山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --:-- | Top  このエントリーをはてなブックマークに追加

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・後編1)

4.フイ高地の死闘(承前)
 ありったけの砲兵を投じた7月下旬の総攻撃も失敗に終わった日本軍は、攻勢をあきらめて持久戦の態勢作りに移行します。対峙したまま越冬することも想定していたようです。しかし、輸送力の不足から、鉄条網などの築城資材は不十分な量でした。南北36kmもの長大な戦線を維持するには兵力も不足でしたが、これ以上兵力を増やすことも兵站能力の関係から容易ではありませんでした。
 第23師団捜索隊は、師団主力から約15kmと遠く離れたまま、フイ高地(721高地)の守備を命じられます。守備に適した歩兵部隊と任務を交代することも検討されたようですが、実現しませんでした。代わりにとばかり、歩兵・砲兵・工兵・速射砲の各1個中隊が追加で配属されています(注1)。歩兵と工兵は築城作業用でした。北のホンジンガンガと南のシャリントロゴイ山の2つの周辺拠点には、満州国軍の興安北警備軍から各1個騎兵連隊が配置されます(注2)。なお、8月上旬に参謀(辻政信少佐?)がフイ高地を訪れて、歩兵部隊との任務交代があることを告げたとの話があり、事実ならば捜索隊の築城に対する関心を削いだ可能性がありそうです。
721_0819.png 8月2日には数日間の孤立に耐えるような陣地・通信・弾薬・水の準備が指導されています。
 師団捜索隊は配属工兵を中心に防御陣地の築城を進めましたが、資材不足で遅々としており、工事の完成度は1/3以下でした。散兵壕や連絡壕は一応掘り終え、自動車用の退避壕などもあったようです。しかし、本部の壕ですら天幕を張っただけで掩蓋が無く、外周に鉄条網もありませんでした。右図には一部のみ鉄条網が描かれていますが、これは21日になって急遽設置されたものです。この点、ソ連側記録ではコンクリートで固めたトーチカなどで要塞化されていたように書いていますが、自軍の苦戦を正当化するための誇張と思われます。
 工事の遅延の問題に加え、井置支隊の防備計画は、全周防御となっていない欠陥があったとの批判があります。ちょうど「C」の字のような布陣で、東の満州国領側は開放されていたようです。客観的に見て敵中に孤立する可能性があった以上、不適当でしょう。本章の冒頭に引用したように、日本軍がまとめた戦例集では失敗事例として収録されています(注3)。

nomonhan_map6.png 一方、ソ連側は、このまま冬籠りするつもりなど毛頭なく、着々と総攻撃の準備を進めていました。
 ジューコフの立案した作戦計画は、機甲部隊の機動力を活用した両翼包囲です。正面の歩兵部隊が金床として日本軍を拘束しているうちに、南北から回り込んだ機甲部隊がハンマーとなって叩き潰す、いわば現代版の金床戦術。この計画のため、中部集団には第36自動車化狙撃兵師団・第82狙撃兵師団主力・第5機関銃狙撃兵旅団、南部集団には第6戦車旅団主力・第11戦車旅団主力・第57狙撃兵師団・第8装甲車旅団・モンゴル第8騎兵師団、そしてフイ高地を含む北部集団には第11戦車旅団のうち戦車大隊2個・第7装甲車旅団・第82師団の第601狙撃兵連隊・モンゴル第6騎兵師団と区分されています。このほか、予備兵力として第212空挺旅団と第9装甲車旅団などがありました。
 ソ連軍の総攻撃開始は8月20日朝と決まります。

