山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・中編)

4.フイ高地の死闘(承前)
 7月10日、第23師団捜索隊に対する新たな任務として、ノモンハン北西に15km以上と大きく離れたフイ高地(721高地)の占領が命じられます(地図はこちら)。師団の翼端援護という騎兵らしい任務です。日本軍は7月7日から歩兵夜襲を主力とした攻撃を実施中で、戦闘は峠を越えたと楽観視しており、捜索隊への命令は国境線確立のためのいわば「掃討戦」の一環でもあったと思われます。フイ高地は、7月初旬の渡河作戦に先立って、他の歩兵部隊によって一旦は占領されていましたが、渡河作戦中止のために放棄されていました。その後にモンゴル第6騎兵師団の一部がハルハ川を渡って再進出していたようです。
s-nomo01.jpg 将軍廟付近にいた師団捜索隊は、井置中佐の指揮の下で全力出撃します。このときに撮影されたらしい写真があり、それが左掲のものです(注1)。95式軽戦車(北満型)1両と92式重装甲車3両が写っています。毎日新聞社の画像データベース「毎日フォトバンク」にも収められており、「ノモンハン事件 捜索第23連隊、フイ高地への出撃前」のタイトルと、「敵陣一番乗りを誓う井置部隊石橋戦車隊=将軍廟で」のキャプションが付けられています(写真ID:P19950728dd1dd4phj035000)。石橋とは、捜索隊第2中隊長代理の石橋竜雄中尉のことと思われます。
 北上した師団捜索隊はフイ高地に到着、その後、さらに北のホンジンガンガでソ連側の斥候部隊と接触します。乗馬の第1中隊がさっそく追撃を開始し、装甲車中隊である第2中隊も支援のために後を追いますが、対岸のソ連側砲兵から砲撃を浴びてしまいます。モンゴル騎兵師団の76mm野砲でしょうか。この砲撃で、第2中隊は92式重装甲車とトラック1両ずつが破壊されてしまいました。第2中隊長代理の石橋中尉と2名の少尉が重傷を負うなど、人的損害もかなりあったようです。
 それでも、なんとかフイ高地の占領には成功しました。以後8月下旬までずっと捜索隊はこの地点を守備し、壊滅することになります。なお、高地といってもこの動画に明らかなように名ばかりで、さして防御力のある地形ではありません。

 7月12日、日本軍の総攻撃は停止されます。砲兵火力の不足が問題となり、重砲兵の到着を待つことになったのです。
 7月15日、フイ高地の師団捜索隊は、第1戦車団(長:安岡正臣中将)に配属となります。第1戦車団は安岡支隊の中核をなす戦車部隊として出動していたものですが、この時期にはすでに戦闘でかなりの損害を被っており、ウズル水西方ホルステイ湖畔に後退して被撃破車両の回収・整備に努めていました(注2)。配属部隊も除かれて支隊編制が解かれていたのですが、師団捜索隊などの配属により、再び安岡支隊として活動することになります。
 安岡支隊再編の意図は、ソ連側の反撃のおそれが報告されたフイ高地の守備強化でした。師団捜索隊の報告によると、ハルハ川対岸のバイン・ツァガン(白銀査干)オボ付近から、15cm加農砲の長距離砲撃を受けつつありました(注3)。第23師団からは戦車第3連隊と戦車第4連隊の各1個中隊派遣が命じられたようですが、玉田第4連隊長は明確な記憶はないと言い、もっと少数が適宜進出して協力した程度かもしれません。戦車隊のほか、時期不明ですが第7師団からの配属部隊として歩兵第26連隊第6中隊と歩兵第28連隊連隊砲中隊(山砲)が、フイ高地に進出しています。この第7師団からの配属は「北海道の熊が来た」と喜ばれました。

