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山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第3部・第5章・後編)

第三部 悲島戦線
5 消えた連隊(後編)


承前)国道13号線上で捜索第23連隊第4中隊の軽装甲車が全滅する間、1月12日以降、久保田支隊主力(捜索第23連隊主力・歩兵第72連隊第1大隊)の拠るラブラドルやスアル方面でも、米軍の攻撃は続きます。第185歩兵連隊と第40歩兵師団偵察中隊(M8装甲車等)は、ラブラドルからスアル、アラミノスを経てボリナオ半島を横断、1月15日に西岸ダソルに到達します。第185歩兵連隊の一部が現地ゲリラの先導を受けつつ半島先端部と西岸のさらなる捜索を続け、1月23日には西岸サンタクルーズ(ダソルとマシンロックの中間)までパトロールしています(注1)。同日以後は第40歩兵師団がクラーク地区の攻略に取り掛かったため、ボリナオ半島の掃討は現地ゲリラに委ねられたようです。
久保田支隊地図 歩兵第72連隊通信中隊長だった鈴木昌夫は、戦後に久保田支隊についてまとめた著作で、久保田支隊は戦車と砲撃に支援された米軍の猛攻に対して奮戦したものの、支隊将兵の大半は連日の砲爆撃で斃れ、1月下旬には半数が戦死していたと述べています(注2)。
 しかし、米側の第40歩兵師団の部隊史によるとだいぶ異なった様相に見えます。同書によると、米軍は上陸1~2週間目、約1000人の日本兵が山中にいるとの情報に基づいて複数の斥候をラブラドル南方の山中に分け入らせ、数人から60人以下のいくつかの日本兵集団を発見したものの、日本兵は軽微な銃撃戦で四散してしまったと述べます(注1)。また、ボリナオ半島を横断した第40歩兵師団偵察中隊もアラミノスで少数の日本兵を追い散らし、ダソル付近の川岸での短い戦闘で日本兵17人を戦死させたのが最大の戦闘のようです。ボリナオ半島西岸を南下した第185歩兵連隊の一部もアグノ湾で16名の日本兵を倒したほか、組織的な抵抗は全くなかったと述べています。ボリナオ半島先端部に向かった米軍2個小隊も日本兵は全く発見できず、現地人に拘束された台湾人170人以上を捕虜として収容したのみでした。
 第40歩兵師団の部隊史によれば、上陸初期の同師団の戦果記録(上陸後1週間とあるが占領状況からすると1月19日頃までの分?)は日本兵の死体91体とあり(注1)、この種の戦果記録は往々にして過大で、実損害はこれ以下の可能性が高いと思われます。そして、13号国道方面(ブガリョン等)に分遣された捜索第23連隊第4中隊の戦死者が数十体と判定されていることを踏まえると、ラブラドル・スアルの久保田支隊主力方面の戦死者数は50名程度にとどまり、多数の戦死者が出る戦闘にはなっていないように思われます。米陸軍公刊戦史も久保田支隊は13号国道での戦闘(実際には支隊主力ではなく捜索第23連隊第4中隊の戦闘)でほとんどの戦力を失ったようだと述べて、支隊主力方面では大きな戦闘がなかったとしています(注3)。
 なお、米陸軍第40歩兵師団の部隊史は、「後に判明したところでは、ボリナオ半島に居た日本兵は、マニラからバギオへ舟艇移動中に空襲を受けて遭難漂着した者がほとんどであった。南方の友軍部隊との合流が最優先だったので、米軍との接触を避けたように思われる。」旨を述べていますが(注1)、海没部隊が主力というのは実際の久保田支隊と異なっており、おそらく海上挺進第12戦隊・基地隊(マニラ方面→北サンフェルナンド→スアルと転進)のことを誤解したものと思われます。見方を変えれば、遭難者と誤認して納得されるほど抵抗が軽微な印象だったと言えそうです。
 後記の日本側捕虜供述によれば2月下旬でも野田大隊にはかなりまとまった兵力が健在だったことを見ても、鈴木昌夫の述べるような頑強な抵抗・激戦は行われず、久保田支隊主力と米軍との直接戦闘は限定的で、日本側は砲撃を避けて早々に山中に後退した後、積極的な交戦は回避したというのが真相ではないかと思います。鈴木の述べる、野田大隊がスアル地区進出時に携行した一週間分の弾薬・食料しか保有しなかったというのが事実であれば、積極的に戦いたくとも戦えなかったのかもしれません。

