山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

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鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第5章)

5.悪名高き部隊

 締約国は、前記の使用を禁止する条約の当事国となつていない限りこの禁止を受諾し、
 かつ、この禁止を細菌学的戦争手段の使用についても適用すること
 及びこの宣言の文言に従つて相互に拘束されることに同意する。
       ―「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の
            戦争における使用の禁止に関する議定書」(ジュネーヴにて1925年)―

 戦車などの装甲戦闘車両を装備している兵科というと戦車兵や騎兵が典型です。逆に意外な兵科としては、日本陸軍の場合、化学戦部隊(化兵)が挙げられると思います。機密度が高く史料が少ないうえ、戦争犯罪と関わる暗部のせいか軍事オタクから興味をもたれることも珍しいマイナー部隊。しかし、ノモンハン事件や日中戦争、太平洋戦争など各地で実戦参加していた部隊。本章では、そのひとつである迫撃第2連隊(明石部隊)を取り上げることにします。

 化学兵器=毒ガスというと直ちに国際法違反の戦争犯罪のような印象ですが、第二次世界大戦当時は使用そのものこそ禁止する条約がある一方(1925年のジュネーヴ議定書)、開発や製造までは合法でした。そのため、1925年議定書を批准しなかった日本やアメリカはもちろん、批准したソ連やイギリスなども公然と化学兵器を部隊配備していたのです。報復専用という建前であったのでしょう。
 このような状況下で、日本陸軍は、対ソ戦において化学兵器が実戦使用されることを想定していました。ノモンハン事件前年の張鼓峰事件でも、ソ連軍による化学兵器使用の可能性についてかなり真剣に調査が行われています。ただ、日本陸軍が、化学兵器の積極的使用まで意図していたものかは疑問を感じます。化学兵器の戦力化は国の化学工業力に制約されますから、貧弱な化学工業しか無い日本には大規模な化学戦を実施する能力は無く、化学戦に大きな期待をかけるのはどう考えても現実的ではなかったはずです。作戦要務令が「瓦斯を使用するは報復手段として予め之を許されある場合に限るものとす」(瓦斯用法・第2)と定めた建前通り、報復専用とみなされていたのではないでしょうか。

prototype-Type 94 Gas Scattering Vehicle 日本陸軍の化学兵器は、迫撃砲をはじめとする各種火砲の化学砲弾や航空機投下のガス弾と並び、化学戦車というべき装甲車両による撒布が重要な展開手段でした。具体的には、94式甲号撒車と97式甲号撒車の2種類の化学戦車が量産されています。これらはいずれも、有人の前車と、無人トレーラーの後車で構成されました。前車は94式/97式軽装甲車をベースにして開発された車両で、軽装甲車と同じく砲塔式の機銃1門で武装していました。後車は撒毒装置を搭載しています。姉妹車両として、後車を毒ガス中和剤である晒し粉を散布する仕様に変えた、94式/97式甲号消車も一緒に開発・配備されました。(画像は94式甲号撒車の試作車両)

 ノモンハン事件約1年前の1938年5月、満州チチハルで日本陸軍最初の常設化学戦部隊として編成されたのが、迫撃第2連隊(後の通称号:満州第525部隊)です(注1)。部隊名だけ見ると迫撃砲装備の砲兵隊に思えますが、実際には化学砲弾発射用の迫撃砲と化学戦車を装備した毒ガス戦部隊になっていました。平時編制は本部と2個中隊及び材料廠から成り、第1中隊が迫撃中隊(94式軽迫撃砲12門)、第2中隊が瓦斯中隊(94式甲号撒車・消車約10両)、当初の人員定数454人。迫撃砲などは馬匹運搬だったようで、馬定数72頭を保有しています。
 初代連隊長は明石泰二郎中佐でした。名前でわかるように、日露戦争時の諜報戦で有名な明石元二郎の親族(甥・注2)です。この明石泰二郎は、化学戦学校である陸軍習志野学校の教官などを務めた、化学戦の専門家でした。明石はノモンハン事件中も連隊長であったため、史料では明石部隊の名が見られます。

