山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スペイン内戦と海軍(第7.5回)

3.内戦に参加したスペイン艦艇の一覧(承前)
(5)魚雷艇の部

 スペイン内戦中、共和派・国粋派の両陣営とも、外国から供与を受けた魚雷艇Lancha-torpederaを実戦に投入しています。共和派はソ連から4隻。国粋派はイタリアから4隻と、ドイツから5隻。
 内戦中のこれらの高速艇たちの戦歴を、調べた範囲で簡単にまとめておきたいと思います。

ア.共和派の魚雷艇
 共和派は、ソ連から「G5」型魚雷艇4隻の供与を受けました。おそらく、乗員もソ連から派遣されたものと思われます。これらは、1937年の5月~6月に、「カーボ・サント・トーメ」ともう一隻の輸送船により2度に分けて到着しました。
 共和派海軍は、4隻に対し「11号」「21号」「31号」「41号」という呼称をつけています。
KirovTKA-G-5-1940.jpg
「G5」型は第二次大戦時のソ連の主力魚雷艇のひとつです。右画像は、ソ連海軍で運用中のG5型魚雷艇(手前)を捉えた写真で、背景に写っているのは重巡「キーロフ」です。
 排水量18t、速力51kt、航続距離200浬、魚雷×2or爆雷×2、7.9mmMG×2

 共和派は、主に大型艦の襲撃用として魚雷艇を使用するつもりだったようです。国粋派艦隊が艦砲射撃に襲来したときに、数度に渡り迎撃にあたっています。一度は至近距離からの軽巡「セルベラ」雷撃に成功したとも言いますが、命中は確認されていません。
 最大の見せ場となるはずだったのは、1938年3月5日に計画されたマリョルカ島パルマ泊地の夜襲ですが、これは悪天候を理由に中止になっています。ただ、この作戦が、内戦中最大の海戦であるパロス岬沖海戦のきっかけではあるのですが。もちろん、パロス岬沖海戦自体には、魚雷艇は参加していません。
 内戦末期には、分断されたバレンシア・カタロニア間の連絡に使用されました。

 内戦中の「活躍」を結果的に見ると、なんの戦果も無いまま2隻が空襲で失われただけでした(1937年11月、1938年7月30日)。
 残りの2隻もバルセロナ港内で空襲により損傷し、放棄されました。この2隻は国粋派に鹵獲され、内戦後のフランコ政権海軍に「LT15」「LT16」として使用されています。


イ.国粋派の魚雷艇
e03Candido perez 435 魚雷艇の本家イタリアは、MAS系の魚雷艇4隻を供与しました。第一次大戦型の中古艇「ナポレスNapoles」(旧「MAS100」)、「シシリアSicilia」(旧「MAS223」)と、新型の「カンディド・ペレスCandido Perez」(旧「MAS435」)、「ハビエル・キロガJavier Quiroga」(旧「MAS436」)。

「MAS435」「MAS436」は、1931年建造で、第一次大戦型の改良型でした。右画像は「MAS435」の写真。
 満載排水量14t、速力40kt(公称)、航続距離125浬、魚雷×2、7.5mmMG×1

 このうちの新型2隻については、当初はイタリア海軍所属のまま、国粋派に協力していました。供与潜水艦の場合と類似しています。イタリア海軍時代に、駆逐艦に曳航されてマラガ泊地の攻撃を試みていますが、波浪大のため作戦を中止しています。
 4隻とも、1937年1月~3月に国粋派海軍に引き渡されます。
 引渡後は、カディス港などジブラルタル海峡付近での警備任務についていますが、航洋性の不足などから活動は不活発です。マラガに共和派駆逐艦が艦砲射撃に来た際に、迎撃に出ているのが唯一の大きな行動のようです。このときも波浪のため、雷撃できませんでした。ただし、共和派艦隊は、魚雷艇の出現に脅威を感じ撤退したようです。穏やかな地中海といっても、ジブラルタル海峡付近の海域では、小型の魚雷艇の活動は無理があったように思われます。
 なお、「キロガ」は、僚艇と衝突して沈没しています(1937年5月6日)。
 生存した3隻は内戦後に、「LT17」(「ナポレス」)、「LT18」(「シシリア」)、「LT19」(「ペレス」)と改名しました。

