山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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回転翼の海鳥たち(第11回)

11.船舶飛行第二中隊
 ところが、1943年8月に計画を聞かされた海軍は、陸軍の計画に猛反対したようです。2D型戦標船では小さすぎるというのが主な理由でした。かつてのC.19の経験から、オートジャイロに対する不安もあったのでしょう。
 紆余曲折(追記参照)の末、既存の「あきつ丸」の改装が決まりました。海軍の協力の下、飛行甲板の拡幅など、より本格的な航空艤装が施されます。「カ号」なら30機弱の搭載が可能になったようです。同じく丙型特殊船の「熊野丸」も、護送空母に性格が変更されています。
2TL_2D_senpyosen.png さらに、2TL型戦標船「山汐丸」など2隻が、陸軍あて「特2TL型」として設計変更されます。これは、通常のタンカーに飛行甲板などを追加して、護衛と輸送を同時に行おうと言う、ちょっと欲張りなアイディアです。英国もMAC船の名で同じことをしています。(ちなみに海軍も、より高速の1TL型戦標船を素体に、特1TL型2隻「しまね丸」などを建造することにします)
(画像上から、特2TL型、原型の2TL型、2D型、参考として正規空母「雲龍」)

 1944年、艦載機部隊として「カ号」を装備した船舶飛行第2中隊が編制されました。日本初の実戦回転翼機部隊の誕生です。
 なぜ第1中隊でないかというと、三式指揮連絡機を装備した艦載機部隊の独立飛行第1中隊との混同を避けたためと思われます。
ki76.png 当初計画より本格的な空母となったため、「キ-76」三式指揮連絡機も、陸軍艦載機候補になっていました。「カ号」に敗れて不採用となった「テ号」と同じくFi156と類似した機体です。ただこちらは、「キ」番号を持つ通り、航空兵の装備として開発されたものです。

 量産型「カ号」の生産遅延などから、部隊編成は難航したようです。
 パイロットの多くは砲兵出身で、飛行学校などを経由した後、量産型が揃い始めた1944年6月頃から、本格的な訓練を受けたそうです。整備員は、船舶工兵からの転属者が多く含まれていました。
 1945年1月に編制完結したとき、総人員270名ほどの小さな部隊でした。

 しかし、ようやく誕生した船舶飛行2中隊には、乗るべき空母が存在しませんでした。
 陸軍空母の主力機の座は、三式連絡機に奪われていたのです。本格的な空母なら高性能な固定翼機が使える、といういつものパターンです。不採用となった「テ号」の仇を、Fi156兄弟機に討たれたと言えそうです。使用可能な唯一の母艦「あきつ丸」は、三式連絡機で若干の哨戒任務を実施しています。
 その後「あきつ丸」は、ただの輸送船として「ヒ81」船団に参加することになり、1944年11月に撃沈されてしまっていました。このとき積んでいた輸送物資の中に、実は若干の「カ号」もありました。但し、艦載機としてではなくフィリピンの砲兵部隊用のようです。
 そのうえレイテ島も陥落した状況で、南方航路自体も閉鎖寸前。護衛空母を加入させた大規模な船団が行動する余地は失われていました。わずかだけ竣工した特TL型も、係留されたままとなります。

 母艦をなくした船舶飛行2中隊は、一時は台湾に向かう予定だったようですが、最終的に「不沈空母」壱岐に展開して、朝鮮海峡の防衛に従事することになります。
 大陸方面からの食糧などの資源輸送が、最後の重要航路となったためです。まさに、かつて言われた「生命線」というべき存在でした。
 1945年1月下旬から、およそ20機が、壱岐の筒城浜飛行場に展開して、哨戒と船団直衛を行いました。整備途上で名前の通り砂地そのままの基地でしたが、回転翼機の特性により、そうした場所でもある程度作戦可能だったようです。ただ、さすがに砂地に脚をとられての着地事故もおきてはいます。
 5月からは、対馬も「不沈空母」として活用することになり、厳原飛行場に一部が分遣されました。
 元パイロットの方によると、船団護衛時には60kgの爆雷1発を搭載して、船団の上空200mを周回したそうです。索敵手段は目視のみで、潜水艦を発見した場合、高度60mまで降下してから水平に引き起こし、爆雷投下するとのこと。敵出現の無いまま帰投する時は、威嚇のため船団前方に投下したそうです。
 エンジントラブルに苦しんだとのことで、部隊長の本橋大尉も墜落負傷しています。整備員の方の回想では、前述の着陸事故もあわせ10機前後が失われたとあります。

 朝鮮海峡方面で半年ほどの任務に就いた部隊でしたが、米英空母艦載機を始めとした戦闘機の出現増加で行動困難となり、6月から7月ころ能登半島方面への転進が命じられます。最後は、石川県の七尾基地で終戦を迎えたようです。潜水艦撃沈といった派手な戦果は、確認されていません。
 こうして、日本における回転翼艦載機の、いささか異様な出自の最初の試みは終り、次の試みまでしばし空白期間を置くことになります。(第12回へ続く

追記
 海軍としては、南方航路向けの護衛任務には、護衛空母よりも陸上機による方が適切と考えていました。乏しい建造能力の中で、護衛空母を持つ余裕は無いという頭もあったのでしょう。(この点、戦後の米海軍の評にも、日本の南方船団には護衛空母は不要だったと同旨のようです)
 対する陸軍の熱心さは、洋上航法の不安もあったのではないかと思います。
 陸軍側の計画への反対には、相談をせずに計画を進めていた陸軍への不信感や、縄張り意識もあったようです。一般船舶枠「あきつ丸」級改良型の建造には、もはや軍艦であり越権行為だと述べています。
 それでも、機動部隊用の空母不足がいよいよ深刻化したため、脆弱すぎるとしてきた特設空母に目を向けざるをえなかったようです。陸軍にやらせてみて、うまくいくなら海軍用にも採用しようと考えたといいます。(もっとも、軍令部が、陸軍が作るなら海軍にもと言ったためか、特TLの採用は同時の1944年8 月頃となりました)
 海軍側は「戦局好転の暁には」機動部隊用への転用を考えていたため、固定翼機運用と、高速の1TL型ベース(後にはさらに高速の4TL型)にこだわったものと思われます。当初2隻建造のはずが、レイテ沖海戦を経た3ヵ月後の11月には一躍15隻へ増加要求したのも、機動部隊空母の壊滅と関連しているのでしょう。
 海軍仕様では93式中間練習機(いわゆる「赤トンボ」)を主力機材に予定。機動部隊転用時には、艦上戦闘機「烈風」なども積む予定だったようですが、運用には補助ロケット装着が必要だったと言われます。
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