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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部 悲島戦線・第3章・その3)

3.独立中隊の挽歌(承前)

 独立戦車第8中隊(旧独立戦車第9中隊)は、1944年7月15日にマニラへ人員の主力が上陸。後発の装備を待つ間、鹵獲品のM3軽戦車を貸され、飛行場の整地に協力しています。これは乗員の操縦訓練を兼ねていました。対戦車攻撃演習の標的役も請け負ったようです。
 爆装した軽装甲車と鹵獲M3軽戦車を使って実施された体当たり攻撃の実験にも、操縦要員を差し出しています。この実験では、観閲中の山下奉文第14方面軍司令官が負傷する事故が発生してしまいました。一方で実験成果は後に戦車第10連隊第5中隊によって実戦に生かされることとなります(詳細は第3部第2章予定)。
Luzonmap.png
 9月10日にようやく正規装備の八九式中戦車甲11両を受け取った独立戦車第8中隊は、第105師団(勤兵団)へ配属され、師団とともにルソン島南部へ移動を開始します。戦車は鉄道輸送、トラック等は自走して、南東端に近いナガ周辺に分駐しました。移動中にゲリラとの戦闘などでトラック1両と中尉1人・兵1人を失っています。この点、第105師団兵器部の村田三郎平の回想(注1)では、10月6日に田保准尉の率いる八九式中戦車3両の独立戦車隊がナガへ到着し、既存の戦車隊と集成して中隊を編成したとあります。しかし、独立戦車第8中隊の細田正一の回想によると、田保小隊はもともと独立戦車第8中隊の一部です。移動・駐屯の過程で分離行動したのを誤解したのか、あるいは松元中隊長が鹵獲M3軽戦車で別途編成されていた第105師団特種戦車隊(詳細は第3部第4章予定)を合わせて指揮したことを指すのでしょうか。
 ナガ近郊のマバトバトという町に駐屯した第105師団工兵隊の経理士官は、分駐していた戦車隊のナガへの連絡便に部下を便乗させてもらい、買い出しに活用していたと回想しています(注2)。第105師団は現地編成の部隊で輸送力が不足していたため、自動車化された独立戦車第8中隊の存在は貴重だったでしょう。

 米軍上陸も迫った12月17日、第105師団主力にルソン中部アンティポロ(アンチポロ)への北上が命じられ、独立戦車第8中隊もこれに従って転進することになります。中隊は2便に分けての鉄道輸送と決まりました。部隊員の細田回想によると、12月29日に松元中隊長直率の第一陣(戦車5両・トラック3両・人員74人)が先発しました。
 続く第二陣の太田少尉隊(戦車6両・トラック2両・人員60人)は出発前12月30日にナガ駅で空襲を受けてトラックと燃料を喪失、翌日に戦車だけが鉄道で出発しました。師団高級副官の藤田相吉少佐の手記にも、12月30日にナガ駅がB-24数機の空襲を受けて工兵隊の弾薬が爆発して駅舎半壊、翌1945年1月1日早朝に戦車隊の半数と工兵隊の一部を載せて列車出発、その後に鉄橋がゲリラに爆破され鉄道不通となっています(注3)。
 第二陣はナガ駅から西に進んだタグカワヤン駅Tagkawayanで第一陣に追いつき、ここで戦車1両を第一陣に移籍させました。その後は線路沿いに戦車で自走して後を追いかけるも、鉄橋が破壊されていて転進を断念。戦車を爆破放棄して車載機銃装備の歩兵となり、野口兵団(第105師団歩兵第81旅団)の指揮下に入ります。終戦時はマニラ東方山地にあり、生存者はわずか6名のようです(注4注5)。
 他方、中隊主力の第一陣はかろうじて鉄道輸送を続け、1月6日にルセナ駅を経て、アンティポロまで進出しました。

