山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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ノモンハン捕虜の運命(第7回)

5.未帰還捕虜について
(1)NHK資料に拠る未帰還者数推定(承前)
 現時点での私見としては、未帰還捕虜総数は30名、うち日本兵は3名よりも多いと考えます。
 3名よりも多いと考える積極的根拠は、帰還できた捕虜とは別行動した一群の捕虜の存在です。これがNHK資料の前掲(C)記述の「残った」22名にあたり、その中に日本兵が含まれていると考えています。

 帰還捕虜の証言(資料26)及び秦の研究(資料22・上68~69頁)によると、捕虜は(ア)タムスク=ウランバートル=ウランウデ=モスクワ=チタという経路をたどった初期グループ(モスクワ組)と、(イ)タムスク=ウランバートル=チタという経路をたどった中期以降のグループ(直行組)に大別されます(注1)。NHK資料とジューコフ電文にも、モスクワ移送者として10名が挙げられています。重要な点として、これらの捕虜の移動手段はトラックか鉄道での地上輸送に限られています。
 ところが、シーモノフは、チタへ空輸された「約30名」の捕虜の存在を記録しています(資料10・183頁)。第1回捕虜交換の数日後に戦場から帰還する際に、シーモノフはTB-3輸送機でこれらの捕虜と乗り合わせました。満軍兵と帰還拒否した日本兵であったといいます。
 移動手段の違いからみて、第3のグループとして(ウ)チタ空輸組が存在しています。そして、NHK資料の前掲(C)の「残った」22名が、このチタ空輸組「約30名」に相当すると考えます。

 もっとも、空輸組「約30名」というのが、NHK資料に明示された帰還拒否者6名も含んでいる可能性もあります。「残った」22名+「帰還拒否」6 名=28名で、約30名です。帰還拒否日本兵3名が他の捕虜と会話したタムスクにはソ連軍の飛行場があります。この会話後にチタへ空輸されていたとすれば、チタへの移送時には他の捕虜に同行しなかったということと矛盾しません。
 そうであれば「残った」22名全員が満軍兵ということもありえます。残留日本兵が3名より多い根拠とは言えなくなります。

(2)シベリア抑留者等の証言との整合性
 残留捕虜については、シベリア抑留者などによる多くの接触情報が残されています。早い時期では戦時中の1944年に、ノモンハン付近で作業中の捕虜と会話したというものもあります(資料14・下277頁)。シベリア抑留者に対しては、引き揚げ後に国会で参考人質疑が行われており、そこでもノモンハン事件の残留者に関する証言が為されています。
 これらの接触情報には残留者の数を1千名以上とするものもあり、総数30名という私見とは不整合と見えます。そこで、この「不整合」が解消できないか検討してみます。

 第一に、証言者が直接に残留捕虜と接触して、かつノモンハン事件関係者であると確認した事例というのは、それほど多くはありません。そして、そのような信頼性の高い事例では、残留捕虜から聞き取った残留者数もたいていは数人から20人程度とされています。2000人といった数字は不確実な収容所内の噂が多いようです。

 第ニに、捕虜総数の場合と同じく、満州国軍の集団脱走者が誤認されている可能性があるように思われます。集団脱走者約250名は、一部は日本側へ再脱走したようですが、かなりがソ連領内に残っているはずです。
 シベリア抑留者の証言の中には、自身が直接に面会したというのではなく、地元のモンゴル人やロシア人からの伝聞が含まれています。こうした外国人を通じての伝聞の場合、国籍の区別が不正確で、集団脱走者と通常捕虜の混同を生じている可能性があります。

 第三に、ノモンハン事件とは無関係にソ連に帰化した日本人が、誤認されているケースがあるのではないかと考えます。
 ノモンハン事件以外にも、日本人が国境侵犯者として拘束された事例は数多く発生しています。一部では捕虜交換が行われた例もありますが、張鼓峰事件の捕虜など相当数がソ連領内に残されたようです(注2)。
 実際、ノモンハン事件の捕虜でも、捕虜収容所で拘束中の大陸浪人などと遭遇した例があります。中にはソ連軍将校となっている日本人もいて、シベリア出兵期の残留孤児だったといいます。
 現に誤認が確認できる例として、1950年4月29日に参院特別委員会でされた與儀宅正証言が挙げられます。この証言は、ロシア人からの伝聞として、チタ地区にノモンハンの捕虜が居るとしています。しかし、「ハツサンのワイナー」と述べていることから、実はノモンハン事件ではなく鼓張峰事件(ソ連側呼称「ハサン湖紛争」)の捕虜です。
 前掲の1944年のノモンハン付近での接触事例も、「捕虜」は「あのとき限り、日本人の俺は死んだんだ」と言って会話を拒否しているだけで、ノモンハン事件関係者だとの確認はできていません。誤認の可能性は十分にあると考えます。
 ノモンハン事件で日本軍が大損害を受け捕虜も生じたことは、新聞報道などで広く知られていました。そうした前提でソ連領内で日本人を発見した場合、多くの人たちは、ノモンハン事件の残留捕虜だろうと思い込んでしまったことでしょう。ですが実際は、その多くはノモンハン事件と無関係だったのではないでしょうか。

 第四に、特殊なケースですが、捕虜交換での帰還者が再度捕虜となった事例の誤解があります。
 1989年のテレビ西日本の取材により、唯一確実な残留捕虜とされる人物が発見され、「あゝ鶴よ―ノモンハン50年目の証言」という番組で放送されたことがあります(資料22・上81頁)。しかし、後の調査で、ノモンハン事件で捕虜となったものの交換で帰還していたが判明しています。帰還後の再召集で樺太の歩兵第125連隊へ配属され、太平洋戦争末期に再度捕虜となり、シベリア抑留の末にソ連へ帰化したようです。
 既述のように満州へ移住した元捕虜は何人もいたので、同様に再度捕虜となっての誤解が生じた可能性は有ります。

 このようにして接触情報を検討していくと、総数30人仮説と、後のシベリア抑留者などの証言の不整合は決定的ではないと考えます。(つづく

注記
1.直行組の一部はウランバートルまで送られた後、タムスクに一度戻されて他の捕虜と合流、再度ウランバートル経由でチタへ移送されたようです。ただ、大別すると直行組と言えます。

2.張鼓峰事件で捕虜となった方で、シベリア抑留者とともに帰国できた例が1人確認されています。その方によると、張鼓峰事件関係では、紛争の発端となった「戦死者」の憲兵伍長も捕虜になっていたそうです(資料27・上182頁)。
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