山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第2章・前編)

2.機械化工兵
 昭和九年三月十七日、独立混成第一旅団が編合された。
 日本陸軍最初の機械化部隊の誕生である。
           ―土門周平「人物・戦車隊物語」―

 日本陸軍の持っていた変わった兵器として、工兵隊の装甲車両「装甲作業機」、通称「SS機」が挙げられます。壕を掘ったり、トーチカを爆薬や火炎放射機で攻撃するための戦闘工兵車のさきがけです。アイディアとしてはなかなか進んだところがあるように思われます。画像は最終生産型の96式装甲作業機戊型。
96式装甲作業機戊型 1931年に試作された装甲作業機が最初に実戦配備された部隊が、独立工兵第一中隊でした。この独工1中隊は、1934年に新設された日本陸軍最初の機甲部隊である独立混成第1旅団に属する工兵隊です。独混第1旅団は自動車化歩兵連隊1個と、戦車第3大隊・戦車第4大隊を基幹としており、支援部隊である工兵までも機械化した先進的なミニ機甲師団でした(注1)。独工1中隊には、93式装甲作業機4機と95式野戦力作車(装甲クレーン車)1両が、輸送用のトラック9両とともに配備されていました。人員は194人。後に2個中隊・材料廠の旅団工兵隊に拡張され、装備車両に軽装甲車4両・トラック13両が追加されています。
 装甲作業機・独混第1旅団と、いずれもアイディアとしては優れたものに思えますが、実績は不振でした。旅団は、日中戦争初期のチャハル作戦などに参加しますが、本格的な機械化部隊を使えるような戦闘ではなかったことなどから、バラバラに分遣されてしまいます(注2)。先行量産段階の装甲作業機は長距離行軍に耐えず、故障車を路肩に埋めて隠し、あとで回収に来るといった苦労をしました。
 1938年8月の張鼓峰事件の際にも、旅団工兵隊(第1中隊欠・注3)は出動命令を受けます。戦史叢書では自動車化と書いてあり、たしかに本来はそうなのですが、実際には鉄道輸送の関係で車両などの重装備はほとんど除かれています。到着前の停戦成立のため、実戦には加わっていません。これが旅団工兵隊としての最後の出動になります。

 機械化部隊は贅沢すぎるし使い勝手が悪いと批判が高まり、張鼓峰事件中の1938年8月に、独混第1旅団はとうとう解隊されてしまいます。2個の戦車大隊はそれぞれ連隊に名目だけ昇格して、支援部隊を欠いた第1戦車団を新設。歩兵連隊は徒歩部隊に改編。砲兵大隊は独立野砲兵第1連隊となりました。
 旅団工兵隊は工兵第24連隊として独立します。新設予定の第24師団への編合を目指し、機械化工兵ではなく通常の歩兵部隊用工兵へと改編されました。装甲作業機は新設の専門部隊である独立工兵第5連隊に集められることになり、工兵第24連隊が編成教育を担当しています(注4)。
 戦車部隊から支援部隊を切り離してしまったこの措置は、ノモンハン事件において日本戦車の活動を大いに阻害する結果を招きます。

 1939年6月20日、第二次ノモンハン事件が起きると、日本軍は強力な戦車部隊を出撃させることを決意します。3個戦車連隊から成る第1戦車団(安岡正臣中将)のうち、戦車第3連隊(旧・戦車第3大隊)と戦車第4連隊(旧・戦車第4大隊)主力を動員し、これに支援部隊を加えて安岡支隊が編成されました。集められた支援部隊は、歩兵第28連隊第2大隊(第7師団より)、独立野砲兵第1連隊(旧・独立野砲兵第1大隊)、そして工兵第24連隊などです。歩兵と工兵を自動車化するため、自動車第3連隊が付いていました。合計すると戦車・装甲車92両、牽引野砲8門、自動車化歩兵600人、輸送車両300両といった規模です。戦車支隊の編成は、関東軍司令部にいた戦車科出身の野口亀之助参謀が進言したそうで、野口参謀自身もそのまま支隊の臨時参謀として現地派遣されています。
 歩兵以外は、ちょうどかつての独混1旅団が再結成されたのと同じに見えます。しかし、実態はかなり違っていました。工兵第24連隊は、もはや単なる徒歩工兵で、戦車との協同作戦に慣れた兵士も多くは独工5連隊に移り、残っていませんでした。支隊の司令部機能も脆弱で、臨時参謀を借りてきています。意思疎通のうまくいかない寄せ集めになっていたのです。
 このときの工兵第24連隊の編制は、徒歩工兵2個中隊と材料廠で定数388人(実数296人)でした。本来はもう1個中隊あるのですが、未編成です。ノモンハン事件への当初の出動兵力は235人。連隊長は旅団工兵隊時代の末期に着任した川村質郎大佐でした。川村大佐は築城が専門で、機械化部隊の指揮官には不向きと思えるのですが、一般工兵部隊への改編が内定していたから選ばれたのでしょうか。
 なお、装甲作業機部隊である独立工兵第5連隊にも、6月21日に自動車化工兵2個小隊の派遣準備が指示されましたが、すぐに撤回されています。7月16日に再度の準備が発令されますが、戦車団の引き揚げのせいか出動待機のままで終わります。

