山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第1章・中編)

1.軽騎兵の突撃(承前)
 5月23日~26日にブイコフ支隊主力とモンゴル第6騎兵師団がハルハ川を渡河して展開したのと同じころ、山県支隊もノモンハン北方のカンジュル廟へ到着しました。東捜索隊は少し南のアムクロへ集結しましたが、この際、移動速度の遅い乗馬中隊は半日遅れの到着だったようです。日本側の作戦では、28日朝からの攻撃でソ蒙軍を包囲殲滅することになり、東捜索隊には機動力を生かして渡河地点「川又」を占領し退路を断つ任務が与えられました。主力はアムクロから、低速の乗馬中隊は先行して将軍廟からの出撃とされます。(下図参照。NATO兵科記号準拠。)

nomonhan_map5.png 5月28日0300時に移動を始めた東捜索隊主力は、途中で乗馬中隊と合流し、さしたる抵抗を受けることなく0600時前には渡河地点「川又」から1.7km東方にある比高数mの砂丘に展開を終えます。捜索隊の戦闘業務詳報の図によると、「がけ」を背に西向きに半径100m程度の半円形の陣を敷いたようです。車両は陣地左翼(南側)に集められました。守備配置に就いたのは人員150名以下で、重装甲車1両のほか、機関砲2門、重・軽機関銃3丁、擲弾筒2門という小兵力でした。一部を野営地点に残したうえ、軽機関銃4丁と擲弾筒2門を乗せたトラックが故障脱落したためです。
 ソ連側の布陣は中央にモンゴル軍第6騎兵師団、両翼に歩兵1個中隊を配置していました。0340頃に装甲車を含む日本軍部隊の侵入に気付きますが、態勢が整わないうちに、東捜索隊に左翼をすり抜けられたようです。0530時頃から東捜索隊と交戦し始めますが、はじめのうちは装甲車数両だけでやってきては、日本軍に撃退されています。おそらく東捜索隊の出現を知らないで通りがかっただけの者もあったのでしょう。0700時頃には「フォード豆戦車」の鹵獲記録があり、これは橋を渡ろうとしたブイコフ上級中尉のFAI装甲車だったと思われます。ブイコフ車は東捜索隊の追撃から逃れようとして沼にはまり、ブイコフ以下の乗員は辛くも車外脱出に成功しています。
 日本側の攻撃で、ソ蒙軍は川又付近に圧迫されていました。モンゴル騎兵師団は約半数が潰走に陥っています。見た目には日本側の包囲作戦が成功しつつあったわけですが、戦線が広過ぎたうえに通信機の不備で各部隊は連絡がうまくとれず、バラバラに戦っていたのが実態でした。扇廣が「分進分撃」と評しているのは言いえて妙です(*1)。まあ、ソ連側の混乱もひどかったようですが。

 東捜索隊の装備の中で、重装甲車搭載用の13mm機関砲は、ソ連側AFVの装甲の薄さもあってかなり有効だったようです。日本側の記録によると、少なくとも5両の戦車を撃破したといいます。ソ連側も13.2mmの大口径機関銃はBA-6中装甲車(最大装甲厚8mm)などに有効だったと認めています。ただ、砂塵付着による動作不良に苦しんだようです。
 東捜索隊が少数持ってきた92式重装甲車も、それなりに活躍していたようです。前述のブイコフ上級中尉のFAI装甲車も、日本軍の装甲車2両(*2)に追いかけられたといいます。「ノモンハン実戦記」などによると、第2中隊長自らが乗った92式重装甲車は、敵装甲車を体当たりで撃破したこともあると言いますが本当でしょうか。装甲わずか6mmの重装甲車でぶつかって大丈夫だったのか、事実なら少々心配なところです。あるいは逃げようとしたブイコフ車が沼に落ちたのを、体当たりの戦果と誤認ないし誇張したのかもしれません(*3)。

 28日午後に入ると、次第に東捜索隊は圧倒されはじめます。ソ連軍は西岸にいた第9装甲車旅団の1個中隊及びSU-12自走砲中隊、歩兵・工兵各1個中隊を渡河させて攻撃を行っていましたが、午後には再編成されたモンゴル騎兵も加わってきます。夕刻には第149狙撃連隊も少しずつ駆けつけてきました。
 東中佐は山県支隊主力へ救援を求める伝令を放ちますが、満足な救援部隊は得られませんでした。それどころか、歩兵第64連隊の尖兵中隊は、捜索隊と同じく退路遮断任務で西隣に展開していたのですが、2130時には「任務ヲ終リ」支隊命令に基づいて北上し、支隊主力と合流してしまったのでした(*4)。支隊主力は川又進出という方針を変更しており、捜索隊から東方2kmほどの733高地付近に停滞していました。1個小隊だけが独断で捜索隊の救援にやってきましたが、焼け石に水です。
 日没後の2230時には車両置場にソ連軍が迫ったため、東捜索隊は陣前出撃を行って撃退しますが、中隊長が2名とも戦死するなどの大打撃を受けます。28日の捜索隊の損害は戦死19名・負傷72名で、死傷率5割を超えていました。
 この間、山県支隊長から東捜索隊に対して、すでに朝には733高地への転進命令が出ていたとされるようですが、扇廣によればねつ造の疑いが強いといいます(*5)。対して、現任務を続行せよとの支隊命令が午後に出ていたのは確実なようです。夕刻と未明の2回、山県支隊本部は弾薬補給隊を東捜索隊へ送りますが、いずれもソ連軍に捕捉されて全滅しました。(つづく

注記
*1 扇・63頁。「分進合撃」という戦術用語のもじり。

*2 日本側の出動記録に1両のみとあるのと矛盾します。ソ連側の誤認とも思えますが、次回述べるように実はもう1両追加出撃していた可能性もあります。

*3 ただ、「ノモンハン実戦記」によると体当たり直後に中隊長戦死となっており、ブイコフ車の件とは時刻が合いません。中隊長の戦死は夜になってからです。軍の広報書籍という文献の性格上、若干の創作・演出が入っていると思われるので、劇的にするために時系列を動かしたとも考えられます。

*4 この中隊の戦闘の様子は東捜索隊からもよく見えており、対戦中のソ連軍が退却するために煙幕射撃をしたことなどを記録しています。煙幕射撃を毒ガスではないかと心配していました。

*5 扇・66~67頁。
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