山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スペイン内戦と海軍(第25回)

7.海上作戦の経過
 (14)終わりと始まり


 1938年12月から翌年1月、カタルーニャ戦線では、首都バルセロナを守ろうとする共和派の絶望的な努力が続けられていました。
 共産党に近いネグリン首相ら強硬派は、「P作戦」の名の下、反撃を軍に命じようとします。名将ビセンテ・ロホVicente Rojo Lluch参謀総長の立案した「P作戦」の肝は、(1)残存艦隊を投じたグラナダ地方モトリルへの陽動上陸、(2)ポルトガル国境バダホス方面での反攻という二段階の牽制作戦です。最終的には、エブロ川攻勢とは逆に南部のバレンシアから、手薄になったはずのビナロス突出部へ侵攻する高度な計画でした。
 しかし、陸軍総司令官ホセ・ミアハJosé Miaja Menant将軍、中部方面軍司令官セギスムント・カサードSegismundo Casado López大佐、艦隊司令官ミゲル・ブイサ少佐(1月に復任)ら制服組多数派の反対により、反撃は幻のものとなります。共和派軍にはもはや大規模作戦を実行する力は無く、反撃戦力は指導者の妄想の産物でしかなかったのです。

 1月26日、抵抗むなしくバルセロナは陥落。共和政府首脳は陸路フランスへ逃亡しました。アサーニャ大統領は辞職します。1月31日には、カタルーニャ地区残存艦隊が、正規の命令を待たずフランスへ脱出し、抑留されてしまいます。「艦隊」といっても巡視船などわずか3隻の部隊でしたが。航行不能で放棄された魚雷艇2隻は、国粋派に捕獲されています。
 2月10日までには、カタルーニャ全土を国粋派が制圧。フランスへは数十万の難民が逃れました。既述の通り、同じ日にバレアレス諸島唯一の共和派拠点だったメノルカ島も開城して、前艦隊司令官ウビエタ少佐以下は、フランスへ亡命しています。
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 バレンシアやマドリードにも、最期の時が近づいていました。カルタヘナやバレンシアの港は、連日の空襲を浴びています。燃料不足の共和派艦隊は、回避行動すら満足に取れずに消耗していきます。
 それでも、抗戦をあきらめない強硬派は残っていました。2月26日、フランスから戻ったネグリン首相は、共和国軍事指導者会議を招集し、徹底抗戦を命じます。会議の席上、海軍のブイサ司令官は、「もはや艦隊は空襲に耐え切れない。操艦委員会はスペインを去ると主張している。」と訴えますが、容れられませんでした。
 翌27日には、英仏もフランコ政権を承認してしまいます。フランスは、亡命してきた共和派艦船のフランコ政権への引渡も受け入れました。
 少しでも有利な停戦を模索する中部方面軍司令官カサード大佐は、クーデターによるネグリン首相及び共産党の排斥を決心します。これには英国の支持もあったようです。海軍司令官ブイサ少佐も、3月2日に海軍士官を密かに召集し、カサード支持で海軍を結束させています。

 カサード派の陰謀が進む中、3月4日に予期せぬ事態が発生します。共和派海軍の本拠地カルタヘナで、フランコ支持派の市民による武装蜂起が発生したのです。
 蜂起勢力が一時は軍港を制圧。軍港を守る要塞が陥落する危険まで出てきました。要塞が陥落すると、港内の艦隊は袋の鼠となりかねません。おまけに、イタリア空軍の大空襲までが始まりました。駆逐艦「ガリアーノ」「バルカイステギ」などが被爆大破します。
 ブイサ司令官は、ついに残存艦隊に出港を命じ、艦隊に乗り組んでいた共産党員(政治将校?)を拘束します。旗艦の軽巡「セルバンテス」以下、従うのは軽巡2隻、駆逐艦8隻、その他補助艦艇。航行不能の「ガリアーノ」「バルカイステギ」、旧式化していた「アルセド」や水雷艇は、港内に自沈または放棄されました。
 脱走艦隊主力は、そのままアフリカ沖へ去ります。

