山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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帝国の守護者外伝(前編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(前編)
 ポルトガルがアジアに保有した植民地には、インドやマカオ以外に、東ティモールがありました。
 いえ、正確には、マレーからインドネシアに至る東南アジア一帯がポルトガル領だった時期もありました。しかし、それらの大半は英国とオランダによって奪い取られてしまったのです。オランダとの協定により、かろうじて残されたのが、ティモール島の東半分だけでした。葡領ティモールは、ディリDiliの総督府を中心として、細々と存続していくことになっていたのです。

 ポルトガルに代わってインドネシアの大半を領有したオランダにとって、このオランダ領東インド(蘭印)は、生命線とも言うべき貴重な植民地になります。古くは香料貿易、下って各種プランテーション、そして近代では石油も採掘されています。ナポレオン戦争などで本国が占領されたりすることはあっても、この蘭印だけは回復を図り維持し続けました。
 このため軍事力の配備も、本国はごく軽装備の小兵力だったのに対し、蘭印駐留の植民地軍はかなり有力な装備を持つという、いささか奇妙な態勢になっていました。特に海軍においては、この傾向が顕著でした。
 19世紀後半から20世紀にかけて、そのオランダ海軍の中心となっていた存在は、海防戦艦と呼ばれる種類の軍艦です。「戦艦」とは言いますが、排水量は 2000tから大きくても7000t程度と、軽巡洋艦並の大きさしかありません。軽巡に比べると速力でも航洋性でも劣る代わり、戦艦並の強力な装甲と、数は少ないながらこれも戦艦並の主砲を積んだ防衛専用艦でした。戦艦というよりは、装甲砲艦ないし装甲海防艦と呼んだ方がイメージに合うかと思います。
 北欧諸国などの他の海防戦艦ユーザーは、本国防衛用に使っていましたが、オランダ海軍は、植民地防衛の切り札として海防戦艦を建造していました。

Zevprov_old_anchor.jpg そうして、オランダ海軍最後の海防戦艦となったのが、「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンDe Zeven Provinciën」です。
 要目:満載排水量6510t、速力16kt、
     航続力2100海里/16kt
     兵装28cm×2、15cm×4、75mm×10ほか
 1910年就役の石炭レシプロ艦で、前寄りに2本の煙突が立っています。主砲は、前後に単装砲塔が据えられ、外見としては「三笠」などの前ド級戦艦を、多少シンプルにしたような姿です。
 艦名は、オランダ海軍にとって由緒あるものです。直訳すると「七つの州」になりますが、これは「七州連合」というオランダの美称のことです。日本の場合で言えば、「八島」といったところでしょうか。さらに加えて、オランダが誇る名将デ・ロイテルde Ruyterことミシェル・アドリアンソーンMichiel Adriaenszoon提督の旗艦の名前でもありました。

 残念なことに、この海防戦艦「プロヴィンシェン」は、生まれながらにして旧式艦と言っていい存在でした。完成前の1906年に英国でドレッドノート級戦艦が生まれ、各国もそれに続いてしまっていたためです。もともと通常の戦艦よりは見劣りする海防戦艦ですから、在来型の本格戦艦ですら歯が立たないド級戦艦の前では、問題外の存在となってしまったのです。
 もっとも、軽巡以下の艦艇に対してなら、当たれば強力な主砲が脅威となる希望は残っていましたが。
 そのようなわけで、オランダの海防戦艦は本艦で打ち止めとなり、計画された発展型はキャンセルとなりました。代わって本格的なド級戦艦の建造計画が立ちましたが、これも第一次大戦勃発のあおりで無かったことになります。

 第一次大戦では、オランダは最後まで中立を維持しました。「プロヴィンシェン」は、この間、本国の警備にあてられたようです。
 大戦後は蘭印艦隊に配備され、艦隊旗艦の栄誉を担います。旗艦だったのは1925年までで、同年就役の新鋭軽巡「ヤヴァ(ジャワ)Java」にバトンタッチしています。旗艦の座を譲った後も、「プロヴィンシェン」は蘭印鑑隊に所属します。外に対しては、徐々に海外進出を強める日本を警戒し、内に対しては、こちらも高まりを見せる独立運動に対して睨みを利かせていたものと思います。

 1933年、そんな「プロヴィンシェン」艦上で、大事件が発生してしまいます。水兵たちがストライキを起したのです。主原因は、給与の切り下げでした。財政難に苦しむオランダ政府が、支出削減の一環として、海軍兵士の給与を1割カットすると発表したのに反発したのです。
 これに、現地人水兵のインドネシア独立派も加わっていたようです。
 一説によると、映画「戦艦ポチョムキン」の影響を受けて実行されたとも言われます。

 2月5日、スマトラ島北部沿岸を練習航海中だった「プロヴィンシェン」で、現地人水兵、ついで本国人水兵も加わってストライキが始まります。水兵たちは、士官たちを拘束して艦内を掌握してしまいました。
 しかし、オランダ政府は、交渉に応じるはずもありませんでした。政府は、このストライキを、共産主義者と独立派による政治目的の反乱事件と警戒したようです。
 交渉に応じない政府に対し、水兵たちは、示威行動を行って要求を通そうと決意しました。拘束を逃れた一部士官たちの妨害工作を受けながら、「プロヴィンシェン」は、植民地政庁のあるジャワ島へ向かって進撃を始めます。

de zeven provincienbomb1933 政府も、強硬姿勢を崩しません。ついには、2月10日、政府軍のフォッカーT.IV双発水上雷撃機が、爆弾を抱えて飛び立ちます。「プロヴィンシェン」上空に到達したフォッカー機は爆弾を投下。爆弾は甲板を直撃し、23名が死亡、多数が負傷する大惨事となってしまいました。
 直ちに政府軍部隊が同艦に乗り移ると、反乱水兵たちを制圧し、士官を救出しました。オランダ版「ポチョムキン」の反乱は、こうしてあえなく終了したのです。
 いきなり爆撃とは、なかなか荒っぽいやり方です。一説によれば、威嚇爆撃のつもりが、狙いがそれて直撃弾になってしまったとも言います。もしそうであったとしたら、いろいろな意味でひどい話です。

 損傷した「プロヴィンシェン」は、すぐに修理されました。ただ、同年中に、練習艦へと類別変更となり、第一線を退いています。

 オランダ水兵たちは知らなかったかもしれませんが、実際の「ポチョムキン」の反乱は、映画とは違って悲惨な末路を辿っています。艦隊の賛同を得られなかった「ポチョムキン」乗員は、投降を余儀なくされ、処刑やシベリア送りとなったのです。
 具体的な記述は見つけられなかったのですが、オランダの反乱水兵たちも、過酷な運命を辿ることになったものと思われます。
 鎮圧した側の蘭印政府・オランダ海軍にも、太平洋戦争という厳しい未来が待っていました。「プロヴィンシェン」も例外ではありませんでした。(中編へ続く
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