山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

日本兵のはなし ビルマ戦線―戦場の真実

玉山和夫、ジョン・ナンネリー「日本兵のはなし ビルマ戦線―真実の戦場」
 企業OBペンクラブ(訳) 原題“Tales by Japanese Soldiers” (マネジメント社、2002年)

日本兵のはなし―ビルマ戦線 戦場の真実総合評価:★★★★★
 第二次世界大戦における「忘れられた戦場」ビルマ戦線に従軍した元日本兵たちの回想を編纂した戦記集。イギリスおよびアメリカで出版された英語原版を、逆輸入の形であらためて和訳して日本でも出版したもの。原版はサンデータイムスの書評にも取り上げられた。

  全61話の回想者は主に日本陸軍の将兵で、海軍将兵や従軍看護婦もわずかに含まれています。階級は、上は少佐から、下は二等兵まで様々。所属部隊も、戦車・騎兵関係は無いものの、歩兵・砲兵・工兵・兵站・航空と色々揃っています。ただし、回想者本人の執筆ではなく、著者の玉山が、既存の連隊史などから対象者を選び、本人と会談や電話インタビューを通じて聴取し、物語として取りまとめたとのこと。
 エピソードは1話あたり5頁程度で、日本軍のラングーン侵攻から終戦までおおざっぱに時系列で分けた6部構成で配置されています。ビルマ戦線と言うと、インパール以後の日本軍敗走の部分だけにスポットライトが当たりがちですが、本書はバランス良い内容と感じます。

海防艦第二〇五号海戦記―知られざる船団護衛の死闘

江口晋「海防艦第二〇五号戦記」
          (光人社NF文庫、2007年)

海防艦第二〇五号海戦記―知られざる船団護衛の死闘 (光人社NF文庫)総合評価:★★★★☆
 太平洋戦争中に海防艦へ乗艦した一水兵の回想。「回想 海防艦第二〇五号」(東京経済、1994年)の改題。
 1944年、日本海軍舞鶴海兵団に入隊した筆者が、訓練の後に配属されたのは丙型海防艦第205号であった。すでに敗色濃厚な中、海防艦は日本の生命線たるシーレーン防衛を担い、潜水艦や爆撃機に立ち向かう。機雷術練習を受けた筆者も、艦の主兵装たる爆雷員として懸命に戦った。しかし、戦局は悪化の一途で、ついには北海道の室蘭港にいてさえ、敵戦艦の艦砲射撃にさらされるのであった。
 1945年、ついに敗戦。からくも生き残った海防艦第205号は、特別輸送艦として復員輸送に従事する。12月、筆者は待ちに待った召集解除を迎え、故郷の新潟へと帰りつく。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・後編)

1.方面軍に唯一つ(承前)

 5月11日、戦車第14連隊に転進命令が下ります。山本支隊を離れ、第33師団主力に配属、ティディム道(インパール南道)より進撃せよ。
 しかし、言うは易し、実際の転進は極めて困難でした。戦車隊は、パレル手前から逆戻りしてカレンミョーを経由、3000m級のケネディ・ピークを越え、ビシェンプールを目指して550km以上もの長距離を自走しなければならないのです(注1)。しかも、5月に雨期を迎えインパール南方は一面の湿地帯となっていました。緬甸方面軍野戦自動車廠の装軌車移動修理班がティディムに進出して整備にあたりましたが、焼け石に水で、故障脱落する車両が相次ぎます。例えば、期待の砲戦車小隊は、隊長車のチハがトンザン付近で故障し、修理の間にマニプール川が増水して渡河追及不能となってしまいました。この転進で、連隊の保有車両の約半数が戦うことなく失われたものと思われます。

 さらに悪いことに、イギリス軍の妨害も重なります。第17インド師団の第48インド歩兵旅団が、インパール南方のログタク湖東岸を回り込んで、5月16日にチュラチャンプール=モイラン間を寸断したのです(注2)。日本軍は付近に兵站部隊しかなく、補給トラックで強行突破しようとしたり、通りがかった転進中の歩兵を逐次投入して撃破しようとしたりしますが、いずれも大損害を出して失敗してしまいました。
PIAT.jpg そんなところへ戦車第14連隊主力が差し掛かれば、当然ながら道路解放作戦に投入されることになります。さっそく17日には、トルブンに陣取ったイギリス軍歩兵に対し、おそらく95式軽戦車と思われる日本戦車が攻撃を仕掛けました。第7グルカ歩兵連隊第1大隊B中隊の兵士ガンジュ・ラマ(Ganju Lama)は、中隊の後退を援護するために携帯対戦車火器PIAT(左は参考画像)で日本戦車に立ち向かい、2両を撃破するという名にし負うグルカ兵らしい活躍を見せます(注3)。イギリス軍は、この戦闘で計3両の日本戦車を破壊したと主張しているようです。
 25日未明には、新たに到着した鹵獲M3軽戦車1両・97式中戦車改4両が、トルブン北方のインパール32マイル道標所在のイギリス軍めがけて出撃。ところが、すでにイギリス軍は撤退に移っており、これは空振り。
 翌26日、さらに北のモイラン付近のイギリス軍を攻撃、今度は後衛方陣と戦闘となります。友軍歩兵を追い抜きつつ路上を突進した97式中戦車改は、またも対戦車地雷に引っかかり炎上。停止したところに集中砲火を浴び、後退できたのは4両中1両のみという大損害を受けてしまいます。第48インド旅団は追撃をかわしつつ北上し、5月30日にポッサンバム北方で師団主力に合流しました。