 これとほぼ同時に、カサード大佐がクーデターを決行。共産党系の部隊と戦闘に入ってしまいます。内紛劇は共和政府のお家芸に近いものがありますが、内戦最後までそれが出てしまった形です。

 カルタヘナの暴動は、おそらく国粋派に内応して行われたものと思います。
 暴動発生を知るや、国粋派は、直ちにカルタヘナ上陸船団をカディスから出撃させます。その編制は、敷設艦「ブルカノ」他2隻に護衛された仮装巡洋艦2隻と輸送船5隻で、陸軍と海軍歩兵合計10個大隊の上陸部隊が乗り込んでいました。上陸船団といっても強襲上陸ではなく、カルタヘナ港からの揚陸をするつもりだったようです。
 3月6日、カルタヘナへ到着した船団は、港内に侵入して上陸を開始しようとしました。
 ところが、とたんに要塞砲の砲撃が始まります。実は、蜂起したフランコ支持派は、一晩で鎮圧されてしまっていたのです。カルタヘナ要塞には、英R級戦艦にも積まれたのと同じ38cm砲をはじめ、強力な火砲が配備されていました。
 船団は慌てて退避を始めますが、次々と被弾。うち、輸送船「カスティーリョ・デ・オリーテ」が撃沈されます。乗船していた歩兵2個大隊2200人が海に投げ出され、半数以上が戦死し、残りは捕虜となりました。勝利を目前にした失敗で、国粋派は支払う必要の無い犠牲を出してしまったのです。

 共和政府内の権力を掌握したカサード大佐は、自ら大統領に就任して講和交渉を試みますが、フランコ総統は取り合いませんでした。その間にも共和派の軍事組織は急速に崩壊していきます。
 軍事力というカードを失い、無報復という唯一の条件すらも容れられなかったカサード大佐は、26日に無条件降伏を受け入れます。
 3月28日、包囲に耐え続けてきたマドリード開城。

 多くの難民が、東へ地中海へと進みました。目指すは、カルタヘナやバレンシアの港。「そこに艦隊が救出に来る」と言うのです。港に集結した難民は合計で数万人と言います。
 集まった難民たちが待ちくたびれた頃、ようやく艦隊が姿を見せます。岸壁に上がる歓声。しかし、あろうことか艦隊は難民に向かい機関銃を撃ち始めました。歓声は悲鳴に変わります。やって来たのは救いの手ではなく、国粋派艦隊だったのです。
 カルタヘナを脱出した共和派艦隊は、仏領チュニジアのビゼルタBizerteへ入港して抑留。一足先に、その戦いを終えてしまっていました。
 国粋派艦隊は威嚇射撃を続け、港から立ち去るよう命じます。港湾地区の出口には、国粋派の兵士が待ち構えていました。逮捕された難民は要注意人物として扱われ、一部が処刑、残りは収容所へと送られる運命となります。一部の者は、その場で自ら海へと身を躍らせました。

 こうして、3月31日にカルタヘナなどが制圧されたのを最後に、スペイン内戦は終結しました。両軍あわせ戦死者10万人以上。それ以外の死者が約50万人、うち半数はテロや虐殺、処刑によると言われます。
 翌4月1日、フランコ総統は内戦の終了を宣言。アメリカもフランコ政権を承認しました。ビゼルタに集結した共和派残存艦艇がフランコ政権に引き渡されたのは、4月2日のことです。

 さて、内戦の終りが世界平和の訪れを意味しなかったのは、ご承知の通りです。
 これより少し前の3月15日には、すでにチェコスロバキアがドイツに併合されています。4月7日には、保護国アルバニアを、イタリアが完全併合。スペイン国内では内戦の後始末、報復と弾圧の嵐が吹き荒れます。
 そして、5ヵ月後の9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。世界は二度目の大戦へと突入していくのです。(エピローグへ
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