山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第1章・前編)

1.軽騎兵の突撃

 半リーグ 半リーグ 半リーグ前進
 死の谷へ入るは 総員600騎
      ―アルフレッド・テニスン「軽騎兵旅団の突撃」―

 1939年(昭和14年)5月、満州西部の満州国=モンゴル国境地帯で、国境紛争が勃発しました。いわゆるノモンハン事件です。国境警備兵の小競り合いから始まった戦闘は、9月の停戦まで5カ月にも渡る複数師団規模の激突へと発展します。
 ノモンハン事件は、日本陸軍の初めて経験した近代戦だとよく言われますが、戦車戦としては世界的に見ても当時史上最大の規模でした。日本側が戦闘に加入させた装甲車両は100両以上、ソ連側は実に約1000両にも及びました。カンブレーの戦いやスペイン内戦の例を上回る数です。
 ノモンハン事件は、5月の第一次事件と、6月末からの第二次事件に分けられます。その第一次事件から、すでに双方が装甲車両を戦場に送りだしていました。平坦な地形は車両の機動に適し、また広大な原野で小兵力での効率的な戦闘をするには機動力が必要だったためと思われます。

 当時のソ連軍は、満州西部国境と接するモンゴルに、第57特別軍団を駐留させていました。隷下に自動車化歩兵師団1個、戦車旅団1個、装甲車旅団3個、騎兵旅団1個を持ち、非常に機械化率の高い特異な編制の部隊です。
 1939年3月、第57特別軍団は第11戦車旅団の機関銃狙撃兵大隊(長:ブイコフ上級中尉)を基幹とするブイコフ支隊をノモンハン方面へ進出させます(*1)。その後に、火炎放射機能を有する化学戦車小隊なども増援として送られ、モンゴル軍からは第6騎兵師団(*2)が出動しています。5月27日時点でのソ蒙軍前線兵力は約2300名(半数強はモンゴル兵)、AFVはT-37水陸両用戦車8両・T-26系の化学戦車5両・BA-6中装甲車などの装輪装甲車39両、ほかトラック型の自走砲SU-12が4両などとなっていました。さらに予備兵力として第36自動車化狙撃師団の第149狙撃連隊(長:レーミゾフ少佐)と砲兵1個大隊がタムスクに控えており、戦闘開始後に増援として前線にやってきます(*3)。ソ蒙軍指揮官はイヴェンコフ大佐。

 対する日本側は、ハイラルに要塞部隊の第8国境守備隊を置いたほか、新編の第23師団を満州西部の駐留部隊としていました。これらを統括する第6軍の創設が計画されていましたが、第一次ノモンハン事件の時点では未編成です。
 満州国軍とモンゴル軍のしばしの小競り合いの後の5月13日、第23師団が最初に本格的に出撃させたのが、第23師団捜索隊(長:東八百蔵中佐)を基幹とする東支隊でした。
 師団捜索隊とは半機械化の偵察部隊で、本部と第1中隊=乗馬中隊(乗馬小隊3個)と第2中隊=重装甲車中隊(重装甲車小隊・乗車小隊)から成っており、師団騎兵機械化の先駆けとして当時の新設師団特有の編制です。人員定数は300名余ですが、出動兵力は220名と言われます(*4)。当時の第23師団捜索隊は乗馬小隊1個を他所に分遣中でした。重装甲車中隊には92式重装甲車5両が配備されていましたが、故障のため1両しか動けませんでした(*5)。
 さて、東捜索隊は勇んで出撃したのですが、ハルハ川東岸にいたモンゴル軍騎兵部隊は「戦車1両と装甲車7両」(モンゴル軍記録)を伴う強力な日本軍の接近に気付いてすぐに退却に移り、地上戦闘は無いというあっけない結果に終わります。92式重装甲車はハルハ河畔にまで達して対岸に威嚇射撃を行い、味方の歩兵を「すわ敵戦車か」と驚かせただけでした。

 ところが、一旦は撤退したソ連側は、今度はモンゴル騎兵だけでなくブイコフ率いるソ連軍も加えた兵力で、ハルハ川東岸に進出してきます。彼我がお互いに戦力を上積みしていく、危険なゲームです。
 5月27日、日本の第23師団は、今度は歩兵第64連隊(長:山県武光大佐)の1個大隊を基幹とする山県支隊約2100名(うち満州国兵450名)を繰り出します。これには、ささやかな機甲戦力として第23師団捜索隊も組み込まれていました。このときも92式重装甲車は整備が終わっておらず、当初の兵力は1両だけでした。やむなく、故障車両から主砲の92式13mm機関砲を降ろして、2門を持ちだしています。これらは大砲を全く持たない東捜索隊の主力火器として活躍することになります。
 なお、東捜索隊の乗車小隊はもちろん、本来は徒歩の山県連隊の歩兵もトラックが臨時配属されており、満軍部隊は騎兵であるのとあわせて、日本側も全般に機動力の高い編制になっていました。(つづく

注記
*1 機関銃狙撃兵という変わった名称ですが、実質は普通の歩兵と大差ないように思えます。AVS-36シモノフ自動小銃をある程度装備しており、その辺が一般の狙撃兵大隊と異なる特色なんでしょうか。詳しい方があればお教えください。

*2 騎兵連隊2個・装甲車大隊・砲兵大隊を基幹とし、定数は約1600名。

*3 日本側は、このタムスク付近の予備兵力に気付いていませんでした。強引な包囲作戦がとられた背景には、この過小評価があったように思われます。
 なお、ソ連側は、タムスクでは予備兵力の配置が遠すぎたと後に評価しています。

*4 戦史叢書などに引用の歩兵第64連隊の記録による。ただし、「出動部隊の将校職員表並人馬一覧表提出の件」(JACAR:C01003474100)によれば、208名とも。

*5 92式重装甲車は騎兵用の軽戦車で、最高時速40kmなどカタログスペックは割合に優秀でしたが、工業製品として未熟だったようです。故障が頻発したと言われます。
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