山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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リーフ共和国興亡(第12回)

8.崩壊
 首都アジールを失った後、冬が訪れたことが、かろうじてアブデルクリムとリーフ共和国の延命を許しました。西仏連合軍の進撃が止まった冬期の間に、アブデルクリムは、タマシントTamasintへの遷都を宣言します。そして、リーフ山脈の内部へ、2万人ほどの残存部隊を集結させることにも成功します。
 しかし、この間に、西仏連合軍も兵力の増強を進めていました。その兵力は、実にフランス軍32万5千人、スペイン軍20万人以上に及びました。量の差に加え、質においても、補給を失ったリーフ軍とはかけ離れていました。

 アブデルクリムは、西仏両国のリベラル層(追記参照)に最後の望みを託していたようです。おそらく、実効支配を印象付けながら交渉することで、独立ないし、なんらかの自治権獲得を目指していました。
 翌1926年2月には、かなりの戦力を投じてのテトゥアンへの攻撃を行いますが、これも、共和国の健在振りをアピールする狙いがあったものと思います。
 が、この最後の賭けも成功しませんでした。テトゥアンへの攻勢は撃退されます。3月にもう一度行われた攻勢も、スペイン軍のアストレイ将軍(開戦時には少佐だった外人部隊司令官)を再度負傷させたものの、決定的な勝利には至らず、かえって戦力を消耗してしまいました。
 交渉も拒絶され、すべての望みは消えました。

 4月、フランス軍3個師団を中心とした部隊が、リーフ山脈西部シャウエン(クサウエン)方面への総攻撃を開始しました。他のフランス軍部隊、スペイン軍も後に続き、リーフ山脈を包囲しながら侵攻していきます。
 リーフ軍主力は、かつての首都アジール南東の山地に立てこもり、最後の絶望的抵抗を試みました。敵軍に1000人以上の損害を与えましたが、抵抗拠点は次々と制圧されていきます。アブデルクリムの篭る洞窟の司令部も、空襲を受けました。
 5月22日には、スペイン軍部隊が、かつて大敗を蒙ったアンワールをも完全に制圧しています。
 こうして、5月下旬には、アブデルクリムは完全に包囲されてしまったのでした。

Ma_republicarif-foto.png 5月26日、アブデルクリムは、投降を決断します。それまでにリーフ軍が拘束していた捕虜300人あまりが、解放されました。但し、捕虜のうちスペイン軍士官は、民間人への空襲の報復としてそれ以前に処刑されていたようです。
 翌5月27日、アブデルクリム大統領らは、フランス軍の外人部隊へと投降しました。スペイン軍でなくフランス軍を選んだのは、処刑されるのを避けるためではないかと思います。指揮官に続いて続々とリーフ軍兵士が投降し、フランス軍によると捕虜1万2千人に及んだといいます。右の写真は、スペイン軍のレグラーレス部隊の士官たちが5月28日に記念撮影したもので、鹵獲されたリーフ軍の軍旗が写っています。
 かくて、リーフ共和国は、建国宣言から足掛け4年にして滅亡を迎えたのです。

 その後も、掃討戦と残党の抵抗が続きました。スペイン政府が、モロッコ平定を宣言したのは、およそ1年後の1927年7月になってからのことでした。(エピローグへ

追記
 どの程度リーフ側と連絡を取っての行動かは不明ですが、スペイン・フランス両国の左派政党が中心になって、反戦運動が発生しています。1925年の10月12日には、フランス共産党の指導下で、大規模な反戦ストライキも実施されました。
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