 7月24日2030時、フイ高地にソ連側の攻撃が実行されます。参加したのは、モンゴル第6騎兵師団の2個騎兵連隊と装甲車大隊(12両)ほかで、日本側記録によればこの時もバイン・ツァガン・オボ付近からの支援砲撃を伴っていました。ソ連側の公式記録によれば、威力偵察であったと言います。私見としては、日本側の総攻撃(23~25日)と同時期のため、日本側の戦力を分散させる陽動攻撃の意味合いもあったのではないかと考えます。
7月24日フイ高地での井置支隊の戦闘 日本側の布陣は、フイ高地西正面に配属歩兵中隊、北面に捜索隊第1中隊、南面に第2中隊を配置していたほか、この日の黎明に進出してきた戦車第3連隊第1中隊の竹下小隊(89式中戦車3両)が加わっていました。増援の戦車小隊は、井置中佐の命令で高地北側で右翼第1中隊の援護についており、砲撃を避けるために茂みに深さ1mほどの壕を掘って前面に掩体を築き、戦車をダッグインさせています。
 モンゴル軍は、日本軍の右翼、つまり竹下戦車小隊に重点を置いて2度に渡って攻撃をかけました。第1波では装甲車大隊及び騎兵約200騎が、第2波では騎兵200騎と対戦車砲2門が右翼に向かっています。うち装甲車は無理な突進はせず、遠巻きに砂丘の稜線に隠れて砲塔射撃を行ったようです。
 これに対して、竹下小隊も徹底してダッグイン姿勢からの砲塔射撃を実施し、連隊砲と協力してモンゴル軍を退けています。師団捜索隊の軽戦車と装甲車は右翼へ出撃して、反撃を行ったようです。戦車小隊や連隊砲の砲撃は確実に目標をとらえていたようで、モンゴル側は接近するにつれて大隊規模の砲撃を浴びたと記録しています。もっとも、モンゴル側記録は、それでもひるまずに前進を続けたとしていますが。
 モンゴル側記録によれば2100時(日本時間との時差の有無不明)、モンゴル軍は攻撃を終了して、ハルハ川西岸へと撤退をしました。日本軍の戦例集によれば、日本側の損害なし、モンゴル軍の装甲車2両が擱座、別に2両が損傷し、対戦車砲2門破壊、遺棄死体30名などとなっています。しかし、モンゴル側の公式記録では装甲車の喪失は無かったとなっているそうです。
 いずれにしろ、この時点では日本軍のフイ高地防衛は見事に成功したわけです。戦車第3連隊のダッグイン戦術も、平坦な地形に対応した措置として適切なものだったといえるでしょう。日本軍の戦例集は、この戦闘を戦車が有効に陣地を利用した例として称賛しています。

 この7月24日の戦闘から間もなく、日本軍の総攻撃はまたも頓挫し、26日に第1戦車団は駐屯地への帰還を開始します。したがって、このフイ高地での勝利が、第1戦車団にとって最後の戦闘ということになりました。ノモンハン事件の最末期に第1戦車団の一部が再出動しますが、戦闘の機会はありませんでした。
 フイ高地で戦車隊が活躍したことは、かえってソ連側の目を引いて、後のソ連側の総攻撃で重要攻撃目標となる拙い結果を招いたとの見方も師団捜索隊関係者などにあるようです(注4)。しかし、遠く北側からの渡河包囲作戦はジューコフの着任直後から計画されて、7月初旬には着手寸前だったわけですから、これは逆恨みかなと思うところです。(後編1へ続く

注記
1 この画像は、若獅子神社公式HP管理人の日向昭了氏よりお借りしました。同氏の別サイト「ひなちんの城」の戦時写真館>その他車両に、より大判の画像が公開されています。毎日フォトバンクの画像と合わせてご覧ください。
 なお、コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」の93頁(画像70番)にも同じ写真が掲載されています。同書では、7月中旬~下旬の撮影で場所はフイ高地、95式軽戦車は戦車第4連隊所属と解説されていますが、これは誤りです。おそらく、95式軽戦車は戦車第4連隊にしかないものと誤解して、同連隊がフイ高地へ一部を派遣したとされる7月中旬以降と撮影時期を推定したものと思います。しかし、前回触れたように、第23師団捜索隊にも95式軽戦車が2両配備されていたようです。

2 被撃破車両の回収作業支援のため、関東軍野戦自動車廠の一部や関東軍砲兵隊の牽引車などが7月14日に現地に送られています。ノモンハン事件で撃破後に修理された日本戦車が多い背景には、こうした支援部隊の努力もあったわけです。戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連側の損傷車両の回収体制が充実しているのを見て回想録でうらやましがっていますが、事件当時もなんらか対策を取るよう上申していたのではないでしょうか。
 参考:「関東軍命令の件」(JACAR:C01003484400)

3 この報告を、上司の小松原師団長は過大だと評価していたようです。井置中佐からの報告は2~5割引したほうが良いと日記に記し、実際に安岡中将に裏付け調査するよう求めています。

4 戦史叢書 関東軍(1)・551頁
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