 途中で散々に消耗した戦車第14連隊主力は、6月3日にようやくニンソウコン(ニントウコン, Ningthoukhong)に到達します。トルブン突破戦の間に連隊長の交代が行われたため、新連隊長の井瀬清助大佐が部隊を率いていました。
 ニンソウコンやポッサンバムに展開していた諸部隊や、戦車連隊同様に転進してきた新着兵力を合わせ、井瀬支隊が編成されます。第33師団の指揮下ながら、第15師団から1個歩兵大隊、第54師団から1個歩兵大隊・1個砲兵中隊、独立工兵第4連隊など、外様部隊の寄せ集め状態でした。いずれの部隊も消耗した状態で、特に早くにニンソウコン北方ポッサンバムの最前線に出ていた独工第4連隊は、連隊長が戦死し、進出兵力240人中76人しか残っていません。主力と別動で先着していた戦車第14連隊第5中隊も、連隊主力が来た頃には戦力の多くを失っていました。支隊の掌握兵力500人前後、進出済みの戦車約10両といったところと思われます。
 井瀬支隊に与えられた当面の任務は、ビシェンプールへの突進でした。が、実情は、ニンソウコンを維持するのが精いっぱい。ニンソウコンは部落中央を東西にニンソウコン川(写真)が横切っているところ、その北半分の北ニンソウコンにもイギリス軍が食い込んでいる有様だったのです。
 6月6日夜、井瀬支隊は、道路西方を迂回してポッサンバムに第1回攻撃を開始しました。軽戦車3両も投入された諸兵科連合の作戦でしたが、仮設橋をなんとか渡河できた1両はイギリス戦車の餌食になってしまいます。2昼夜の激戦の末、日本軍は200人近い死傷者を出して敗れ、ポッサンバムの前哨拠点も失ってしまいました。もっとも、イギリス軍の損害も軽くはなく、ウェストヨークシャー連隊第1大隊が将校2名を含む50人を失っています。

 6月12日、井瀬支隊の第2回攻撃が実施されます。可動状態の97式中戦車改7両のうち4両(ただし1両は実際には不出撃)を投入し、野戦重砲兵第18連隊(実数1門)など全砲兵力も使った支隊最大の攻撃でした(注4)。砲兵の直前射撃に続いて走り出した3両の戦車は、泥土に足を取られつつ、北ニンソウコンの敵陣を目指します。
Burma: The Turning Point 突破されかかったイギリス軍は、第7グルカ兵連隊第1大隊のB・D中隊を救援に送ります。その中に、トルブン戦で活躍したグルカ兵ガンジュ・ラマの姿もありました。ガンジュ・ラマは、PIATを抱えて約30mまで忍び寄ると、日本戦車の側面に弾丸を発射します。日本の歩兵士官は、頼みの友軍戦車に黄色いような赤いような光の玉が当たるや、たちまち炎上するのを目にしました。ガンジュ・ラマは機銃弾を浴びて負傷しながらも、さらに1両の戦車をPIATで撃破してしまいます。ガンジュ・ラマは意識が薄れゆくなかで、手榴弾を投げ続けました(注3)。
 残る3両目の戦車は迂回突破を図りますが、完全に沼地にはまってしまいました。あきらめた乗員が脱出するや、対戦車砲弾か戦闘機の機関砲が車体を貫き、車体は炎に包まれます。第2回攻撃もあえなく頓挫したのです。(画像は書籍表紙。ニンソウコンで撃破されたらしき97式中戦車改が写っている。リンク先のAmazonに大判画像)

