山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その2)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 1944年12月、レイテ島の戦いにおける日本軍の敗北が明らかとなり、ルソン島の第14方面軍は島内を「尚武」「振武」「建武」の3集団で分担する三大拠点構想に基づく防衛体制へ移行します。
 岩下戦車中隊(旧独立戦車第8中隊)は建武集団へ区処されました。建武集団はマニラ北西・ピナツボ山東一帯に広がるクラーク飛行場地区の守備隊です。総兵力は約3万人ありましたが、その半数以上は海軍兵、陸軍兵もほとんどが航空隊の地上組織であったため極めて弱体でした。まともな陸戦能力を有するのは、建武集団長を務める塚田理喜智中将(第1挺進集団長=空挺師団長兼務)の旗本というべき滑空歩兵第2連隊(グライダー空挺部隊)の750人と、北上した戦車第2師団の置き土産である機動歩兵第2連隊主力の1700人程度で、あとは基地警備用の飛行場大隊が第一線を張らねばならない状況。その中で、岩下戦車中隊は、仮編独立自走砲中隊(長:鷲見文男中尉)の四式15cm自走砲2門とともに貴重な機甲戦力といえます(注1)。

kenbu_group.png 1945年1月7日にアメリカ軍はルソン島リンガエン湾に上陸。対する建武集団は、リンガエン湾からマニラへ向かって南下してくるアメリカ軍を側撃する構えで、ピナツボ山を背に南北に連なる防衛陣を築きます。塚田集団長の命じた配備では、左翼に機動歩兵第2連隊主力を基幹とする高山地区隊(機動歩兵大隊1個・飛行場大隊2個ほか)、中央にはストッチェンバーグ飛行場を抑えた江口地区隊(飛行場大隊5個・仮編独立自走砲中隊ほか)、右翼へ少し離れたアンヘレス(Angeles)飛行場には江口隊を側面援護するため柳本地区隊(機動歩兵大隊1個・岩下戦車中隊)が並び、滑空歩兵と海軍陸戦隊700人を予備として控置、残余は後方の複郭陣地となっていました(注2)。
 アメリカ陸軍は第14軍団(第37・第40歩兵師団基幹)をクラーク地区へ侵攻させます。2個の米軍師団は各1個の戦車大隊と戦車駆逐大隊に支援されていました。1月20日、北方のタルラックに出ていた高山地区隊の警戒部隊2個中隊は、飛行場を破壊して主力に合流。1月23日に高山地区隊の最左翼で交戦が始まります。
 柳本地区隊はアンヘレス北東10kmのマガラン(Magalang)方面に出撃して、1月24日に米軍左翼の第37歩兵師団を攻撃しつつアンヘレスへ帰還。第37歩兵師団の支援を担当していた第637戦車駆逐大隊(注3)の記録によると、24日16時ころにサン・ロケ(San Roque)西方で第37歩兵師団の偵察隊が日本戦車2両に襲われて被害を受けており、おそらく岩下戦車中隊の戦果と思われます。同大隊ではM18戦車駆逐車1個小隊を救援に出動させたものの、このときは空振りに終わって、遺棄されたジープ3両と負傷者を収容して引き揚げています(注4)。
 彼我の戦力差は著しく、日本軍は次々と拠点を失います。1月27日にアンヘレス北方のダウもアメリカ軍が占領。柳本地区隊はダウのアメリカ軍砲兵を一撃したうえ、アンヘレスを放棄して江口地区隊へ合流しました。岩下戦車中隊もダウでの戦闘に参加しており、アメリカ軍第37歩兵師団の第145歩兵連隊と交戦したようです。
 なお、同じ1月27日には鷲見独立自走砲中隊もアメリカ軍戦車隊と初めて対戦し、300m以内の至近距離からの砲撃と陣地転換を繰り返す戦術で戦っています。すぐに反撃を受けるため、1箇所では2発までしか砲撃できなかったそうです(注5)。鷲見隊長以下負傷者が生じました。

