山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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ノモンハン捕虜の運命(第5回)

4.帰還捕虜の処遇について(承前)
(4)下士官兵のその後
 将校に比べると、下士官兵については、まだ緩やかな処分で済んだようです。
 第1回交換者ではごく一部が起訴されたほかは、全員が部隊長から懲罰処分を受けています(資料17)。おそらく第2回交換についても同様でしょう。下された懲罰処分の内容は様々だったようで、重営倉3日や重謹慎20日などの例があります。懲罰処分はそのまま新站陸軍病院で実施されたようで、特に作業などはなく、軍人勅諭の暗唱をするなどして過ごしたといいます。

 懲罰処分終了後、簡単な精神教育などを受けて、兵役満了まで部隊へ再配属されました。元の部隊へ戻されることはなく、外地の部隊へ分散して配属になったと言います(資料14・276頁)。
 例えば、満州東部国境で建設任務に当たる秘密部隊に配属されたという人がいます。一種の懲罰部隊「教化隊」だったと思われます。正規の陸軍教化隊は姫路にあった1個のみですが、これに類する素行不良者を集めた部隊は関東軍にも設けられていたようです。
 傷病兵については新京陸軍病院に移され、きちんとした治療を受けています。ある傷病兵の場合、内地の相模原陸軍病院へ転院になり、満期除隊まで入院していたといいます。内地での面会は自由だったといいます。元教官の将校が個人的に手回しをしてくれたようで、かなり幸運な部類なのでしょう。
 兵役満了後、少なくとも一部は普通に満期除隊して、日本へ帰還できたようです。例えば前掲の相模原陸軍病院へ移った方は、故郷へ帰って生活しています。ほかにも東京で花屋を開業した例も有るようです。再就職先は軍が世話したといいます。
 再召集を受けて部隊配属された例もありますが、南方の第一線部隊への配置は免れたようです。軍人として信頼できなかったのでしょう。ただ、中には樺太の歩兵部隊に送られて、太平洋戦争末期に再びソ連軍の捕虜となった兵の例もあります(資料22・上84頁)。

 肉親への連絡は広く行われたようで、第23師団から内地の連隊区司令官に対して、帰還者家族への連絡要領について出された命令が残っています(資料18)。戦死扱いになったものは靖国神社に祭られてしまっているから生還が許されなかったという話がありますが、この命令は戦死として処理されてしまっていた17名についてのものなので、事実とは異なる俗説のようです。この命令では、不起訴となったことで捕虜としての汚名は消滅したのだから、家族に資料提供してその旨を十分に説明し、名誉回復に配慮するよう指示されています。特に、重傷で人事不省に陥ったケースなどについては、その功績を賞賛すべきとまで言っているのは、西洋的な捕虜観と通じるものがあり興味深いです。
 家族のほうでは戦死したと思っていたので、生存を知って大騒ぎだったようです。中には行方不明からの認定戦死ではなく、上記17名中7名のように「腹部盲管銃創」などの検死結果までついたり、遺骨が渡されていたケースもありました。戦死誤認の多発は軍内でも問題視されています(資料20)。なお、家長が軍から生存通知を受けたものの、他の家族には明かさなかったというケースもあるようです。
 ここで、ノモンハン事件では公式には捕虜は無かったことになっているという類の話もありますが、実際には捕虜の存在は公式に認められて、「極めて少数かつ重傷患者」(大阪朝日新聞・昭和14年9月20日夕刊)という具合ながら新聞記事でも捕虜交換が報道されています。第2回捕虜交換交渉が難航していることも報じられていました(大阪毎日新聞・昭和14年10月22日夕刊)。ただし、帰還者個人が捕虜であったことを明かすことは禁じられており、警察官が毎日様子を確認に来ていたという方もいます(資料14・276頁)。

 資料15の捕虜の処遇方針では、本人の希望があれば外地定住を斡旋するという一項がありました。実際にこの道を選んだ例も有るようです。第2回捕虜交換で帰国した航空隊下士官の1人は、有罪判決を受けて1942年末まで関東軍刑務所で服役後、満州国軍へと入隊して活躍したといいます(資料12・345 頁。なお*1)。ほかに満州国警察の警官に採用された例(資料22・上79頁)、満蒙開拓団に入った例もあります。
 「本人の希望」を口実に軍が事実隠蔽のために用意したとも見えますが、建前どおり本人を守るという配慮も大きいのだと思います。当時の市民感情からすると、捕虜一家は村八分となるおそれも強かったでしょう。前掲の相模原陸軍病院に入院した方の場合も、当初は偽名を使って満州に残ることを希望していたのが、元教官に説得されて故郷に帰ることになったと言います。

(5)小括
 苦戦の末にやむなく捕虜となって生還したものに対して、日本軍の処遇は酷で理不尽なものでした。特に将校に対しては、自決強制の方針が陸軍省から指示され、本人の意向に構わず自決が迫られました。下士官兵については、一部は敵前逃亡罪として起訴投獄され、多くの者は懲罰処分の後に再配置されました。拡大解釈による公式処罰と、もろもろの非公式な不利益取り扱いが行われたのです。
 満期後も故郷に帰らず満州国軍に転身した者もあり、これは軍の処遇方針にも予定された措置でした。世情を考えれば本人のためでもあるにしろ、幸福な運命ではないでしょう。
 もっとも、手厚い看護を受けたうえ満期除隊して帰郷できた者もあり、人事不省の末に捕虜となった者を賞賛するなど、軍が一定の配慮を示した面も見られました。(つづく

注記
*1 満軍入隊した人数について。引用の資料12には2名とあるが、第2回送還者のうち1名は自決を図り後遺症を負っているため従軍できる状態にはなく、1名の誤りと思われる(資料22・上80頁)。
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