 1月9日の米軍上陸以降、第23師団司令部からでもスアル地区でも戦闘が始まったのが視認できたものの、久保田支隊との通信が途絶し、状況を憂慮していました。そこで、2月上旬から中旬にかけて師団主力から久保田支隊へ2組の将校斥候が連絡のために派遣されましたが、いずれも行方不明となっています(注4)。
 久保田支隊に隷下第1大隊を差し出した歩兵第72連隊では特に久保田支隊の安否を心配しており、中島連隊長が師団長に掛け合って、3月5日、師団主力への合流命令を伝える将校斥候1組を新たに派遣しました。しかし、この将校斥候もそのまま行方不明となり(注4)、途中で戦死したものと推定されています。
 以後、終戦に至るまで、第23師団主力と久保田支隊との間の連絡は実現せず、久保田支隊の最期は不明といわれることにつながっています。

 さて、第23師団主力が将校斥候を送り出して連絡を試みていた頃、久保田支隊にはまだ相当の兵力が残っていたようです。
 久保田支隊に属する歩兵第72連隊第1大隊(野田大隊)の小隊長の一人S少尉が米軍の捕虜になって、この時期の久保田支隊について貴重な供述を残しています(注5)。S少尉の供述によると、野田大隊は2月25日にサンタクルーズ東方の山頂付近に集結しており、3月17日に再出発する時点でも戦闘可能人員約600名もの兵力が残っていたといい、少なくとも野田大隊は直接戦闘でそれほど人的損害を生じずに統制を保ったまま山中に撤退したことが窺われます。
 しかし、人跡未踏の密林の千m級連山を進むうちに野田大隊にはマラリアが蔓延し、サンタクルーズ東方山頂にいた時から2週間で半数の300名を病気で失う異常事態となります。野田大隊はマシンロック東方の山頂を経てさらなる山地行軍で南下しますが、病気による急速な消耗が続き、4月15日にイバ北東の山頂(ハイピーク山?)にたどり着いた時には1個中隊5~6名、大隊総兵力は野田大隊長以下わずか28~30名となっていました。大隊長の指示により、生存者は中隊単位に分かれてタルラックを目指して行軍を続けましたが、S少尉ら5名のグループは大隊長と離れて南下するうちに病気のために次々と落伍し、最後に残ったS少尉は投降を決意して5月2日に現地民間人の村に現れて捕虜となっています。
 S少尉と別れた後の野田大隊長らの最期については判明していません。連隊通信中隊長の鈴木昌夫が終戦後の捕虜収容所で、クラーク地区の建武集団所属の海軍士官から、「6月上旬にイバ=オドンネルを結ぶイバ街道をイバに西進する途中で野田大隊と称する少数の陸軍部隊と遭遇した」旨の話を聞き取ったのが、知られている唯一の情報のようです(注6)。前記のS少尉の供述と合わせると、野田大隊長一行はハイピーク山から南下してイバ街道に出て、当該海軍部隊とすれ違いながらオドンネル方面に東進したものと思われます。国道13号線を横断してタルラック平原の敵中突破によるバギオ方面の師団主力への合流を目指したのかもしれませんが、この時期に同様の行動を試みた建武集団の機動歩兵第2連隊主力はタルラック平原の敵中突破を断念してタルラック西方のサンバレス山中に戻って全滅したと推定されており、野田大隊も突破はできずにサンバレス山中で病気や食糧不足により全滅した可能性が高いと考えます。
 連隊史によれば野田大隊の生存者はわずか3名です。上記S少尉を含むとすればほかに2名の方がいるはずですが、具体的な回想等は発見できませんでした。

