山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第2章・中編)

2.機械化工兵(承前)
 安岡支隊がハルハ川渡河点付近へようやく到着し始めたころ、寝耳に水の転進命令が通達されます(注1、2)。安岡支隊の渡河は中止で、ハルハ川西岸への渡河は第23師団主力をもってし、安岡支隊(右岸攻撃隊)はノモンハン北方マンズテ湖付近から20km南下しハルハ川東岸のソ連軍を攻撃せよというのです。総攻撃予定日は7月3日で、安岡支隊は助攻部隊として1日早い7月2日に攻撃開始予定。
1tkb_0701.png 渡河という難題は無くなったものの、はるかノモンハン北方の攻撃発起点への移動も容易ではありません。2個の戦車連隊は自隊の移動で手いっぱいとなり、随伴歩兵の歩兵第28連隊第2大隊(梶川大隊)が借りていた戦車隊の段列用トラックは、原隊に帰ってしまいます。またも梶川大隊の歩兵は、徒歩に戻っておいてきぼりとなり、総攻撃開始時には間に合いませんでした(注3)。独立工兵第22連隊(一部)なども車両不足で残置されています。幸い、工兵第24連隊は引き続き自動車を利用でき、将軍廟を経由して7月2日にマンズテ湖付近に到着できています。安岡中将は、なるべく支隊の団結を高めるため、車両移動可能な部隊については早々と協同の戦闘隊形を組ませて行軍させています(右図参照)。
 なお、右岸攻撃隊となった安岡支隊の編制は大きく変更され、歩兵第64連隊主力が追加されました。砲兵も、独立野砲兵第1連隊から野砲兵第13連隊(第23師団より)の1個大隊に交換されており、独混1旅団時代からの精鋭機械化砲兵が除かれ、代わりに馬匹牽引の旧式砲に代わってしまいました。新着の歩兵第64連隊は、当然ながら徒歩で、随伴歩兵としての機動力は期待できません。安岡支隊の戦車中心の諸兵科連合部隊としての能力は、支援部隊のさらなる鈍足化で低下しました。日本軍指揮官の戦車への無理解として批判されるところです。ただ、歩兵に関しては、たとえ自動車化歩兵だったとしても、単なるトラックでは元々戦場行動は困難と思われ、歩戦分離の悲劇は避けえなかったとも思われます。

nomonhan_map7.png 7月2日、安岡支隊主力はマンズテ湖付近に集結を終え、夕刻から進撃を開始します。733高地(安岡支隊では地図の文字を読み違え、738高地と呼称)を経て、ハルハ川とホルステン川の合流点(川又)に至るのが計画でした。工兵第24連隊主力も、軽装になってトラックから下車し、前線へ歩き出します。低速の歩兵第64連隊は、先行して7月1日夜から攻撃に移っています。歩兵たちは、日の丸を掲げた友軍戦車隊が駆けつけてきたのを見て歓声を上げました。しかし、疲れ切った歩兵たちに戦車に随伴する余力はなく、歩戦の協同は翌3日までありませんでした。
 2日の夕刻から夜にかけて、2つの戦車連隊は、それぞれ戦車独力でソ連軍陣地を攻撃しました。戦車第3連隊(吉丸連隊)は、歩兵第64連隊を追いこして時速15kmで敵陣に突入し、戦車・装甲車約10両を失って午後9時頃に引き上げました。戦車第4連隊(玉田連隊)は、予定針路を東へ外れながらも独断で夜襲を敢行し、かなりの戦果を得たのが知られています。無線の不調や視界不良、目標物の少なさなどで、日本軍戦車は部隊行動が大変だったようです。なお、この時点でのソ連側東岸部隊は第9装甲車旅団と第149自動車化狙撃連隊(第36自動車化狙撃師団より)で、各種の装輪装甲車60両以上を装備していました。日本側記録に「敵戦車」とあるのは、BT-5戦車と同じ45mm砲装備のBA-10装甲車などの誤認と思われます。
 この夜、工兵第24連隊主力は予備隊として後列にあり、直接の戦闘には参加していません。第1中隊(長:薮内烈夫大尉)だけは、敵軍橋の奪取という特別任務が与えられていました。敵地に潜入して追撃用に橋を奪取し、無理なら爆破せよという命令です。夕闇と雷雨に紛れて薮内中隊は分離前進し、川又が視認できる地点まではたどり着きますが、鉄条網で覆われた堅固な敵陣地にぶつかってしまいます。突破不能と判断した薮内大尉は、部下を塹壕を掘って待機させました。薮内中隊は、連隊主力と翌7月3日正午まで連絡途絶し、連隊主力では非常に心配しました。