 ダウとアンヘレスを占領したアメリカ軍第37歩兵師団は、ストッチェンバーグ基地に向かった正面攻撃を開始します。1月29日、第37歩兵師団のクラーク第4滑走路(マルコット飛行場)侵入を受けて、江口地区隊長は岩下戦車中隊による反撃と鷲見自走砲中隊による援護射撃を命じました。
 夕刻、岩下戦車中隊は8両の戦車全力を岩下大尉が率いて出撃します。鷲見自走砲中隊は1.5kmほどの比較的近い距離にいて援護射撃を試みたものの、無線連絡が通じず、爆煙で視界も悪いため、十分な支援は困難でした。
 1月29日16時45分ころ、岩下中隊は、マルコット飛行場に展開したアメリカ軍第37師団第129歩兵連隊の第3大隊へ突入します。第37歩兵師団の支援には、第754戦車大隊のM4中戦車と第637戦車駆逐大隊(注3)のM18戦車駆逐車が配属されていました。しかし、このとき日本側にとって幸運なことに第754戦車大隊は補給のため後方に下がって不在でした。代わりに居合わせたM7/105mm自走砲1門が立ち向かったものの、岩下中隊の47mm戦車砲弾によりたちまち乗員の大半もろとも葬られてしまいます。
 17時ころ、通報を受けて、第3大隊へ配属中の第637戦車駆逐大隊A中隊第1小隊のM18戦車駆逐車4両が急行します。ここでもアメリカ側にとって不運なことに同小隊長は敵陣偵察へ出かけて不在で、先任軍曹が指揮を執っていました。駆逐戦車隊と岩下戦車中隊は、互いに相手を左に見た位置関係で出くわし、行軍縦列のまま散開する間もなく激しい戦闘に突入したようです。夕闇と爆煙で視界が効かず、至近距離に近づくまで気づかなかったのではないでしょうか。おそらく一瞬の交戦で、日本側の九七式中戦車は4両が並んだまま撃ち抜かれ炎上(下画像)、アメリカ側はM18戦車駆逐車1両が完全破壊されました。M18戦車駆逐車は強力な76.2mm砲を載せた車両ですが、最大装甲25mmと薄かったため、日本戦車にとってはM4中戦車よりも与し易い相手だったものと思われます。その割に1両しか撃破できなかったのは、装甲の厚いM4中戦車と判断して1両を集中射撃したためかもしれません。
clarkfield1945.jpg

 鷲見自走砲中隊の援護射撃を受けて、岩下中隊の生き残りは撤退しました。生還した九七式中戦車は3両で、M18に撃破された4両以外の1両の喪失原因が不明です。陣地にたどり着いた兵は35人だけで、岩下大尉も戻りませんでした。
 アメリカ側は上記の1両完全喪失に加えて、別に1両のM18戦車駆逐車がMortar(臼砲・迫撃砲)の砲火によって損傷したと記録しており、鷲見自走砲中隊の戦果だろうと推定します。M18の乗員は5人戦死・6人負傷。日本側ではM4中戦車7両以上擱座と戦果報告したようですが、外形の似たM18戦車駆逐車の誤認や、視界不良による友軍戦車残骸の誤認が混じっているものと思われます。
 なお、補給を終えたM4中戦車3両が戻ってきたのは、日本戦車が去った後でした。第129歩兵連隊の第3大隊長は、M4中戦車が砲撃を避けて隠れていたと不満を言っています。もしこれが真相であれば、鷲見自走砲中隊の支援砲火が見事に効果を発揮していたといえるのではないかとも思えます。

 こうして1月29日の反撃も功を奏さず、翌日にストッチェンバーグ飛行場は陥落。以後は、複郭陣地へ後退しての持久戦闘へ徐々に移行します。建武集団を押し込めたアメリカ軍第14軍団は、掃討戦を後続部隊に委ねてマニラへと進撃を続けました。
 岩下戦車中隊のその後の戦闘の詳細はわかりませんが、鷲見自走砲中隊が車両を失って山中へ入ったのと同様に、車両を撃破されるか破壊処理した後に複郭陣地へ後退したものと思われます。岩下戦車中隊の総兵力129人のうち、終戦まで生き残ったのは16人だけでした。(その3へ続く

