山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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帝国の守護者(第10回)

6.「アフォンソ・デ・アルブケルケ」の場合(後編)
 1945年、第二次世界大戦終結。
 大きな戦争の終りは無数の小さな戦いの始まりでした。疲弊したヨーロッパの本国に対して、世界中の植民地が独立を求めて動き始めたのです。時に泥沼の戦闘を伴いながら、東南アジアや北アフリカ、中東では、次々と独立が実現していきます。
 インドも例外ではありませんでした。1947年に英国は帝国の象徴だったインドの独立を認めます。時代の流れは急速に変わっていたのです。

 インドに植民地を保有していたのは英国だけではありません。フランス、そしてポルトガルも小さな植民地を残していました。独立したインドは、当然、両国に対しても植民地の返還を求めてきます。
 フランスは、交渉の末に住民投票を条件として返還を容認します。1954年までには仏領インドが消滅しました。
 これに対して、ポルトガルは交渉を拒絶します。おそらく、わずかでも譲歩を見せたなら、インドばかりでなく他の植民地でも独立運動が激化することを恐れたのだと思います。当時のポルトガルは、依然としてアンゴラやモザンビーク、東ティモールなどを領有する植民地帝国でした。
goa_map.png
 (第二次世界大戦後のポルトガル領インド。面積は正確にはもっと狭い。)

 ポルトガルのサラザール首相はインドの死守を命じ檄を飛ばします。指令に従い「アルブケルケ」もインドのゴアに展開してポルトガル軍艦旗を翻します。
 インド側も徐々に実力行使を行い、しめつけを強めます。手始めに内陸部のダトラとナガル・アベリの通行を制限すると、1954年7月には「義勇兵」を送り込みます。駐留するポルトガルの警察官と小競り合いした程度で占領。独立を宣言させたうえ、併合してしまいます。ポルトガルは通行制限のために増援部隊が送れなかったのです。
 ポルトガルは自由通行を求めて国際司法裁判所に提訴します。国際司法裁は通常は当事国双方の同意が無いと裁判できませんが、インドは一方的提訴を認める選択条項に署名していたため、こうした訴訟が可能でした。1957年には判決が出て、両地域に対するポルトガルの主権が認められます。しかし、一方で軍隊についての通行権は認められなかったため、結局、ポルトガルは両地域を奪還することはできませんでした。
 さらにインドは、非武装の群集で、残るゴアやディウの占領を試みます(1955年)。今度はポルトガルが実力を行使しました。ポルトガル軍の銃撃により22名が死亡し多数の死傷者が出る惨事となります。
 国際的な非難の高まりを無視してサラザール首相はなおも交渉を拒絶します。1960年にインドが提案した、特権維持を認めた妥協案も相手にしませんでした。

 1961年、ついにインドは最終手段をとる決心をします。いわゆるゴア武力解放(ゴア接収)です。
 現地のポルトガル総督府もこのインド側の動きを察知していました。増援部隊を送るよう本国へ要請し、守りを固めようとします。総督は「ショリソを送られたし」という電文を打っていました。ショリソとは、チョリソ・ソーセージのこと。これは、対戦車グレネードを意味する暗号でした。ところが、本国政府が送ってよこしたのは本物のソーセージだったのです。本当は要請に応じて弾薬を空輸しようとしたのですが、周辺国が中継基地の利用を拒絶したため不可能となり、代わりにとぼけて本物のソーセージを送ったという真相だったようです(注1)。かくもポルトガルの政府組織は腐敗していました。物質戦力比は隔絶、人的面でもこれでは、勝敗は戦う前から明らかだったのです。

 12月18日早朝、インドの海軍部隊が動き出します。
 ゴア攻略:フリゲート「ベトワBetwa」「ベアスBeas」、スループ「カヴェリーCauvery」
 ディウ攻略:軽巡洋艦「デリーDelhi」
 アンジェディバ島攻略:軽巡洋艦「マイソールMysore」、フリゲート1隻、「INS Venduruthy」基地の陸兵
 支援機動部隊:空母「ヴィクラントVikrant」、フリゲート3隻、旧式駆逐艦1隻
 これに補給艦1隻と掃海艇4隻も加わった大部隊でした。アンジェディバAngediva島とは、ゴアの南方に浮かぶ小島です。