 以後、井瀬支隊に攻勢を続ける戦力は残っていませんでした。新たな第33師団命令に従い、南ニンソウコンの死守にあたります。残存する戦車の多くはダグインしてトーチカ化されました。連日の空襲と砲撃で支隊の戦力は消耗し、指揮下歩兵大隊の1個は転進、もう1個は士官が全滅して曹長が指揮を執っていたようです。
 7月3日、ついに日本軍はインパール作戦の中止を決定します。井瀬支隊は、第33師団の退却を援護するため、引き続きニンソウコンを死守するよう命じられます。最も厳しい殿軍を務めることになったのでした。7日には、M4中戦車を先頭にしたイギリス軍地上部隊が、南ニンソウコンに侵入を始めます。兵力150人程度にまで落ち込んだ井瀬支隊は、戦車を次々と破壊されながらも、かろうじて踏みとどまっていました。
 7月14日、戦車第14連隊本部が砲弾の直撃を受け、井瀬連隊長が戦死。連隊長戦死を報告する電話が、15日未明に第33師団司令部へ繋がった時、司令部職員が告げたのは、ニンソウコンからの撤退命令はすでに前日に出ているとの言葉でした。なんと皮肉なタイミング。
 こうしてインパール作戦における戦車第14連隊の戦いは終わったのです。ニンソウコンを去る際に、材料廠の95式軽戦車1両を除き、すべての展開戦車は破壊放棄されました。高木俊朗の小説のタイトルにもあるとおり、戦車連隊は「全滅」したのでした。
 最後の戦場ニンソウコンの戦いは、イギリスでは意外に知名度が高いようです。イギリス軍人最高の栄誉であるヴィクトリア十字章は、第二次世界大戦中に182個が授与されたのですが、そのうちの3つもがニンソウコンの局地戦に関係しているためです。受章者の一人は、戦車第14連隊を大いに苦しめたグルカ兵ガンジュ・ラマ(気絶後に収容され生存)でした。敵方に多数の英雄が生まれたということは、日本軍の勇戦の証でもあるといえば、せめてもの慰めとなるでしょうか。(この章終わり

注記
1 こうした悪路での行動では、鹵獲M3軽戦車が最も優秀だったようです。前年の第1次アキャブ作戦に参加した第2中隊では、97式中戦車改<95式軽戦車<M3軽戦車の順に山地踏破能力が大きいと評価しています。あまりに軽快で予想外だったとのこと。

2 英軍側の狙いとしては、第63インド旅団をビシェンプールからティディム道西側を南下させ、東方へ迂回した第48インド旅団とで第33師団を包囲殲滅したかったようです。しかし、ポッサンバム西方での日本軍の抵抗が激しく、第63インド旅団が阻止されてしまい、第48インド旅団も孤立を避けて退却することになりました。

3 “Ganju Lama, VC”(Times Online, 2000年7月3日)
  “Obituary:Ganju Lama VC - Two medals for bravery in the space of a month
   (The Guardian, 2000年7月20日)

4 連隊史によると、同日、第1中隊の中戦車2両が出撃しイギリス軍戦車と交戦して失われたとしています。日付の誤りとも思われますが不明です。

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第1章・中編)

1.方面軍に唯一つ(承前)

 進軍を続けた戦車第14連隊主力は、3月22日夕刻、タムの南に到達。偵察後、第1・第4中隊を街道左、第2・第4中隊を街道右に展開させると、配属の独立速射砲第1大隊・歩兵中隊とともにさっそく夜襲を敢行しました。
 対する第20インド師団は、モーレの集積物資を守るため、タムに強力な防御陣を築いていました。日本戦車の突撃は、対戦車壕と対戦車砲によって阻まれます。夜半に日本軍は反転・再集結に移り、夜明けまでに逃げ遅れた第2中隊は砲火に捕まって指揮班長車を失っています。
 このタムの戦闘で、日本戦車はイギリス軍の新兵器に遭遇します。携帯対戦車火器のPIATです。歩兵が水道管のようなものを構えるや95式軽戦車1両が撃破されたとの報告は、戦車士官たちに衝撃を与えました。その正体は当時の日本で「タ弾」と呼ばれた成形炸薬弾(HEAT)だろうと士官は気付きますが、士気の低下を恐れて兵達には知らせなかったようです。以後、PIATは、M4中戦車と並んで戦車第14連隊にとって大きな脅威となります。