注記
1 仮編独立自走砲中隊は、もとは第1自走砲中隊と称した部隊で、ルソン島への揚陸中の空襲により損害を受けたため残存装備・人員を仮に再編成したもの。敷波迪「日本軍機甲部隊の編成・装備」1巻によると1944年12月8日の発令では四式15cm自走砲4門と装甲兵車8両を装備するはずだったが、調達が間に合わなかったためか実際の配備数は3門のようで、しかもうち1門は輸送船「青葉山丸」とともに海没した。このほかの建武集団の機甲戦力として、機動歩兵第2連隊は軽装甲車や装甲兵車若干を保有していた可能性がありそうだが詳細不明。

2 各地区隊の呼称は指揮官苗字で、高山地区隊:高山好信中佐(機動歩兵第2連隊長)、江口地区隊:江口清助中佐(第10航空地区司令官)、柳本地区隊:柳本貴教少佐(機動歩兵第2連隊第3大隊長)。

3 第637戦車駆逐大隊は、フィリピン反攻作戦のためフィジー駐屯部隊から転出してきた部隊。編制は本部中隊・偵察中隊・A~C中隊(一般中隊)・衛生班から成る。主力装備は動員に際してM18戦車駆逐車36両へ更新され、偵察中隊にはM5A1軽戦車とM8装輪装甲車が配備されていた。

4 1月24日以前の1月21日夜にも、タルラック東方のラ・パス(La Paz)で戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去った戦闘がアメリカ陸軍公刊戦史に記録されている(Smith, p.169)。これは次回述べるように独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の可能性が高い。

5 佐山「機甲入門」・291-292頁。
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鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その1)

3.独立中隊の挽歌

 ま幸くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも
                        ―大伴家持、「万葉集」より―

 日本陸軍の戦車部隊の編制には、独立戦車中隊と呼ばれる形式がありました。太平洋戦争中には、大規模な戦車部隊の配置に適さない島嶼の守備隊などのため、独立戦車第1中隊から独立戦車第14中隊まで欠番無しの14個中隊が誕生しています(注1)。
TKcsMap.png
 そのうちの独立戦車第7から第12中隊まで送り込まれた先がフィリピン戦線です。これらの6個中隊は、日本陸軍が目指すフィリピン決戦のため、守備隊と飛行場建設用重機を兼ねて1944年6月に新設されました。人員は指揮班・小隊3個・段列の計100人余り。部隊番号が偶数の中隊では新鋭の排土板(ドーザー)付き九七式中戦車(47mm)、奇数の中隊は旧式の八九式中戦車(甲)に整地用牽引ローラーを持たせたものを、それぞれ11両装備していたようです(注2)。独立戦車第9中隊の例では乗用車1両・自動貨車4両・軽修理車2両の支援車両も持ち、他の中隊もおおむね同内容と推定します。当初の指揮官は第7中隊:河野勲大尉、第8中隊:岩下市平大尉、第9中隊:土屋光治中尉、第10中隊:後藤数馬大尉、第11中隊:助川正夫大尉、第12中隊:門田良和大尉が着任しました。

 日本本土の戦車隊を母隊として編成された6個の独立戦車中隊は、海路フィリピンへ出発します。部隊番号順に威358部隊から威363部隊までの通称号(「威」は南方軍の兵団文字符)が割り振られました。しかし、1944年にはバシー海峡を始めフィリピン周辺はアメリカ潜水艦の待ち構える危険水域となっており、誕生まもない戦車隊の前途は多難でした。
 最初の便と思われるのは7月3日に門司発のモマ01船団で、陸軍特殊船「摩耶山丸」に乗った第9・第12中隊の各人員主力が無事にルソン島へ上陸。しかし、続いて7月6日に門司を出たモマ02船団(高雄から別名でタマ21C船団)は戦車第2師団の一部も同乗する重要船団でしたが、独立戦車第8中隊先遣小隊が乗った「仁山丸」、独立戦車第10中隊主力の乗った「祥山丸」、独立戦車第12中隊の車両が積まれた「日山丸」を含む6隻が撃沈される大打撃を受けます。第8中隊は9人、第10中隊は中隊長を含む43人、第12中隊は4人が戦死しました。海没した隊の装備車両は当然全損です。