 日本軍も、ソ連軍の総攻撃に無警戒だったわけではありませんでした。ソ連本国での諜報活動から、8月に総攻撃があるとの情報をつかんで警戒していたのです。張鼓峰事件でソ連軍の総攻撃があった8月6日が怪しいとの予想までしていました。記念日を期して総攻撃をする自軍の習性を、相手にも当てはめてしまった筋の悪い推論です。
 幸か不幸かほぼ日本軍の予測通り8月7日から8日にかけてソ連軍は攻勢をとり、待ち構えた日本軍に撃退されました。日本側砲兵は、大盤振る舞いの破砕射撃を行って「大戦果」を報じています。ソ連側の意図は戦線整理程度だったようですが、日本側は総攻撃と誤認し、撃退成功と安心してしまったのでした。
 本物の総攻撃の兆候が出たのは8月17日です(注4)。真っ先に気付いたのはフイ高地の師団捜索隊で、ソ連軍の大規模な渡河が始まったのを発見して通報します。翌18日には、フイ高地方面のソ連側兵力を、1個師団と戦車旅団1個、2個騎兵連隊、1個砲兵旅団とかなり正確に掴んでいました。軍砲兵隊も、ソ連側砲兵の応射が一挙に十倍になったと異常事態を記録しています。しかし、これらのせっかくの情報は有効活用されないままに終わったようです。

 8月19日、もはやソ連軍の総攻撃意図は明らかでした。前線各部でソ連軍部隊の移動が確認され、なかでも北方では実際の攻撃が始まったのです。ソ連軍とモンゴル第6騎兵師団が、ホンジンガンガとシャリントロゴイの満軍騎兵に襲いかかり、夕刻までには撃破してしまいます。
 フイ高地の井置支隊は早くも孤立したことになります。その兵力は師団捜索隊(注5)基幹の759人、主要装備は軽戦車2両・重装甲車2両と野砲4門(2門とする資料あり)・山砲3門・速射砲3門。対するソ連側は1個歩兵連隊・2個戦車大隊・1個装甲車旅団・1個砲兵大隊で、彼我兵力差は20対1とも50対1とも評されます。(後編2へ続く

注記
1 第23師団より野砲兵第13連隊第4中隊、工兵第23連隊第2中隊。第7師団より歩兵第26連隊第9中隊、歩兵第25連隊速射砲中隊。原所属がばらばらの寄せ集めで、特に第7師団からの配属が中心を占めます。

2 満軍騎兵は、北のホンジンガンガに騎兵第8団、南のシャリントロゴイに騎兵第2団が展開。ほか、後方のマンズテ湖付近に北警備軍司令部と騎兵第1団。

3 フイ高地での戦術行動が日本軍の戦例集で低く評価されている背景には、責任者となる井置中佐が無断撤退という「不名誉」の末に死亡しているために、遠慮なく批判できたことがあったのではないかと思えます。例えば、安易な陣前出撃の実施が捜索隊第1中隊を例として批判されていますが、これは戦場各地でしばしば見られた行動です。井置支隊を代表例=スケープゴートとして批判することで、随所で得られた戦訓を教育材料として生かしつつ、他の失敗指揮官たちの名誉が傷つくのを回避したのではないでしょうか。

4 これより早い8月12日には、軍砲兵隊では敵砲兵が両翼へ分散しつつあることを観測しており、あるいはこれは攻勢の準備のための移動とも見えますが、定かではありません。

5 作間少尉が率いる乗馬1個小隊欠。作間小隊(騎兵約25名および軽機関銃)は、8月17日に師団主力方面へ抽出され、歩兵第71連隊(森田徹大佐)に配属。8月21日にニゲーソリモト付近でソ連軍の戦車8両・歩兵200人と交戦して撃破され、生存者は8月24日夜に第23師団司令部へとたどり着いています。
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/tb.php/267-1af688a5
プロフィール

山猫男爵

Author:山猫男爵
ここは「塹壕文庫」「山猫文庫第二壕」に続いて三代目のブログになります。
連絡したいことがある方は、記事のコメント欄か、サイドバー下方のメールフォーム、あるいはツイッターから、お気軽にどうぞ。
Twitter:baron_yamaneko

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
参加企画
にほんブログ村 歴史ブログ 近代・現代史(日本史)へ
にほんブログ村 その他趣味ブログ ミリタリーへ
リンク
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール(不要ならそのまま):
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。