 アンティポロに転進した中隊主力は、米軍上陸1週間後の1945年1月13日に同地を発って国道5号をさらに北上、1月18日にはカバナトゥアン(カバナツアン)へ進出します。厚生省編纂の部隊略歴によると、1月20日に戦車第2師団へ配属変えとなったとあります。
 1月20~21日には、前回述べたようにカバナトゥアン西方タルラック所在の機動歩兵第2連隊の2個中隊が施設を破壊して撤退していますが、独立戦車第8中隊もこのタルラック方面の橋梁爆破援護のため戦車1両を派遣しました。アメリカ陸軍公刊戦史によると、1月21日夜にカバナトゥアンとタルラックの間のラ・パス(La Paz)へ戦車1両に支援された日本軍1個小隊が出現し、アメリカ軍第37歩兵師団の第148歩兵連隊を襲って橋を破壊して去ったといいます(注6)。この記録はおそらく独立戦車第8中隊のことでしょう。
 この小さな戦闘はマニラを目指すアメリカ軍左翼に相当の脅威を感じさせました。カバナトゥアン付近の日本軍は移動中の第105師団の一部程度だったのですが、アメリカ軍は戦車第2師団の主力(実際にはもっと北)が存在するのではないかという疑いを持ったようです。アメリカ軍左翼の第1軍団が補給線整理も兼ねて一時停止、右翼第14軍団の第37歩兵師団が第1軍団地区まで偵察隊を派遣、第14軍団のクラーク飛行場群への進撃が数日遅延する大きな効果を生じています。

 独立戦車第8中隊はカバナトゥアンから北上を続け、1月27日ころにムニョスを守る戦車第2師団の戦車第6連隊主力と出会います。松元中隊長は戦闘協力を申し出たようですが、戦車第6連隊長の井田君平大佐から速やかに転進せよと断わられました。その後、ムニョスは2月1日以降、西からアメリカ軍の侵攻を受けて激戦となり、戦車第6連隊は戦車約50両が全滅、井田連隊長も戦死しています。
 2月2日、独立戦車第8中隊は、板垣少佐の指揮する戦車第2師団速射砲隊基幹のリサール(リザール)地区隊の指揮下に入ることを命じられました。2月3日ころにカバナトゥアン=ムニョス間のバロク三叉路付近(注7)へアメリカ軍軽戦車2両が出現したとの通報を受けると、中隊は戦車2両で迎撃に向かいますが、敵戦車は交戦せず撤退しています。その後、中隊は戦車1両をエンジン故障で失いつつ、リサールへ到着。
 2月5日、戦車第2師団は撤退命令を受けます。リサール地区隊も後退をはかり、独立戦車第8中隊が援護を命じられます。2月6日、中隊はリサールを脱出し、戦車1両が穴に転落して放棄されたほかは後退に成功します。翌2月7日、アメリカ第6歩兵師団の第63歩兵連隊がリサールを占領しました。リサール地区隊は全速射砲と板垣少佐を失い、2月13日に残存戦車5両が戦車第2師団司令部に掌握されたのみでした。

 3月10日、独立戦車第8中隊は、再び第105師団に配属されます。これより前に、リサールからカラングランを経由して国道5号に戻り、北上してバレテ峠を越えていたものと思われます。サンタルシアというバガバッグ北方の田園地帯へ第105師団の速射砲隊(臨時速射砲第2中隊のことか?)、鹵獲M3軽戦車隊(第105師団特種戦車隊のことか?)とともに布陣し、空挺部隊に対する警戒にあたりました。幸運にも一帯は第105師団の主な食料調達に使われているほど主食の米も副食の野菜や畜肉も豊富でした。空襲はそれなりに激しく、マラリアの流行地域でもあったようですが、末期フィリピン戦には珍しい安息の日々でした。
 5月下旬についにバレテ峠・サラクサク峠の防衛線が突破され、独立戦車第8中隊にも再び前線に立つときがやってきます。6月2日または3日、第105師団は、中隊にアメリカ軍の北上阻止を下令。中隊は、残存全力2両と段列に臨時編成の工兵中隊を引き連れると、国道4号からバガバッグで国道5号へ入り進撃します。バヨンボン付近へ差し掛かったところで、戦車のうち1両がエンジン火災を起こして失われました。八九式中戦車甲は搭載したガソリンエンジンの炎上事故が多かったようです。
 6月4日、最後の1両となった中隊は、バヨンボン南方7~8km付近の国道5号がマガット川支流を渡る橋を前に、カーブと丘で遮蔽された陣を敷きます。段列要員らも爆雷を抱えてたこつぼに潜みました。
 午前10時ころ(日付不明)にM4中戦車複数と随伴歩兵が出現し、戦闘が始まります。そして、斥候に発見されて当初の計画よりも遠距離での交戦となってしまったものの、先頭のM4中戦車を首尾よく走行不能にできたため、撃退に成功しました。中隊は反撃の砲爆撃を受ける前に撤退することを決め、主砲の復座器が銃弾で破壊された八九式中戦車はダイナマイトで爆破処分されました。なお、この戦闘については、同人誌「J-Tank」第3号に収録の鉄獅子「奮戦、独立戦車第八中隊! 八九式中戦車、M4ヲ撃破ス!」に詳らかです。
 アメリカ軍の記録を見ると、交戦した相手は第37歩兵師団の第129歩兵連隊戦闘団で、M4中戦車は第775戦車大隊の所属と思われます。米陸軍公刊戦史は、6月1~4日にアリタオで戦車第2師団の生き残りである戦車撃滅隊を撃破した後、バンバンを無血占領、6月7日にバヨンボンを制圧するまではバト橋(Bato Bridge)で形ばかりの抵抗を受けたことにしか言及しません(注8)。バト橋はマガット川本流に架かっているのですが、唯一の抵抗という状況から、ひとまず独立戦車第8中隊のことと推定します。
こうしてすべての戦車を失った独立戦車第8中隊は、戦車から下ろした車載機銃などを武器に歩兵として戦い、終戦までをルソン北部の中央山地で過ごしました。(その4へ続く

