山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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帝国の守護者外伝(後編)

外伝.「デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン」の場合(後編)
 さて、日本側では、東ティモールをどのように見ていたのでしょうか。
 日本海軍は、早くから東ティモールに注目していました。南方侵攻に当たっての軍事利用に加えて、石油資源の存在が予想されたことも海軍の興味を引きました。そのため、戦前から、海軍系の国策企業が進出を進めていました。飛行艇による航空便も企画され、「綾波」号などによる飛行が実施されています。
  ayanami.png大日本航空「綾波」(海軍97式飛行艇民間型)
  (画像元:アイコン&お絵描き工房
 現地に駐在した社員には、海軍の特務機関「鳳機関」の工作員が混じっていました。
 なお、オーストラリアも、対抗するような形で航空便を就航させています。

 しかし、太平洋戦争開戦が決まったとき、東ティモールをどうするかは、なかなか決定できませんでした。
 海軍としては、前述の流れのまま、占領を進める方針だったようです。
 これに対し陸軍上層部は、ドイツとの関係で、親枢軸的なポルトガルを刺激することは避けたいと考えていました。
 同じ陸軍でも、現地司令部の南方軍では、行動秘匿などの作戦行動上の便宜から、海軍に同調していたようです。ただし、その下の第16軍には兵力分散につながるとして嫌う意見もあったようで、現地部隊でも一枚岩ではありません。
 結局、開戦までに意見の一致を見ることはできませんでした。

 開戦後、連合軍による保障占領が明らかになると、再び激論が交わされます。
 陸軍上層部は最後まで躊躇しましたが、2月7日、「自衛の為」に東ティモールへの侵攻を命ずる、大本営命令が下ります。作戦秘匿のため、ポルトガル政府への事前警告は行わないものとされました。
 もっとも、この侵攻決定後も、長期的な占領をするか否かは未定のままでした。

 議論の間も、東南アジアでは激戦が続いていました。
 太平洋戦争最初の大きな水上戦となった1月24日のバリクパパン海戦では、アメリカ駆逐艦部隊がオランダ潜水艦と共同で日本軍の船団を襲撃し、輸送船4 隻、護衛の哨戒艇(旧式駆逐艦)2隻を撃沈破する大戦果を挙げました。実は、このアメリカ艦隊は、ティモール島クーパンから出撃したものです。
 ただ、戦力的に劣る連合軍は、じりじりと圧されていきました。練習艦「スラバヤ」(元海防戦艦「プロヴィンシェン」)も、とても積極的な行動をとることはできず、スラバヤ軍港に係留されたまま、防空砲台として戦うのみでした。

 そして、2月17日、ついにティモール島攻略作戦が開始されるのです。
 支援艦隊(重巡「那智」「羽黒」、軽巡「神通」、水上機母艦「瑞穂」、駆逐艦10隻)に守られて、輸送船5隻が出港します。乗り組むのは、歩兵第228 連隊を基幹とした「東方支隊」約5000人で、第38歩兵団装甲車隊も含まれていました。別に、海軍の空挺部隊、いわゆる「空の神兵」も投入されています。
 南雲機動部隊が、オーストラリア北部のダーウィンを空襲(2月19日)して、間接支援を行います。
 連合軍艦隊は、妨害に出動してきませんでした。同時に行われたバリ島攻略への対処で手一杯だったのです。

 2月20日、上陸開始。主力部隊は蘭領の西ティモールへ上陸、一部が東ティモールへと上陸しました。横須賀第3特別陸戦隊の空挺部隊も、飛行場占領を狙って、西ティモールへ降下します。
 対する連合軍は、西ティモールに、豪軍を中心に2000人程度が展開していました。戦車・装甲車若干のほか、自動車100両以上を持っていたようです。東ティモールの兵力は、既述の通り1300人ほどです。(米陸軍を含む増援部隊投入も計画されていましたが、これは空襲で妨害され、失敗に終わっています)
 連合軍は、ほとんど抵抗せずに後退しました。即日、クーパンとディリの中心都市は占領されています。唯一、日本海軍の空挺部隊だけは、機械化部隊に蹂躙されて大損害を出しています。

 その後、後退する西ティモールの連合軍と、退路を遮断する日本軍分遣隊との間で激しい戦闘となりました。日本軍は阻止線を突破されますが、急行した軽装甲車隊が活躍して、連合軍は追い詰められます。
 2月23日、連合軍主力1000名が投降して、主要戦闘は終わりました。日本軍の損害は死傷150人ほど。連合軍の損害は死傷270人ほどと捕虜約1200人でした。
 東ティモールを中心に、投降しなかった約1000人はゲリラ化して抵抗を続けました。それに対する掃討戦は4月中旬まで続き、一応の平定を見ます。