 対するポルトガル海軍の兵力は、以下のようなものでした。
 ゴア:スループ「アルブケルケ」、哨戒艇「シリウスSirius」
 ディウ:哨戒艇「ベガVega」
 ダマン:哨戒艇「アンタレスAntares」
 最有力艦が「アルブケルケ」。3隻の哨戒艇は20mm機銃1基を持っただけのモーターボートです。航空部隊の支援もありません。

 インド側のゴア攻略艦隊は湾内に侵入してきます。そして、停泊中の「アルブケルケ」の姿を発見しました。
 このとき、ポルトガル海軍によると「アルブケルケ」では作戦会議の途中だったとされます。一方、インド海軍によると、基地攻撃に飛来したインド軍機を迎撃していたといいます。いずれにしても、インド艦隊の出現は奇襲攻撃になったようです。
 3隻のインド艦は、8000ヤード(7.3km)の距離から「アルブケルケ」に対して砲撃を開始します。「アルブケルケ」も緊急出航し、かなわぬながら応戦をします。インド側のうち2隻は英41型「レパードLeopard」級の新鋭フリゲートで、残る「カヴェリー」は、第二次世界大戦型の英「ブラック・スワンBlack Swan」級スループでした。最弱の「カヴェリー」だけでも「アルブケルケ」と互角です。艦齢30年近い老嬢には、いささか手強すぎる相手でした。
 短時間ながら激しい砲撃戦の後、直撃弾多数を浴びた「アルブケルケ」は、自ら擱坐して果てました。戦死者1名、重傷者が艦長ほか10名と、奇跡的に人的損害は小さかったようです。

 他のポルトガル艦も次々と後を追いました。「アルブケルケ」と同じくゴアに在泊の哨戒艇「シリウス」と、ダマンの「アンタレス」は、対空戦闘に従事した後に自沈。
 ディウの「ベガ」も、インド巡洋艦「デリー」との直接対決はあきらめて、インド軍機2機を相手に対空戦闘をしましたが、必死のジグザグ航行でもかわし切れずに撃沈されました。インド側の主張によれば「デリー」はポルトガル船2隻を砲撃して1隻を撃沈、1隻を自沈に追い込んだとありますが、あるいは後者は「ベガ」のことを遠望して誤認したのでしょうか。なお、インド艦「デリー」は、元英軽巡「アキリーズ」で、かつてラプラタ沖海戦において独装甲艦「シュペー」を自沈に追い込んだ古強者でした。
 こうしてポルトガル極東艦隊は全滅したのです。

 陸上でも小規模な戦闘があった後、翌12月19日にポルトガル総督府は降伏しました。ポルトガル軍死者31人、インド軍死者34人(注2)。総督以下3000人が捕虜となりました。
 ポルトガル政府では、潜水艦2隻・駆逐艦1隻・補給艦1隻の救援艦隊派遣も検討されましたが、間に合いませんでした。仮に間に合ったとしても、かえって損害を増すだけだったでしょう。
 1622年にアルブケルケ提督が占領したゴアは、340年ぶりに、護る「アルブケルケ」の手から奪い返されたのです。

 紛争前のまだ平和だった頃、「アルブケルケ」は、警備と同時に練習艦任務にも就いていました。士官候補生を乗せての練習航海の途上、1960年には日本の横浜にも寄港しています。戦後初めて来日したポルトガル軍艦として、話題になったそうです。若者を育てながら過ごす晩年。そのまま静かに生涯を終われたなら、きっと、そのほうが彼女にとっては幸せだったことでしょう。
 沈没した「アルブケルケ」の残骸は、1966年に引き揚げられ解体されました。(エピローグへ

注記
1 ポルトガルの現地部隊が要請した物資は、阿部真隠「波乱万丈のポルトガル史」(泰流選書,1994年)など対空兵器とする日本語資料もあり。また、本物のソーセージが送付された事情について、本国側が暗号を忘れていたからとの説明もあるが、 ∵ごま∴@kurumigi氏の調査によると正確には本文のような事情だったようである(参考ツイート1ツイート2ツイート3)。(2012年12月19日訂正)

2 ポルトガル軍死者17人、インド軍死者20人とする資料もあり。
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