山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・前編)

4.フイ高地の死闘

 一地を固守すべき任務を有する部隊が、
 各方面に対し陣地を堅固に設備するの著意を欠き、
 為に戦闘著しく困難となりし戦例
         ―教育総監部編「『ノモンハン事件』小戦例集」―

 日本軍守備隊は、全面を封鎖されながらもすべての攻撃を撃退しつづけた。
 敵はここでは、高地の全面からとりかこむ、強力な防禦構築を備えていた。
       ―S・N・シーシキン「一九三九年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」―

 第一次ノモンハン事件で全滅した第23師団捜索隊は、再建されて第二次ノモンハン事件にも出動しました。新たな隊長である井置栄一中佐に率いられ、しばしば井置捜索隊と呼ばれます。
 再建後も基本編制は変わらず、本部と乗馬中隊、装甲車中隊から成っています。分遣中だった乗馬1個小隊や騎兵学校への派遣学生が呼び戻されたほか、騎兵第6連隊補充隊と騎兵第20連隊補充隊から各60名が転属してきました。
 変化があったのは、装甲車中隊の装備車両です。元は92式重装甲車5両でしたが、7月初旬にはうち2両が95式軽戦車へと強化されていたようです。これは戦史叢書にも出てこない、あまり知られていない事実と思います。戦車第4連隊から移管された軽機関銃装備の中古車で、いわゆる北満型であったものと思われます。ちょうど第一次事件で失った重装甲車2両が軽戦車で補充されたように見えますが、軽戦車の移管は東捜索隊が全滅前の5月28日に申請が出て同日に決まっており、偶然の一致のようです(*1)。おそらく出動すらできなかった故障車の更新分だったのでしょう。損害補充分としては別に7月初旬に97式軽装甲車2両が指示されておりますが、補充実現の有無・時期は把握できませんでした(*2)。

 6月25日に再編成が終わると休む間もなく、井置捜索隊は師団主力に従いノモンハン地区へ向かいます。その兵力は250名強、装甲車両5両、自動車約10台、馬150頭余でした。出陣に際して井置中佐は、「復讐の日、正に来れり」という訓示をしています。
 7月2日からの最初の総攻撃では、井置捜索隊はハルハ川に架けられた軍橋の守備という第二線任務を割り当てられます。部隊の性質からいえば機動力を生かして先陣を受け持つべきような気もしますが、貧弱な軍橋では軽戦車の渡河は無理だったうえに、再建間もなく隊の団結も不十分だったのでしょう。
ノモンハン事件中、散開した第23師団捜索隊の将兵とBA-10装甲車 7月3日昼頃、捜索隊本部と第1中隊(乗馬)が西岸に渡河し、第2中隊(装甲車)は東岸に残されます。渡河の順番としては師団司令部や衛生隊よりも後で、最後尾付近です。すでに西岸では激戦中で、橋のたもと付近にもソ蒙軍の装甲車両が迷い込んできている状況でした(*3)。捜索隊も、東岸の独立野砲兵第1連隊の90式野砲と協力しながら、何度か装甲車両の攻撃を撃退しています。詳細は不明ですが第2中隊も戦闘をしていたようで、この日の終わりまでに37mm砲弾65発と13mm機関砲弾450発を消費したと記録されています。
 右上の有名な写真は、7月3日に撮影された第23師団捜索隊のものです。といっても本物の戦闘風景ではなく、撃破済みのBA-10装甲車を使った「やらせ写真」と言われます。この後、装甲車をバックに万歳をする写真も残っています(*4)。92式重機関銃を装備していることなどからすると第2中隊の乗車小隊のようです。
 7月4日には渡河作戦は中止となり、捜索隊は師団司令部とともに東岸へ撤退しました。小松原日記によれば、後方にまとめられていた乗馬群に砲弾が当たり、かなりの損害を受けたようです。同様の渡河点付近への砲撃では、師団参謀長の大内大佐も戦死しています。

 7月5日夕刻、予備兵力としてウズル水に待機していた捜索隊に、第二次ノモンハン事件で初めての攻撃任務が与えられました。ノモンハン・ブルド・オボ付近の警察分駐所に侵入した敵部隊の撃退です。捜索隊は、装甲車中隊を先行させ、本部と乗馬中隊は騎乗及び徒歩で後を追いました。
 ソ連側兵力の詳細は不明ですが、それほど強力なものではなかったようで、2300時までには分駐所周辺から一掃されています。しかし、井置捜索隊も、乗馬中隊の小隊長1人がこの日に戦死しました。(中編につづく

注記
*1 「兵器特別支給並びに特別交換の件」(JACAR:C01003459100)

*2 「ノモンハン事件損失兵器射耗弾薬第1次補充に関する件」(JACAR:C01003474000)。私見としては、補充の軽装甲車は少なくとも事件中には前線に届かなかったのだろうと思います。7月10日にさらに92式重装甲車1両を失うところ、8月下旬になっても前線配備実数が4両に減ったままで、補充が無かったと見るほうが自然なためです。

*3 ソ連側は日本軍の渡河作戦を察知できず、逆に北部からの渡河包囲作戦を行うつもりで、部隊を移動中でした。そのため、まったくの不期遭遇戦だったようです。おまけにジューコフ司令官は、タムスク方面から移動中の戦車旅団・装甲車旅団を、到着次第に偵察抜きで逐次投入したため、日本軍は多数の装甲車両にもなんとか対処することができました。ソ蒙軍は、少なくとも130両の装甲車両が各個撃破される結果となっています。

*4 コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」88頁の画像63参照。
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