 ルソン島に上陸した独立戦車中隊は大きく再編成される羽目になりました(注3)。独立戦車第7中隊はそのままレイテ島へ派遣。1個小隊を失って残存戦車8両に減った独立戦車第8中隊は、第12中隊の人員の一部をもらい岩下中隊または岩下独立戦車隊と改称。代わりに独立戦車第9中隊が第8中隊へ繰り上げになります。独立戦車第10中隊は解隊されて、残存人員は新第8中隊(旧第9中隊)と戦車第2師団へ吸収。独立戦車第11中隊は第9中隊へ繰り上げ。独立戦車第12中隊も解隊されて、人員は岩下中隊と新第9中隊、戦車第2師団へ吸収されました。以下、新しい部隊番号で呼称します。
 その後、独立戦車第8中隊長の土屋中尉は戦病により後送され、同中隊第1小隊長だった松元三郎中尉が昇格。独立戦車第9中隊長の助川大尉も少佐に昇進して病身のせいもあってか第103師団へ転任となり、指揮班長の中島保男中尉が交替しています。戦史叢書の「捷号陸軍作戦<2>ルソン決戦」の付表で独立戦車中隊が3個しか編制表に載っておらず、しかも表に2か所空欄があること、中隊長も前記の初期メンバーと異なっていることは、この最終状態を記載したのが理由と思われます。
 レイテ島へ派遣された独立戦車第7中隊は第16師団に配属(詳細は第3部第1章予定)。ルソン島の岩下中隊はマニラ北方のカロカン、サブランへ駐屯。独立戦車第8中隊はセレベス島への派遣計画もあったようですが中止となり、ルソン島南部の第105師団へ配属。独立戦車第9中隊は、戦車第2師団の各隊から集成した津守独立戦車中隊(軽戦車15両)とともに、北部の第103師団へ配属されました。それぞれ所在地の飛行場の土木作業や対ゲリラ警備に従事しつつ、アメリカ軍の上陸を迎え撃つこととなります。(その2へ続く


注記
1 独立戦車第1中隊はガダルカナル島増援、第2・第5・第6中隊は千島列島守備、第3・第4中隊はパラオへ進出途上のサイパン島で玉砕(第2部第3章参照)、第13・第14中隊は終戦近くに日本本土方面で新設(第5部第2章予定)。

2 装備戦車は九七式中戦車ではなく一式中戦車とする資料もあり。独立戦車第7中隊については九五式軽戦車とする資料もあるが、展開先のレイテ島で撮影された写真のある八九式中戦車だった可能性が高いと考える。