 砲術練習艦「スラバヤ」にも最期の時が迫っていました。すでに、ティモール攻略に先立った2月18日の空襲により、爆弾を受けて損傷しています。3月1日に日本軍がジャワ島へ上陸すると、その翌日、行動不能の「スラバヤ」は、港を封鎖するために自沈して果てました。
 連合軍艦隊主力は、これより先に、スラバヤ沖・バダビア沖海戦で壊滅しています。ドールマン少将も、旗艦「デ・ロイテル」とともに、海に消えました。「スラバヤ」と一緒に東ティモール保障占領に従事した「カノープス」も、インド洋への脱出途上で3月5日に撃沈されました。
Soerabaja_oct46_sunk.jpg 進駐した日本軍は、自沈した「スラバヤ」を引揚げ、浮砲台として利用したようです。しかし、太平洋戦争末期に、再び閉塞船として自沈させられ、その生涯を完全に終えています。マストなど一部だけが水面に突き出した、無残な姿が写真に残っています。

 なおポルトガル軍は、基本的に傍観するのみでした。オエクシの分遣隊だけが、日本軍と交戦したようです。
 東ティモールは、終戦まで日本軍の占領下にありました。ポルトガル政府の用意したモザンビークからの増援部隊は、英領コロンボを経由してインドの葡領ゴアまで到達していましたが、日本軍に展開拒否されています。既存の駐留軍は、わずかな自衛装備を残して武装解除されました。
 その後、現地での反ポルトガル闘争が活発化。鎮圧に向かった駐留軍(連合軍残党も参加)が返り討ちに遭うに至り、日本軍は「保護」名目でポルトガル人を事実上強制収容したようです。この反ポルトガル闘争の背後には、日本の特務機関の扇動があったと言われます。
 一部のポルトガル人は、連合軍兵士の残党とともにゲリラ戦に身を投じました。(1943年1月、連合軍残党と共に豪州へ脱出)

 ポルトガルは一応中立を守りましたが、1943年8月には、大西洋のアゾレス諸島を連合軍に提供しています。この裏では、戦後の東ティモール回復に関する密約があったようです。日本政府は、中立違反としてポルトガルを非難しましたが、サラザール首相に「それならば東ティモール占領についても問題とせざるをえないが良いか?」と切り返されてしまっています。ある日本の外交官は、サラザールの手腕に感心したと書き残しています。
 第二次世界大戦後の1945年9月27日、モザンビークから今度もスループ「ザルコ」に護衛された兵員輸送船「アンゴラAngola」が到着し、ポルトガルの支配は復活しました。このとき、スループ「バーソロミュー・ディアス」「アフォンソ・ド・アルブケルケ」も支援にやってきたようです。ポルトガル海軍にとっては「大艦隊」です。
 かくて東ティモール人の悪夢は、まだ長く続くことになります。

追記
 この「プロヴィンシェン」を主役とした仮想戦記という、実にマニアックなものが存在しています。伊吹秀明「帝国戦記」(学研社,2000年)に収録の『南海のゼーゴイセン』がそれです。
 「帝国大海戦」というシリーズの外伝短編集だそうです。史実同様の南方作戦の中で、「プロヴィンシェン」が、独装甲艦ばりの活躍を見せます。
 まあ、史実では本稿の通り練習艦になっていますし、現役だったとしても、石炭焚の低速艦がどこまで戦力になったか疑問ですが。いくら主砲は28cmでも 2門だけでは夾叉しても命中するのかとか、装甲は厚くとも水中防御は無きに等しいのではないかとか……。史実のノルウェーの海防戦艦「ノルゲNorge」「エイズボルドEidsVold」は、ナルヴィクでドイツ駆逐艦にあっさり捻られてますしね。
 ただ、どうもやられ役感が拭えないオランダ艦隊が、活躍する話と言うのは珍しくていいか、としておきましょう。
 ちなみに、タイトルの「ゼー・ゴイセンZee Geusen」というのは、オランダ私掠船艦隊の異名で、「海乞食」の意です。

 東ティモール独立の際に、豪軍と自衛隊が平和維持部隊として派遣されたのは、記憶に新しいところですが、両軍が戦った過去を考えると、なかなか感慨深いものがあります。オーストラリアの素早い部隊派遣の様を見ると、ティモールに対する最前線意識の強さが感じられる気がします。
 最近、東ティモールはまた荒れているようですが、残念なことです。

 ティモール占領に関する日本側の新聞記事を発見したので、引用しておきます。
『チモール島ポルトガル領は昭和十六年十二月以来英蘭濠軍が自衛に名を藉り不法占拠しており、(中略)わが軍は自衛上その地域に作戦せざるを得なかった。しかしながら帝国は、きわめて公明正大なる措置をとり、ポルトガル側が中立的態度を保障するかぎり領土保全を保障し、自衛上の目的達成のうえは同島より撤退する旨を明らかにし、ポルトガル側も十分これを了解した。』(大阪朝日新聞,1942年3月13日)

参考文献(本編と同じものに加え)
田中敦夫「チモール 知られざる虐殺の島」(彩流社,1999年)
The Netherlands East Indies 1941-1942」(英語)
  オランダ側から見た、蘭印攻略作戦の軍事面の全容。日本人執筆者も参加。
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