 1939年6月に第二次ノモンハン事件が勃発後、迫撃第2連隊にも出動命令が下ります。7月2日にノモンハン最寄駅のハイラルまで前進したあと、8月7日に第23師団に配属、といっても8月10日過ぎまでは後方待機していたようです。8月20日時点での出動兵力は明石連隊長以下の404人で、2個中隊がおそらく平時のほぼ全力を動員。出動した94式甲号消車/撒車の前車(実質は94式軽装甲車)の数は、阿部武彦によれば8両程度(注3)、後述する事件後の復旧状況からすると10両以上と思われます。
 ハイラルでの待機は無為に行われたのではなく、この間に化学戦資材を着々と集積していました。8月8日には、ハルピン陸軍病院配備の除毒車(化学剤で汚染された衣類等の洗浄用機材)1両の前送を受け、同月9日には主に迫撃第2連隊用だろう軽迫撃砲通常弾7200発、軽迫撃砲用マスタードガス弾(秘匿名:黄A)5000発がハイラルへ発送されています。このほか、4年式15cm榴弾砲用マスタードガス弾(秘匿名:黄E)が2000発、あか筒(くしゃみガス発煙筒)が10000個、消函(中和剤)10000個、孫呉陸軍病院配備の除毒車1両といった化学戦資材が第23師団管理下に前送されたことも確認できます(注4)。
 化学兵器の使用に関する交戦規定も関東軍から発令されていたようで、上記の各種化学兵器の使用に関しては関作命甲第114号に基づくよう指示が出ていました(注4)。残念ながら、交戦規定の内容は未確認です。

gasmask_nomonhan.jpg こうした化学戦準備は、ソ連側の化学兵器使用を牽制し、実際に敵側の化学攻撃が行われた場合には速やかに報復を実行するためだったと思われます。日本側はソ連軍の化学兵器使用を強く警戒していました。実際、ソ連側は42個もの化学戦大隊をノモンハン事件に向けて動員していたとの説もあります(注5)。左画像はソ連軍の装備を鹵獲した日本兵の写真で、ソ連軍のガスマスクを着用したとおぼしき兵も写っています(注6)。
 特に8月上旬に急に資材の前送が進められたのは、この時期に日本側がソ連軍の化学戦実行への危惧を強めたからでしょう。このころ、日本側は攻撃を断念して対陣したままの越冬の準備に移っており、積極的な化学戦を企図する状況にありません。一方、日本側は、「8月中旬にソ連軍の大規模な攻勢がある」、「ソ連軍化学戦大隊が8月1日に鉄道で到着した」とのスパイ情報を得ていました。後から見ると奇妙な話ですが、当時の日本側判断としては、ソ連軍の攻撃は戦車によるものも航空機によるものも7月に失敗して「無効」だと判明しているため、次のソ連軍攻勢では最後の手段として化学兵器が投入される可能性が高いと予測していたようです。

nomonhan_map6.png さて、日本側の予測とは違い、ソ連軍は8月20日から戦車を主力とした通常兵器による総攻撃を開始しました。(右図は8月19日の両軍の態勢。ただし、迫撃第2連隊の所在は不明のため非表示。)
 8月20日の迫撃第2連隊の正確な所在は不明ですが、おそらく兵站拠点のウズル水付近にあったものと思われます。22日には、フイ高地(721高地)を迂回して侵入してきたらしいソ連軍の戦車及び歩兵がウズル水地区へ現れ、いきなり戦闘となりました。日本側記録ではソ連戦車30~50両・歩兵400~500人といいますが、これは過大と思います。兵站地区のために日本側の守備兵は手薄で、迫撃第2連隊ではやむなく1個小隊を臨時の歩兵に仕立てて警戒線を張り、整備兵までもが鹵獲機銃や火炎瓶を手に応戦しています。軽装甲車も参戦したものと思われますが、性能的にとても敵戦車に正面から対抗することはできなかったでしょう。連隊はかろうじてソ連軍の撃退に成功したものの、小隊長の准尉が重傷を負うなどしました。なお、付近の野戦病院などもかなりの被害を受けたようです。
 22日夕刻、迫撃第2連隊に対し、軽迫撃砲4門(1個小隊)の師団司令部(752高地南南東2km)付近への進出と、連隊主力のホルステイ湖付近での援護任務が命じられました(23師作命甲197号)。
 23日に日本軍が攻勢転移すると、迫撃第2連隊主力は「その他」の部署として温存されつつ、バルシャガル台地の歩兵第64連隊に協力しました。ただし、瓦斯中隊の軽装甲車は、予備隊に配属されて師団司令部の護衛をし、モホレヒ湖まで移動するよう命じられたようです。攻勢転移に関する23日14時の第23師団命令(23師作命甲198号)に、「軽装甲車隊」は師団司令部に同行するよう指示があるところ、迫撃第2連隊以外に該当しそうな装甲戦力が存在しません。
 以後、戦線が混乱する中、迫撃第2連隊も少なくとも8月26日までは前線での戦闘を続けたようです。空襲を浴びたり、またも戦車部隊の襲撃を受けたりしています。26日には、モホレヒ湖南6kmの地点で迫撃中隊の一部が左翼攻勢部隊の援護にあたって、ソ連側砲兵の砲火を浴びました。22日の命令で前進した1個小隊でしょうか。軍監修の戦記「ノモンハン実戦記」では、ある迫撃砲分隊が陣地転換せずに射撃を続け、直撃弾を受けて全滅したことを美談調で描いています(注7)。
 他の日本軍部隊が包囲されて壊滅していく中、どういう事情か迫撃第2連隊は包囲網を抜け出せました。抑止力を担う希少な化学戦部隊ということで、温存のために早期に後退させられたのかもしれません。