 久保田支隊の基幹部隊であった捜索第23連隊の最期の足取りについては、上記の野田歩兵大隊以上に情報がありません。鈴木昌夫の著作では、野田大隊の西方を並行するように南下してハイピーク山西方に至ったという推定図が掲載されていますが(注6)、根拠は不明です。久保田支隊長を含む連隊主力の行動については、中編で既述のとおり、1月13日にラブラドル近郊のデュリグDuligで捜索第23連隊の陣中日誌が鹵獲されて、その付近に連隊本部が居たと推定される以降、確かな史料を見出せませんでした。野田大隊同様にサンバレス山中に早期後退した後、主に病気のため消耗して全滅に至ったものと推測するしかないようです。
 他方、分離行動した捜索第23連隊第4中隊(装甲車中隊)については、捕虜供述が残っており、1月15日に装甲車を全損して山中に入った後、捕虜ら21名が1月19日にタルラックで機動歩兵第2連隊(戦車第2師団から分遣の高山支隊)に合流したといいます(注7)。タルラックに警戒部隊として前進配置されていた機動歩兵第2連隊第9中隊に収容されたものと思われます。機動歩兵第2連隊第9中隊は米軍(スアル地区を攻略した第40歩兵師団)の接近により、1月20日にタルラックの施設を破壊してバンバン西方高地の連隊主力に合流しており、この際に捜索第23連隊第4中隊の生き残りも同行しました。機動歩兵第2連隊は建武集団の精鋭部隊として戦いますが、バンバン正面とオドンネル方向からの側面攻撃に圧迫されて、3月6日にはオドンネル西方のサンバレス山中へ後退しました。捜索第23連隊組もこれに同行していましたが、3月23日に捕虜生還者は病気のため機動歩兵第2連隊から落伍し、3月30日に1人さまようところを米軍に捕らえられています。他の者の消息は不明ですが、機動歩兵第2連隊は西岸サンタクルズ付近に出た後に戦車第2師団主力との合流を目指してタルラック・カミリン方面に向かうもタルラック平原突破を断念、サンバレス山中に引き返して連隊長以下ほとんど全滅しており、これと同様の行動であったと推測されます。

 このほか、久保田支隊の指揮下に入る計画だった海上挺進基地第12大隊主力は、1月9日に舟艇攻撃隊を送り出した後、久保田支隊とは合流せずに終戦まで単独行動を採りました。鈴木昌夫の著作では基地大隊は野田大隊陣地の後方に移動したとありますが、海上挺進戦隊関係者が書いた『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記』や『[○レ]の戦史』では合流しようとしたが敵に遮断されてできなかったとなっており(注8、注9)、海上挺進関係の生存者情報を入手・利用したと思われる後者がより信用できそうです。海上挺進戦隊関係の文献には、第23師団司令部から直接命令を受けて戦ったとの記述がありましたが(注9)、前述の第23師団が派遣した将校斥候のことなのかは不明です。
 基地大隊は4月17日にボリナオ半島西岸のマシンロック付近で米側部隊(ゲリラ?)に捕捉され、大隊長の立川武喜少佐を含む多数が戦死して壊滅状態となりました。兵力800名(北サンフェルナンド方面の整備中隊等を除く人数?)または905名中のうち生還者64名または27名とされています(注8、注9)。捜索第23連隊や歩兵第72連隊第1大隊に比べると多数の生還者ですが、師団主力方面の整備中隊の生還者を含む人数と思われ、スアル地区の生還者数はこの一部だけでしょう。

 終戦後、第23師団は久保田支隊に停戦命令を伝達するため連絡者を差し出し、米軍とともにラブラドル南方一帯を捜索しましたが、久保田支隊の生存者は1名も発見できませんでした(注10)。
 終戦後の1948年3月に復員局の下でまとめられた第23師団の報告書では、捜索第23連隊の将兵について「以上の如き状況の為、海没せるもの上陸せるものの判別不明の為、本部隊の整理は海没明瞭なるもの以外は比島に上陸して戦死した事として整理せざるを得ない」(注:読点を補う)と結んでいます。(この章終わり


<注記>
  1. "History of The 40th infantry division in The Philippines", op.cit., p.12-13
  2. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、367頁。
  3. Smith (1993) , p.117
  4. 第十四方面軍残務整理部旭兵団主任者 「捜索第二十三連隊(旭一一三六部隊)」『第二十三師団(旭兵団)隷下部隊行動概要(抜萃)』 1948年3月、JACAR Ref.C14061334400
  5. 211-2.2: XI Corps - G-2 Journal and File (4 - 5 May 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:XI Corps) (ボックス番号:4182 ; フォルダー番号:5)
  6. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、368頁。
  7. 前掲 201-2.3: I Corps - G-2 Journal File (2 Apr 1945) (文書名:Records of the Adjutant General's Office; World War II Operations Reports 1940-1948 = 米陸軍省高級副官部資料/第2次世界大戦作戦記録) (シリーズ名:I Corps) (ボックス番号:3051 ; フォルダー番号:2)
  8. 前掲 儀同保『陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期』、209・219頁。
  9. 前掲 若潮会戦史編纂委員会『[○レ]の戦史―陸軍水上特攻・船舶特幹の記録』 、178頁。
  10. 前掲 鈴木「消滅した久保田支隊の謎」、369頁。
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