アルシャン地区で行軍中の安岡支隊 公主嶺を鉄道で出発した安岡支隊は、6月22日にハロンアルシャン駅に着きます。ここから自動車輸送で65km先のハンダガイ(ハンダガヤ)を経てハルハ河畔へと向かうことになったのですが(地図は別記事参照)、直前数日の豪雨にたたられて道路は沼地に変わっており、行軍は困難を極めます。装軌式の戦闘車両は進めますが、装輪式のトラックはたちまち立ち往生。しかも、装軌車両が通った後は、そのわだちで一段と道路状況が悪化します。燃料や整備用品を積んだトラックを連れていなくては、戦車も戦力が発揮できません。工兵第24連隊は道路復旧にあたりますが、資材を積んだトラックも動けなくて作業は進みません。6月24日に戦車だけはハンダガイに集結しますが、支援部隊の多くは数日遅れとなります。歩兵は途中で車をあきらめて、ハンダガイについたときには文字通りの歩兵に戻っていました。
 燃料不足は深刻で、満州航空のチャーター輸送機がドロト湖付近へ燃料を空輸するという非効率な手段まで使っています。燃料節約のために戦車隊では満州国軍から馬を借りて偵察を行い、あたら熟練戦車兵を失いました。
 安岡支隊の当初の任務は、ハンダガイ西方「タマダ」地区からハルハ川を渡河して対岸のソ連軍を包囲することでしたが、とても無理な状況でした。そもそも渡河機材も不十分で、23日付で工兵第24連隊には93式折畳舟20隻の支給が決まっていますが、これで戦車を渡すのは難しく、戦車を河に沈めて橋脚とすることまで検討していたようです。工兵第24連隊では、渡河点偵察に将校斥候を出して、1組が敵と遭遇したのか行方不明になっています。
 それでも命令は命令で、6月30日未明には安岡支隊はハンダガイを出発、ハルハ川へ向かいます。燃費の悪い89式中戦車甲は残置したり、歩兵には戦車隊の段列のトラックを分けて自動車化したりと、苦心がうかがえます。工兵第24連隊も、固有自動車を豊富に装備している独立野砲兵第1連隊からトラック10両、高射砲隊からも2両を融通してもらいました。(中編に続く

注記
1 独立混成第1旅団の編制は、独立歩兵第1連隊、戦車第3大隊、戦車第4大隊のほか、独立野砲兵第1大隊と独立工兵第1中隊から成る。日本軍としては贅沢な内容で、独立歩兵第1連隊は約300両のトラックで完全自動車化され、支援用の軽装甲車中隊まで編合。独立野砲兵第1大隊には、機動台車が付いて自動車牽引可能になった90式野砲を配備。

2 独立混成第1旅団のチャハル作戦や山西作戦での運用状況については、Yama氏のサイト『日華事変と山西省』のコラム「初陣で不評を浴びた国軍初の機械化部隊」に簡潔にまとまっている。

3 旅団工兵隊第1中隊は、同年7月から騎兵第4旅団に配属中。独混第1旅団解隊後に騎兵第4旅団工兵隊へと改編され、さらに1942年の戦車第3師団新設に際して師団工兵隊へと改編。

4 独立工兵第5連隊要員の教育用として、1938年10月に装甲作業機10機を支給。なお、独工5連隊の初期編制は3個中隊と材料廠の424人で、装備定数は、装甲作業機39機(実数10機)・軽装甲車8両(実数2両)・トラック26両。
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