山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

捜索第五十四連隊について

捜索第54連隊について、戦史叢書「シッタン・明号作戦」などよりメモ。

第54師団(通称号「兵」)の捜索連隊(偵察部隊)。母隊は騎兵第10連隊(姫路)。
編制は、創設時には本部のほか乗馬中隊・乗車歩兵中隊・軽装甲車中隊が各1個ずつ。
南方派遣時に、本部と乗車歩兵中隊2個(第1・2中隊)、軽装甲車中隊2個(第3・4中隊。97式軽装甲車各7両)に改編強化。
(ほかに整備・通信など付属か?)

1944年1月以降、第28軍隷下、ベンガル湾沿岸のアキャブ方面に配備。
連隊主力(中村忠雄中佐。本部と第1中隊(敷浪は第2中隊とする。))は、配属部隊若干とともにミエボン地区(アキャブ東)守備。
第2・3中隊(敷浪は第1・3中隊とする。)は師団直轄。
第4中隊は、歩兵第121連隊(長澤貫一大佐。2月下旬以降は馬場進大佐)に配属され、沿岸のタンガップ地区防衛。

1945年1月12日、連合軍第25インド師団、ミエボン地区上陸。
捜索連隊主力は応戦するも後退。
師団直轄の乗車中隊も、増援として連隊復帰図られるも、途中で阻止される。
2月には師団主力のいるアンに後退して、第1・2中隊が集結。

2月15日、メイ南方に連合軍の小部隊が上陸、独立自動車第55大隊の一部と接触。
白井装甲車隊(おそらく第4中隊)が急行し撃退。(阿部幸助「ビルマ戦記」)
3月12日、連合軍第26インド師団が、タンガップ北方50kmのメイに上陸。
翌13日に、第4中隊に機動反撃の命令。英軍中戦車と交戦し車両全損。
3月末には、タンガップが戦場となる。
タンガップ地区隊は次第に後退し、4月末には第28軍直轄となってペグーへ転進命令。
第4中隊の残存兵力は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊(集成歩兵1個中隊)に所属して転進の先頭?

4月2日、捜索連隊主力は、師団主力とアンから出撃。タマンド方面への攻勢に参加。
10に、タマンド手前のレモー占領するも、反撃を受け中村連隊長戦死(後任は古賀文雄少佐)。砲兵不足目立つ。
師団は包囲戦を試みたが、兵力不足で殲滅には失敗。15日に攻勢中止。

メークテーラ陥落(4月22日)への対応のため、師団はイラワジ河を越えて撤退したうえで、ペグー山地での集結を図ることに。
渡河点を探しつつ、イラワジ河西のアラカン山脈すそ伝いに南下。
捜索連隊主力は、転進掩護のため途中のエナマで分離残置。

4月24日、軽装甲車中隊(第3中隊?)は、イラワジ東岸ミンブ北の警戒任務中。
5月22日にイラワジ東岸オゴンで第15軍の独立自動車中隊が敗退したため、木庭支隊の捜索中隊を出し奪回させたとある。(上記装甲車中隊のことか? 訂正:「ビルマのわだち」への登場というのは誤り。)

5月上旬には、師団主力方面への敵軍の追撃。捜索連隊主力のいたエナマで戦闘。
24日、捜索連隊主力を含む師団主力がイラワジ河を渡河。

5月8日、馬場隊(旧タンガップ地区隊)の捜索第3中隊(第4中隊の誤り?)は、歩兵第121連隊の黒田先遣隊と共にイラワジ西岸パドン付近で警戒任務。
10日に、東岸から渡河してきた歩戦連合150人の敵と交戦し、撃退。
11日に、後続の馬場隊主力が合流。
師団主力への復帰を図り、19日にイラワジ渡河。ペグー山地へ。

その後、第54師団は平野部で食糧徴発を続け、6月15日ペグー山地内へ集結完了。
7月にシッタン河を渡河。
モールメンへ撤退を続ける途中で終戦。捜索連隊の掌握人員119名。

主要参考文献
「戦史叢書 シッタン・明号作戦」(朝雲新聞社,1969年)
敷浪迪『日本軍機甲部隊の編成・装備(4)』(「月刊グランドパワー」2001年5月号、デルタ出版)
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