部署として温存されつつ、バルシャガル台地の歩兵第64連隊に協力しました。ただし、瓦斯中隊の軽装甲車は、予備隊に配属されて師団司令部の護衛をし、モホレヒ湖まで移動するよう命じられたようです。攻勢転移に関する23日14時の第23師団命令(23師作命甲198号)に、「軽装甲車隊」は師団司令部に同行するよう指示があるところ、迫撃第2連隊以外に該当しそうな装甲戦力が存在しません。
 以後、戦線が混乱する中、迫撃第2連隊も少なくとも8月26日までは前線での戦闘を続けたようです。空襲を浴びたり、またも戦車部隊の襲撃を受けたりしています。26日には、モホレヒ湖南6kmの地点で迫撃中隊の一部が左翼攻勢部隊の援護にあたって、ソ連側砲兵の砲火を浴びました。22日の命令で前進した1個小隊でしょうか。軍監修の戦記「ノモンハン実戦記」では、ある迫撃砲分隊が陣地転換せずに射撃を続け、直撃弾を受けて全滅したことを美談調で描いています(注7)。
 他の日本軍部隊が包囲されて壊滅していく中、どういう事情か迫撃第2連隊は包囲網を抜け出せました。抑止力を担う希少な化学戦部隊ということで、温存のために早期に後退させられたのかもしれません。

 停戦後10月6日に、迫撃第2連隊は慰霊祭を執り行いました。人的損害は戦死20人と戦傷44人、損耗率16%と比較的軽いものでした。実参戦期間の短さと、温存的用法のおかげでしょう。兵器の損害は詳細不明ですが、破損兵器の修理が終わるまでの間、94式甲号消車の前車(軽装甲車)10両と94式軽迫撃砲6門を代品として貸与されています。なお、ソ連側の鹵獲記録には94式軽迫撃砲とおぼしき90mm迫撃砲6門が見えますが、第8国境守備隊系の長谷部支隊なども同砲を装備しており、迫撃第2連隊の装備とは特定できません。
 10月11日にハイラルで、ノモンハン事件出動部隊の凱旋パレードが行われました。迫撃第2連隊の参加の有無は不明ですが、パレード参加の94式軽装甲車の写真が残っており、これは迫撃第2連隊の車両かもしれません。
 幸いにも真価発揮の機会を得なかった迫撃第2連隊は、翌年3月に瓦斯中隊を抽出されて2個迫撃中隊の編制へ改編。さらに翌1941年に迫撃第10大隊(3個中隊)へ改編され、最終的には1942年に関東軍化学部練習隊第1大隊へと改編されています。抽出された瓦斯中隊のほうも、新設の特種自動車第1連隊(2個中隊)に拡大された後、瓦斯第3大隊への再改編を経て、最終的に化学部練習隊第2大隊となりました。したがって、ノモンハン事件が迫撃連隊として参加した唯一の実戦であったようです。(この章終わり


注記
1 迫撃第1連隊の方が遅い誕生で、1940年4月編成。迫撃大隊(3個中隊・計36門)と瓦斯大隊(2個中隊)ほかから成る編制に強化。1943年5月には迫撃第3連隊(迫撃中隊4個・瓦斯中隊2個)を鯖江で編成。
 なお、非常設の化学戦部隊としては、野戦瓦斯中隊や迫撃砲大隊が日中戦争用に複数動員済み。

2 元二郎と泰二郎の関係については、親子あるいは祖父と孫とする文献もありますが、とりあえず秦郁彦ほか「日本陸海軍総合事典」(初版、東京大学出版会、1991年)に拠って甥としました。

3 ノモンハン会「ノモンハン戦場日記」(新人物往来社、1994年)巻末の阿部武彦「解説」

4 除毒車に関し、「関東軍命令送付の件」(JACAR:C01003500900)
  砲弾等及び関作命甲第114号に関し、「関東軍命令送付の件」(JACAR:C01003501600)

5 クックス・下383頁。

6 ガスマスクの携帯自体は当時の標準的な軍装であって、特にソ連軍が積極的な化学戦の準備をしていたことの根拠とまではなりません。あくまで参考画像。

7 樋口・345~350頁。
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