注記
  1. 第105師団兵器部にいた村田三郎平は、もともと戦車部隊出身の技術将校です。そのためか回想記の「最前線爆雷製造部隊」には戦車に関する記述が豊富です。村田は、その後に戦車第2師団整備隊へ転属し、戦車砲改造山砲や戦車用トレーラーなど応急兵器製造に活躍しています。
  2. 丹波五郎「父のフィリピン戦記」(杉並けやき出版、2004年)・48頁。この経理部士官は、1945年3月頃にサンタルシアへ米の収穫に出かけた際、独立戦車第8中隊と再会したことも手記に記録しています。
  3. 藤田相吉「秘録ルソンの苦闘」(蛍光社、1963年)・413-415頁。
  4. ナガ残留組の行動に関しては、該当可能性のある回想録が存在します。川又照市「分捕りM4戦車の比島疾駆行」(「丸」エキストラ版第30集、1973年)がそれです。著者の所属部隊は、本文頁で「撃戦車兵団」(戦車第2師団)の「田村中隊」とありますが、目次頁では「第一〇五師団戦車隊」となっています。当初は八九式中戦車12両装備で戦闘時の稼働車5両、ルソン島ラグナ湖(バエ湖)畔・タナイ付近で戦闘といった内容からすると、独立戦車第8中隊のナガ残留組が最も整合的と考えます。
    同回想によると、M4中戦車を八九式中戦車で滅多撃ちして降伏に追い込み、友軍の誤射を受けながら本部へ持ち帰ったと言います。あまりに変わった戦闘内容、所属部隊が目次と本文で異なる、台湾沖航空戦の大本営発表(1944年10月)と同時期に戦闘したというありえない記述など信用性に疑いの残る文章ですが、事実なら興味深い話です。時期的におかしい台湾沖航空戦の大本営発表という点は、ラグナ湖付近で戦闘中の1945年4月にあった菊水作戦の大本営発表との混同と考えれば説明がつきます。
    追記(2016年12月29日):注4の戦記ですが、部隊史やその付属名簿と照らすと該当する人名が全く無く、残念ながらフィクションの可能性が高いように思われます。第105師団や田村中隊といった固有名詞の選び方は、案外、注1の第105師団兵器部の村田三郎平が著者ではないかという気もしますが、積極的な根拠はありません。
  5. また、同じくナガ残留組の生存者とも思える方が、長崎新聞の記事に紹介されています。日中戦争中に久留米の戦車第1連隊に入営した戦車兵の方で、太平洋戦争終戦時にはルソン島アンティポロにいたとあります。終戦頃にはわずかな手榴弾と爆薬で夜間切り込みをしていたそうです。独立戦車第8中隊は兵庫県青野ヶ原の戦車第19連隊で編成された部隊ですが、独立戦車第11中隊・第12中隊が久留米の戦車第18連隊編成の部隊で、本文のとおり海没後の再編成で独立戦車第8中隊に送られた人員もあり、久留米の人が混じっていてもおかしくはありません。「戦争を語る:後方支援は戦争加担―日中戦争、太平洋戦争に従軍した高松高雄さん(86)=佐世保市松瀬町=」(長崎新聞、2003年8月16日)
    追記(2021年6月11日):第二陣の生還者の氏名とは合致せず、無関係のようです。
  6. Smith, p.169.
  7. 細田資料による。ただし、米軍記録によると、1月31日にはバロク三叉路を含むムニョス以南の5号国道はアメリカ軍の占領済みとなっており、日付または地点が若干異なっている可能性がある。
  8. Smith, pp.562~563.
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