山猫文庫第3版

書評と軍事史関連のレポート、その他ニュースを見て感じたことなど日常のあれこれについて。 

鋼棺戦史(第2部 栄光と転落・第3章・後編)

3.武器無き戦車隊(承前)

USMC-M-Saipan-p89.jpg 独立戦車第3中隊と第4中隊が着の身着のままサイパン島に上陸した、わずか8日後の6月15日、アメリカ軍のサイパン上陸作戦が開始されました。猛烈な艦砲射撃と空襲の後、3個海兵師団を主力とする地上部隊が押し寄せます。
 日本側も激しい水際戦闘で抵抗しました。7月16日には薄暮総攻撃が計画され、戦車第9連隊は主力(本部と2個中隊の約30両)を待機させます。しかし、協同する歩兵部隊の集結が遅れて17日未明の出撃となり、その間に揚陸された多数のバズーカや対戦車砲、M4中戦車などの餌食となってしまいました。対戦車火器を制圧するための跨乗歩兵(タンクデサント)もいましたが、機銃の弾幕を突破できませんでした。戦車第9連隊の出撃戦車は1両を残し全滅しています。(画像は撃破された戦車第9連隊の97式中戦車)

 主力部隊が華々しく応戦する一方、海没部隊は後方警備にまわされていました。2個の独立戦車中隊は戦車大隊の名の下に集成され、歩兵第18連隊衛生隊(長:大場栄大尉)や独立臼砲第14大隊(本来は98式臼砲装備)といった他の海没部隊や医療部隊ともに北地区警備隊(長:花井少佐(注1))を構成しています。独戦3中隊は元の第1小隊長が中隊長代理を務めていたようです。戦車「大隊」と称しても、実兵力100人内外と思われます。
 北地区警備隊の戦力は乏しく、歩兵系の歩18衛生隊は小銃程度を持っていたものの、他の部隊は対戦車肉薄用の火炎瓶だけが武器でした。他島へ移動途中の部隊ばかりであったため、食糧補給系統も確立されておらず、他部隊の好意に甘えたり、最悪の場合は盗んだりしなければなりませんでした。
 歩兵第15連隊戦車中隊の行動については調査中ですが、おそらく他の第14師団系統の部隊と行動を共にしていたものと思われます。独立戦車中隊よりは来島時期が早かったため、幾分ましな状況だったかもしれません。

 せっかく訓練を受けたのに、素手で敵に向かわなければならなかった戦車兵たちは、さぞかし無念だったことかと思います。彼らの特殊技能を生かすことはできなかったのでしょうか。
 こうした事態に陥るのが分かっていれば、戦車第9連隊の補充要員に流用するといったことも出来たかもしれません。しかし、通過部隊という事情から現実には難しかったでしょう。
 ただ、中継拠点だったサイパン島には輸送途中の兵器など物資が溜まっており、その戦車を支給できていればとは思います。6月上旬のサイパンには、トラック島駐留の第52師団戦車隊に支給予定の95式軽戦車約15両が滞留しており、ガラパン港湾地区に集積されていました(注2)。5両は事前空襲で破壊されてしまったのですが、10両は稼働状態にありました。これらの戦車は、実際には、第52師団戦車隊へ赴任予定でサイパンに滞在中の佐藤恒哉大尉や市川正国中尉(注3)の機転で、6月19日ころに戦車第9連隊第3中隊の生存者に引き渡されて活用されています。予備車両として戦車第9連隊の経戦期間を延ばすのに役立ったとは言えますが、海没部隊の丸裸の戦車兵の無念を思うと、違う使い方はなかったものかと悩ましいところです。

Battle_of_Saipan_map.jpg 6月26日、北地区警備隊にも前線への移動が命じられます。日本軍主力が消耗し、サイパン島中央のタッポーチョ山防衛線が突破されかかったためです。北地区警備隊は南進を始めますが、その際に足手まといとなる重傷患者を自決させたり、安楽死処置したりしています。
 北地区警備隊は、6月27日未明にタッポーチョ山麓の前線に到着しますが、指揮官の花井中佐は軍司令部に連絡に向かう途中で早くも戦死してしまいました。まもなく部隊は迫撃砲の砲火にとらえられ、壊滅状態に陥ります。
 その後、日本軍はタッポーチョ防衛線を放棄し、北部の地獄谷に司令部を置いて防戦を続けました。6月28日、日本戦車隊の活躍がアメリカ軍に記録されています。この日、日本戦車2両が、タッポーチョ山南東の第106歩兵連隊第3大隊を襲撃、大隊長以下83人を殺傷し去ったのでした。この戦闘で、米軍は2個大隊が半日足止めされています。戦車の所属は戦車第9連隊か海軍陸戦隊か不明です。
 7月7日、サイパン島の日本軍は最後の総攻撃を敢行、玉砕を迎えます。突撃の先頭には、海軍陸戦隊の残存戦車5両が立っていました(注4)。生き残った将兵は、民間人とともにジャングルへと逃れ、大場栄大尉など一部は終戦までゲリラ戦を継続することになります。
 サイパン戦での日本軍死者は4万人、民間人死者8千~1万人、アメリカ軍死傷1万5千人。独立戦車第3中隊94人中で復員1人、独立戦車第4中隊80人中で復員3人、歩兵第15連隊戦車中隊を含む第14師団系610人中で復員したのは13人だけでした。(この章おわり

注記
1 大場大尉の回想では花井中佐となっています。戦死後に昇進でしょうか。

2 第52師団は海洋師団の一つで、師団戦車隊(柏第4672部隊)と歩兵第107連隊戦車中隊を有していました。このうち師団戦車隊は、乗っていた輸送船「辰羽丸」が、トラック大空襲に巻き込まれて沈没し、16両の95式軽戦車全部と隊長の上野俊男大尉以下13人を失いました。人員のみが2月19日にトラック環礁夏島へ到着。新たな師団戦車隊長としては、グアムにいた戦車第9連隊第1中隊長の佐藤恒哉大尉が赴任することになり、中継地のサイパンまで移動してきたところで地上戦に巻き込まれたようです。
 補充の戦車もサイパンで失われたため、第52師団戦車隊は実質的には対戦車砲部隊として終戦を迎えています。3個小隊編制で、第1小隊と第2小隊は47mm速射砲2門と重機関銃8丁、第3小隊は37mm速射砲2門と重機関銃4丁を装備していました。

3 市川正国中尉は、海上機動第1旅団の旅団戦車隊長に予定されていましたが、赴任前に部隊がマーシャル諸島で玉砕したため、第52師団付きに任務が変わったようです。サイパン戦では、本文のとおり戦車第9連隊の残兵を率いて出撃し、戦死しています。下田四郎氏の回想では6月20日の夜に出撃したとありますが、アメリカ軍側の記録では6月19日に3両の日本戦車の襲来があったほか、23日から24日にかけて日本軍戦車隊の有力な反撃があったとなっています。

4 日本側文献では陸戦隊の軽戦車5両となっていますが、アメリカ海兵隊の公刊戦史によると中戦車も混じっていたといいます。ある地点に、中戦車・軽戦車・水陸両用戦車1両ずつが、歩兵400~500人とともに襲来したとします。
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