山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --:-- | Top  このエントリーをはてなブックマークに追加

帝国の守護者外伝(中編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(中編)
 1939年5月、第二次世界大戦が勃発します。オランダは今回も中立を宣言していました。ところが、翌1940年5月にドイツ軍がオランダへ侵攻。オランダ本国は、わずか5日間の戦闘で降伏に追い込まれてしまいました。
 幸いヨーロッパの主戦場から離れた蘭印植民地政府は、本国とは異なり、その後も抵抗を続けることができました。そして1941年12月8日、日本の参戦を迎えることになります。

 太平洋の戦いは、真珠湾・マレー沖海戦と相次ぐ連合軍の大敗で始まりました。
 それでも、東南アジア地域の連合国軍、オランダ・英連邦・米国は、合同部隊を編成して迎撃を試みます。海軍部隊も連合艦隊を編成することになり、司令官にはオランダ海軍のカレル・ドールマンKarel Willem Frederik Marie Doorman少将が就任。ドールマン少将の旗艦は、オランダの新鋭軽巡「デ・ロイテルde Ruyter」でした。

 砲術練習艦に格下げとなっていた「プロヴィンシェン」も、老骨に鞭打って参陣することになります。5年前の1936年に「プロヴィンシェン」は、「スラバヤSoerabaja」と名前を変えていました(以下「スラバヤ」と呼称)。名前を、建造中の新型軽巡に譲るためだったのですが、名前を継ぐはずだった艦は、建造中にドイツ軍に捕獲されてしまい、大戦後の完成となっています。
 変わったのは名前だけでなく、練習艦として改装もされていました(改装後の写真)。画像の通り、舷側前寄りの方の15cm砲と、75mm砲の大半が撤去されています。煙突も2本から1本に変わっており、おそらく機関の半数が撤去されたものと思われます。後部マストまでも撤去され、シンプル過ぎていくらか間の抜けた艦影になっています。代わりに40mmなどの対空機銃は追加されたようです。なお、1941年までには15cm砲と75mm砲は全て撤去されていたのではないかとの話もあります。

 さて、連合軍が迎撃作戦をする上で問題となったのが、中立地帯であるポルトガル領東ティモールの扱いでした。
timor_map.png
 ティモール島は小さな面積ではありましたが、東南アジアとオーストラリアの中間という、戦略的に重要な位置を占めている島です。オーストラリアは、ここを拠点に本土へ侵攻されるのではないかと懸念していました。また西ティモールのオランダ軍も、中立地帯経由で奇襲上陸されるのではないかと警戒していました。

 ポルトガルは中立国です。しかし、日本軍を前にしては、中立を維持する実力は無いと見られていました。
 実際のところ、東ティモールに駐留していたポルトガル軍の兵力は、軽歩兵1個中隊300人と国境警備騎馬隊70人程度でしかありません。1938年までは哨戒艇「ディリDili」が存在していましたが、それも退役した今、一隻の軍艦もありません。小さな飛行場はあるものの軍用機もゼロです。

 お題目だけの中立はいかに無力か、オランダは身をもって知ったばかりでした。また、日本軍が中立国を平気で侵犯することも、タイ王国のケースで明らかになっていました。
 日本参戦から10日も過ぎない12月17日、連合軍は行動に移ります。東ティモールの保障占領を決めたのです。
 実行部隊として白羽の矢が立ったのが、老兵「スラバヤ」でした。「スラバヤ」は、陸軍兵を乗せた蘭印総督府直轄の巡視船「カノープスCanopus」を護衛して、葡領ティモールの首都ディリへと向かいます。自らも陸軍兵を乗せています。陸軍部隊の兵力は合計で600人程度。蘭豪混成だったようです。
 ディリに到着した小艦隊は、直ちに部隊を上陸させました。幸い、ポルトガル軍が抵抗することは無く、飛行場などの重要施設はすぐに接収されました。滞在していた日本の領事館員と「民間人」31名が拘束されています。
 ポルトガル総督は中立侵犯だと抗議しましたが、陸路からも連合軍部隊が侵入してくると、占領を黙認せざるを得ませんでした。東ティモールに展開した連合軍の総兵力は、ブレンガン・キャリアー装甲車2両を含む1300人ほどだったようです。
 無事任務を終えた「スラバヤ」は、意気揚々とスラバヤ軍港へ引き上げました。

 東ティモール占領を知ったサラザールは、連合軍に対し、猛抗議を行います。そして、交渉の結果、中立維持できるだけのポルトガル軍を配備することを条件に、連合軍は撤収するという約束に成功します。
 条件を満たすため、モザンビーク植民地軍から派遣準備が進められ、800人の増援部隊が用意されました。増援部隊は輸送船「ジョアン・ベロJoão Belo」(6365総t)に乗り込み、極東艦隊所属のスループ「ゴンザルベス・ザルコGonçalves Zarco」の護衛の下、1942年1月26日にロレンソ・マルケスを出発しています。(後編へ続く

追記
「カノープス」要目:排水量773t、兵装37mm×2
 オランダ海軍所属ではなく、植民地総督府の直轄。総督府は、このほかにも20隻以上の哨戒艦艇を保有。中には2000tを越えて水上機を積める物もあったが、日本軍との戦いにより、ほぼ全滅。一部は日本軍により鹵獲使用。

「ゴンザルベス・ザルコ」要目:排水量1174t、速力16.5kt、兵装120mm×3、40mm×2
 「ゴンザロ・ヴェーリョGonçalo Velho」級2番艦。正式分類は、二等通報艦である。

 「スラバヤ」の画像を取り違えていたことに気付き、撤去。正しくは「コーニギン・レゲンテス」級のものだったようです。要目は「Royal Netherlands Navy Warships of World War II」と「WARSHIPS LINE of All the World's Fighting Ships 1855-2005 by Dimitry G. Malkov」に拠り修正。(2010年6月19日)
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/tb.php/203-95ddc65d
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
参加企画
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ
にほんブログ村 その他趣味ブログ ミリタリーへ
リンク
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール(不要ならそのまま):
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。