3 改編経緯は元独立戦車第8中隊(旧第9中隊)の下士官であった細田正一氏の史料に依拠している。

旧日本軍戦車の砲塔旋回と肩当て照準

 旧日本軍の戦車についてときどき話題になるのが、主砲の肩当て旋回・照準機構です。

 戦間期から第二次世界大戦までの世界各国の戦車では、砲塔を旋回させるために手回し式のハンドルを動力に使うことが一般的でした。砲塔リングの縁にギア溝が刻んであって砲塔が回る仕掛けです。照準調整も左右は砲塔ごとハンドル旋回して行い(下図2)、上下の調整(俯仰角)は別のハンドル操作で調整します。後になると砲塔旋回用の小型エンジンを積んだりした動力旋回砲塔も登場しますが(注1)。
 これに対し九七式中戦車チハなど日本陸軍の戦車の多くには、砲手が肩で砲尾を押し上げたりするだけで下図3のように砲塔から独立して上下左右に主砲を振れる独特の砲架構造(注2)が備わっていました。水平方向の砲耳だけでなく、垂直方向にも砲耳が通っているので砲だけが左右にも方向転換できるのです。手回しハンドルなどで操作するのに比べて瞬間的な俯仰角等の調整が容易なため、熟練した砲手ならば走行振動を体で吸収して、戦車を走らせながらの射撃(行進射)を有効に行うことが可能だったと言われます。八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲(口径57mm)で採用されて以後、九五式軽戦車や九七式中戦車などの主要な日本戦車の搭載砲に用いられてきました。
 なお、九五式軽戦車や九七式中戦車などが肩当て照準を採用といっても、砲塔の基本的な旋回動作は諸外国と同様にハンドル(転把)式の砲塔回転機を用いて行います(注3)。砲塔駐転機と呼ぶ固定装置も備わっており、このロックを解除しなければ地面の傾斜で砲塔が勝手に回ってしまうということはありません。戦車操典による正しい照準動作は、右手と右肩で砲架を支えつつ左手でロック解除→左手でハンドルを回して旋回→左手でロック固定という流れになります(注4)。
 こういうと肩当て式は良い事ずくめのようですが、搭載砲が重くなれば操作時の身体的負担は大きくなります。日本でも主に一式中戦車に搭載されたと思われる一式四十七粍戦車砲の後期型では肩当照準をあきらめて、転把照準に変えています。同軸機銃の採用も発砲反動で難しいという話があり、おそらく一番右に図示した様な現象が起きるのではないでしょうか。

 砲塔の肩当て操作と言った場合もう一種類あるのが、砲塔自体の旋回までもハンドルではなく肩当てによって行う方式です(下図1)。古くは、旋回砲塔を備えた最初の戦車として第一次世界大戦に登場したルノーFT軽戦車も、砲塔内側に設置された取っ手を握って人力旋回させるという同系列の操作法を採っています。日本では、九四式軽装甲車がその例です。
 非常に簡易な構造で済みますが、傾斜地では操作が難しくなります。なお、九四式軽装甲車の場合、砲塔駐転機でロックすることだけは可能だったようです。

<注記>
1.日本戦車でも75mm砲を載せた三式中戦車以降の中戦車では、砲塔の大型化に対応して電動式の砲塔旋回装置を採用しました。司馬遼太郎こと福田定一少尉も、戦車兵時代の回想的エッセイ「戦車の壁の中で」(初出:「小説新潮」26巻6号、1972年)において、三式中戦車の電動砲塔について言及しています。三式中戦車の電動旋回砲塔は、微妙な操作が容易だった手動式ハンドルに比べて軽快さで劣り、狙った位置に停止するのが難しかったとのこと。ただし、福田少尉が機械操作が下手だった点は差し引く必要がありそうです。また、手動に切り替えての微調整は可能だったと思われます。

2.日本戦車以外に採用例が無いわけではなく、例えばライバルであるアメリカ陸軍のM2A4軽戦車は、肩当式のM20型連動砲架を介してM3型37mm砲を積んでいました。M20型連動砲架は日本戦車同様の垂直軸砲耳を有する構造で、上下方向だけでなく左右にも10度ずつ砲身を振ることができ、またハンドルでも肩当てでも操作可能でした。後継のM3軽戦車でも改良型の連動砲架を採用しています。行進間射撃を目論んで俯仰角調整のみは肩当てによる例もイギリスなどにあったようです。

3.この点、たとえば「戦車マガジン」別冊の「帝国陸海軍の戦闘用車両」(デルタ出版、1992年)に、九五式軽戦車について「砲塔は手動旋回であるが、これはギアによる旋回ではなく、軽装甲車同様に砲手(車長)が主砲に肩を当て、肩の力で旋回させる方式だった」(64頁)とあるのは誤りです。同書65頁の砲塔内部写真でも明らかに砲塔旋回用のハンドルが写っていますし、砲塔リング部分にギア溝が掘ってあるのが見えます。

4.「戦車操典」、第2部 戦車隊教練、第46項参照

tank_turret

<参考文献>
佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他―日本の陸戦兵器徹底研究」(光人社NF文庫、2011年)
橘哲嗣「M3/M5スチュアート」(「戦車マガジン」1993年6月号、45頁)

プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
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