インパール作戦地図 3月31日、英軍は450トンもの物資を処分してモーレを放棄。テグノパール=パレル間の峠に第20インド師団のうち第80・第100旅団を配置し、新たな防衛線とします。標高約1300mの峠に幅5m程度の山道が続く要害の地です。
 パレル道からのインパール突入を目指す山本支隊は、4月8日夜に到着した戦車第14連隊を先頭に強攻を試みました。上田連隊長は、一本道で的になるだけだと反対しましたが、山本支隊長は、強襲すれば英軍は再び後退すると見て出撃を命じたようです。4月20日夜、増加装甲付きの戦車を先鋒とした連隊全力の攻撃は、先頭車が対戦車砲の集中砲火に耐え切れず擱座されて失敗してしまいます。
 テグノパール戦では、戦車の用兵を巡って上田連隊長が山本支隊長と対立し、連隊長更迭の原因となりました。戦車は補給・整備のために戦闘後は後退して再集結する必要がありますが、山本支隊長には理解されず、臆病な退却行為と誤解されてしまったなどと言われます。やむなく戦車隊は、待機中は弾片よけの土嚢を車体に積み上げるなどして、無理な「占領地」確保に従事するはめになりました。なお、山本少将を弁護するなら、山本支隊は重装備が充実している半面、山岳戦に重要な歩兵の兵力が不足していたため、どうしても戦車に過剰な期待をかけてしまったのかもしれません。
 その後も山本支隊は5月まで強攻を繰り返しますが、5月9日に戦車第14連隊では第1中隊長が戦死するなど、ついにパレル道突破は叶いませんでした。

 パレル道を取った連隊主力が苦戦する間、第5中隊は、第33師団主力方面のフォートホワイト守備隊(工兵第33連隊基幹)に属していました。第33師団の初期侵攻は順調で、3月中旬には、トンザンを中心に展開した第17インド師団を包囲。これにあわせてフォートホワイト守備隊は、トンザン正面から追撃に参加することを命じられます。
 イギリス軍は、位置的には包囲されつつも、なお十分な戦力を有していました。第17インド師団は抵抗しつつ後退し、また第23インド師団の1個旅団も解囲のために南下しつつあったのです。ただし、戦車は投入していませんでした。
97式軽装甲車.jpg 3月24日夜、日本軍は戦車第14連隊第5中隊を先鋒とした挺進隊(1個歩兵中隊・1個工兵小隊配属。うち一部跨乗)を編成、一挙にマニプール鉄橋を確保すべく出撃させます(注1、2)。太平洋戦争初期のマレー作戦におけるスリム戦車戦の再現を狙った作戦でした。しかし、緒戦期ならともかく、大戦後期の堅固な陣地に豆戦車を突撃させるのは、コンクリート壁に卵をぶつけるような無謀な行為で、暗闇の中、軽装甲車3両が停車する間もなく次々と地雷を踏んであっけなく壊滅してしまいます。戦車が貴重な日本軍では、軽装甲車が偵察任務を越えた本格攻撃に投入され、酷い目に遭うのはよくあることでした。(画像詳細は注3
 第17インド師団は、3月26日にマニプール鉄橋を爆破しつつ、無事にビシェンプール方面へ撤退しました。日本軍は追撃し、戦車第14連隊第5中隊も独立工兵第4連隊に配属されて、本道を進みます。4月20日から25日には、日本軍は、第3銃騎兵連隊のM3中戦車やグルカ兵4個中隊との激戦の末にニンソウコン(インパールまで37km)を占領。5月1日には、ニンソウコンの北隣ポッサンバンにまで進出しています。このニンソウコン一帯が、以後の戦車第14連隊の主戦場になる地区です。
 5月初め、第5中隊は再建されて、95式軽戦車3両と97式軽装甲車2両となっていました。より高性能な英軍戦車に対抗するため、戦車の一部はダグインしてトーチカ化しています。この戦術はある程度有効で、5月7日にイギリス軍の逆襲があった際には、待ち伏せ射撃で中戦車1両を擱座、撃退しました。ただし、この日の戦闘で日本側も多くの人員を失っています。(後編に続く

注記
1 日本側記録によると、戦車第14連隊第5中隊は23日にトンザン到着、24日夜に攻撃実施。これに対し、英軍側記録では22日夜となっているようである(アレン・中11頁)。

2 毎日新聞社の保有写真に、1944年撮影のトンザンで出撃前に水杯を交わす戦車兵(ID:P20000826dd1dd5phj319000)というのがある。場所からするとこの戦闘のように思えるが、背後に移っている戦車は97式中戦車系(1式砲戦車?)であることからすると、無関係の写真と判断。水を注いでるのは上田信夫連隊長?

3 インパール作戦で英軍に鹵獲され、マウントバッテン卿の視察を受ける97式軽装甲車。97式中戦車と並べられており、おそらく戦車第14連隊第5中隊の保有車両だが、トンザン戦より後の時期に鹵獲されたものと思われる。砲塔に「はるな」のマーキング。

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