 もう一方のドイツからは、内戦中に少なくとも5隻の魚雷艇が供与されています。第二次大戦で勇名をはせるドイツ魚雷艇Sボートですが、そのうちの最初の5隻がそれです。これら5隻は日中戦争中の中国に売却される予定でしたが、途中からスペインに振り向けられています。

「S1」は、ドイツ海軍が建造した最初の魚雷艇です。試作艇と言っていいでしょう。
 満載排水量52t、速力34kt、航続距離600浬(?)、魚雷×2、20mmMG×1、7.7mm×1

「S2」~「S5」は、初の量産型です。「S1」と基本設計は同一。左下画像は「S5」。
 満載排水量58t、速力34kt、航続距離2000浬、兵装は同じ。

e010LT14,S5 最初の生産型ということで、これらはまだ多くのトラブルを抱えていました。ドイツ魚雷艇特有の、船体と一体化した魚雷発射管もまだ使われておらず、比較的低い甲板上に発射管が載っています。
 しかし、大型の船体に大きな航続力、機雷敷設能力といった後のSボートと共通する性格は有していました。こうした特長のおかげで、ドイツ製魚雷艇は比較的活躍をすることができました。

 36年11月と37年3月に2隻ずつ、「S1」~「S4」が引き渡され、番号順に「バダホスBadajoz」「ファランヘFalange」「オビエド Oviedo」「レケッテRequete」と名付けられました。残りの1隻「トレドToledo」(旧「S5」)の引渡は、内戦終結直前の39年2月になります。
 先に引き渡された4隻は、機雷敷設任務を中心に、輸送船襲撃や哨戒任務等を行いました。駆逐艦不足を補うため、爆雷を搭載して船団や大型艦の対潜護衛任務にも駆りだされています。まるで、第二次大戦時のドイツ海軍での作戦行動を予言するかのようにも思えます。
 魚雷艇が敷設した機雷による可能性がある戦果としては、貨物船1隻撃沈のほか、英駆逐艦「ハンター」の損傷があるようです。
 逆に受けた損害は、「オビエド」が、ビナロス港停泊中に空襲で大破着底させられています(戦後、復旧)。また、「ファランヘ」は、エンジントラブルから火災発生して、完全喪失となってしまいました。
 復旧した「オビエド」を含め、内戦を生き残った4隻は、旧番号順に「LT12」「LT13」「LT11」「LT14」となっています。

 なお、このほか、「S6」も内戦終結直後に引き渡されているようです。「S6」は、新型の機関部を搭載した高性能艇として開発されたものですが、実際には完全な失敗作だった艇です。おそらく「LT20」となったものと思われます。


ウ.小括
 結局のところ、両軍合わせ13隻の魚雷艇は、あまり目に見える戦果は無いまま、後に復旧したものも含め7隻が戦闘力を失っています。魚雷艇自体が、設計・運用とも未だ成熟しない新兵器だったともいえるかもしれません。
 しかし、この結果まったくの役立たずとスペイン海軍に判定されたかというと、そうではなかったようです。内戦直後の艦隊再建プランには、すでに魚雷艇の建造が挙がっています。実際にも、ドイツからの援助により、洗練された魚雷艇「S38」型が供与(「LT21」~「LT26」)され、ライセンス生産(「LT27」~「LT32」)もされています。イタリアには声がかからなかったようですが、これはやはり航洋性や汎用性のなさが問題視されたのでしょうか。
 最後に、内戦を生き延び改名された魚雷艇のその後ですが、これらはドイツからの新しい供与艇が到着するのと入れ替わる様に、急速に退役しました。1946年に「LT20」までは全て除籍となったようです。

第8回へ続く
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