 7月3日、安岡支隊は、再び川又を目指して出撃します。今度こそは歩戦協同を実現しようと、吉丸戦車第3連隊長は自ら歩兵第64連隊の指揮官たちを訪ねて打ち合わせをしていました。工兵第24連隊主力の部署はよくわかりませんが、歩兵第64連隊の後に続く形で前進したものと思います。
 正午頃に発進した戦車第3連隊の中戦車22両・軽装甲車7両は、小さな丘の多い地形を活用して砲撃を避けつつ、733高地へ向かいます。せっかくの歩兵との打ち合わせもむなしく、敵陣突入の時点では、ほとんど戦車隊単独になっていました。日本戦車は、途中でソ連軍の戦車・装甲車とも激しく交戦します。この頃までに、ソ連軍は新たに第11戦車旅団の1個中隊(BT-5戦車8両)を西岸に送っており、そのうちの3両が戦車第3連隊に撃破されたことを認めています。ほか、第9装甲車旅団の偵察大隊装甲車中隊(BA-10装甲車12両)や76mm歩兵砲などが、戦車第3連隊と交戦しています。日本側主力は有効射程・機動力で明らかに劣る89式中戦車でしたが、乗員の技量の高さとソ連戦車の装甲の薄さのため、互角に戦えていたようです(注4)。
 敵陣を蹂躙しようとする日本戦車ですが、ここでいわゆるピアノ線による悲劇が起きます。夕暮れ時で視界が悪い中、ソ連軍の仕掛けた対戦車障害鉄条網(ピアノ線)が、吉丸部隊の戦車の履帯に絡みついたのです。速力が落ちた車両は、ソ連の装甲車や対戦車砲に次々と撃破されました。吉丸部隊は戦車13両を失い、連隊長以下の幹部が壊滅しました。
 昨夜に前進していた薮内工兵中隊の目の前でも、友軍戦車が敵陣に突っ込もうとしては鉄条網に足を取られて、いずれも行動不能となってしまいました。工兵なら鉄条網を切除できる能力があったのに、間に合わなかったことが惜しまれます。その後、薮内中隊は、後続の歩兵第64連隊第1大隊に協力して陣地攻撃を行い、激しい砲撃を受けつつも一角を占領しています。この戦闘で、歩64の田坂第1大隊長は敵戦車砲の直撃を受けて戦死しました。
 一方、戦車第4連隊はこの日も単独行動で健在でした。3日夜、同連隊長の玉田大佐は、歩兵第64連隊本部を訪れて、強襲は無謀と進撃停止を取り決めます。このとき、工兵第24連隊長の川村大佐も同席しており、旧知の玉田大佐と無事を喜び合いました。(後編に続く

注記
1 渡河地点へ移動中の6月30日に、安岡支隊の戦車第4連隊が、ソ連側の第11戦車旅団の分遣隊と交戦しています。日本側記録によると、日本側の2個戦車中隊その他が、ソ連側の戦車8両・装甲車3両などと交戦したものの、特に目立った戦果・損害は無かったようです。その後、95式軽戦車1両が対戦車砲で撃破され、僚車が仇を討って鹵獲しました。

2 渡河予定地点で、工兵第24連隊のある兵が、魚を撃とうとして小銃の銃口を水中に入れて発砲したところ、銃身が膨らんで破損してしまったという事故がありました。三八式歩兵銃殿申し訳ありません。

3 梶川大隊は、24時間以上遅れた7月3日夕刻に前線に到着。

4 日本軍のまとめた『ノモンハン事件小戦例集』では、「劣勢なる戦車を以て優勢なる敵戦車に対し地形を利用して火力を発揚し常に主導的地位に立ち之を撃破したる戦例」として、7月3日の戦車第3連隊の対戦車戦闘が紹介されています。これによると、射程に優る敵から先制射撃を受けたものの、応射せずに距離600mまで急接近し、稜線の陰に停止してから射撃したといいます。日本側記録によると、2-3時間の戦闘で戦車2両喪失と引き換えに、敵戦車を数両撃破しています。15時頃にソ連戦車が後退すると、包囲するように追撃してさらに3両を撃破しました(損害1両)。
 解説されている教訓として、「対戦車戦闘では攻撃精神と団結があれば劣勢でも勝てる」旨のものであるのが、太平洋戦争での日本戦車の苦難を思うと暗い気持ちにさせます。今次欧州戦の実況に照らしても正しいと力説しているのですが、これはどの辺の戦闘を指すものか興味深いです。
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