 停戦後10月6日に、迫撃第2連隊は慰霊祭を執り行いました。人的損害は戦死20人と戦傷44人、損耗率16%と比較的軽いものでした。実参戦期間の短さと、温存的用法のおかげでしょう。兵器の損害は詳細不明ですが、破損兵器の修理が終わるまでの間、94式甲号消車の前車(軽装甲車)10両と94式軽迫撃砲6門を代品として貸与されています。なお、ソ連側の鹵獲記録には94式軽迫撃砲とおぼしき90mm迫撃砲6門が見えますが、第8国境守備隊系の長谷部支隊なども同砲を装備しており、迫撃第2連隊の装備とは特定できません。
 10月11日にハイラルで、ノモンハン事件出動部隊の凱旋パレードが行われました。迫撃第2連隊の参加の有無は不明ですが、パレード参加の94式軽装甲車の写真が残っており、これは迫撃第2連隊の車両かもしれません。
 幸いにも真価発揮の機会を得なかった迫撃第2連隊は、翌年3月に瓦斯中隊を抽出されて2個迫撃中隊の編制へ改編。さらに翌1941年に迫撃第10大隊(3個中隊)へ改編され、最終的には1942年に関東軍化学部練習隊第1大隊へと改編されています。抽出された瓦斯中隊のほうも、新設の特種自動車第1連隊(2個中隊)に拡大された後、瓦斯第3大隊への再改編を経て、最終的に化学部練習隊第2大隊となりました。したがって、ノモンハン事件が迫撃連隊として参加した唯一の実戦であったようです。(この章終わり


注記
1 迫撃第1連隊の方が遅い誕生で、1940年4月編成。迫撃大隊(3個中隊・計36門)と瓦斯大隊(2個中隊)ほかから成る編制に強化。1943年5月には迫撃第3連隊(迫撃中隊4個・瓦斯中隊2個)を鯖江で編成。
 なお、非常設の化学戦部隊としては、野戦瓦斯中隊や迫撃砲大隊が日中戦争用に複数動員済み。

2 元二郎と泰二郎の関係については、親子あるいは祖父と孫とする文献もありますが、とりあえず秦郁彦ほか「日本陸海軍総合事典」(初版、東京大学出版会、1991年)に拠って甥としました。

3 ノモンハン会「ノモンハン戦場日記」(新人物往来社、1994年)巻末の阿部武彦「解説」

4 除毒車に関し、「関東軍命令送付の件」(JACAR:C01003500900)
  砲弾等及び関作命甲第114号に関し、「関東軍命令送付の件」(JACAR:C01003501600)

5 クックス・下383頁。

6 ガスマスクの携帯自体は当時の標準的な軍装であって、特にソ連軍が積極的な化学戦の準備をしていたことの根拠とまではなりません。あくまで参考画像。

7 樋口・345~350頁。
Comment
2015.10.21 Wed 23:46  |  no name #-
そのガスマスクロシア軍の鹵獲品なんだけどww
  [URL] [Edit]
2015.11.03 Tue 01:04  |  山猫男爵(管理人) #-
コメントありがとうございます。

本文に「左画像はソ連軍の装備を鹵獲した日本兵の写真で、ソ連軍のガスマスクを着用したとおぼしき兵も写っています(注6)。」としたとおりです。
おへんじ  [URL] [Edit]







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