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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第4部 ビルマの落日・第5章)

5.ベンガル湾のつわもの【暫定版】

 夏草や兵どもが夢の跡
          -松尾芭蕉-

【本記事は暫定版です。内容に不十分な点があることが判明しているため、なるべく早期に改訂するつもりです。】

 1945年、総崩れになりつつあるビルマ戦線の西部に、日本陸軍第54師団が踏みとどまっていました。コードネームである通称号は「兵(つわもの)」。一般的な3単位編制の歩兵師団で、機甲戦力として偵察部隊である捜索第54連隊を有しています。
 捜索第54連隊も標準的な編制の捜索連隊で、騎兵第10連隊(姫路)を母隊とし、新設当初は連隊本部・乗馬中隊・乗車中隊・装甲車中隊各1個から成っていました。南方派遣時に連隊本部と乗車中隊2個(第1・2中隊。速射砲各2門・重機関銃各2丁)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。九七式軽装甲車各8両、うち砲装備各3両)基幹に改編強化され、通信小隊も付属したようです。人員484人、トラック45両と乗用車7両を保有し、完全自動車化されていたように思われます。

 1944年1月以降、第54師団は第28軍隷下、ビルマ西部ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備されます。捜索第54連隊主力(中村忠雄中佐。本部と乗車第2中隊)は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)を守備。乗車中隊・装甲車中隊各1個は師団直轄等に召し上げ。白井中隊長率いる第3中隊(装甲車中隊)は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、ベンガル湾に浮かぶラムレ島へ一時進出しますが、1944年9月に大陸本土沿岸に戻ってタンガップ(タウンガップ、タウングプTaungap)地区防衛を任としました。
 タンガップは、ビルマ中心部からアラカン山脈を越えて続く自動道がベンガル湾に出る地点で、制空権喪失により海上交通が遮断された日本軍にとって、重要な兵站拠点でした。また、飛行場もありましたが、航空機は全く配備されていなかったようです。
 第3中隊は、タンガップ北方のサビンという村を中心に65kmもの広大な海岸線の守備を担当しました。いくら機動力があると言っても人員40名余では明らかに兵力不足ですが、空挺部隊などに対する警戒が中心で、本格的な侵攻に際してはタンガップに後退する計画だったといいます。これを捜索連隊らしい騎兵的な任務だと喜ぶ者もあったようです。

 1945年2月15日、タンガップから85km北のメイへ補給品を輸送中の独立自動車第55大隊の車列が、敵の上陸部隊に出くわして逃げ帰って来ました。敵兵力は最大4万人の大軍とも報告されました。ところが、タンガップから歩兵1個大隊と捜索第54連隊第3中隊が反撃に出動したところ、実はイギリス軍40人程度の偵察上陸と判明します。イギリス軍は日本軍の反撃を受け、すぐに撤収しました。大騒ぎをした独立自動車第55大隊の士官は、回想で部隊の醜態を恥じています。

 1945年3月、イギリス軍は反攻作戦の一環として、タンガップの攻略に着手します。3月15日(3月12日?)、第4インド歩兵旅団(3個歩兵大隊)と第146機甲連隊A中隊(M3リー中戦車装備)が、タンガップ北方のレトパンLetpanに上陸。そのうち尖兵のフロンティア・フォース・ライフル連隊2/13大隊の1個中隊は、夜のうちに進軍してタンガップ=メイ間の道路の屈曲点を制する地点に達しました。
 日本軍はすぐに上陸に気が付き、撃退を試みます。タンガップ地区隊唯一の機甲戦力である捜索第54連隊第3中隊は、機動反撃を命じられ、中隊主力(指揮班及び第1小隊の軽装甲車5両)で出撃しました。無謀な出撃とも思えますが、2月15日と同様に偵察上陸で簡単に撃退できると期待したのかもしれません。タンガップから北上した装甲車隊は、上記のイギリス軍尖兵中隊の封鎖地点に到達しますが、準備不十分だったのかイギリス軍は素通りさせたようです。
タンガップの九七式軽装甲車 3月16日の午後、イギリス軍は第146機甲連隊A中隊を先頭に本格的に侵攻を開始し、日本側の捜索第54連隊第3中隊主力とすぐに遭遇します。日本側の装備車両は2人乗りの豆戦車である九七式軽装甲車(イギリス軍は九五式軽戦車と誤認)で、イギリス軍のM3中戦車にはとても敵わず、南のタンガップ方向へ高速で逃げ出しました。しかし、撤退した先には、フロンティア・フォース・ライフル連隊の尖兵中隊が待ち構えており、携帯対戦車火器PIATを次々と発射して、今度は素通りさせてくれませんでした。進退窮まった捜索第54連隊第3中隊主力は、引き返してイギリス軍との接触を断った後、車両を放棄して徒歩で包囲を脱出しました。追撃してきた英軍戦車が発見したのは、放棄された軽装甲車5両(うち3両は自焼した残骸)だけで、乗員の姿はどこにもありませんでした。(画像はタンガップ地区でイギリス軍に捕獲された九七式軽装甲車。砲装備なので中隊長車か第1小隊長車である。)
 このとき、イギリス軍は遺棄された日本軍装甲車の中から、九七式軽装甲車の前でポーズをとった日本軍戦車兵の写真を押収しています。この写真は、吉川和篤『日本の豆戦車写真集』(イカロス出版、2016年)の中表紙に掲載されている白井装甲車隊の車長の写真と同じアングルで撮影されたものです。捜索第54連隊第3中隊は内地出発前に兵庫県の青野ヶ原で待機中、形見となるように全員が一人ずつ装甲車の前に立って記念撮影したのだそうです。なお、このときに写真のネガを内地に残すはずが、誤ってネガまでビルマに持っていってしまったとのことで、現存するのは貴重な一枚と言えそうです。

 こうして、捜索第54連隊第3中隊は、装甲車両の主力を失いました。ただし、後方の警戒を命じられた第2小隊(軽装甲車3両)は離脱に成功し、戦闘を継続しています。砲兵牽引車の代わりとして野砲などの陣地転換にも多用されたようです。タンガップ地区隊はイギリス軍に圧迫されて次第に後退し、1945年4月末には第28軍直轄となってビルマ東部のペグー山地へ退却せよとの命令を受けます。第2小隊の軽装甲車3両はアラカン山地を突破してイラワジ河畔のパドン南方まで至り、師団の転進を援護するため後衛戦闘に活躍した後、ついに5月14日に軽装甲車を処分しました。その後は車載重機を主力兵器として戦います。第3中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭を進み、厳しい退却戦を続けることになります。(この章終わり

追記
日本側の参戦中隊が、第4中隊ではなく第3中隊であったので訂正(2019年5月2日)。
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